九尾の姉妹と真宵

 いつまでも永遠に離れることはないと思っていても、母のように、いつかは自分の元からいなくなってしまうのがとても怖く、千狐は目が覚めると、必ず姉の京狐に抱き着いていた。


 陽の光が差し込み始め、目が覚めたと同時に姉の姿をおぼろげな視界で見つけようとしたが、すでに床から出ていた。


「姉上ぇ? 何処どすぅ?」


 妹の声が耳に入り、京狐は朝食の支度を途中にして床の間へ足を延ばした。


「何や? どないしたんや千狐?」


 しびらの袖で手を拭きながら床で目を擦っている千狐の元へ腰を下ろし彼女の頭を撫で始めた。


「姉上ぇ、ウチが起きるまで何処にも行かへんでおくれやす」


「何言うてるん? ほな、千狐起きた時、すぐご飯食べられへんやろ? ほんでもえぇんの?」


「それは嫌やぁ」


 そう口にして京狐の腰に抱き着いた千狐は、姉から漂う蒸した米と魚の焼けた匂いを嗅いでお腹を鳴らした。


「ほな、着替えてご飯食べよか」


「うん!」


 今まで食事を作ったことなどなく、まして褶という身分の低い女房が着る服を着ることにも最初は抵抗があった。


 自分たちの身の回りを世話してくれる女房役を申し付けられた真宵まよいに料理の作り方を教わるのに、やはりはかまが汚れてしまうのが忍びなく着るようになったが、動きやすく汚れることを気に留めなくて良いので、逆に都で暮らしていた時に着ていた物よりも着心地が良かった。


「京狐ちゃぁーん! 魚が丸焦げになりますよー」


 真宵の呼ぶ声に呼応して


「はーい、今行きはるさかい!」


 っと声に出して、続けて千狐に


「ほな、ねぇねは真宵はんとご飯作ってくるさかい。着替えて待っとき」


 っと言った。千狐は致しかたなく京狐を離して


「うん」


 っと頬を膨らませながら答えたのだった。その表情に京狐は今一度千狐の頭を撫でてからくりやへ戻った。


 京狐は厨に戻ってから一度ひょうたんの酒が口切りまで入っているか確認をした。そして、脳裏に妖狐の里に来る道中で出逢った朱色の二本の角を生やした鬼の顔を思い出し笑顔になった。


 いつの日かまた再会した時、鬼と飲み交わすために補充しておいたのだった。女房役の真宵に、ひょうたんに酒を入れたいと言った時は「そんな若い時から酒など駄目です」っと言われたが、鬼との事を全てを話すと彼女は涙を流しながら同じ濃さの酒を探して入れてくれたのだ。


 妖狐の里では高価で貴族しか飲むことができない人間界と違い、酒は希少なものではなかった。盆地になっている里の形状から酒米を作るには理想的な場所であり、人手、いや狐が足りないとうことは一切ない。


 多くの管狐によってほぼ昼夜問わずに管理された作物は、京の都でも食べたことがないと思うほど美味だと姉妹は思ったのだ。


 ひょうたんの酒が口切りまで入っていることを確認した京狐は、その後、真宵と朝の支度を済ませ、焼き魚と蒸し粥、山菜と芋、塩汁を居間へ持って行くと、千狐が尻尾を振りながら正座して待っていた。それを自分の妹ながら可愛いと思った時


「何と可愛らしいのでしょう」


 っと真宵が声に出したので、彼女に満面の笑みで


「そうやろ! ウチの妹やさかい、当たり前や」


 っと言ったのだった。そうして、三人で食事をし始めてから暫くして、初めて聞く声が近所にも聞こえるような怒鳴り声で


「おーい! 九尾の姉妹! いるのか! 返事しろー!」


 っと耳に入ってきた。声に驚いた千狐は持っていたご飯茶碗を落として京狐に抱き着いた。


「何やろう姉上……ウチ怖い……」


 小刻みに震える妹を落ち着かせるため京狐はしっかりと離さないように抱き締め


「安心せぇや。何も心配いぃひん。ここは妖狐の里や。討伐軍やない。きっと里の誰かがウチらを訪ねてきただけやさかい」


 っと宥めたのだった。すかさず真宵が


「あの声はきっと美濃ですよ」


 っと答えた。京狐は円らな瞳で尋ねた。


「美濃はん、って誰どす?」


「えっと、尾張国おわりのくにの出の妖狐で、小柄で、えぇとそれから――」


「おーい! いるのかいねぇのか返事しろよ!」


「不躾で気性が荒く、短気です」


 呆れた口調を零した真宵は腰を上げて「私が用件を聞いてきます」っと言って住居から出て行った。それから二人は顔を見合わせて真宵と美濃の会話を聞いたのだった。


「何ですか美濃狐? 九尾の姉妹に何か御用ですか?」


「用がなければこんなとこまで来るかよ薄らトンカチ! ちょいと上がらせておくれよ」


「はぁ!? いきなり何ですか!? ちょっと!? やだ! 酒臭い!」


 真宵の声のすぐ後に住居にひょうたんを肩に掛けた小柄な女狐が入ってきた。剣先に似た鋭い目と合い、千狐は姉に強くしがみ付いた。


「ほおう。聞いてたよりもえらいべっぴんだなぁおめーら」


 腰を曲げて顔を近付けてきた美濃から酒の匂いがして、京狐は「うっ」っと声を出して反射的に鼻を撮んだ。


 確かに小柄で、一見すれば成人にも満たないと思える美濃狐であるが、その凛々しく雄々しい顔つきは、どこか武官の者を思わせる雰囲気があると京狐は思った。

 しかし、腰まである下げ髪を肩に垂らしている姿は、妙に色っぽく、何より猛々しいとさえ思ったのだ。


「ちょっと美濃狐! 勝手に入らないでください!」


 真宵が腰に手を当て、二つの尻尾を左右に動かしながら憤怒していた。それを見ても美濃は気に留めていない様子であった。


「五月蠅い奴だねぇ全くもう。一体全体あんたはこいつらの何なのさ?」


「あたしは百合様から二人の身の回りの世話をする女房です! あなたこそ何なんですか! 二人に何か御用ですか?」


「女房がいるとは聞いてなかったが、まぁいいか。あたいは飯を作れない無作法者だからあんたがいれば丁度良いや」


「何の話をしているのですか!?」


 京狐は少しばかり真宵と美濃の会話を静観していたが、美濃が声を出す度にビクビクしている千狐を安心させ、用件を済ませて早く帰ってもらおうと思い


「あの、ウチらに何の用どすぅ?」


 っと美濃に声を掛けた。真宵から目を逸らして自分を見た美濃は、少し眉間に皺を寄せて「全く面倒だねぇ」っと口にした。


「あの、何がどすぅ?」


「えっとな、あー、まぁちょいとあんたらに興味があってね。今日からあたいもあんたらと一緒にここに住まわせてもらうよ」


「はあ?」


 気の抜けた返事をした京狐であったが、美濃の話を聞いた真宵は


「はあぁぁぁぁぁぁ!? あなたいきなり何を言い出すのですか!?」


 っと声を出し、さらに尻尾を振る速さが増し、風を切る音が聞こえるほどまでになってしまった。


「まぁ、そういうことだからよろしくな九尾の姉妹。あと女房の……お前誰だ?」


「真宵です! あぁもうぉぉ! あたしの名前なぞどうでも良いことです! 何ですか不躾に! 一緒にここに住むってあなた! 百合様がそんなことをお許しになるはずが――」


「じゃあ、聞いてこいよ」


「はぁ?」


「百合様でも美甘にでも聞いてこいって言ったんだよ。あたいが姉妹と一緒住んでも良いのかどうかってな」


「そんな戯言お許しになるはずがありません!」


「その度胸があるならひとっ走り聞いてこいって」


「解りました! 二人に何かあったら承知しませんからね! 私はこう見えても銀狐なんですからね! 何かあれば私の管があなたを――」


「良いから早く行けよ。あんたのきぃきぃ声が頭に響いてしょうがねぇや」


「あぁぁぁもうぉぉぉぉぉ! 京狐ちゃん、千狐ちゃん、寺院に行きますけどすぐに帰ってきます! くだを百匹置いていくので、何かあったらこの子達に美濃を――」


「ウチらのことは心配しぃひんでもいけるから安心しぃ。悪い方ちゃうって思うねん」


 京狐の言葉に大きく鼻から息を出した真宵は美濃を睨み付けながら褶の裾から一本の管を出し、そこから銀色の管狐が数えきれないほど現れて美濃の周りを囲んだ。


「妙な真似でもしてみなさい! この子達があんたを――」


「解った解った。早く行けよ」


 頭から湯気が出るのではないかと思うほど激憤した真宵はついに二つの尻尾が風を巻き起こしていたが、そのまま外に出て行ってしまい、美濃と京狐、千狐に管狐百匹が住居に残されたのだった。

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百鬼絢爛 異聞 「妖狸の娘と九尾の姉妹」 赤城 良 @10200319

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