ペトリコールと、君の傘。 3

 お昼を少し過ぎた頃、雨が止んで雲間に光が射し込むのが見えて、わたしは鞄にお弁当や水筒を片付けました。

 先輩はわたしと少し距離を置いて、抱えた膝に顔をうずめていました。

「まさか飛田さんとこうするなんて、考えてもみなかった」

「……わたしだって、まさか先輩にこんなことするとは思ってもみませんでしたよ」

 思い切ったあとになって、わたしは後悔しました。これで嫌われたり引かれてたりしたなら、きっと一生立ち直れない気がしたからです。

 そんな、先ほどとは違う、冷えるように痛い心臓の音を聞きながら、先輩のほうをうかがいました。

「まあでも、飛田さんの本当の気持ちを知れてよかった」

「……いいんですか?」

「私で良ければね。意外と悪い気はしなかったし、飛田さんとならそんなのもいいかも、なんて」

 先輩は顔を上げて、情けないような笑みを浮かべました。

 ほっとして、身体の力が抜けるのを感じました。自分の目が潤むのを感じて、今度はこっちが顔を伏せて手で隠し、安堵の息をつきました。

「あ、あれ……私、また泣かせた?」

「……ばか。へっぽこ。こけおどし」

「前から思ってたけど、飛田さん結構辛辣だよね」

 先輩は困惑して、わたしの返事を聞いて苦笑しました。

 わたしならいいって、言ってくれたから。もうちょっとだけ、踏み込みたい。

「……わたし、結構めんどくさいですよ」

「いいよ。無理して気を使われるほうが困るから」

「休日にもわざわざ呼び出すかもしれないですし――」

「それは、多分お互い様。妖精パーマー以外のことだと、どうせ元からほとんど予定入ってないし」

「さっきみたいなこと、またするかもしれません」

「一度は経験したんだから、二回目もちゃんと受け止めるよ」

 回り道をしてしまう、ひねくれ者のわたしの口を、どうにか律して。

「改めて、よろしくお願いします。……ヒカル先輩」

「こちらこそ。日和……ちゃん?」

 ためらうようなわたしに、ちゃんと言い切らない先輩。

 お互いの調子の狂い具合に、二人で失笑してしまいました。

「なんですか、その疑問系。呼ぶならちゃんと呼んでくださいよ」

「恥ずかしいんだよ。そっちだって、言い方に照れを感じるし」

「ああ、もう。言わなきゃよかった!」

 わたしは傘と鞄を持って立ち上がり、飛び出すようにバス停の個室の扉を開けました。

 先ほどの雨が嘘のように、雲の大きな隙間から青空が見えていました。



 バス停を出た後、バッグと靴を忘れたヒカル先輩をわたしの家に泊めることになりました。ヒカル先輩が「上履きのまま家に帰るわけにもいかない」と頭を抱えて言い出すものですから、わたしが仕方なく提案したのです。仕方なくですよ、仕方なく。

 あと、もうひとつ考えていたことがあって、それは「妖精パーマーを使って夜中に学校に忍び込んで取りに戻る」といったものでした。

 ところが、わたしの提案に先輩は眉をしかめた様子で渋りました。

「やだよ。ヒーローのナリでそんなことで不法侵入だなんて」

「プライドは捨ててくださいよ。上履きで鞄も持たずに歩くほうが、よっぽどヒーローとして恥じゃないですか」

「そうだけど……」

「わたしの妖精の訓練も兼ねて! それならどうですか?」

 どうにか先輩を説得して、夜中になるのを家で待つことに決まりました。

 家に帰ってすぐ、先輩には湿った制服の代わりにお母さんからのお下がりを着てもらいました。わたしには少しぶかぶかだった服を上下とも着こなしているのがちょっと悔しかったですが、実際似合ってたのでなんとも複雑な気持ちになりました。

 お父さんと日向ひゅうがは快く歓迎してくれて、特に日向とはヒーローの話で盛り上がり、夕食後にそれぞれの好きなエピソードの鑑賞会をすることになりました。

 日向とテレビを見て語ってるヒカル先輩を、食器を片付けながら面白くない心持ちで横目に見ていると、一緒に手伝っていたお父さんがこそっと耳打ちしてきました。

「ごめんな。せっかく日和が家に呼んだ先輩なのに」

「いいって。せっかく人んち来ておいて、後輩の弟の話に喜んで乗っかって、後輩そっちのけでブルーレイ鑑賞会してる先輩も悪いから」

「でも、母さんが亡くなって、最近は日向もみるみる大人びてきたなと思ってたから、ちょっと安心したかな」

「まあ、それは……」

「日和の拗ねた顔も久々に見れたしな」

「……それは、別に普通だよ」

 どうせ、みんなが寝静まったら、わたしは先輩とふたりきりなのだから。

 ていうか、拗ねてない。そんな顔を表に出したつもりもないのに、この人は。からかうようなお父さんをキッと一瞬だけ睨みつけて、手元をかちゃかちゃと動かしていきました。

 食洗機を回してから先輩の隣で一緒に見ていましたが、先輩のオススメエピソードはとても好きな話でした。

 ある使命を課せられて孤独に戦う主人公を助けるため、試作品の装着ガジェットを用いて二人目のヒーローになる相棒の初装着回。大事な主人公のためなら試作ガジェットの副作用すらも厭わない相棒に何か親近感を覚えてしまい、気がつけば心の中で密かに相棒に感情移入していました。

 終わったところで、隣の先輩が優しい顔でこちらを見つめました。

「どうだった?」

「まあ、良かったです」

「この、相棒に装着させないよう限界寸前になってまで独りで戦う主人公が好きなんだ」

 先輩は、こういうものに憧れているのかな。先輩のダメさは知ってますが、わたしは先輩にああなってほしくないなとも思ってしまいます。

「主人公、すごく先輩っぽいですよね。何かと悩みすぎだし、生きるの下手そうだし、完璧でもないのに無理するし、見てて危なっかしすぎてハラハラします」

「凄い言われよう……」

 先輩が苦笑する。

「そうなると、相棒は日和ちゃんかな?」

「……いきなりなに言い出すんですか」

「なんてことない理由で主人公に強い敬意を感じてたり、命賭けるとまで言い出したり、なにかと世話焼きだったり」

「まあ、この話しか見たことないですけど、なんとなく相棒の気持ちは分かります」

 それだけ、この相棒は主人公のことが好きだということ。

 実際、口下手でお人好しの主人公に相棒が懐くのにはとても納得できるところがありました。自分だって同じようなタイプに惹かれてしまったのだから、主人公への相棒の感情にいちいち感情移入してしまうのも当然といえば当然か。

「十年くらい前の作品なんだけど、当時からこの話が好きだったんだ」

「へえ。意外と前なんですね」

「私たちの出会いって、運命だったのかも」

 そんな、ありきたりで口説き文句じみたその言葉を、先輩は平然と言ってのけました。先輩はたまにそういうところがあって、そんな言葉でまた何もかも許せてしまって悔しい。

 わたしは、先輩のそういうところが――。

「あの、姉さん? 次のやつかけるけど、いい?」

 言いかけたところで、日向がBDプレイヤーのディスクを入れ替えながら言いました。

「……ああ、いいよ。ごめんね、長く話し込んじゃって」

「それにしても、姉さんがお客さん連れてきたの、珍しいよね」

「まあ、色々とね……」

「良かったらまた来てくれちゃっていいですからね、ヒカルさん」

 日向が心から楽しそうに言いました。久々に弟のそういう一面を見られた安心感と、わたしが今日言いたかったことを先に言われたことに対する複雑な心持ちがないまぜになって、どうしようかと少し戸惑って。

 先輩はわたしをちらとみると、柔らかく微笑んで言いました。

「うん。また、来ようかな」

 これは、わたしに向けての言葉なのかな。そんなことを悶々と考えているうちに、いつの間に日向の好きなエピソードが始まっていて、目の前の二人はパチモン臭いソムリエみたいによく分からない語りを始めていました。

 先輩って本当に格好がつかないな、と。そんなことを思いながら、見たことのある回の見たことあるシーンををよそに、先輩の横顔をずっと眺めていました。




 夜闇で満たされた校舎が怖いものというのは事実だと思いますが、同時にこんな静けさの中で二人きりというのは、違う意味でドキドキするものでした。しかし、その気分を堪能するには、『ボク』という壁一枚の意識が邪魔をして。

「はぁ? 代わってくれ? 君らは学校の荷物を取りに来たんじゃないのか」

 ――そうだけど……。

 タキシードに仮面を着けて前髪にシルクハット型の髪飾りをしたわたしの妖精シャドーは、刃が黒く灯って歯車を飾る片刃のナイフをぶらぶら携えて、苛立たしげに廊下を歩いています。隣には大きな歯車付きのステッキを持つ先輩の妖精シャインが、どこかうきうきした様子で歩いていました。

 シャドーはため息をついて、

「だいたい、これは君が頼んだことだろう。こんなくだらないことに、かつて大怪盗として名をはせたボクをこき使いやがって」

 ――あなたが元々どんななんて、知るわけないでしょ。どっちにせよ、不法侵入は得意なのだから、おあつらえ向きなのは変わらないし。

「ボクの華麗なショーを、そんな無粋な言い方しないでくれるかな!」

「うるさいです。そんなに声出してると、警備員に見つかりますよ」

「そもそもだ! 君の宿主が学校に荷物を忘れさえしなければ、こんなとんでもなく面倒な目に遭わずに――」

「その気になれば、一瞬で叩き潰してもいいんですよ」

 シャインの凄みのある睨みと声に、シャドーがびくりと怖気づきました。当然、ナイフという軽装備で他にカードを持ってないわたしたちに対抗する術があるわけでもないですし、シャドーはどうもこのシャインという妖精を毛嫌いしているようで。

「まあ、宿主の日和さんと感覚を共有している以上、そんなことはヒカルが許さないのですが」

「ボクの宿主、お前んとこのヒカル先輩とラブラブチュッチュの関係になっちゃったもんな」

 恥ずかしさと苛立ちですぐにでも『わたし』に戻ってしまいたかったですが、これは先輩のためのことなのでどうにか抑えました。今はこの子の力を頼るしかないので、下手なことはできません。

 そんななか、シャインが突然なにか思いついた様子で、シャドーの耳に顔を近づけました。

「わたしたちも、そういう関係になりますか?」

 それはわたしの聴覚としても機能していて、思わずシャドーの身体ごとびくりと跳ねていました。それとともに、わたしの共有する感覚には、わたしのものじゃない火照りのようなものがうっすらとありました。

 あれ、あれれ?

「ふざけんな。君は、向こうでボクとどんな関係だったか忘れたのか」

「ええー……文句言いながらも、何度か助けてくれたじゃないですか」

「あ、あれは……利害関係の一致であって、君とボクは基本的に対立していたはずだ。ああいうことは二度とやりたくなかったのに……」

 そう言いながら、身体の内に感じる熱が上がってくるのを感じました。

 なるほど。ヒーローごっこをあそこまで嫌っていたのは、過去の宿敵絡みだったのでしょうか。わたしに腹黒と言う割に、そっちだって素直じゃない。

 この前のこともあって、ちょっとだけいたずら心を芽生えさせて言いました。

 ――何もかもお見通しだぞ。

「ああ、うるさい。分かったよ。さっさと終わらせるぞ」

「そうしてくれると助かります」

 そうしているうちに、先輩の教室にたどり着きました。

「シャドー、遠隔機能リ・モード

 懐から取り出したデバイスを鍵穴に押し付けると、錠がひとりでに開いてしまいました。そんな怪奇現象をさらりと流しながら、音を立てないように静かに扉を開ける。

 机にはちゃんと鞄が掛かっていました。シャインはひとまずの安堵をしながら机の中の荷物を鞄にまとめて、鞄を提げてからすぐに教室をあとにしました。




 シャドーの能力で解錠した扉を閉め、鍵穴にデバイスをかざして施錠しました。それから妖精二人は屋上からふわりと飛び降りて、輝く鱗粉を放出しながら静かに着地して、そのままフェンスを超えてそそくさと家に帰りました。さいわい誰かに呼び止められるようなこともないままアパートに着いて、ベランダに直接跳んで自室に入ります。

 ベランダの扉を閉めてようやく、元の姿に戻りました。わたしと先輩は床にへたりこんで、深く息をつきました。

「終わりましたね……」

「ごめん……まさか、最初にやることがこれになるなんて……」

「でも……楽しかったですよ……」

 わたしはナイフの柄とデバイスを床に置いてふらふらと立ち上がり、ベッドに身を投げ出して。先輩も立ち上がりかけて、少しだけ躊躇しました。

「……ええと」

「いいですよ。このベッド、先輩が入ってちょうどいい大きさですから」

「じゃあ、遠慮なく」

 先輩は微笑んで、荷物を端にまとめて置いて、続いてベッドにごろんと転がって。わたしと同じシャンプーを使ったはずの先輩の髪は、わたしが使うよりもいい香りがして、なぜだか幼い日のお母さんのことを思い出しました。先輩は、どっちかっていうと大きな妹なのに。

 どこか安心感に満たされたまま布団に潜り、わたしから先輩の手を絡むように握って目を閉じる。

「あっ、親に泊まりの連絡するの忘れた……」

「……ばか」

「まあ、いいか……今更だし……」

 繋いだ手が離れることのないまま、わたしの意識は深く深く眠りの闇に沈んでいきました。

 永い眠りから醒めたイバラ姫。

 あなたの隣で初めて見る夢は、どれほど幸せな夢なのでしょう。

 そんな、らしくなくて気恥ずかしいことを思いながら、夢の中へ。

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