噛み合った歯車、ふたりのヒーロー 2
映画も観終えたところで、伸びをして外を見ると、もう日が暮れていました。
「そろそろ帰ろうかな」
立ち上がって部屋に戻ろうとするヒカル先輩を、わたしは思わずブレザーの袖を掴んで引き止めました。
「日和ちゃん……?」
「……
「むしろ本望だよ。あいつの方から来てくれるなら、私にとっては都合がいい。そう思わない?」
「もう暗いですよ。帰り道の先輩を突然襲ってくる可能性だってあるし……」
「だからって、急に泊まるわけにもいかないでしょ?」
先輩はにこりとして、わたしの手を振り払いました。
先輩はわたしにとって大事な人で、だから余計に心配で、その手が離れるのが怖くなっていて。先輩が慣れている様子なのを見ても、それでも心配というものは簡単に晴れてはくれないものでした。
「……分かった。なんかあったら呼ぶから、その時は助けに来て」
先輩はそっと頭を撫でて、それからまたわたしの部屋に戻りました。
頼ってくれたのが嬉しくて、たとえそれがシャドーの実力のほうだったとしても、それでも髪を撫でる指の感触は確かにあって。
身体の奥底がどくどくとするのを感じて、胸に手を当てて指でその感触を確かめました。それはわたしにとって心地よいリズムで、これからもこんなものが続くのかと思うと、わたしの心臓が持たないんじゃないかって思ったり。
先輩は同じものを感じているのかな。そうだったらいいなと、心の中で願いました。
そのうちに鞄とアタッシュケースを提げた先輩が目の前まで来て、わたしの身体を腕で抱いて。
「もう出るから、最後に」
なにかなとわたしも同じように先輩の背中に手を回すと、先輩が少しだけ身を屈めて顔を近づけてから、唇に膨らみが触れる。
先輩と同じ味。くすぐる綺麗な髪はいい香りがする。閉じたまぶたから伸びる長いまつ毛を間近に感じながら目を閉じる。
わたしからとはぜんぜん違う。わたしの好きな感覚が一気に流し込まれるような、それによって思考が痺れていくような気がしました。
先輩からは初めてだったはずなのに、ここまで上手かったんだ。
唇を離して、身体を離して。一瞬にも感じられた時間を少しだけ惜しく感じながら。
先輩はちょっとだけ照れ隠しにわざとらしく笑っていました。
「こういうのは慣れてないんだけどね。日和ちゃんの感じているものに、ついていきたいから」
「……なんですか、いきなり」
「私も日和ちゃんの熱に応えられるようにって。そう思っただけ」
くるりと踵を返して、
「じゃあ、また明日」
わたしは玄関先までついていって、その背中を見送りました。
「またお弁当、作りますから! 絶対、また明日ですからね!」
わたしの惜しんだ唇は、未来に希望を含ませてそう言いました。
ソファに寝転がって、背もたれの先輩の残り香をそっと吸い込んで。先ほど感じた一瞬には劣るな、と思いながらも、それでも十分に嬉しくて。
ふと、ブレザーの内ポケットからデバイスを取り出しました。画面には怪盗少女の妖精のシャドーが映っています。
「なんの用?」
「寂しいから相手して」
「やだね。……だいたい、そう思うなら先輩を帰さなきゃよかっただろ」
「先輩には十分もらっちゃったから。それに、欲しがりはしても、束縛はしたくない」
シャドーは画面の向こうでかったるそうに見つめながら、頭を掻いていました。
「よく分かんないな。そういうの」
「シャドーがシャインの前で素直になれないのと一緒だよ」
「……ほっとけ」
あからさまな照れ。改めて、おおまかな性格は違っても、わたしたちは同じだって今では分かるよう気がします。なんだかんだ欲しがりなのに、全然素直じゃない。
だけど、わたしはもう必要以上に我慢しなくていいんだ。それがとても嬉しくて。
そろそろ晩ご飯の準備をしようとソファから立ち上がった時、ポケットの中のスマホがぶぶぶっと揺れました。取り出して見ると、画面には「非通知」と書かれています。
いたずら電話かな。そう思いながら通話拒否をすると、すぐにまた非通知から電話が来ました。
しつこいな、と思いながら拒否を押そうとして、うっかり応答の方に指が触れました。
『日和?』
すぐ通話を終わらせようと思った矢先に聞こえたのは、夕実の声でした。思わず手が止まって、わたしは返事をします。
「夕実? なんで非通知でかけてるの? どうしたの?」
『いますぐ会いたい』
夕実からのその電話は、奇妙なことに声しか聞こえませんでした。場所を察するための環境音がまったく聞こえないのです。
「それで、今どこ?」
夕実はすぐに場所を教えて、それからすぐに通話が切れました。
なぜ夕実からの電話が非通知だったのか。夕実のスマホからなら夕実の名前で通知が来るようにしてるはずだし、じゃああれはなんだったのか。
奇妙に思って、夕実の電話番号でかけてみると、まったく出ない。もしかして、夕実になにかあったのでしょうか。だけど、どうしてわたしに電話をかけたのでしょう。
答えが出ないまま立ち上がり、とりあえずその場所に向かうことに決めました。
「おい、それ明らかに罠だろ。やめとけって」
「誘拐だとしても、わざわざ夕実の家族にかけずにわたしにかける意図が分からない」
「意図が分からないなら、なおさら行くべきじゃない」
「それでも、夕実の身になにか起こってるのなら放っておくわけにはいかないから。それに、いざとなったらシャドーに代わればいいし」
「……相変わらず、都合のいいやつ」
呆れながらも、シャドーは許可するように手を払う仕草をしました。わたしはデバイスの電源を切って、飛び出すように玄関扉を開けて。
その先に待っていたのは夕闇ではなく、真っ黒な怪物でした。上下逆さまの、翼を広げて視界を覆う、尖った耳と吊り上がった鼻を持った暗黒の怪物。それはまるで、巨大なコウモリのようで。
最初はひどい痛みが走って、その後すぐにぴりりと痺れる感触。それとともに、全身にぞくぞくと寒気が走っていって。全身の感覚が抜けるとともに思考が蕩けていくようで、だんだんとなにも考えられなくなる。
時間がとてつもなく伸びているような気がしました。気がつけば、噛まれてからどれくらい経ったのかも分からなくなっていて。
どこかから、声がしました。
『愛してる』
それは夕実の声でした。
どうして、いま夕実の声が聞こえるのだろう。そんな疑問は、蕩けた思考ではすぐに気にならなくなっていました。
「あい、してる……」
『そう、あたしは日和を愛してる』
「ゆーみが、わたしを、あいしてる……」
ただ耳に入った言葉をオウム返しにすることしかできず、夕実の声を吸い込んで吐き出し続けるスポンジにでもなったようでした。
違う。
夕実は親友であって、夕実だって親友として好きだけど、だけどわたしが愛しているのは――。
『だから、日和もあたしを愛して』
その言葉に逆らいたくて、だけど、蕩けた頭ではなにひとつ考えることもできませんでした。
「わた、しは、ゆーみ、を、あい、して、る……」
罪悪感はなく、ただ夕実を愛しているという気持ちだけがありました。
いつしかコウモリ妖精は夕実の姿に変わり、わたしは夕実に抱かれていて。もはやそれに違和感を抱くこともなくなっていました。
わたしの唇に触れるもの。それは先ほど先輩が触れたそれとは、微妙に感触が違っていて――。
あれ、先輩って、誰だっけ……。
唇の隙間から、濡れた舌がぬるりと侵入する。わたしもそれを受け入れて、絡めるようにして、お互いの口腔のなかの唾液をかき混ぜました。
視界に暗幕が下りていきました。それから続いて、わたしの意識の糸がぷつりと切れました。
*
見回りながら帰っているうちに、すでに日が落ちていることに気がついた。
家の前まで来て、ポーチに上がって鍵を鞄から出そうとした時、スマホの長いバイブ音をポケットに感じる。取り出して確かめると、相手は日和ちゃんの弟の
前に泊まった時に、趣味のことで一応交換しておいたものだったけど、なにかあったのだろうか。
「日向くん?」
『あのっ! 姉さん見かけませんでした?』
「えっ、日和ちゃん家にいないの?」
『いや、それが……家に帰ったら玄関扉が開いてて、姉さんもいなくて……』
誰かに襲われたのか。妖精の可能性もあるけど、ただの誘拐の可能性もある。どちらにせよ、日和ちゃんの身が心配なことには変わらなかった。
「扉か玄関あたりになんか付いてなかった? 傷跡とか、血痕とか」
『待ってください――あっ、ありました! 扉に血痕がついてます! 姉さんの背丈より少し低いくらいの高さです!』
「他には?」
『他に? 特にはないですけど……。ヒカルさん、もしかしてなにか心当たりが――』
「分かった! 私も探すから、他になにか見つけたらすぐ電話かけて!」
通話を切って、道を引き返す。
昼頃のマンティス妖精か。しかし、扉に目立つような切り傷はなかったという話だった。やっぱりただの誘拐犯か。いや、もしかしたら新手の妖精かもしれない。
しかし、まさか私じゃなくて日和ちゃんの身になにかあるだなんて。そんなことなら一緒に泊まってあげればよかったと、今更になって後悔する。
もしあの子になにかあったら、私は――。
口に出しかけて、首を振る。そんなこと、あっちゃいけない。私はきっと、あの子の前でしかヒーローであると証明できない気がするから。
もしかしたら、今がその時なのかもしれない。
すぐに公園の公衆トイレの個室に入る。タイルの床に鞄を置いて、アタッシュケースから三つに分割されたパーツを取り出し、それをステッキに組み立てていく。大腿のホルスターから出したデバイスを起動して、画面を指で触れる。
「なにかあったんですか?」
「日和ちゃんがさらわれた。妖精かどうかは分からないけど、シャインと他のカードを使って手早く探そうと思う」
「えっ……あの、大丈夫なんですか?」
「分からないけど……それでも、救い出さなきゃいけないから……」
「分かりました。すぐに探しましょう。あの子の身になにかあったら、最悪シャドーも……」
「分かってるよ。……シャイン、オウル」
上部スリットから二枚のカードが飛び出す。カードを引き抜いてからデバイスをホルスターに戻し、ステッキの大きな歯車の柄を回して内部スロットを晒す。そこに二枚を叩き込み、すぐさま回す。
「
ステッキから
それに、フクロウの視覚と聴覚と翼が追加される。私は効率的に探すために公衆トイレの外に飛び出し、翼によって飛び上がり、夜でも高精度の視覚であたりを見回す。
雑多な声と絞られた視界のなかを探す。街の中を見回して、続いてその周辺を探すうちに、人里離れた小さな廃工場の中から誰かの声を聞く。
あそこには行ったことがある。一時期、私が訓練場にしていたところだ。前に訓練中に関係者っぽい人と会って以来、そこには二度と行かなくなったけど、それから工場を再開した様子も聞いてなかったはず。
廃工場に耳をすませる。そこには鈍く響く男の声と、聞き慣れた女の子の声。日和ちゃんの声があった。
――あの廃工場に行って!
「了解です!」
滑空して、廃工場へと降りる。地には降り立たず、先に高い位置の窓の縁に着地する。真っ暗な廃工場のなかを、暗闇に対応した視覚で探り、ひとりの少女と人ではない何かのシルエットを確認する。
「どうします?」
――とりあえず、日和ちゃんを助けよう。まずはそれが先だ。
そのまま降りて、怪物の前に立つ。目の前にはコウモリのような見た目をした怪物がいた。
その後ろには、前を開いたブラウスから下着を晒して座り込んだ日和ちゃん。見ていてあまり気分のいい状況じゃないけど、とりあえず生きているうちに助けられて良かった。
「なんだ貴様」
「わたしはマキナ・シャイン! 不埒者の妖精から、人を救いに来ました!」
びしりとステッキをコウモリの妖精に突きつける。雲が動いて、窓からの月光が私たちに当たって、その姿を晒す。
「誰が不埒者だ。私はフィアンセと一夜を楽しんでいただけだ」
「なるほどなるほど。しかし、フィアンセとの一夜に、こんなきったないボロ工場はあんまりだと思いますがね」
「……貴様は私の嫌いなやつの匂いがするな」
「奇遇ですね。わたしも、わたしの宿主も、同じようなことを思ってました」
「宿主だと?」
妖精の問いにニヤリとして、
「……そうですね。言っておきましょうか。わたしは宿主が主導権を握っている、特別な妖精です。つまるところ、お前たちのような野良の妖精を殺すための猟犬ってものをしています」
「……貴様か。最近仲間内で話を聞く、同族殺しの女は」
「あら、有名でしたか。別にお前たちがなにもしなければ、こっちも殺さなくていいんですけどね」
大腿ホルスターのデバイス画面に触れて、
「スパイダー」
上部スリットから飛び出すカードを抜き出す。表には人型の蜘蛛が描かれている。歯車を回してスロット横のスイッチを押してオウルを解除し、スパイダーのカードを叩き込む。
「
歯車を戻すと、半透明の歯車が再構築される。軽く振ってコウモリの妖精――さしずめバット
「多分それ、しばらくほどけないと思います」
「貴様ッ……!」
その隙に日和ちゃんのところに向かい、そのそばにかがみ込む。目つきがぼんやりとしていて、首筋に小さな噛み跡が残っているけど、さいわい命にかかわるものではなかった。
ブラウスのはだけた部分を正して、近くに捨ててあった日和ちゃんのブレザーを肩にかけてから、二の腕に手を置いて言った。
「立てますか?」
しかし、私の行動に対して、彼女の反応は期待していたものとは違うものだった。
「だ、れ……?」
冷や汗が出た。知らないはずがない。なのに、まるで初対面のような言い方だった。
しかし、そんなものは後だ。自分から立つ様子がなかったから、背中と膝裏から抱いて、そのまま身体を持ち上げる。
「だ、れっ……やっ……めて……!」
「……わたしはマキナ・シャイン。あなたを助けに来ました」
彼女の軽い身を抱いて、安全なところを探す。
私――シャイン――を見る目は明らかに怖がっていた。
「やだ、っ……!」
「安心してください。わたしはあなたの敵ではないですから」
「ゆー、み、から……は、なさ、ない、でっ……」
「……夕実?」
「わた、し、は……ゆー、み、を、あい、して……」
私の身体の内側から、ぞっと気持ち悪いものが走るようだった。
精神的に何かを操作されている。そのほかにない。だけど、なぜよりによって夜空さんなのか。
妖精は宿主の願望と同調している。仮に幻覚だとして、わざわざ夜空さんのそれを見せる理由はなにか。宿主の願いは……。
いくつか並ぶドラム缶に隠れた場所を見つける。そこにすばやく日和ちゃんの身を隠し、頭を撫でて言う。
「もうすぐ、わたしたちのことも分かるようになりますから。だからここで待っててください」
彼女に向けてふっと笑顔を浮かべて、すぐに引き返す。その頃にはもう、バット妖精はもう蜘蛛の糸を外していた。
妖精を前にして、ステッキを構える。
「貴様! 私のフィアンセを返せ!」
「バット
「……何故、そのようなことを聞く?」
「いいから、言ってください! 自分の存在理由なのだから、恥ずかしくもないでしょう!」
私の叫びに、妖精は口元を歪ませながら言った。
「……フィアンセと、結ばれることだ」
思い出されるのは、日和ちゃんを必死に守ろうとして、私に噛み付くような態度をした彼女。確証は持てないけど、妖精ではなく夜空さんに惚れさせる理由はそれしかない。
分かってしまった。彼女は、本当に自分を失ってしまったんだ。
そして、私は今から彼女を殺さなければならないことに気づいて、口の中が苦くなるようだった。
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