Episode 1 「おっぱいセラピー」

強制搾乳事件

 天道誠てんどう まことは真っ暗な場所にいた。上も下も横も全てが真っ暗だった。

 だけど、自分の姿だけはハッキリと見る。でも、自分がどこにいるのかわからない。


『お前に私の声は聞こえるか?』


 誠は誰かに呼びかけられる。女の人の声? でもどこから?


『聞こえます。それより、ここは?』

『ここは私の部屋……というより、お前自身の中でもある』

『僕の中?』

『それを説明するのは時間がない。が、一つ言えるのは、お前にはそういう力があるということだ』

『……力?』


 それはなんですか? 質問しかけて誠は口をつぐんだ。

 今更だが、こんな得体の知れない人間と話しを続けるなんておかしい。可笑しい……。そう考えてしまったからこそ気が付く。この真っ暗な空間はなんだ。この女性は誰だ。そもそも、こんなことは現実でありえない。ああ、そうか。現実。これは現実ではない。


『夢……なんですか』


 女性は小さな溜息を付いた。


『ああ、気が付いてしまったか。なら、仕方ない。一つだけ、私の願いを聞いてもらおう』

『願い? 聞いて貰う? でもこれは夢だから――』

『いいや、夢じゃない。少なくとも、私とお前にとってはな』


 その瞬間。真っ黒な空間から細い手が飛び出し、誠の胸部をガッチリと掴んだ。


『少しもらうぞ』


 続け様に人間の頭部がぬっと姿を現す。色白の幼女の顔がそこにあった。

 その幼女は口を大きくあけ、ガブリ。誠の乳首に吸いつく。

 ブシャアアアアアアッ! 誠の乳首から母乳が噴き出した。


「うわあああああああああああ! 僕の母乳がああああああああああああ! ……あれ?」


 誠は自分が立ちあがっていることに気が付く。

 見慣れた教室で、見慣れたクラスメイト達から受ける、見慣れぬ視線。

 誠はすぐに理解する。授業中、居眠り、寝言、そのあたりのことであろうと。

 事実、誠を見ていたクラスメイト達は一瞬の沈黙の後、笑い出した。「母乳って……」とクスクス笑い合う声はまだ良い方だ。「気持ち悪っ」と露骨な言葉を放つ女子生徒もいれば、「誠君は乳離れできてないのかなぁ?」と揶揄う男子生徒もいる。

 だがそこで、コホンと咳払いが響く。

 誠がそちらに視線を向けると、教卓にて化学教師の岡信之おか のぶゆきが呆れた顔をしていた。


「天道。そんなにおっぱいが好きか?」

「すいません。でも、変な夢をだったんです。僕が小さな子におっぱいを吸われる夢で、僕のおっぱいが、おっぱいが、おっぱいがあああ!」

「わかった、わかった。おっぱいおっぱい言うな」

「岡先生もおっぱい言い過ぎー」と女子生徒がちゃちゃを入れ、笑いが起きた。


 岡信之。誠が所属する2年C組の担任であり、かつ、現在6時間目の化学の授業を受け持っている。生徒からの人気も高く、その理由は親しみやすさと温和さにあった。「なのに、そんな先生にこんな顔をさせるなんてどんだけよ」というのが2年C組の生徒が天道誠に抱く感想だった。


「あのな天道。俺の授業だけならまだしも、別の先生の授業でも今と同じことをしたって聞いたぞ。お前、色々と大丈夫か?」

「大丈夫です。問題ありません。僕はおっぱいが好きなだけです。だから問題ありません」

「問題しかない気がするが……まあいい。ああ、そうだ。おっぱいおっぱい言ってたら思い出した。あのな皆‥‥‥」


 と、教室前方に設置されたスピーカーからチャイムが鳴り響いた。

 ――授業終了。生徒達は机の上のものを片付け始めるが、「あー、このままHL始めるからそのままで」と岡が声をかける。


「えっとな。特に伝えることもない。って言いたいけど。……あの事件。また被害者が出た」


 瞬間、教室全体がザワッと波立った。その後、2年C組の生徒達は口々に言葉を発する。ある者「またかよ」と呆れ、ある者は「やだ怖い」と慄き、ある者は「もう嫌」と恐怖する。


「先生、もしかして。また、ウチの生徒ですか?」


 窓際の席に座る女子生徒が、腕を抱え込むようにして質問した。


「そうだ。どこの誰とは言えないがウチの生徒だ。昨日の深夜帯、コンビニに出掛けた帰り道に襲われたそうだ」

「酷い。あんなこと……あんなことをするなんてどうにかしてる」


 岡に質問した女子生徒は腕をさすり、首を振る。すると今度は、その隣にいた男子生徒が険しい顔で問う。


「なら。先生。その子も……アレを吸われたんですね」

「ああ、そうだ。その子も……その子も……」


 声を詰まらせ、唇を噛んだ後に岡は言った。


「おっぱいを……おっぱいを吸われていたッ! 母乳を、吸い出された!」


 岡の言葉に、いままで静観していた天道誠はゴクリと唾を飲み込んだ。


 ――強制搾乳事件。


 現在、ここ井ノ原町でもっとも話題性の高い事件であり、同時に、この町の高校生にもっとも恐れられている事件だ。


 始まりは4月頭。夜道にて女子生徒が、何者かに胸部を吸われた。当初人々は「春先に出没する変な人」による犯行だろうという見方を示していた。いわば、ありがちな強制わいせつ事件の一つであろう。だが、その予想はすぐに覆される。

 それから立つ続けに、女子生徒が何者かに胸部を吸われたのだ。4月から始まり、現在5月中旬までに被害者は5人。しかも、ただ胸部を吸われていたのではなく、母乳を搾乳されていたのだ。産後でもない女性からどうやって母乳を? それが多くの人間が抱く疑問であり、同時に、この事件を奇怪なものにしている原因だった。「おっぱいを吸うなんておかしいよ」と。


 だが、天道誠は思うのだ。おっぱいを吸うのは……おかしいことなのかと。

 悪いのは無理矢理おっぱいを吸う事件の犯人であって、おっぱいを吸いたいという気持ちは誰もが持っているはずだと。


 岡は締めくくるようにして「とにかく」と口にする。


「とにかく、深夜帯の不必要な外出は避けること。深夜徘徊にひっかかるってもあるけど、それ以上にこの事件が解決するまでは気を付けてくれ。……以上、解散」


 岡は教室を出て行き、生徒達も帰宅のため、部活のために行動を起こす。だが、そんな彼等の視線は、意識は、自然と天道誠に向かっていた。


 こいつが……この天道誠があの事件の犯人じゃあないのか?


 ここ私立心学館しんがくかん高等学校にて、誠は無類のおっぱい好きとして名を馳せている。その原因は、曰く、女子生徒と話すときにおっぱいしか見てないからとか。曰く、本屋で女性用下着の雑誌を購入していたとか。曰く、内ポケットにブラジャーを忍ばせているのを見たことがあるとか。

 むろん、誠も周囲からどのような眼で見られているかは知っていた。


 でも僕は……僕は犯人じゃない!


 誠は鞄を手にとり、逃げるようにして教室から出て行こうとした。だがそこで、とある女子生徒のソレが眼に付く。教室前方の出入り口付近でお喋りをしている、2人の女子生徒のうちの一人。


 乳原ちちはらはるか。

 たわわに実ったおっぱい。そのおっぱいを象徴するかのような、優しい微笑みを携えた口元。ポーニーテールが特徴的な女の子だ。

 誠はワケあって、彼女と縁があった。縁があるからこそ言わずにはいられなかった。


「乳原さん。ちょっといいかな」


 はるかは、怪訝そうな顔で誠を見た。


「なに天道くん? 進くんからの伝言とか?」

「今日は違うよ。それに、別に大したことじゃない。ただ言いたかったんだ。……乳原さん。ブラジャーのサイズ、合ってないと思うよ」

「は? ……はあ?!」


 はるかの大きな声のためであろう。教室にした全員が誠とはるかに視線を向ける。


「だから、乳原さんのブラジャーのサイズが小さいんだよ。乳原さんはおっぱいが大きいし、最近はもっと成長している気がするし、もっと大きなブラジャーにしないと……はっ!」


 しまった。と、誠は気が付く。また、やってしまった。おっぱいのことになると見境がなくなる。

 はるかは恥辱にまみれた顔で、憤怒した。


「最っ低! 天道、アンタ最低! なんでそんなに私のおっぱいのことに詳しいの?! おかしいんじゃないの?」

「ち、違うんだ。僕はおっぱいが成長を妨げられているのを見ていられないだけなんだ。乳原さんのおっぱいをいつも見ているけど、別にやましい気持ちでおっぱいを見ていいたわけじゃなくて……」

「おっぱいおっぱい、うるさい! そんなだから事件の犯人だって言われんのよ!」

「そんな。僕は無実だ! 犯人じゃない! 確かにおっぱいも母乳を好きだけど、犯人じゃない! 信じてくれ! 僕のどこに疑う要素があるっていんだ!」


 誠は教室全体に向かって両手を広げる。その様は無抵抗の意思を示しているかのように思えた。だが、クラスメイトから誠を援護する言葉が発せられることはなかった。ただ一様に、みんな誠を冷たい視線を向けていた。それが誠に突き付けられた答えであった。


「そんなっ! なんで信じてくれないんだ! 僕は可笑しくない! 犯人じゃない!」


 誠は教室を飛び出した。

 なんで……なんで誰も信じてくれないんだ。僕は、僕は犯人じゃない!

 そうだ。こんなときは。こういうどうしようもないときは。

 誠は懐から携帯電話を取り出し、メッセージを送る。すると、すぐに返信が来た。あの人は図書室で待っているらしい。


 こういうときは、彼女におっぱいを吸わせてもらって気分を落ちつけよう!

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