EX3 夜空のアフター

 お手洗いの鏡に一瞬だけ、コウモリの怪物が映った気がした。

 これを見たのは一度だけじゃない。あの日からずっと続いている。

 あの日から、鏡を見るのが少しだけ怖くなっていた。

「どうしたの、夕実?」

 鏡越しに、あたしの後ろで肩に少しかかるくらいの少女が見える。あんなことがあったのに、日和ひよりは何事もなかったようにあたしの親友でいてくれる。

 それがどこか、ほっとしたようで、罪悪感で押しつぶされそうでもあった。

「……ううん、なんでもない。ごめんね」

「もしかして、体調悪い?」

「大丈夫だから。本当に」

 濡れた手をハンカチで拭いて、日和のあとに続いてお手洗いを出る。

 彼女の血の味を、唇の感触を、舌の感触を、甘くとろけるような声を鮮明に覚えている。あの怪物はあたし自身で、つまりはあたしがこの手で彼女を穢したということだ。

 広野ひろの先輩の話では、あの怪物は妖精パーマーと呼ばれる存在で、誰にでも生まれる可能性のある怪物だと言っていた。そしてそれは、自分の感情の写し鏡のような存在だとも。

 日和は「願望や欲望を曲解する可能性もあるみたいだから気にしない方がいい」と言ってくれたけど、それでもあたしは日和にしたことを確かに記憶に鮮明に残っている。あたしは彼女を自分の怪物の力で無理やり手篭めにして、その身を支配しようとした。

 あたしが日和にしたかったことは、本当にあんなことだったのだろうか。

 それでもあたしはあたしのままでいようと、いままで通りの彼女を守る存在として振る舞おうと。毅然とした完璧な人間を演じることにする。




 今日は日和と先輩には早く帰るよう言っておいた。

 あの二人の間にはもうあたしの入る余地なんてないんじゃないかと、たまにそんなことを思ってしまっている。だから、日和や先輩の心配そうな視線に気づきながらも、時々こうしてひとりで帰るようなことが増えた。

 せっかくだしなにか部活でも始めようかと思っていた、そんなひとりの帰り道。さっぱりとした短い髪に真面目そうな雰囲気をかもした背の低い少年が、あたしの先に立っていた。

「どうだ。なにか身体に異変はないか?」

 機島黒雪きしまくろゆき。こいつは教室ではお人好しの風をしているが、裏の顔を知っているあたし相手にはこんな物言いをするやつだ。

「あったらどうしてくれるっていうのよ?」

「俺たちのところについてきてもらう。そして、最悪――」あたしの額に向けて銃を突きつけるような動作をして、それから戻す。「まあ、大丈夫ならそれでいい。お前みたいなのはあまりにイレギュラーケースだからな。なにもなければそれがいい」

「あんたたち、なにと戦っているの? あたしは、日和はなにに巻き込まれて――」

「俺たちは広野光ひろのひかると組んでるつもりはない。そして、俺が敵の目的を知っていたとして、お前みたいな一般人に話す義理もない」

「なにその人を見下したような言い方。あんた、中二病ってやつ?」

「……いや、すまなかった。とにかく、大丈夫みたいだな」

 機島が口元をひくつかせながら、踵を返して先に行く。あたしも帰り道がちょうど同じだから、そのあとをついていく。

「結構優しいのね」

「お前がイレギュラーケースだからだよ」

「機島のお好きな相手は日和だっけ?」

「…………」

 沈黙は肯定と捉えられる。案外こいつ、分かりやすいやつなのかもしれない。

 面白いから、帰り道が分かれるまでどんどんカマかけていこう。

「機島ってよく顔に出るよね。日和のことずっと目で追ってるし、反応もらったら嬉しそうだし」

「……お前さあ、」

「でも日和は渡さないけどね。あの子はあんたみたいなどこぞの馬の骨なんかに穢されていい子じゃないのよ。まあまず日和の方からあんたを――」

「事情は分かるが、八つ当たりはやめろ」

 機島が振り返る。

 そこには怒りというよりも、心配そうな表情のほうがにじみ出ていた。

「あたしがなにに八つ当たりしているっていうの?」

「お前もよく顔に出るし、独占しようって気が丸見えだし――」言いながら、ポケットから黒い無地のハンカチを出して突き出す。「そういうのは、広野光の方に言え」

 機島が無愛想な顔をくいと上げるのを見て、自分の顔に触れる。頬の上を、小さな滴のようなものが流れて、顎にまで伝っていた。

 ハンカチを受け取って、流れ落ちる滴を拭って、自分の顔を覆う。

「……やっぱり、優しいね」

「見てらんねえだけだ。言われることでもない」

「もうちょっと、気の利いたこと言えないの?」

「言ってほしいのか?」

「いや、別に……」

 くだらないやりとりをしたことで少し落ち着いて、ハンカチを顔から離す。いまのあたしは、泣き腫らした顔をしているのかもしれない。

 機島はまた安堵の表情で先に歩く。あたしも、また後を追う。

「えーと、ハンカチありがと。洗ってから返すから」

「たかがハンカチくらいなら、別にもらってくれてもいいけどな」

「いや、あんたのはいらない。洗って返すよ」

 黒いハンカチを鞄の外ポケットに畳んで突っ込む。

 他のクラスメイトよりも、日和よりも、機島との会話はどこか居心地がよかった。




 朝食と夕食は、お父さんもお母さんもいないことが多い。

 それは今日も例外ではなく、あたしは盛られたトンカツを中央にお兄ちゃんと向き合っていた。

 あたしは取り皿にトンカツを三切れほど乗せて、ソースを多めにかけながら言う。

「乙女をブタにする気?」

「本物のブタはデブじゃないって話を聞いたことあるぞ」

「だからなに? じゃあ、妹がタイヤメーカーのマスコットキャラみたいになってもいいっていうの?」

「なんだよその喩え……。だいたい、そう言いながら一気に三切れ取ってるのは誰だよ」

 言葉を無視して、トンカツを口に押し込む。盛られた白ご飯と交互にさらっていって、すぐにまた空になった取り皿にトンカツをいくつか乗せていく。

 向かいのお兄ちゃんは、若干気圧された様子だった。

「きょ、今日はやけに元気だな……」

「あたしが遠慮してると、お兄ちゃん胃もたれかコレステロール過多で死ぬでしょ」

「失礼な。俺がそんな年老いてるように見えるのか? まあ、遠慮はしとくけど」

 お兄ちゃんは遠慮がちにひと切れ取って、もそもそ食べる。

 日常のしがらみを頭の隅に追いやれるから、食べることは好きだ。何気ないときに食べるご飯も、それはそれで好き。

 一応体型維持は心がけているけど、元から食べても太りにくい体質だったから、こういう時は遠慮なく食べる。

「まあ、なんだ。夕実がちゃんとご飯食べられる間は、お兄ちゃんも安心できるからいいんだけど」

「食い意地張ってるって言いたいの?」

「そうじゃなくてさ。……なんていうか、年頃の妹の悩んでることなんて俺からそうそう聞き出せないからさ。ちゃんとご飯は食べられるみたいで安心した」

 お兄ちゃんが真面目にそう言う。

 あたしはそれがちょっとおかしくて、思わず口元を押さえて小さく噴き出してしまう。

「なにその兄貴面。突然すぎて、気持ち悪」

「いつも通りだよ」

「なんか、お兄ちゃんと話してると、こっちの悩みもバカバカしくなってきた」

 空になった取り皿を持って、箸でトンカツを取りに行く。

 お兄ちゃんが途中から千切りのキャベツばかりよそっているのを見て、あたしはトンカツを全部取り皿に乗せた。




 あたしは結局、どうしたいのだろう。

 シャワーを浴びながら、ふとそんなことを考える。全身に浴びる穏やかな熱のなかで、身体に纏っていた泡を洗い流す。

 最初は友達として守りたかった。だけど、いつの間にか――。

 シャワーを切って、鏡の曇りを手で拭う。鏡の拭った部分を見て、自分の肢体の緩急を撫でながら、つくづく綺麗な身体だと思う。日和が憧れる自分でいたくて、維持している身体。だけど、彼女はあたしじゃなくて先輩を選んだ。

 なんのための努力だったのか。なんのためにここまでしたのか。あたしは日和に、なにを求めていたのか。

 自分だけのものにしたい。深奥にまで触れる関係になりたい。その感情を否定すると嘘になる。

 あたしには、他になかったから。

 他にはなかったはずだった。

 だけど、今日の機島やお兄ちゃんとの会話は、日和と話しているよりずっと心地よかった。他人でも好きな人でもない、そんなちょうどいい距離感。

 あたしはいままで人に頼らなかったのは、信用できなかったから。

 だけど、少しくらいは頼ってもいいのかな。

 そう思いながら扉を開けて、浴室を出る。




 いつものように日和のところに急ぐと、彼女の先輩とじゃれ合っている後ろ姿を見た。そんな光景にどこか気が引けて、周囲を見回していたところで機島を見かけた。

 機島は少し離れたところで、日和と先輩の様子をじっと見ているところだった。

「おはよう。なにしてんの?」

 あたしが声をかけると、機島は不機嫌そうな顔で振り返る。

「お前には関係ない話だ」

「お前じゃなくて夜空です」

「なんの用だよ。さっさと飛田んとこにでも行ってろ」

「昨日はそっちから絡んできたくせに……」

 横に並んで、いたずらっぽい顔を作ってちらと見る。

「ていうか、いいのかな。機島がストーカーしてるとか言っちゃっても?」

「……分かったよ」

「ああ、そうだ。これ」

 さりげない仕草で指で挟んで洗濯済みの昨日のハンカチを渡し、機島も「どうも」とそれとなくつぶやいて受け取る。

 鞄に突っ込み終わるのを見て、それとなくつぶやいてみた。

「あたし、日和のなにでいたらいいのかな」

 機島の目がこちらを向いて、

「一番の親友じゃだめなのか」

「ああいうのを見てると、これから日和にどう接していけばいいか、いまでもちょっと分からなくて」

「なるほど」少し間を置いて、それから言った。「でもやっぱり、いままで通りに飛田を守っていけばいいんじゃねえの?」

 確かに、それが正しいのだろう。だけどそれを納得するのは、いまのあたしにはとても難しかった。

「報われもしないのに、これからなんのために守るっていうのよ」

「じゃあ、死んでほしいのか?」

「そうは言ってないでしょ」

「というか、そもそもあいつにお前の親友を任せられんのか?」

 指さした先を見ると、先輩が日和に振り回されてアタッシュケースと鞄を落とすところだった。

 たしかに、あれは心配だ。

 苦笑するあたしの横で、機島がほっとしたように顔を緩ませる。

「あんたって、やっぱり結構お人好しだよね」

「やめろ。お前は俺の兄貴か」

「兄貴?」

「……なにかと俺をからかってくる、実の兄貴がいるんだよ」

「へえ、機島ってお兄ちゃんいるのね。あたしも、実はお節介なのがひとりいるの」

 他人というほどではないけど、手をつなぎたいほどの親密な関係というわけでもない。やっぱり、この距離感がいまは心地よい。

 視線を重ねる気もなく、日和と先輩の後ろ姿の方に向く。相変わらず、外から見ても分かりやすいいちゃつきっぷりだった。

「また悩んだときとか、相談乗ってくれていい?」

「どうせ拒否権なんかないだろ」

 視線をそのままにお互いに軽く笑って、学校までの道を歩いていく。

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