離れないでフォール・フォール・フォール 1

 あたしが日和ひよりと初めて関わったのは、小学二年の頃。

 何人かの友達との帰り道、同級生の女子にランドセルのキーホルダーをねだられて、それを渡そうとしている日和がいた。クラスだって違うし、顔見知りでもないし、とても関わる義理なんかなかったけど、相手の方にあからさまな悪意を感じて気に食わなかった。

「ごめん。先に行ってて」

 そう言って友達から離れると、あたしはその同級生からキーホルダーをかすめ取って、彼女の手元に返してやった。二人とも突然のことでうろたえているなかで、あたしは同級生を睨むつけて言った。

「こんなんどこでも売ってるでしょ。パパに買ってもらいなさいよ」

 同級生は威圧に負けたのか、同情を買うためか、突然泣き出した。だけど、後のことを考えると、おそらくは後者の方だったのだと思う。

「あ、あのっ! わたしがあげたくてそうしたから――」

「あたしにはこいつがたかっているふうにしか見えなくて、気に食わなかっただけ。行こ」

 あたしは同級生を放っておいて、日和の手を引いて走った。今となってはもっと上手くできただろうなって思っているけど、それだけ幼かったってことだ。

 後日、あたしは担任の先生に保護者同伴で呼び出されて、同級生やその担任や保護者たちに囲まれて、それはそれはひどく理不尽な文句を浴びせられた。何か主張しても、姑息な同級生とそいつの言葉を信じてかかる馬鹿な大人たちは、子供ひとりを容赦なく説き伏せた。悔しかったその時のあたしは、理不尽にも日和に恨みの矛先を向けてしまった。

 この件であたしはしばらくクラスから浮いてしまって、同級生の友達や便乗する馬鹿どもによる嫌がらせが続いた。だけど、ここでなにか反応してもどうしようもないと分かっていたから、気にする素振りを見せないように努めていた。

 それから数日後、帰ろうと教室を出たあたしを待ち伏せていたように、日和が扉の横で待っていた。

「なんか用?」

 その時は、関わったこと自体が憎らしくて、冷ややかな目線を送って言い放ってしまった。日和のランドセルには、もうキーホルダーはついてなかった。

 正直なところ、あたしは一発殴り倒してやりたくもあった。だけど、これ以上問題を起こすのは懲りごりだったし、今でもそうしなくてよかったと思っている。

夜空よぞらさん、だったよね……」

「よく覚えてるね。それでなに、あたしはあんたには何もしてないでしょ?」

「そ、そうじゃなくて……」

「まあいいや。なんの恨みがあるか知らないけど、直接来たのはえらいと思うから。違うところで話そ」

 そうして、あたしは校舎裏に連れて行って、腕を組んで高圧的に問い詰めた。

「それで? 余計なことすんなって文句つけに来たの? それとも、一発殴らせろとか?」

「ち、違うよ……」

 それから日和が言いよどんで、あたしは足を鳴らしてイライラしながら待った。今となってはとてもできることじゃない。あの頃と比べると、関係性は大きく変わってしまったから。

 日和は散々悩んでからランドセルを開けると、内ポケットのファスナーについたキーホルダーを取り出してわたしに差し出した。それは、布素材でできた小さな犬のマスコットのついた、あの日と同じものだった。

「これ、あげる」

「……は?」

「ありがとうってことと、ごめんなさいってことで……」

「なにが言いたいの?」

「ず、ずっと言い出せなくて……だけど、夜空さん嫌がらせ受けてるって聞いたから……」

「あんたのおかげでね」

「……ごめんなさい」

 どうして今さらこんなことを言いにきたのか、あの日のあたしにはまったく分からなかった。どうしてあたしにその大事だったキーホルダーをあげたのか分からなかった。「わたしのために犠牲になってくれてありがとう」とか、そういうことを言いに来たのかと思っていた。

 だけど、日和はそんなんじゃなかった。

 日和はあたしの手にキーホルダーを握らせて、身を寄せて言った。

「夜空さんは間違ってないし、夜空さんへのみんなの仕打ちはおかしいと思うから……」

 あたしよりずっと力が弱くて、いつでも振りほどけたはずなのに、あたしにはそうできなかった。彼女のまっすぐな瞳に吸い寄せられるように、その場所から一歩も動けなかった。

 彼女には人を引き寄せる強い因果があるのだと、今でもそう思っている。

「だから、わたしは夜空さんの――夕実ゆうみちゃんの味方でいたい。だから、これを受け取って」

 あたしはただ圧倒されるまま、それを受け取った。一度会った相手のためにどうしてそこまでするのか不思議だったけど、今ではもう分かっている。彼女は、誰かのためになんでもできるような、そんな子だった。

 それから数日、同級生や嫌がらせに関わったクラスメイトの家を狙った放火事件があった。話題になった時に真っ先にあたしが疑われたが、後に日和のクラスメイトの男子数人が名乗りを上げて、いつの間にか騒ぎが収束した。

 動機は日頃の鬱憤晴らし。男子たちは話を聞いている間じゅう、なにかに怯えた様子だったという。

 今にして思えば、あまりにタイミングがいいように思える。だけど、真実は藪の中だし、それを確かめる理由もなかった。




 スマホのアラームを止めて、時間を見る。いつの間にかスヌーズ機能が発動していて、セットした時間より十数分ほど経っていた。

「やっば!」

 寝間着を布団に捨てて、タンスから下着を取り出す。ちょっとオシャレなフリル付きの赤いブラジャーを手で整えながら着けて、姿見の前で確かめる。

 すらりと高い背丈、形がよく張った乳房、無駄な肉のない引き締まった身体。寝ぼけた顔とはねた髪がいただけないけど、それは準備の間に整えればいい。

 大丈夫、今日も完璧だ。

 日和に心配をかけないように、あたしはあらゆることに努力を重ねてきた。そうして優等生を勝ち取って、そんな今でも、日和はあたしにとって幼馴染で一番の親友だ。

 だけど最近、彼女の様子がおかしい。日和は広野光ひろのひかるとかいう女の先輩のことばっかり気にしている。テストの成績はいつも優秀でありながら、遅刻早退無断欠席を繰り返したり、教師やクラスメイトに対する態度が最悪だったり、変なアタッシュケースを持ち歩いたりする、いわゆるタチの悪い不良だ。

 日和いわく「案外へっぽこだけど良い人」とのこと。だけど、それでそいつに対する印象は良くならないし、むしろ騙されているようにしか思えない。良い人は遅刻早退無断欠席を繰り返さないし、教師に対する態度もちゃんとするし、学校で到底使いそうにないアタッシュケースなんか持ち歩かないからだ。

 日和がよくないことに巻き込まれる前にどうにかしたいけど、いまだにどうにも動けない。やっぱり、あたしが先輩と直接会って話すべきか。

 タンスの上の小さなコルクボードに飾った、ところどころの糸がほつれた犬のキーホルダーを見やる。今はもう、仲良くなった時の思い出が朽ちないよう、鞄に着けて歩くことはなくなっていた。だけど、今でもこれは大事なものだ。

 最近の日和は色々と心配だった。昼休みにすぐ屋上へ行ったり、しばらく行かなくなったと思ったら突然早退をしたり。あたし以外にはどこか空虚を見つめていたはずの彼女が、いつの間にか違う方へ向いているような、そんな気がしてならなかった。

「おい、夕実ー! まだ起きてないのかー?」

 下の階から、お兄ちゃんの声が聞こえる。壁にかけた時計を見ると、結構ギリギリだ。

「ごめん! いま準備してるところ!」

 あたしは応えて、すぐさまブラウスを着込む。黒のソックスを履き、赤いリボンタイを結んで、スカート、ブレザーと、姿見の前で身支度を整えていく。いい加減、目も冴えてきて、はねた髪以外は日和を護るに相応しい、ほぼ完璧なあたしが目の前にいた。

 前日に準備した鞄の中を改めて確認して、それを肩に掛けて部屋を出る。早足で階段を下りてすぐさま洗面台へ行き、髪を整えてからヘアゴムで後ろにまとめてポニーテールにする。急ぎ足にリビングに戻り、食卓の上のトーストとスクランブルエッグとサラダを見て、トーストだけを手に取った。

 食卓に座って黙々とトーストを頬張っていたお兄ちゃんがこっちを見て、呆れた顔をしていた。

「いい加減、余裕を持って起きろよな」

「乙女には色々あるの!」

「乙女でもなんでもいいけど、メシくらいちゃんと食えっての。身体を崩してからじゃ遅いんだぞ」

「お兄ちゃんの朝ご飯なんかよりずっと大事な人が待ってるんだから。それとも、妬いてるの?」

 物心ついた時からお母さんとお父さんは共働きで、朝のリビングで待っていたのはいつもお兄ちゃんだった。今でもあたしのことをおもんぱかってか、わざわざ在宅の仕事を選んで家事をこなしてくれている。

 お兄ちゃんはあたしにとって第三の保護者で、一番親しい家族だった。

「どうせ日和ちゃんだろ。そんなに大事に思うなら、なおさら早く起きろよ」

「決めつけないでよ。本当にあたしが彼氏作ってたら、どうするのよ?」

「だってお前、昔からずっと日和ちゃんばっかだろうが。それより、急がなくていいのか?」

「あっ……」

 あたしは時計を見るまでもなく、机の上の弁当と水筒を手に取って鞄に入れる。朝食を食べないことを前提に大きめに作られているのが恥ずかしいけど、実際これに度々助けられているからしょうがない。

「行ってきまーす!」

「車には気をつけろよ!」

「了解ー!」

 あたしはトーストを咥えながら靴を履いて、すぐさま家を出た。




 日和に会う前にトーストを食べ終えて、息を切らして走る。口元をハンカチで拭って、走りながら身なりを整えているうちに、日和の小さめの背中が見えた。

「日和、おはよう」

 背中に追いついて、さりげなく声をかけた。

「あっ、夕実。おはよう。また急いでたの?」

「……別に、運動してただけ」

「嘘つかなくてもいいのに」

 額にじわりと浮かんだ汗を手で拭って、息を整える。

 日和はスマホと周囲を交互に見て、やけにせわしない。そしてたまに、ふっと笑顔が浮かんでいる。なにをやってるのかと画面を覗くと、日和の左手がすぐに画面を隠した。

「あっ、ごめん。割と恥ずかしいこと書いてあるから……」

「やりとりしてる相手、誰?」

 言いながらも、なんとなく察してしまった。また、あの先輩だ。

 いつの間に、連絡先を交換したのだろうか。なんだか気持ち悪い。あたしの隣にいる日和が違うなにかに変わっていくみたいで、なにか落ち着かない。

 気がつけば、あたしは日和の左手を取って――。

「お、おはよう……日和ちゃん」

 後ろから声がして、振り向いた日和の手が離れていく。

 相変わらず両手に鞄とアタッシュケースを提げていて、あたしより僅差で背の高い黒髪ロングの先輩。今まで人と関わらなかった不良のくせに、突然あたしと日和だけの空間に入り込んだおじゃま虫。

 しかし、なぜいきなり、自分から声をかけるようになったんだろう。前までは疎遠になっていたはずだったのに。金曜に早退してから、そのあいだになにがあったのか。

 不自然なくらいに大げさに振り向いた日和が、柔らかい笑顔に変わる。

「おはようございます、ヒカル先輩」

「名前呼び、あまりに慣れなくて。ていうか、慣れるの早くない?」

「ヒカル先輩と違って、人付き合いには慣れてるんです。先輩もいい加減に慣れてくださいよ」

「分かってるけど……」

 それは本来あたしが向けられるはずの笑顔だった。いや、それよりもなにか違うものが見えた。

 日和はいつも通りの余裕ぶった口調で、手元や身体の動きがどこかせわしなくて、まるで恋でもしているかのようだった。

 忙しく動く指、ぎこちなくなった歩み、早すぎる瞬き、震えて落ち着かない唇。それらの変化にはすべて意味があるように見える。彼女とは長くいたから、それが余計に分かってしまう。

 それは身体の一部が大きくずれたように、居心地が悪かった。

「そうだ、先輩。この子が、わたしの友達の夜空夕実よぞらゆうみです」

 いきなりあたしの腕を掴んで引き寄せる。どういうつもりなのか分からなかったけど、突然腕に当たる柔らかな感触にうろたえてしまった。

「先輩、へっぽこだけど悪い人ではないし、夕実も仲良くしてあげて」

 小さく耳打ちされる。嬉しいけど、同時に複雑な気分だった。

「なんで?」

「なんで、って……お互い気まずいままだと、夕実も困るでしょ。わたしだって、そっちでも仲良くしてくれると嬉しいし」

「あたし、不良の先輩と仲良くすんのは嫌だけど」

 言ってから、露骨にふてくされている自分を後悔する。困り顔の日和を見て、頭痛に似た感覚に額を押さえてから、しぶしぶ先輩に手を差し伸べる。視線をさまよわせながら握り返す先輩の手を、あたしは一瞬だけ強く力を入れて軽く睨みつけた。

 彼女の視線を引きつけて、彼女を彼女じゃないものにする。そんなこいつが、大嫌いだ。改めてそう感じた。

「よろしくお願いします。広野先輩?」

「う、うん……よろしく、夜空さん……」

 先輩は少しだけ痛そうな顔をして、だけどその後には、なにもなかったかのように平静を装っていた。それどころか、こちらにぎこちない笑顔を向けている。

 余裕ぶって挑発しているつもりなのか、単純に馬鹿なのか。どちらにしても、気に食わない。

 日和がようやく納得して、お互い元の位置に戻って歩き始める。あたしはもう一度、日和の左手を優しく握る。一瞬ためらいながらもその手は受け入れてくれて、心が満たされる。

 手を握る方で、二人の囁きが聞こえた。

「あの……いいですか」

「……うん」

 あたしは聞こえないことにした。ただ前を向くことに努めた。

 日和の方を見たら、あたしの中の感情が引き裂かれてしまいそうだったから。

 さっきまで満たされていたものがすべて腐っていく。そんな感覚に苛まれるなか、握っていた柔らかな手を潰してしまわないよう意識することしかできなかった。

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