不信頼な回転体

野方幸作

第1話

依頼を受けた以上は現場に出場する。

清掃業というものを生業にしている以上、至って真っ当な話なのだが、特殊清掃業の現場となると必ずと言っていいほど、まともな神経をしていれば耐えきれない、まるで地獄の釜の蓋を開けたような惨状を呈した、それこそ時には悪魔も裸足で逃げ出すような現場に遭遇する。

特に夏場はそれが顕著になる。

だが、条件さえ揃えば、夏場でも比較的マシな現場に出会えることはある。

例えば発見の早い睡眠中の心臓発作。大抵の場合、睡眠という特性上、冷房が死の数時間の前後は機能しており、室内が比較的涼しく保たれている。

会社員などは「出社してこない」などの理由から発見が早くなりがちで、ありがたいことに腐敗の進行がさほど進まないうちに発見されることもある。

もちろん異臭は発生するが、害虫の発生などは比較的抑えられる。

遺体を収容する警察サイドにしても、事後を清掃する業者サイドにとっても非常に助かる。

だから発見の早い、夜方に社員寮で心不全で亡くなった方の特殊清掃と聞いた当初は、珍しく手のかからない現場になるなと「掃除屋」は思っていた。

それが風呂で亡くなった方という説明さえその後に続かなければ。


「防護服は積んだかい?」

早朝の車庫で、こくりと無言で彼女は頷く。

「浴槽の現場は初めてだよね?防毒面も無いといけないけど・・・・・・」

その言葉に彼女はすっ、とストラップを握り、2人分の防毒面をぶら下げ、右手で傍に置かれた新品のフィルターを指し示す。

経緯は複雑だが最近、この掃除屋には無口な後輩ができた。

本人は20歳と言っているが、まあ嘘だろう。雇用の当初、掃除屋がうっかり「未成年は雇用できない」なんて言ってしまったものだから「先月で20歳」と言い張って聞かなかった。

ただ、掃除屋は彼女を1人の優秀な後輩として、それこそ唯一無二の後任者として評価している。

「さてナナちゃん。このパターンだと、この薬品が必要になるんだ」

ナナちゃん、と呼んだ彼女に説明しながら掃除屋は薬品と器材を社用車に搭載する。

掃除屋が彼女を「ナナちゃん」なる、どこぞの大都会の駅に鎮座していそうな名前で呼んでいるのにも少々複雑な経緯があるのだが、掃除屋もその同僚たちも今となっては気にしていない。

当の彼女はメモも取らずに説明を聞いているが、確認の必要はない。尋ねても「覚えた」と正確に薬品名と用途が返ってくることは想像に難くない。それが2分後だろうが3日後だろうがはたまた1ヶ月後だろうが。


ハンドルを握り、掃除屋は社用車を転がす。

「夏場の、特に風呂場の現場はね」

彼女はじっと掃除屋の顔を見つめ、真剣な眼差しで経験談に耳を傾けている。

「何年経験しても目を背けたくなるくらいには、まあ、ひどいものだよ」

掃除屋は今まで出た様々な現場を思い起こすが、夏場の風呂場ほどひどいものはなかった。尤も、過去に出動した、夏場に発見された死後3ヶ月の現場よりはマシだとは思うが。

しかし彼女は顔色一つ変えず、掃除屋の話に聞き入る。

生半可な腹積もりだと地獄を見るし、腹を括ればソドムの市を見る。それが夏場の現場だ。

さて、と掃除屋は切り出す。

「浴槽の現場だけど、まずやっちゃいけないのは分かる?」

彼女は沈黙している。

「浴槽の栓を抜くこと」

今一つ彼女にはピンときていない。

「もしも抜かれてたら、まあ、大変なことになる」

遺体から剥がれ落ちた細胞やら組織液やら、人体の一部のように大きなものが排出されると大抵の場合まず排水管が詰まる。特にマンションやアパートみたいに共同排水システムのある住居はそれはそれは想像したくないレベルで惨事が起こるし、想像したくないレベルで復旧が困難になる。

万が一綺麗に排水されると、それはそれで下水道内でのバイオハザードの発生が懸念される。それに、一部とはいえ元を辿れば死体であり、そもそも雑な廃棄をしてはいけないものなのだ。

業務上の過失がよりにもよって死体遺棄、というのは掃除屋としても流石に御免被りたい。


作業手順について話したりしているうちに2人は現場の、ある電力会社の社員寮に着いた。

死後から12時間。遺体収容からは8時間。

現場保全の立入禁止はとっくに解除されており、比較的早い段階で現着出来たことは、本来夏場なら喜ばしいことなのだが、状況が状況だけに掃除屋は素直に喜べない。

尤も、死体の転がっていた現場で喜ぶも何もないのだが。


部屋までは管理会社の人間が立ち会ってくれた。

しかし、鍵を開けるとそそくさと彼はどこかへと姿を眩ましてしまった。

「終わり次第ご連絡をお願いします」

無理もない、と掃除屋は思う。

日が昇ってまだほんの1時間程度だが、室内は既に僅かながら腐臭が漂っている。

「・・・・・・ひどいもんだね」

浴槽は掃除屋の予想通り、水分を含んだ上、腐敗が原因で崩壊した体組織が溶け込み、どす黒く変色した「出汁」に満たされていた。


「まずはこれから」

説明するように、ネット状の用具を掃除屋は手に取る。

まずは「出汁の材料」から処理を始めるのだ。

死体の残り湯をさらうと、細胞片だか内臓物だかなんだか分からなくなった元・人体の一部が網の上に現れる。

これをまず丹念に取り除いていく。

粗方取り終わると、まとめて袋詰めし、殺菌剤を撒いてクーラーボックスに入れる。これは後々、手配済みの火葬場に持っていくことになる。


そして大きな老廃物の除去が終わると、今度は「出汁」本体の処理が始まる。

バケツを用い、浴槽内の液体を汲み取ると、薬品を投入する。

ものの数分で薬品が効果を発揮し、バケツに浸した試験薬がたちまちの内に反応する。

除菌に成功したらしいことを確認すると掃除屋は、浴槽の湯量を目測で測り、規定量の薬品を投入する。

試験薬の反応を伺い、掃除屋は浴槽の栓を抜いた。

ここまで来れば排水しても問題はなくなる。


処理が終わると、警察の遺体収容の折に周囲に飛び散ったであろう汚水を丹念に拭き取る。

浴槽清掃は本丸を片付けた後は外から内へ。徐々に狭めていくように清掃していく。

家事をこなすときは油汚れの食器は早めに処理することが肝要とされる。時間が経った油汚れはとにかく落ちない。

さっさとやってしまえばいいだけの話なのだが、人間とはずぼらな生き物だ。油汚れに強い食器用洗剤が家庭で重宝される理由が、この仕事を始めてから掃除屋にはなんとなく分かったような気がした。

人体の脂汚れも頑固でしつこい。

それが死体由来の成分だとすればなおのことだった。


見た目の上で綺麗になると、消毒の過程に移る。

言わば総仕上げだが、これがまた長い。

設定できる最高温度まで給湯温度を引き上げ、湯船を張る。可能な限りの熱湯で浴槽と排水管内を湯洗いするのだ。

只でさえむし暑い夏場に、熱湯を相手に仕事をすると、汗が身体中に張り付く。

そして浴槽を熱湯で一杯に満たすと栓を抜く。

この作業は状況にもよるが、今日の程度なら3、4回通せば充分だろうと掃除屋は判断する。


清掃作業自体は3時間程度で一時中断とした。

大きなスプレー状の消臭剤を丹念に撒くと、浴室の窓と扉の閉鎖を確認し、オゾン発生機を浴室内に設置する。

作業自体はまだまだ続きがあり、もう一日は少なくともかかる。


ひと段落ついたところで、2人は防護手袋や防護服を脱ぎ、持ってきた袋に詰める。

汗で張り付いた防護服が鬱陶しかったが、この鬱陶しい服とはもう少し向き合う必要があった。

2人は手指の消毒を行うと新しい防護服と手袋を取り出した。

遺体のあった後の清掃と、死体の存在しなかった部屋の中の清掃は別個に行う。

まさか人だった液体の染みをつけたまま綺麗な屋内を闊歩する訳にもいかない。


「さて、もう一仕事だよ」

掃除屋は彼女に声を掛けた。

今回の依頼は社宅の管理会社経由のものだった。

依頼を受けた際、遺品管理はどうなっているのかと管理会社の担当者に尋ねてみると、まとめて処分でいいらしいですという回答を得た。

遺品整理は追加料金メニューになる。つまり、ここの説明をしておかないと後々面倒なことになるのだ。

そのため、料金の話なども尋ねてみたところ、「これも共済負担です」という夢のような回答が返ってきたのだった。

分かりましたと答えながら、共済の負担で不慮の事態への契約が為されているらしいことに、率直に羨ましい会社だと掃除屋は感想を持つ。

うちの会社だとどうなるんだろう。

清掃業なのだからそこはサービス?

それとも本人乃至は遺族負担?

身寄りがなければ誰が?

今度社内規定でも読んでみようかと思う傍ら、そこまで規則が定められているのかは疑問だと掃除屋は思う。

そもそも共済と呼べるようなものがロクに無い以上、何が起きてもどこまで補償があるかはよく分かっていない。


「人間やはり生きてこそだよね」

部屋を眺め、掃除屋は彼女に語る。

だが、彼女はその言葉に反応することはなく、ある一点を見つめ続ける。

「どしたの?」

「せんぱい、これ・・・・・・」

彼女が、近くの棚にある小さなガラス瓶を指差す。

それを見て掃除屋は、これがどうやらただならぬ現場らしいと悟る。

そして、これが彼女が掃除屋の優秀な後輩たる所以の一つでもある。

「お手柄」

掃除屋は手袋越しに彼女の頭を撫でてやる。防護手袋と防護頭巾越しにはなるが、頭を触ること自体は可能だ。

小さく、彼女が顔を綻ばせる。

しかし。

厄介なものを見つけてしまった、と掃除屋は心のどこかで感想を持つ。

「さて、ナナちゃん」

彼女は小さく首をかしげる。

「一つとんでもない案件を抱え込んでしまったかもしれないね」

このとき、掃除屋の脳裏にはある一人の知人の姿が浮かんでいた。

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