吠黒の尾
秋石観
プロローグ
暑い。暑い。
瞳の奥に焼き付くほど強い西日が差す、夏の夕時。
青年と思わしきひとつの影が訪れたのは、ひとつの古い平屋建ての民家だった。
灰色のスーツを身にまとう青年は近づくだけで鳥肌が立つような非凡な雰囲気を身にまとい、その黒い瞳をのぞき込めば、冷たさが宿るような青い光が灯っているようなにすら思える。
チャイムを鳴らす。民家の引き戸を開いて顔を出したのは初老の女性だった。
女性は初め、何事かと驚いた様子を見せていたが、青年が語る二言三言でみるみる顔色が変わり、青年に怪しさを感じながらも家の中へと招き入れた。
きしむ床板を踏みしめ、個人宅が持つ独特のにおいに包まれながら、青年は民家の奥へ奥へと進み、一番奥の扉の前に立った。
すると、青年は家全体の雰囲気が急激に変わったことを察知した。
後ろで青年の姿を見つめる女性は、怯えた様子で唇に指を当てている。その隣に女性の夫と思わしき初老の男性が現れ、女性の肩を抱きしめながら扉の奥を憎々しそうににらみつけた。
――明らかに、何かを敵視している。
青年は扉のノブに手をかけ、一人奥へと進んだ。そして静かに扉を閉めて、老夫婦の視線を遮った。
真っ暗な部屋の中を照らす灯りは、無残に破れたカーテンからこぼれる陽射しだけ。天井の照明は割れて床に散り、灯りの役目を果たすことはできない。
それだけではない。部屋の中は大地震に見舞われたかのように家具が散乱し、壊れ、壁には物が当たって空いた穴がいくつも見られた。エアコンの類いは設置されておらず、蒸し暑い部屋の熱気によって青年の額にはじわりと汗がにじんでいく。
ゆっくりと部屋を見渡すと、部屋の隅でうずくまっている少女を見つけた。
まだ幼い。年頃は6、7歳くらいだろうか。
少女の長い髪は、何日も風呂に入っていないことを示すようにボサボサで、服もすり切れたパジャマを身に着けており、部屋全体からやや不潔な匂いがしている。そして手足は低栄養を示すように細く、骨が浮き出ているようにすら見えた。
だが青年は、少女が老夫婦から一方的な虐待を受けているわけではないことをすでに知っていた。青年の表情は朗らかな微笑を浮かべているが、その黒い瞳にはやはり冷たい青色が灯っているように見える。その非凡な雰囲気をかもしたまま、ボサボサの髪の奥で鋭くにらみつける少女へと一歩進んだ。
「……こないで」
少女が小さくつぶやいた。
その直後、部屋全体が小さな地震に襲われたかのように小刻みに震えだした。
それだけではない、少女の部屋にある散乱した家具や衣服、花瓶やぬいぐるみまでが宙に浮かびあがり、ゆっくりと空中で回転しだしたのだ。
「くるなァ!」
少女が叫ぶと同時、花瓶とぬいぐるみが攻撃的な速度をもって青年へと飛び出した。青年はそれらを片手で素早く左右に払いのける。花瓶は壁に激突して水と破片をまき散らし、ぬいぐるみは綿を飛ばして床に落ちた。
少女は目を大きく見開き、よろよろと立ち上がる。壁に背をつけたまま、近づく青年から距離を取るように壁伝いに一歩、二歩と足を動かした。
しかし、小さな部屋の中、逃げ場は初めからどこにもない。
「……ひっ」
青年の瞳が映す青の冷たさに、少女は思わず小さな悲鳴を上げた。その視線の意味を理解することができず、少女はへたり込んで長い髪の中に顔を隠した。そして一息吐く暇もなく、しゃくりを上げて泣き出した。
「うう、うぇっ……ひっく……ぐすっ……」
青年は一言も発すること無く、静かに左腕を地面と水平に伸ばし、手のひらを天井へと向けた。そして視線を花瓶の水で濡れた床に向けると、小さくつぶやいた。
『
小さく唇を動かすと同時、床に散らばっていた水たまりが、初めは糸のように、それが徐々に大きくなって布切れのように空中に浮かび上がり、青年の左手のひらへと集中していく。そして最終的にソフトボール大の水の玉となって、宙に浮かび上がったまま制止した。
その一連の様子をボサボサ髪の奥で見ていた少女は、しゃくりを上げるのも忘れてぽかんと口を開き、じっと青年の持つ水の球を見て固まっていた。
「……なに、それ?」
青年は言葉を返さない。その水玉を優しく両手のひらで覆うと、繊細に指を動かしながら水を変形させ、一輪の大きな水の薔薇を作り上げた。さらに水の薔薇は手の中で徐々に凍り付き、青年の両手の中へとゆっくりと着地した。
目を丸くして見つめていた少女は、青年が少女の前にしゃがみ込んで手渡す氷の薔薇を受け取ると、ゆっくりと青年の両の瞳を見た。
そして初めて、青年は少女の前で言葉を発した。
優しい、優しい声で。
「この力は超能力でも魔法でも、ましてや悪魔の力なんてものじゃない。たくさんのものを守る使命を背負う人に与えられる、大きな可能性だ」
その瞳は、もう青い光を灯していない。少女の持つ不可思議な力に対して何も恐れていない、対等な存在に向けられた優しく温かい色をしていた。
「う、あ、うあああぁ――」
少女は口を大きく開き、目を閉じ、顔を天井に向けて泣いた。
熱い、熱い滴をこぼながら、本気で泣いた。
「私の名前はリクヒト。大陸の陸に人と書いて
少女は嗚咽を上げながら、ゆっくりと呼吸を整え、青年の問いに答えた。
「ミヨリ……わたしは
「御依里、そうか」
陸人が御依里の頭に手を置くと、御依里は臆病な小動物のように体を硬直させた。
うっかり、手渡された氷のバラが御依里の手の中から滑り落ち、床にぶつかって砕け散った。
「あっ……こわれ、ちゃった」
陸人は優しい表情で御依里の頭をなでながら、逆の手で砕けた氷のバラを浮かび上がらせた。
すると氷のバラは一瞬で水へと溶けて、今度は躍動するような精巧な馬の形になって凍り付き、形を留めた。
「壊すことを恐れなくていい。大切なことは作ること、作り直すこと」
氷の馬は生きているかのように動きだし、空中に氷の粒をキラキラとまき散らしながら少女の部屋の宙を駆け出した。
それだけでは終わらず、陸人の両手から今度は炎の球が生まれ、それを陸人は大小といくつも作り出し、部屋の中空に浮かび上がらせる。
部屋全体が浮かび上がる炎の球と氷の馬が散らす氷の粒で輝き、御依里は不思議の世界に連れ込まれたような錯覚を覚えた。そして、その光景に目を奪われ、それまでの恐れや孤独と言った暗さを忘れ去ってしまったかのように、子供らしい明るい無邪気な笑顔を浮かべた。
「――さあ、行こう」
そういって陸人は手を伸ばした。
御依里は一瞬だけ迷うような表情を浮かべた。――けれど、陸人の差し出した大きく温かい手へ、無意識に自らの小さな手を伸ばしていた。
その小さな手をギュッと力強く握りしめる手からは、何も嫌なものは感じられなかった。
陸人が指を鳴らすと、氷の馬が砕けて散った。
それは少女の心の曇りが一瞬で晴れ渡るのを指示したかのようですらあった。
――そして物語は、十年後の7月へ。
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