Episode 8 「愛する女の子の胸の内」

女の子の気持ち

 誠が自宅に辿り着いたとき、すでに深夜12時を過ぎていた。

 波風なみかぜさらのために救急車を呼び、重い足取りのまま自宅へと向かったのだ。

 誠は視線を地面に落としたまま、屋根付き門を潜り石畳の通りを抜け玄関に向かう。そして扉を開けた、そのとき


「誠!」


 突如名前を呼ばれ顔を上げてみれば、玄関の上がり框にユーリが立っていた。心配そうな顔で、誠の肩を抱いた。


「遅かったじゃないか! こんな時間までかかるなんて聞いてないぞ!」


 ――怒っている。誠はユーリの態度を見てそう思った。

 誠は弱弱しい視線をユーリに向ける。


「……ごめん。ユーリ。遅くなって」

「謝るくらいなら連絡の一つくらしてくれよ。せめて遅くなるって。じゃないと僕は……」

「本当にごめんね。ユーリ」


 誠は頭を下げ、靴を脱ぎ、そのまま自室へと向かおうとした。だが、ユーリが「なあ、誠」と誠の肩に手を置いた。


「誠、いったいどうしたんだ? 気分でも悪いのかい? 顔色が――」

「いや、大丈夫だよ。部屋に帰って休めば……」


 その場から離れようとする誠。だが、ユーリは腕を掴み引き留めた。


「誠、なにがあった」

「だから、なんでもないよ」

「いいや、ダメだ。話せ、誠」


 ユーリは真剣な眼差しを誠に向ける。ここまで真面目な顔をしたユーリを見るのは、誠にとっては初めてだった。


「ユーリ……」

「なあ、誠。お前は、僕に話してくれるって言ったじゃぁないか。それが今でないなら、いったい、いつだって言うんだ?」


 ユーリは優しく微笑んだ。


「紅茶でも入れよう。さあ、僕に話てくれ。全部じゃなくてもいい。話したくないことがあるなら、言わなくてもいい。言える部分だけでかまわない。だから……」

「ユーリ……」


 誠はユーリをジッと見つめる。

 10年近く一緒に一つ屋根の下で暮らす、血の繋がりのない同居人。兄弟のような間柄ではあるが、それでも戸籍上は、別の性を持つ男の子。


 ――夜神・ユーリエヴァナ・進

 誠にはユーリという存在を言い表すことはできない。だけど、いま抱いた感情は、まぎれもなく、家族に対してのみ許される「甘えてもいい」という気持ちだけだった。


「わかったよ。ユーリ。全部は話せないけど……」

「それでいいよ。誠。さあ、居間に行こう」

 誠とユーリは連れ立ち、長い廊下を歩く。




「…‥つまり。強制搾乳事件の犯人を追う過程で……小鷹さんを怒らせてしまった……と」

「うん。そうなんだ。それから……ごめん、詳しくは言えないけど、ある人を失望させてしまった」

「ふうん。なるほどね」


 ユーリは顎に手を当て、テーブルの上に視線を落とした。

 誠はユーリが淹れてくれた、少しぬるくなった紅茶を一口飲む。

 誠はユーリに対し、吸乳鬼のこと、ラミアのこと、そして被害にあった女子生徒のことは伏せている。大半を隠しているようなものだが、コレ以上は言えなかった。言ってしまえば、ユーリまでもが乳仮面所持者に襲われてしまう可能性を恐れたのだ。


「なあ、誠」


 ユーリが椅子に座り直し、腕を組んだ。


「これは僕からの提案なんだけど、とりあえず一旦、事件を追うのは止めてほうがいい」

「そ、それは」

「だってそうだろう。誠の話を聞く限りじゃあ、あの事件を追っていたからこそ小鷹さんを怒らせたようなものなんだろう? だったら、一旦事件のことは置いておいて、小鷹さんと仲直りをする方法を考えるべきだ」


 誠は「ううっ」と唸る。


 たしかに、吸乳鬼にまつわるアレコレを追っていたからこそ結衣を怒らせてしまったことは明白だ。だから反論の余地はなかった。


「なら、僕はどうすればいいのかな。結衣に謝るのはもちろんさ。でも、どうすればいいのかわからないんだ。喧嘩とはまた違う気がするし」

「そうだなぁ……」


 ユーリは数秒沈黙したのち、頷く。


「とりあえず誠。前提として、……その、小鷹さんは誠のために胸を大きくするよう努力していたんだろう?」

「うん。そのだよ。だけど、なんで怒ったのか僕にはさっぱり……」


 誠の言葉に、ユーリが苦笑した。


「誠。君は分かってないな。女の子の気持ちが。小鷹さんが怒っているのは、誠が小鷹さんの頑張りに気付いてあげられなかったからだ。女の子は頑張った結果も褒めてほしいけど、それ以上に頑張ったという過程を褒めてほしいものなんだ」

「え、そうなの?」

「そうさ。まあ、誠と小鷹さんは許婚の関係だから、その辺りのことに誠が疎いのは仕方ないさ。普通の恋愛じゃないからね。だからこそ、好きだとか愛してるって気持ちをもっと強く伝えたほうがいい」

「さすがユーリ! そういうことに詳しんだね」


 誠が感心した面持ちを浮かべる。対してユーリは肩を竦めた。


「ははっ。そうでもないよ。僕とはるかは、それこそ周りには知られてないだろうけど、しょっちゅう喧嘩しているからね。そのあたりの事は、彼女から学んだのさ。まあ、それはいいとして‥‥‥」


 と、ユーリは部屋の壁に吊るされているカレンダーをチラリと見た。


「小鷹さんを、来週の金曜日にある、昇さんとの食事会に誘ってみるのはどうかな?」

「……父さんとの食事会に……誘う? でも、なんでそんなことを……。それに結衣とどう関係があるんだい?」


 ――食事会。

 たしかに、来週の金曜に父が単身赴任先から帰宅することは、先ほど家を出る際に、ユーリから聞いていたことだった。だけどそのことと、結衣にどんな関係があるのか。


 誠が不思議そうな顔をすると、ユーリが渋そうな顔になる。


「誠。気を悪くしないで聞いてほしい。僕は昇さんにお世話になっているし、尊敬もしている。でも、あの人は政治家なんだ。正直なところ、小鷹さんと誠が許婚であることだって、そういう政治絡みの一部だってことは、誠も分かっているはずだ」

「そ、それは……そうだけど」


 誠は小さく頷いた。

 誠は父である昇を尊敬している。だけど同時に、昇が背負っている地位というものも理解しているつもりだ。そして基盤だとか地位だとか付き合いの延長線上に、小鷹結衣という許婚がいることも。

 ユーリが咳払いをする。


「それで、誠。怒らないで欲しい。もしかすると、いつかどこかのタイミングで昇さんが……誠と小鷹さんの許婚の関係を解消するって可能性もある」

「そ、そんなことっ!」


 誠が腰を浮かせると、ユーリがそれを手で制した。ユーリは誠を見据える。


「可能性の話だよ。そしてそれはきっと、小鷹さんだって分かっているはずだ。だからこそ、今度の食事会に小鷹さんを呼んで……」


 ユーリが優しく微笑んだ。


「昇さんに……『僕たちは絶対に結婚します』って感じで宣言してしまえばいい。そうすれば、言い方は悪いけど昇さんへの牽制にもなるし、なにより、許婚を解消されるかもって不安を持つ小鷹さんを安心させる、最大限の愛の告白になるんじゃぁないのかな」

「愛の……告白」


 誠はコクリと喉を鳴らした。

 たしかに誠は、結衣に対して、そういう「好き」という気持ちを述べたことがなかった。ましてや愛というものを伝えたこともない。なぜならそこに当たり前のように存在している許婚という関係があったから。


 誠はユーリをジッと見つめる。


「たしかに、僕には結衣にそういう……好きの気持ちを伝えてことが少ない……いや、ないと言ってもいいかもしれない。…‥‥そっか。そっか……」

「うん。それで、もし誠にその気があるなら、僕は手伝うよ。昇さんには僕から美味いこと言っておくからさ」


 誠はしばらく考える素振りを見せたのち、こくりと頷いた。


「わかった。ユーリの提案を受け入れるよ。ありがとうユーリ。父さんの前で、ちゃんと結衣に好きって気持ちを伝える」

「OK。それじゃあ、そのつもりで事を勧めよう。あと、小鷹さんにも僕から伝えておく。実際は誠が声をかけるのが筋だろうけど……まあ、僕に任せてくれ。君は、ちょっと真っすぐすぎるからね」

「ははっ。その通りだね。ありがとうユーリ。何からなにまで」

「いいさ。僕と君の仲じゃないか」


 ユーリはティーカップを持ち上げ、紅茶を一口すすった。


「ただし、さっきも言ったけど、小鷹さんと仲直りするまで、事件を追うのはやめておこう。でも仲直りした後のことは、僕はなにも言わない。ただ、本音を言えばあの事件の調査は警察に任せて、大人しくしておいて欲しいけれどね」

「うん……わかった。ユーリ。大人しくしておくよ」


 そうして誠はその後、ユーリとたわいもない会話をして自室へと引き上げた。

 誠はベッドに腰を下ろし、大の字に寝ころぶ。


「……結衣」


 許婚の関係に甘んじていた彼女の名前を、誠は囁く。

 ――いままでごめん。

 でもそれはきっと、本人に伝えるべきことだ。誠はそう思い目を閉じた。




 翌日から誠は、平穏な学校生活を送ることになった。

 朝起きて学校に登校し、授業を受け、自宅に帰り勉強する。その繰り返しだった。父である昇との食事会がある来週の金曜日まで、大人しく過ごしていた。

 ただ誠は、その数日の間、学校で小鷹結衣に出会えば気まずそうな顔を浮かべてすれ違い、尺取さだめの姿を見かけると身を隠した。

 また、乳仮面所持者によって吸乳鬼にされた女子生徒、土倉あやこと雨宮こころ、そしてその2人に襲われた女子生徒たちが病院から退院し、学校に通うようになったことも風の噂で聞いた。

 それにともない学校では、強制搾乳事件の話題が下火になってゆき、生徒も教師も、そして井ノ原町の住民も楽観視し始める。「もう、あの事件は起きないだろう」と。

 だが、人々があの事件を忘れていく中で誠は思うのだ。

 きっと、あの乳仮面所持者はまた事件を起こすと。再びびあの乳仮面を用い、吸乳鬼を作り出すであろうと。

 しかしそのことについて議論できる人物は、あの日以来、影から姿を現さないままだった。


 そうして誠は、食事会当日を迎える。

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