妖狐の里の長 天狐 百合

 百合の長い垂髪が彼女を覆ってしまうほど伸びていた。そして、彼女はいつもほくそ笑んでいるのあった。それが美濃にはしっくりこない。

 どうしていつもへらへらと口元を緩ませているのだろうと思うのだ。それを嫌味で思っているのではなく、色っぽく見えるのだから目のやり場に困るというものだった。


 美甘が先に歩き出し百合の真横に座り尾を櫛で梳かし始め、美濃は二人から十歩ほど前に用意されていたしとねに胡坐をかいて、百合に心を読まれぬように訝しげで不機嫌な表情をしながら彼女を見つめた。


「待っていたよ美濃。急に呼び出してすまなかったね」


 魅惑。百合の声を表現するのならば、これしか思い浮かぶことができない。美濃はわざとらしい大きな溜息を吐き、右目のすぐ脇にある黒子ほくろを掻きながら


「それで? 御用は何でしょうか百合様? あたいは深酒して、無能な男狐達と酒池肉林を楽しむ手筈だったんだけど?」


 っと嘘八百を並べ立てた。しかし。真実もそこに含まれている。男狐と酒を飲み交わす約束があったのは本当である。

 しかし、玉藻の前が異国の地でやったとされる酒池肉林など、命を棒に振ることでもない限り、下級の男狐などと身体を交わらせることなどない。大抵その話を振れば百合から自分に対して何かしらの反応が返ってくることを期待していたのだが


「それは悪かったね。でも、享楽に溺れるのも良いけど、少しは自分の身を大事にしなさい。でも、その話を掘り下げるのは今ではありません」


 っといつになくそっけない態度で構ってくれなかった。


「隠神刑部の、いえ、妖狸の集落の話です」


 百合のその言葉で、今しがたまで思い焦がれていたはずの百合への思いが化粧箱へ仕舞われ、威嚇する鋭い眼つきと共にブクブクと茹で上がる不快感が身体を熱くさせた。


「一体全体何事だい? まさかけて来たのかい? もう二ヶ月、あいつらの獣臭い匂いにはうんざりしてたところさ! で? 何だい? あいつらがどうしたのさ?」


「美濃、落ち着いて。彼らは私達を傷つけることも、争い合う気もないのです」


「はぁ? 何でそんなことあんたに解るんだよ?」


 百合は美甘と顔を見合わせて目で合図を送り二人は首を一度だけ縦に振った。そして百合が荼枳尼天を思わせる緩んだ口元から声が出た。


「美濃、一つ、一つだけ約束事をしてください。これは他言無用。ここで聞いたこと、話したことは、妖狐千年を識ることわざがあったとしても、決して口にしてはいけません」


 今までにない、いや、一度この重圧にも似た感覚を百合から発せられたことがあった。それは妖狐の里に来たばかりの、奈良の時代。人から逃げてこの地に辿り着いた美濃を受け入れた時にも、彼女はこの表情で物を言ったのだ。


 今冗談を言っても、百合には相手にされない。この顔の時の百合は、真に妖狐の里を束ねる長の顔なのだ。自分もそれに応えなくてはならないと美濃は一度、喉に唾を通してから正座となり、深く数多を下げて五体投地となり口を開いた。


「荼枳尼天様に誓って、その約束事、口にすることはありません、百合様」


 美濃が顔を上げれば、百合は目元をさらに緩ませて瞳が隠れて見えなくなってしまうほど細くなり、まさに白百合の花の如き無垢な笑顔となった。


「では、まずはこれを」


 そう百合が発すれば、美甘が美濃の元へ近づき二通の文が置かれた。


「何だいこれは?」


「それは隠神刑部からの密書です」


「なっ!」


 百合からの思わぬ言葉に耳を疑い、人の耳から元の長い耳へをかっぽじってみたが、異常も何もないことが、さらに驚きを増大させた。


「一体全体どういうことだい!? 隠神刑部が、あんたに密書を送ってったのかい? じゃあ、あんたは妖狸が集落を作るのを――」


「えぇ、知っていましたよ。その密書には隠神刑部がこの妖狐の里の近くに集落を作らせて欲しいとの懇願書のような物、もう一通は私と交わした密約が書かれた物です」


「はぁ!? 密約? ちょっと待った! 隠神刑部と、あんたが、何を交わしたのさ?」


 頭ので考えるよりも身体で反応する方が考える手間が省かれる。それが得意である美濃にとって、脳の汁が干上がってしまうほどの熱さを覚える驚きの連続であった。


「まずは、隠神刑部との密約のことについて話しましょう。彼は妖狐の里の者と決して争いを起こさない。些細な争いの一つでも起きれば、娘のまみを私達に差し出すと。


 さらに妖狐の里に何かあれば、八百八の妖狸が駆けつけ、手を貸す、と約束してくれたのです」


「ちょっと待っておくれよ? 隠神刑部の娘だって? あの狸に娘なんていたのかい? だってあの太鼓腹の狸爺の嫁は子ができない身体じゃ――」


「えぇ、あなたの言う通り、小町殿との子ではないのです。娘と言っても妾との間にできた娘、今数え年で七つと聞きました。あの集落には隠神刑部の血を受け継いだ娘がいるのです」


「全く、開いた口が塞がりゃしないよ全くもう。そりゃあ、あんたがあたいに喧嘩すんなって忠告を、わざわざ家に来てまで言いに来るわけだね」


 もはや存在していること自体を忘れたかった美甘が口を出した。


「もし、争い事が起きたとすれば、妖狸総大将の娘が引き渡されるのです。それはそれは、もし百合様が食せば、


 恐らく、


 総大将と名の付く者達など子の戯れと同じになるでしょう。妖狸総大将の隠神刑部、いえ、もっと上位の存在! 妖怪総大将の見越し入道など足元にも及ばないでしょう。


 もしかすれば、百合様はあの、あの覇王にですら匹敵するやも! いえいえ! 本当に神にも等しい存在となれるやもしれない!」


 このようなことを安直に思いついてしまうような美甘を美濃はさらに嫌悪した。百合も少しは美甘に失望したのではないか思ったのだが、彼女やはり表情を少しも変えることはなかった。ただ


「美甘、落ち着きなさい。そのようなことを私も、里の者も望んではいません。我らは戦や政に関わることなく、ただ、我らは常に見て、識り、それを語り継ぐ者なのですから」


 っと諭したのだった。その言葉に美甘は「すみません百合様」っと即座に見事な五体投地を披露した。


「権力と野望は時として身を破滅させる。それよりも、いかにして皆が平穏を保っていけるのか、幸福を感じてもらえる統治を考えなさい。私にもしものことがあれば、里の者を率いるのはあなたなのですよ」


「はい。承知しております。申し訳ございません」


「もう良いわ。頭を上げなさい美甘」


 そう口した後、すぐ美濃の方を見て


「美濃、実はこの話には、隠神刑部が隠していることが一つだけあったの」


 っと口にした。美濃は腕を組んで


「隠し事ってのは何だい?」


 っと発して首を傾げた。

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