ペトリコールと、君の傘。 1
純白の魔法少女といった風貌の
授業中に兄貴から連絡を受けて、保健室に行くと嘘をついてからトイレから学校を抜け、兄貴と合流してここに来た。終わりさえすればすぐに学校に戻ってくるつもりだったが、まさか思わぬ収穫までついてくるとは思ってなかった。
分かっていたが、こいつも結局救えない。早急にデバイスを奪い取って、ただの人間に戻ってもらうしかない。そして、抵抗するならば――。
雨が強くなり、甲冑を叩く雨粒が増していく。
さっさと終わらせてしまおう。
俺が引き金に指をかけようとした時、マキナ・シャインは「待って!」と声を上げた。
「なんだ?」
「自分で、変身解くから……」
マキナ・シャインは打ちひしがれた顔で全身を震わせながら、ステッキの歯車を回してスロットを晒す。
彼女に違和感を覚えた。姿はマキナ・シャインでありながら、声は広野光そのものだったからだ。例外は存在するが、このことになにか嫌な予感がする。
そんなことを考えていて、少し油断していた。
マキナ・シャインはカチンと音を立てて歯車を戻して、眼前に頸部の広い半透明の大蛇が現れた。そうして、大蛇はこちらを食らいつこうとまっすぐ迫りくる。
すぐさま引き金を引いて、銃撃で大蛇を消滅させると、視界の先にマキナ・シャインの姿がないことに気づく。
「ハリケーン!」
背後の声に気づいて振り返ると、マキナ・シャインは体勢を整えてスロットのカードを差し替えていた。歯車の先の半透明の歯車が高速回転し、金切り音を立てながら小さな竜巻の様相に変わる。
『ヒーローのくせに不意打ちするとはね! 最低!』
「姑息な真似をッ……!」
「黙れ! 誰だか知らないけど、お前は絶対に斬り殺してやる!」
何度か狙って銃撃を放つが、全て竜巻によって弾かれてしまう。厄介だなと思いながら、俺はバックルに付いた歯車型のレバーを右側に回す。
『オニキス・アサルトモード!』
バックルに差したデバイスから、悪魔を模した妖精オニキスのトーンの高い声が響いた。騎士を模した妖精ダイヤの姿を借りた俺の甲冑の背部に、一瞬だけカッターの刃のような鋭い漆黒の翼が噴出する。
クロスボウの着脱式の太い弦を銃口側に引いて外す。ショットガンをアスファルトに放り出して、外した弦を左右に分解してから両手首のスナップで軽く振り、双方に反りのきいた細長の刃を水平に露出させる。二挺の
「俺たちも斬り殺したくなってきた。便乗させてもらうぞ!」
『ヒーローもどき、覚悟なさい!』
肉薄してステッキの先の竜巻に気をつけながら右拳を振るう。その攻撃を、マキナ・シャインが読んでいたとばかりに首を傾けてそれをかわす。それとともに、こちらもすかさず左の親指でバックルのレバーを右側に回す。
『オニキス・フィニッシュモード!』
再び背部から黒い翼が噴出し、それとともに右拳を思い切り引く。黒いオーラを帯びた鎌の刃はマキナ・シャインの右の肩関節から先を飛ばし、内部の
「なに……!」
「ビビってるのか?
「――ッ!」
マキナ・シャインはすぐさまステッキを左手で掴み、斬り飛ばされてもなお指が絡みついた己の右腕を振り払う。身体全体でステッキの先の竜巻をぶつけようとするのを予備動作で左にかわし、背後に回ったところで右の親指でレバーを右側に回す。
『オニキス・フィニッシュモード!』
左手の鎌の刃を拳の先へ回し、マキナ・シャインの左肩を腋から斬り飛ばす。彼女の左腕が哀れにも遠くへ飛び、捻った身体がバランスを崩して仰向けに倒れ伏す。
彼女はアスファルトの上で鱗粉の溢れ出す左右の断面を見回し、困惑しながら荒げた息を小刻みに吐き続ける。俺はそれを見下ろしながら二挺の鎌の刃を内部に畳み、左右を繋げて元通りの一本の太い弦――キラースティック――にして右手で振り上げる。
「これに懲りたら、ヒーローなんて二度とやめるんだな!」
『ダイヤ・
画面に指先を触れて、右にレバーを回す。俺と瓜二つの妖精ダイヤの低い声が冷淡に響く。
『ダイヤ・フィニッシュモード』
デバイスの音声とともに、多面的な透明の輝きを帯びたキラースティックを振り下ろす。マキナ・シャインの首元を潰すと全身が鱗粉として弾け飛び、かつて屋上前で見た長い黒髪の制服の女学生に変わる。
広野光は五体満足の身体で怯えたように顔を歪ませて、不意に顔を横に向けて手で口元を押さえはじめる。そのまま転がってよろよろとうずくまり、アスファルトの上に吐瀉物をぶちまけた。
吐瀉物は粘ついた液状で、ところどころ赤や緑の細かな彩りが見えて生々しい。挙げ句の果てには、長い髪で顔を隠してすすり泣きまで始めた。
『まったく、無様ね!』
『うわあ、汚い』
「まったく。天下のヒーロー様が路上で吐くなよ。下戸じゃねえんだから」
俺は鼻で嗤い飛ばし、踵を返してスパイダー・パーマーだった人間の方へ向かう。
汚いし、吐いてる相手からデバイスを奪いたくない。落ち着くまで時間がかかりそうだし、先の用事を済ませることにする。
近くに立つロボットを模した妖精チャペックのドラム缶に四脚のついたような寸胴な身体を見上げ、
「兄貴、こいつが妙な真似しないか監視を頼む」
『どうみてもできるようには見えないけど、了解ー』
「あと、いざとなったら本当に殺してやってもいいから」
『……それは、無いことを願うけど』
ゆったりした口調の機械音声が、苦笑したようにしながら言う。しかし、チャペックはすぐさま『ガトリング!』と声を上げ、両側面に一挺ずつ機関砲を再構築する。
バックルからデバイスを外しながら歩み寄って、スパイダー・パーマーのいた場所にたどり着く。妖精を回収するべく身をかがめようとした時、横から声が聞こえた。
「サンダー」
それは澄んだような女の声だった。
馬鹿な、マキナ・シャインはすでに潰したはずだ。俺が声のする方を向くと同時に、強い光とともに全身に強い痺れが走った。
ピシリと何かの弾ける音が遅れて聞こえた頃には、すでに俺の身体は自由を失う。右手からデバイスがこぼれ落ちたが、拾うこともできずにひざまずく。
『ちょっと、ダイヤ! どうしたの!』
「フォレスト」
それはフードで顔の上半分を覆っていた。外套が全身を覆っていて、手にはマキナ・シャインと同じ歯車付きのステッキを掲げている。
こいつは、何者だ。そんな問いを塞ぎでもするかのように、周囲で木々や草花が生い茂る。四方八方からの植物の蔓が全身を這っていき、四肢や胴や首を締め付けていく。
『おかしい。ここら一帯はアスファルトなのに、木が生えてきた』
パールが呑気に要らない分析をしたが、それどころではない。
方々からの蔓で手足を引かれてマリオネットのようになった俺の前で、距離を取って遠くに立つフードの女は外套のなかに手を突っ込む。
「テンペスト」
そう言うと、外套の中からカードを取り出した。スロットに差し込み、そのまま歯車を戻す。
テンペスト、つまりは「嵐」のことだ。俺の予想が正しければ、そいつは――。
ステッキの先で皿回しの皿のように水平に半透明の歯車が出現し、女はそれを振ってこちらに投げつける。飛ばされた歯車が嵐のように大きさを増しながら高速回転して、木々を巻き込みながら俺に向かってまっすぐ進む。無抵抗な俺の身体を胴から上下に斬り飛ばし、断面から粒子を撒き散らしながら俺を人間態に戻した。
制服のブレザーの上からベルトが弾けたように外れて、アスファルトに叩きつけられる。妖精による再構築は解除され、生成されたショットガンやキラースティック型
「誰だ、お前は……!」
「…………」
女は答えようともせずデバイスを懐に戻し、そのまま去ろうとする。
下手なことをすると、次は命を奪われる。それが分かって、指一本動かせなかった。
『チェーンソー!』
チャペックが脚部の駆動輪を走らせて、左右の側部を巨大な回転鋸に再構築させながらフードの女へ迫る。
「テンペスト」
女は歯車を往復させて再び半透明の歯車を飛ばし、嵐のように高速回転させたそれで寸胴な身体をたやすく切断した。
チャペックは一台のバイクと長身の青年――俺の実の兄貴――に戻り、地に倒れ伏した。
『ユキくん! 兄ちゃん、こんなやつ聞いてなかったんだけど!』
「今その名前で呼ぶな!」
『……ごめん、ダイヤ! とりあえず撤退しよう!』
デバイスの機械音声で喋る兄貴はグレーのバイクを立たせて走らせると、デバイスとベルトを回収した俺を拾い、後部座席に乗せてフードの女から距離を取る。
雨が強く降り続く。ブレザーは濡れて学校どころではないが、ある程度乾かせばどうにかなるか。
背後を見ると、女はこちらを追うようなことはなく、広野光の方に向かって歩いていた。
あいつは、何者だ。広野光と同じステッキを持つ奴の正体を、俺たちは確かめる必要がある。
俺たちにとって妖精は例外なく敵である。
知らない敵がいるならば、俺たちはそれも排除しなければならない。
*
私の身体に、あたり一面に、冷たい雨が容赦なく降り注いだ。
雨はブレザーを抜けてブラウスや下着まで濡らし、髪は肌にはりついていく。それはアスファルトに広がる吐瀉物を滲ませて、シャワーのように汚れた口元を綺麗に洗った。
先ほどのことが嘘みたいに私の身体にはかすり傷ひとつなく、腕だって首だって繋がっている。だけど何より悲しかったことは、これが私の普段からやってきたことだという事実と、私はもうヒーローを名乗っていい人間ではないということだった。
そんな私の目の前に、私と同じ歯車のステッキを持ち、フードで顔を隠した人が立っていた。
私はこの人を知っている。この人こそ、かつて私が憧れていたヒーローだった、
ヒーローとして現れたこの人は「シング・スノウ」と名乗っていて、失踪する日までずっと、私が望むたびにその姿を見せてくれた。カナデお姉ちゃんがどうやって変身していたかを知ったのはつい最近のことで、最初はまさかここまで大変なものだって知らなかった。
だけど、なぜここにいるの?
そんな疑問はあったけど、それよりも。
私はカナデお姉ちゃんのようにはなれないどころか、カナデお姉ちゃんの敵になってしまった。そのことが、情けなくて。
「……ごめんなさい」
私が言うと、カナデお姉ちゃんは相変わらず顔を隠しながら首を横に振り、懐からデバイスを取り出した。
「スパイダー」
いつか聞いたような、水のように澄んだ声。カナデお姉ちゃんは画面に触れたデバイスからカードを抜いて、私の前に差し出した。
私は意地になって首を横に振る。
「私は、カナデお姉ちゃんみたいなヒーローになれなかったから」
溢れ出たはずの涙は、降り続く雨に全て流されていく。
私はただヒーローに憧れていただけの迷惑で最低な凡人で、かっこよくもなれなくて、結局誰も幸せにできなかった。だけどそれ以外に私には何もなくて、ただ惨めにすがることしかできなくて。今だって、この先どこまで続くか分からないほどの未来の空白に怯えている。
拒んでからもカナデお姉ちゃんは変わらず、無言のままカードを差し出していた。
「……なんで、私にあんなものを渡したの?」
雨の中、震える腕で身体を支えながら見上げて問いかける。だけど、答えてくれたのは、あたりで雨の打ちつける音だけだった。
「私、ヒーローという大義名分で街を壊しまくってたんだよ。宿主のことなんて気にも留めずに妖精を殺しまくってるし、今日だって一般人まで巻き込もうとした。これじゃあ、私は他の妖精と同じで怪物――」
「ヒカルちゃんは、わたしに憧れてたのでしょう?」
カナデお姉ちゃんは、優しく言った。
そうだ。私はカナデお姉ちゃんに、シング・スノウに憧れていた。だから私は心の内面に憧れのヒーローの贋作を作って、妖精の依り代にした。
「確かに、見てたり聞いてたりして、少しやりすぎだなーって思うことは何度かありました。もうちょっと上手くやれないのかな、とも」
「……ごめんなさい」
「でも、せっかく得たチャンスでしょう。お願いだから、無駄にしないで」
「本当に、どうして私なんだろうって思うよ。私なんかがやらずに、カナデお姉ちゃんが代わりにやってくれさえすれば、私は……」
私は再び首を横に振って目の前のものを拒むと、カナデお姉ちゃんは屈んでから両手で私の顔を掴んで正面に向けた。頬に伝う涙や雨も全て拭って、濡れて張り付いた髪も整える。鱗粉の輝きを含む白銀の手袋に包まれた手は、とても滑やかでひんやりとしていた。
見覚えのあるフードの奥の銀色に光る瞳が、こちらをまっすぐ見つめていた。本当に、シング・スノウ――カナデお姉ちゃん――が目の前にいる。確かな実体を持って、生きている。
「わたしは当分、大きな干渉はできそうにないですから。いきなり何も言わずに、わたしの身勝手でこんな使命を課してしまって、それは本当にごめんなさい」
「どうして、私だったの?」
「ヒカルちゃんなら、きっとちゃんとヒーローをこなしてくれるだろうなと。そう、感じたのです――と、言えたらよかったんですけど……」
「……へ?」
呆気にとられるわたしに、カナデお姉ちゃんは苦笑する。
「実際は、ヒカルちゃんの夢を叶えたかったって、そんなわたしのわがままだったんですよね。結果として、ヒカルちゃん自身を傷つけることになってしまいましたが」
見つめる先の瞳が、ふと昏くなる。
違う。カナデお姉ちゃんは私の夢を叶えてくれただけで、それをふいにしたのは私自身で。
そして、今の私にはどうしようもなくて。
「カナデお姉ちゃんには申し訳ないけど、私にヒーローの素質はなかったってことだよ。私ひとりで背負うには、あまりに重い――」
「ひとりではないはずですよ。もうひとり、いるはずです」
「……さっきの甲冑?」
「違います。あれは他所の管轄のケース持ちで、わたしは関係してません」
即座に否定。よほど心外だった風な反応をしていた。
だけど、それを聞いて安堵した。少しだけ、カナデお姉ちゃんを疑ってしまったから。
「じゃあ、飛田さん?」
「そうです。あの子は、妖精化した人を救えるような、特殊な力を持っています」
「なんだ。だったら、飛田さんひとりでやれば――」
「あの子も、あの子の妖精も、ひとりでこんなことに関わろうとはしないでしょう。それに、ヒカルちゃんだって不本意なはずです」
「じゃあ、どうしろっていうの?」
「今までどおりのヒカルちゃんを貫けばいいのですよ。今度は、あの子と」
無理だ。
だって、飛田さんは。
この前のことを思い出しながら、首を振る。
「……私、ダメだったから。もう私が願っても、飛田さんはもう一緒になんてなってはくれないよ」
そう呟く私の声は、とてもかすれていた。孤独なんてもう慣れっこのはずなのに、今はなんだか、口にした事実がひどく恐ろしい。
ふと、ばしゃばしゃと何かせわしく水を跳ねる音が聞こえる。カナデお姉ちゃんは振り返ると、フードの隙間から見える横顔をぱっと明るくした。
「そうでもなさそうですよ」
にこりと笑顔のまま身体を退ける。視界の先に、赤い傘を掲げて、鞄を激しく振るように、私に向かって息を切らして走る飛田さんの姿があった。
思わず、目をみはった。
どうして。私は飛田さんを深く傷つけて、そうして二度と交わることはないと思っていたのに。
「先輩!」
飛田さんはフード付きの外套を纏うカナデお姉ちゃんを見て一瞬困惑しながらも、私に向かって声を張り上げる。
「なんだ。ちゃんと好かれてるみたいじゃないですか」
「……なんで私なんだろうって、思っちゃうな」
「ヒカルちゃんも、いつの間にか素直じゃなくなくなりましたね」
ふふ、と。カナデお姉ちゃんが小さく笑う。
先ほどとは違うような、内側から熱いものがこみあげる。気がつけば雨は少しだけおさまっていて、涙と雨の区別がつくほどになる。雨で涙を誤魔化して私も向かおうとしたのに、しゃっくりが全然止まらない。
「先輩! めっちゃびしょ濡れじゃないですか!」
「ほら、行ってあげてください」
「……っありがとう。それで、次はいつ――」
「きっと、またいつか。その時は、ヒカルちゃんのしゃんとした姿が見たいものです」
「……次は、何年後になるやら」
私は手の甲で顔を拭ってから、カナデお姉ちゃんの手からスパイダーのカードを受け取る。立ち上がって、アスファルトに散らばったステッキやアタッシュケースを拾って走り出す。
ペトリコールと雨滴の中を駆け抜けて、その先へ。
赤い傘を持って迎えてくれる、優しい君のところへ。
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