Episode 3 「血と乳の宿命」

天道家という一族

 誠が自宅に到着した頃には、すでに21時を回っていた。

 あの後警察に連絡を入れ、誠は現場で事情聴取を受けた。だが、自分が体験したことをそのまま喋ってはみたものの、警察は取り合ってはくれなかった。また、特に怪我をしていることもなかったためか、そのまま自宅へ帰るように指示されたのだ。


 ……父さん。怒っているかな。


「天道」という表札が掲げられた、屋根付きの門。その門の向こうには松の葉が覗き、そのさらに奥には日本家屋が鎮座している。何百以上前も前に建てられた、大きな屋敷だった。

 誠は自宅を眺めて一呼吸を置き、戸に手を掛けた。そのとき。


「誠!」


 戸が一気に放たれ、焦った様子の、着流し姿の中年男性が姿を現した。

 面長で堀が深いその顔付きは、誠とよく似ている。だが反面、身体付きは誠と真逆の華奢な体型をしていた。


「父さん! ご、ごめんなさい。遅くなってし――」


 その中年男性が誠に抱き付いた。


「いいんだ! 事情は警察にいる知り合いから聞いている。それより無事でよかった。乳房を吸われたと聞いていたから心配していたんだ。なにも、異常はないのか?」

「大丈夫です。父さん。僕のおっぱいは無事です。母乳は……少し吸われてしまいましたが」

「そうか……可哀そうに。すまない。なにもしてやれなくて……」


 中年男性は誠を強く抱きしめ、背中をさする。その温もりに誠は息を漏らし、そこでようやく肩の力を抜いた。


 天道てんどうのぼる

 誠の父親にあたる人物であり、ここ井ノ原町で旧家として名の通る、天道家の現当主であった。温和で温厚。紳士的で謙虚。この町では、多くの人から慕われる存在だった。


「父さん。とりあえず、家に入ろうよ」

「うむ。そうしよう。そうだ、誠。お腹が空いているだろう? ご飯にしよう」

「え?! 僕のことを待っていてくれたんですか? そんな……先に食べてくれたらよかったのに」

「なにを言ってるんだ。久しぶりに一緒に食事ができるんだ。待つに決まっている」


 誠と昇が門前から中に入り、石畳の上を歩くと、ペタッペタっという音がした。

 誠は昇の足下に眼を向ける。すると、着流しの裾から覗く素足があった。裸足だった。


 ……きっと、玄関で僕の帰りを待っていたんだ。気配がして、急いで飛び出したから、靴を履いていないんだ。


 誠はそのことで、父がどれだけ心配していたかを思い知った。だけど、無理もない。なぜなら……


「誠。テーブルに付く前に、母さんに挨拶してきなさい。母さんも、きっと心配していたはずだよ」

「分かりました。先に、仏間へ行ってきます」


 玄関で足裏の汚れをはらっている昇を置いて、誠は仏間へと向かった。襖をあけて中へ入り、仏壇の前で正座する。顔を上げれば、開け放たれた外扉の奥に写真立てがある。その写真に写るのは、笑顔を浮かべる一人の女性。肩下まで伸ばした黒髪が美しい女性だった。


「母さん。ただいま。ごめんね。心配かけて」


 誠はりんを鳴らしてから線香を立て、合唱した。


 天道スイ。誠の母であり、昇の妻。誠が7歳の頃に病気で他界している。

 だからこそ誠には、父である昇の心配が大げさだとは思えなかった。自宅にいない時間のほうが多いが、それでも男手一つで息子を育てていることには変わりないのだから。


「母さん。僕ね。今日はおっぱいのことで結衣と喧嘩しちゃったんだ。それから……もう色々なことがあって大変だったよ。すごく疲れた。ああ、こういうときは、子供の頃みたいにお母さんのおっぱいを吸いたいよ。母さんのおっぱい、美味しかったな」


 誠は今日あった出来を遺影に語り掛けたのに、仏間を後にする。

 その後、洗面所に立ち寄ってから手を洗い、いつも食事をしている部屋へ向かっていると、良い香りが漂ってきた。誠はそのまま部屋に入る。


「待たせてごめんなさい。父さん……それと……」


 誠が顔を巡らせると、食卓についている昇の姿があった。

 そしてもう一人。誠と同い年くらいの男の子が席に座っていた。


「ユーリもごめんね。遅くなって。……あれ? ユーリの分は?」


 テーブルの上になるのは、2人分の料理。

 昇の席の前に一つ。いつも誠が座っている席の前に一つ。

 だが、ユーリと呼ばれた男の子が座る席に食事はなかった。その代わり、コーヒーカップが置かれている。


「――いや、僕は先に食べてしまったんだ。誠」


 ユーリはコーヒーカップを持ち上げ一口煽った。


 夜神やがみ・ユーリエヴァナ・しん

 誠以上に堀が深い顔つき。大きな眼に、高い鼻。この国では珍しい顔立ちをした、どこか異国を思わせる顔つきだった。

 もちろん、ユーリとは愛称だ。

 母方の先祖にロシア方面の人間がいた。その人物が帰化した際、アイデンティティの一部として、ユーリエヴァナという父称をミドルネームとして残した。

「それが愛称の元だ」そう誠はユーリから聞いている。


 ユーリはコーヒーカップを置き、テーブルの上の料理を指し示した。


「さあ、誠。ご飯を食べなよ。昇さんも長い時間待っていたからね。それに今日の料理はけっこう時間を掛けて作ったんだ」

「わかった。今日もありがとう。ユーリ」


 誠が席につくと、それにともない昇も食事を始める。

 豪華な食事だった。和洋折衷の料理。誠には眼の前の料理名は分からない。だけど、どれもこれも美味しい。


「んんっ! 美味しい! さすがユーリだね。とっても美味しいよ!」

「確かに美味い。さすがユーリだ。いつもすまない。誠のために美味しい料理を作ってくれて」


 昇は嬉しそうな顔をユーリに向けた。するとユーリは「いえ、そんな」と首を振る。


「僕はこの家にお世話になっている居候ですから。これくらい当たり前のことです。でないと、母さんに合わせる顔がありません」


 そう言ってユーリは軽く頭を下げた。

 ユーリの存在を一言で言い表すなら、天道家の「居候」ということになる。

 今から10年程前。ユーリは父を亡くし、その後すぐに母を過労死で亡くした。身寄りもなく、ユーリは施設送りとなる予定であったが、ユーリの母と交友があった天道昇が引き取ったのだ。

 

 すると昇が少しばかり苦笑する。


「ユーリ。気にしなくていいんだ。私は君のお母さんと約束した。あの人には色々とお世話になったからね。だからユーリ。昇さんという言い方は止めて……父さんと呼んでくれないか。それに‥‥‥キミさえよかったら養子にする手続きも」


 昇が期待を込めた眼を向ければ、ユーリがたじろぎ、椅子に座り直した。


「し、しかし。……それはさすがに」

「気が向いたらでいい。それに、ユーリの気持ちは私にもわかる。私も……君と似たような境遇さ」

「この家の……天道家のお婿、だからですか?」

「そうだ。私はこの家に婿入りした人間。だから君と同じさ」


 昇は優し気な眼をユーリに向けた。そしてユーリもまた、照れくさそうに笑う。

 だが誠は、そんな2人を見て少しだけ疎外感を感じた。


 天道昇。旧姓、東雲しののめ。東雲というのが、昇の元の苗字だ。昇は、天道家の一人娘であった天道スイ、つまり誠の母と結婚して天道性となった。そういう経緯を昇は持っている。だからこそ、ユーリにああ言う言い方をしたのだ。


「それは……わかっています。でも……それとこれとは話が違うはずです。僕の場合は、僕の母が昇さんと関わりがあっただけですから」


 ユーリは、誠をチラリと見た後、眼を伏せてしまう。対して誠は「そんなことないよ」と首を横に振る。


「ユーリ、僕と君は兄弟みたいなものじゃないか。もし君が本当の兄弟になってくれたら僕はとっても嬉しいよ」

「ありがとう、誠。でもその場合、僕が誠のお兄さんになってしまうけどいいのか? 僕のほうが誕生日早いからね」

「ああっ! そうだ! 僕が弟になるんだ!」


 すると、その様子を見ていた昇が噴き出した。


「ははっ。それらしいじゃないか。誠が弟で、ユーリが兄。本当の兄弟みたいだ」

「ひどいです父さん! どういう意味ですか?!」


 その誠の反応に昇はさらに笑い、それにつられるようにしてユーリも、そして誠も笑い出した。それからしばらくの後、3人はお喋地に興じながら食事を平らげた。


 と、そこでユーリがコーヒーカップを指ではじき、神妙な面持ちを浮かべた。


「ところで誠。君は大丈夫なのかい? 昇さんから聞いたぞ。乳房を……吸われたって」

「ん? 大丈夫さ。ちょっと母乳を吸われただけだ。大したことはないよ」

「そうか。それはよかった。それにしても、誠もあの事件の被害に合うなんて」


 ユーリは腕を組みアゴに手を当てる。すると、昇が「ふむ」と頷いた。


「強制搾乳事件。父さんのところにも話が上がってくるよ。そういえば、警察の人はなにか言っていたか?」

「いえ。コレと言って知ったことはありません。それに僕は怪我もなかったので、詳しくは後日事情を聴きにくるそうです」

「そうか。しかし、それにしても変な事件だ」


 昇は煙管箱からキセルを取り出し、火皿に茶色の煙草葉を詰め込んだ。

「そういえば……」と昇はマッチで火をつけ、吸い口から深く息を吸う。そして白濁色の煙を吐き出した。


「まったく関係ないだろけど。……私のお爺さん。というより、妻のお爺さん。つまり、誠から見てひい爺さんが、昔、妙なことを言っていたよ」

「妙なこと?」


 誠とユーリが怪訝そうな顔をすれば、昇が肩を回した。


「誠もユーリも知っての通り、天道家は昔、この土地の領主の補佐を務めていた。そして、これは話していなかったが……」


 昇が宙に視線を飛ばした。


「妖怪払いの類の仕事もしていたそうだ。特に幕末の頃、天道家の人間が全国を飛び回り、ある妖怪を退治していた。そう、ひいおい爺さんは話していたよ」


 昇は再び煙は宙に吐き出した。誠はその白濁色の煙から、先に見た大量の母乳を思い起こす。


「その妖怪は……なんでも女性の母乳を吸いつくす妖怪であったらしい。ただ、私も気になって調べたことがあるが、山地乳のような乳の名の付く妖怪や、人の精気を吸いとる妖怪は多いが、母乳を吸う妖怪は見つからなかったんだ」


 母乳を吸う妖怪。その単語に誠はゾクリとした寒気を感じた。今日遭遇したあの化物。警察に説明しても信じてもらえなかった、あの出来事。アレは自らをなんと呼んでいただだろか。

 誠は昇に対し、そっと視線を向けた。


「父さん。その妖怪。名前とかあるんですか?」

「ん? 名前か。たしか…‥吸乳鬼。赤い眼が特徴の妖怪。そう、ひいお爺さんは言っていたよ」


 ――カン。と、昇がキセルを灰皿に打ち付け、灰を落とした。

 誠はその動作を眺めながらコクリと喉を鳴らす。


 ……同じだ。あの女子生徒は自らを吸乳鬼と呼んでいた。それにあの赤い眼。その特徴と、父が話した妖怪の特徴は一致する。あの吸乳鬼はいったいなんなんだ?

 すると、それまで沈黙を守っていたユーリが「へえ」と口を開いた。


「吸乳鬼……ですか。確かに僕も妖怪の類の本を読んだことはありますが、そんな名前の妖怪は聞いたことがありませんね? でも、まさか本当にいたわけではないでしょう?」


 昇が頷き首肯する。


「その通りだ。これは大昔のおとぎ話。ひいお爺さんも本気で言っていたわけではないだろう。ただ、天道家が妖怪退治の仕事は本当にしていたらしい。現に、それらしき道具が家の蔵に残っていたりする」

「僕も蔵の中を見たことはありますが、たしかにヘンテコな道具がありましたね。あれはそういうことでしたか」


 ユーリは納得したような顔を浮かべた。


 すると昇が「まあ、それはいいとして」と咳払いをした。


「誠。ユーリ。私は明日の朝、早く家を出る。また、当分の間は帰ることができないから家のことは頼んだぞ」

「そんなっ! 父さんはさっき帰ってきたばかりだ。もう少しいたらいいのに!

「そう言ってくれるのは嬉しいよ誠。でも私も仕事が忙しいからね」


 昇から苦笑を向けられた誠は、小さく肩を落とした。

 ――政治家。

 それが父である昇の仕事だ。厳密に言うのであれば県議会議員。

 天道家の自宅がある井ノ原町は、一応、県庁所在地のある市に含まれている。だが、交通の便が悪く、昇は市内の中心部に家を借りそこに住んでいる。だから今日のように時間の余裕を見ては単身赴任先から帰り、誠とユーリと共に食事をする。そして次に朝早くに家を出るのが常だった。


 だからこそ誠は残念がる。だが、今日だけは別に意味合いもあった。父がいる間に、先の話をもう少し詳しく聞いておきたかった。


「父さん。さっきの吸乳鬼の話。ひいお爺さんは他に言ってませんでしたか?」


 すると昇は意外そうな顔をする。


「どうした? やけに聞きたがるな? しかし……ほかにと言われても……」


 と、そのとき。


『――私が教えてやる』


 突如、誠の頭の中で声が響いた。その声は、あの緑髪の少女の声だった。


「え、な、なにを言って」

『私が教えてやると言っている。その吸乳鬼について。だから、これ以上口を開くな。眼の前の2人がおかしな顔をしているぞ?』


 あっ、と誠は気が付く。顔を向けてみればそこには怪訝そうな顔をしている昇とユーリの姿があった。


『早くお前の部屋に戻れ。話をしてやる』


 頭の中で響くラミアの声はそこで途切れた。

 誠は「なんでもないです」と昇とユーリ弁解し、すぐに席を立った。


「すいません。お父さん。今日は疲れてしまったので部屋に戻って休みます」

「そのほうがいい」と、ユーリがと首肯した。

「疲れているなら休んだほうがいい。食器は僕が洗っておくよ。そうだ、昇さん。食器を洗うのを手伝ってもらってもいいですか?」

「え? あ、ああ。もちろんいいとも。家のことが出来るのはこういうときだけだ。喜んで手伝うよ。ユーリ。じゃあ、誠。しっかり休みなさい」

「はい、おやすみなさい。父さん」


 誠は部屋を出て、足早に自室へと向かった。

 障子から漏れ出た光が、誠の足下に影を落とす。その影が少しだけ動いたように見えた。

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