ペトリコールと、君の傘。 2
三時限目前の休み時間、広野先輩が突然抜け出したと話題になりました。
話をしていたクラスメイトによると、先輩はアタッシュケースだけ持っていって屋上に上がっていったとのこと。わたしはすぐに、先輩が何をしにいったのかを理解しました。
約束してから結局見ることはなかったけれど、先輩はきっと「ヒーロー」をしにいったのではないかと。
なんとなく、心配になりました。一緒にヒーローをやろうと約束したのに、結局その約束はなくなって、そのことに気を病んでいるんじゃないかと。そんなことを感じていました。
あるいは、それを期待していたのかもしれません。あの人に求められることを、わたしが勝手に欲しがっていた。
最初はどうしようかって授業の間じゅうずっと悩んで、昼休みになって。
鞄の中のふたつのお弁当を見て、ふと胸が締め付けられるようになりました。
先輩がわたしの
仕方なく日向に渡した時の何かを察したような優しい顔がつらくて、家族のいる時間はずっと部屋でふさぎ込んで、それでも何かを期待するようにお弁当を作り続けていました。
いつまで、このお弁当を渡せずにいるのだろう。
今だって、ヒーロー自体にさほど興味は持てないし、わたしがそれをするなんてなおさら想像できなくて。ただ先輩が恋しくて、わたしのことだけを見てくれる先輩と一緒にいたくて。
結局、わたしは夕実の静止を振り切って早退することにしました。
外は雨が降っていて、予報を聞いて持ってきた赤い傘をさして。先輩の妖精であるシャインは警察に目をつけられているらしく、もしかしたらと思ってサイレンの聞こえた方へと辿っていくと、太い蜘蛛の巣が張り巡らされた大通りにたどりつきました。
あたりの警察は、彫刻かなにかのようにぴたりと留まっていました。それらを遠目に見て不気味に思いためらっていると、大通りの中心で見覚えのある背中を見つけました。
フード付きの外套を纏った人。わたしにアタッシュケースを渡した人だ。一度話したいとは思っていたけれど、それよりも。
その奥に、傘もささず、ずぶ濡れでうずくまる先輩がいました。
「先輩!」
わたしはためらいも水たまりも構わずに、走り出しました。
先輩が打ちひしがれたような顔でこちらを見て、フードの人となにか会話を交わして。
分かりやすく頬を緩ませた顔で、カードとアタッシュケースとステッキを持って、わたしの方へと走り出しました。
ガラス張りで小屋のようになったバス停に着いて、雨をしのぐことにしました。すぐにベンチに座って、わたしはすぐに自分の鞄に入っていたタオルで先輩の髪や身体を拭いました。
「あの、飛田さん? それくらい、自分でやるから――」
「いいですから。好きでやってるんだから、黙って拭かれててくださいよ」
「……うん」
こうして近くで見て思いますが、やっぱり先輩は顔とか身体つきが大人っぽくてとても綺麗で、黙っていればちゃんと先輩をしていたりします。
まあ、わたしはあのなんとも格好のつかない中身を含めて、この先輩が好きなのですが。
好き。
この言葉を思い浮かべるだけで、なんだかむずがゆくなってくる。
別に、普段から何気なく使う言葉のはずなのに、今はこれがなにか特別な意味に思えてきます。
「飛田さんはお姉ちゃんみたいだね」
「実際、散々お姉ちゃんやってきましたから」
「弟いるんだっけ……こんな頼りない先輩で、ごめん」
「先輩がへっぽこなのは知ってますよ」
こうしてみると、自分は本当に素直になれない。
先輩はもう、わたしの正体を知っているはずなのに。わたしはいまだに踏み出せずにいます。
「……どうして来てくれたの?」
「この前、約束したので」
「ああ、そういえばそうだったっけ」
たはは、と先輩が柔らかく笑いました。
違う。わたしはそんなことのために来たんじゃない。
ここで思い切らなければ、きっとこれからもずっと前に進める気がしなくて、タオルを仕舞うために開けた鞄の中身をじっと見つめて。
「この前言ってたお弁当、ちゃんと作ってきましたよ」
外は雨でジメジメしているのに、そのたった一言を発する口はからからに乾いていました。
不安のあまりにちらと反応を見ると、先輩は目を丸くして、
「そういや、鞄は学校に置いてきちゃったんだっけ」
そう、軽く苦笑しました。
ちょっとおかしくて、わたしもつられて失笑して。
「なんで持ってきてないんですか。靴だって上履きのままですし」
「屋上から出たほうが早かったし」
「どうやって学校に行くつもりですか」
「どうしようかなあ……靴はスニーカーでどうにかなるとして、せめて鞄は持っていくべきだったか……」
先輩はステッキを大腿の上で転がしながら、ため息をつきました。
この人、見れば見るほど本当にダメな人だ。かっこつけで、そのくせどこか貫ききれていないところがあって、それがどこか目を離しちゃいけないように危なっかしくて。
本当、面白い。
ずっと、見ていたい。
「とりあえず、先にお昼にしません? 実はわたしもまだなんですよ」
「……うん」
ぎゅるるると腹の虫を鳴らす先輩に、お互いにくすくす笑い合いながら、わたしはふたつのお弁当を出しました。
緑の巾着に包まれたそれを先輩へ、黄色の巾着をわたしへ。間にステンレス製の薄緑に彩られた水筒を置いて。それぞれ巾着を開いて、巾着と同じ色のお弁当を開きました。
「……すごい」
「自分だけならともかく、先輩のも作るんですから。ちょっと気合い入れました」
「そんな! いつも通りでよかったのに!」
「先輩が良くても、わたしが良くないんですよ。素直に喜んでくださいよ」
「そっか……嬉しい、ありがとう」
いつになく、誇らしくなって。ちょっとだけ、調子に乗って。
後になって恥ずかしくなりながら、視線を自分のお弁当に向けました。
半分ほどのふりかけご飯と分けて、鶏の唐揚げ、玉子焼き、ナポリタンスパ、きゅうりのちくわ巻き、プチトマト、ゆでブロッコリーと埋められている。われながら、いつもより手間かけちゃったなと思いながら、箸を出して玉子焼きに手をつけました。
先輩とわたし。先輩の食べるペースは早く、わたしは遅く。
先輩は本当に噛んで食べてるのか心配になって、水筒のフタにお茶を注いで渡すと、先輩はすぐに手を伸ばしました。
「ちゃんと噛んでくださいよ。また喉詰めますよ」
「ああ、ごめん……」
「それで、どうですか?」
「美味しいよ」
そう言って、先輩は唐揚げに手を伸ばしました。
「よかったです」
先輩への感情をキュウリのシャキシャキした食感で誤魔化しながら、わたしも先輩を追うように食べ進めました。
ふと、先輩が食べる手を止めて、
「ねえ、飛田さん」
「……はい?」
「私、ヒーローなんてガラじゃないのかな」
ぽつりと呟いてから、首を振って自嘲を含んだように言い直す。
「なんて言っても、分からないよね。飛田さんにはまだ、戦ってるとこ見せてないし」
「聞きますよ。知らなくても、聞くことはできますから」
本当は、わたしが聞きたいだけ。
なんて言い出すこともできず、わたしはまたお姉さんぶりました。
「カナデさんっていう、親しかった近所のお姉ちゃんがいてね。私はその人の背中を追って、カナデさんみたいなヒーローになろうとしてたんだ」
「カナデお姉ちゃん、って人のことですか?」
「……言ったっけ?」
「独り言で聞きました」
わたしが言うと、先輩は口元をむずがゆそうに歪ませながら、
「まあ、それはいいとして」
そう咳払いでごまかすようにしてから、どうにか平静を装いました。
「結局、ダメだった。戦うことはできても、人を救うことはできないみたいで。人からは『ヒーローごっこ』なんて言われるし」
きっと本気で悩んでるのでしょう。わたしはにどう答えたらいいか分からなくて、ただ雨の降る室外を眺めるばかり。
実際、戦うところなんて一度も見たことありませんが、先輩がヒーローに向いてないのはなんとなく想像ができました。むしろダメなところばかり見ているので、今更かと思うまであったり。
「この前だって、飛田さんを泣かせちゃったりしたよね。なんか無神経みたいで、本当にごめん」
だけど、先輩はちゃんと悩める。わたしに気を配ってくれるし、考えることだってできる。この人はどうしようもないところだってあるけど、わたしはこの人の良いところをいくつか知っています。
「別に気にしてませんから。むしろ先輩のほうが傷ついてたのかと思ってました」
「……まあ正直、寂しかったし、後悔もしたし、自分でも信じられないくらい不安になってたりしたんだ」
先輩は、いともたやすくこんなことを言ってのけました。
こういうところだ。こういうところが、ずるい。
わたしは先輩の言葉で溢れる感情を悟られないようにそっぽを向いて、
「先輩はかっこばかりつけすぎなんですよ」
「やっぱり、そうかな」
「そもそも、ヒーローって誰かを守ったり救ったりするためになるもんであって、本来はそっちのほうが大事だったりしませんか?」
ごまかすために適当ことを言ってみたけど、意外としっくりきた。
先輩は守るものがなかったから、今までただ戦うことしかできなかった。だとすれば、この人がヒーローでいるためには隣に誰かがいるべきで、わたしが先輩の「守りたいもの」になればちょうどいいんじゃないかな、と。
だけど、それはわたしの個人的な願望。選ぶのは先輩で、わたしが本当に先輩にとってのそうであるかは分かりません。
ちらと、顔をうかがって。
「……なるほどね」
先輩は目を丸くして、それから遠くを見るようにくすっと笑みをこぼしました。先輩が私の言葉をどう捉えたのかは分かりませんでしたが、少なくとも不安は取り除けたみたいで安心しました。
「君は?」
「……え?」
「さっきから何か言いたそうだったから。もしかして、この前の話?」
「まあ、はい……」
そうだ。
さっきからずっとごまかしていたけど、このままうやむやになんかしちゃいけない。
どうしてわたしが先輩と一緒にいたいのかをはっきりさせないと、先輩との間に存在するわだかまりは解消されないから。だからきっと、今がチャンスでした。
「私の妖精、ヒーローには興味ないって言ったじゃないですか」
「うん……」
「わたし、実際ヒーローには興味ないですけど……ただ、先輩には興味がないわけではない、というか……」
伝えるべき言葉を避けようとするように、言葉は回り道をしていきました。だけどもう、この時点で先輩の顔なんて見れなくて、わたしはこの水の中のような息苦しさを抜け出すようになおも続けました。
「正直、わたしとしてはただ先輩と一緒にいたいだけで、そのためなら興味がなくても一緒にヒーローでもなんでもやってもいいですし、毎日お弁当だって作りますし、なにかとへっぽこな先輩を助けることならなんだってやります。つまり――」その先を言うために、一呼吸置いて。「わたし、先輩が好きなんですよ。本当に、どうしようもなく」
この「好き」は、わたしの人生史上いちばん緊張する「好き」でした。それを言い切ってから、おそるおそる隣を見ると、拍子抜けたような顔がそこにありました。
「え? ああ、うん……」いまいち飲み込めてなさそうに、言葉を続けて。「いや、まあ。私も君のこと、好きだよ。そういう好きの話、なんだよね?」
違う。この人、なにも分かってない。
苦労して言ったことが伝わらないのが癪で、だけどそんなどうしようもない先輩を嫌いになれないみたいで、どうやれば伝わるのか考えて。わたしは弁当をのけて、水筒を取ってフタにお茶を注ぎ、それをぐいと一気に口の中を流し込みました。
だけど、当然こんなもので今の気持ちを落ち着かせられるわけがありません。ただ、わたしの呪いを解くための初めてが綺麗であるようにと。
姉として課された呪いに縛られて、長い間イバラの中で眠っていた本当のわたしを目覚めさせるために。さっきとは反対側に水筒を置いて、手早く身を寄せて両手で先輩の腕にしがみついて。
「私が言いたいのは、こういう好きです」
それは、さっきよりもずっと恥ずかしいけれど、なにより分かりやすく伝わる方法でした。
お弁当の味と、先輩の体温。先輩の柔らかな唇を、わたしの唇が重なって。
なかば強引に奪う形で、わたしの初めてはわたしの中に刻まれました。先輩にとっては初めてなのかな、と少しだけ不安になりながら、まあ先輩のことだしと勝手に納得して余計な考えを取り払いました。
どこかで聞こえる鼓動の高鳴りはわたしのものか、先輩のものか。両方ならいいなと少しだけ期待ながら、わたしはその短い一瞬を味わうことに努めていました。
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