影ふみのワルツ
「猪野先ぱ、あっ、すみません、今は沙織ちゃんですね……」
「いいよ、俺達二人だけなんだから、猪野先輩で大丈夫」
夕刻の乾いた空気を頬に感じながら、俺はそう告げた。
半歩先を行く少女の影が、田んぼのあぜ道に長く伸びるのが見える、
手にはリードが握られ、その先にもう一つの小さな影
ピンと立った耳、くるりとカールした尻尾が激しく揺れる、
「ワン! ワン!」と柴犬の元気な泣き声が響く。
「弥生ちゃん! 結構引っ張られてるけど平気?」
そう、俺は弥生ちゃんと犬の散歩に出掛けているんだ、
「大丈夫ですよ、こう見えても力持ちなので……」
弥生ちゃんの華奢な身体からは想像もつかないが、
確かに俺よりも、犬の扱いに慣れているみたいだ、
「弥生ちゃん、動物好きなんだね……」
「そうなんです、子供の頃から犬も猫も大好きだったんですが、
団地住まいが長かったので、ペット禁止で悲しい想いをしました……」
「中学の時、今の家に越してから、ワンちゃんをお迎え出来て
今は家族の一員なんですよ!」
弥生ちゃんが、愛おしそうに柴犬に視線を落とす。
と言っても、この柴犬が弥生ちゃんの愛犬ではない、
実は花井姉妹の家で飼っている柴犬なんだ、
合宿一日目の夜、歴史研究会の部員で役割分担を決めた、
食事担当、お風呂の準備、泊まらせてもらう各部屋の掃除、
その中で、俺と弥生ちゃんは花井家のワンちゃん散歩係に任命されたんだ、
とても可愛らしい柴犬の名前は邦丸、犬好きなら共感してもらえるが、
柴犬に限らず、子犬の愛らしさは反則だ、その愛くるしさに、
作業の手が止まってしまうので、散歩に連れ出したと言うのが本当の所だ。
俺も動物は大好きだ、家では愛猫のミュウを飼っているが、
犬も好きだ、良く猫派、犬派、どっち!みたいな話をするが、
どちらか一方なんて決められない……
「でも、嬉しいかも……」
「えっ、弥生ちゃん、何が嬉しいの?」
「ワンちゃんのお陰で、先輩と二人っきりになれたから……」
彼女が照れくさそうに微笑んだ、その頬を傾き始めた夕が
オレンジに染めた……
「弥生ちゃん……」
俺は既視感を覚えた、前にも見た風景だ、
そうだ! 弥生ちゃんに告白された、あの屋上でも、
夕日の反射が眩しかったっけ。
あの時の彼女を、俺は懐かしく思い浮かべた……
一生懸命さは、今でも変わらない、いや、変わらないどころか、
前にも増して俺の事を想ってくれているんだ。
内藤純一の肖像画、その謎を追いかけたタンデムツーリング、
その帰り道の二度目の告白、
さよりちゃん奪還作戦の時、あきらめかけた俺を叱責した芯の強さ、
女装に躊躇していた俺の背中を押してくれたやさしい手、
俺の中に感謝の念と、彼女への愛しさがこみ上げてくる。
「弥生ちゃん、あのね……」
「えっ、猪野先輩、何ですか?」
俺は素直に自分の気持ちを話すことが出来た。
「いつも、こんな俺の事、見守ってくれて、本当にありがとう……」
ショートボブの毛先がいつものように揺れた、
違うのは、その表情が驚きに染めあげられた事だ。
「そんな事ありません、私が勝手に先輩の事……
見ているだけで、本当は迷惑じゃありませんか?」
ぎゅっ、と身を強張らせる彼女、
「ああ、迷惑だよ……」
「えっ!?」
予想外の言葉に自分で驚く、
「逆に迷惑を掛けているのは俺なんだ、
それと最近、二人の時間を取れなくてごめんね、弥生ちゃん」
なにせ、女装中の身だ、前みたいにデートとはいかないよな。
本心から彼女に詫びたいと思った。
「猪野先輩……」
「何?」
「呼んでみただけです……」
弥生ちゃんが慌てて横を向く、
「弥生ちゃん、どうかしたの?」
彼女の顔を覗き込もうと近くに寄る、
「駄目です、こっちに来ないでください……」
珍しく強い口調で拒絶された、と思った。
「今、先輩に顔を見られたら恥ずかしいから……」
片手で顔を覆い隠すような仕草を見せる。
「私、ニヤニヤが止まらない……
おかしいですよね、猪野先輩の言葉でこんなになっちゃうなんて」
覆い隠した腕の下に覗く口元が緩んでいる、
大好きな女の子が笑顔になってくれた、それだけで十分だ。
急に立ち止まった俺達を、犬が不思議そうな顔で見上げていた……
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