朝食

 彼女は彼の右腕に両腕を絡めながら部屋を出た。彼女はこの四日間、毎日自分の右側に寄り添い、頭を少し預けながらダイニングキッチンへと向かうことが習慣となっていた。


 半袖短パン姿の自分と寝間着の着物を着た彼女が歩く様はお似合いなのだろうかと思ってしまうのだった。いつもは後ろ髪を上げて簪で束ねている美鬼は凛々しいと思っているが、背中の半分まである髪を下ろしている彼女は、これはこれで色っぽく、他の男がこの姿を見ることがないと思うと優越感に浸ることができた。


 廊下にはおよそ二か月間このアパートで過ごすための必要最低限の物が入っている。昨日一日で終わるかと思われた荷解きは、問題が起きて本日に繰り越してしまったのだ。


 まだ見慣れないダイニングキッチンに向かう途中で、煮立った味噌の香りが漂っていた。ダイニングキッチンに着くとすでにテーブルには副菜がボールに入れられてテーブルの真ん中にあり、四人分の茶碗が伏せられた状態で整頓されていた。


 美鬼は絡めていた腕を解いてカーテンを開けて日差しを入れた。はじめはフローリングの床に反射した太陽光で一瞬眩しすぎて手で光を遮った。


 そして、美鬼を見た。彼女の全身を足の先から徐々に上へ視線をずらして顔へ到達した時、額の二本の角を見て悲壮感が襲ってきた。


「旦那様? どうしんした?」


 朱色の角から彼女の瞳へと目を向けて


「何でもないよ。今日も美鬼ちゃんがご飯作ったの?」


 っと自分が思っている悲しさを悟られないように話題を作り出した。


「はい! 男の胃袋を掴むことが恋愛成就の必勝法と茨木いばらきが申しておりんした!」


「ははは、その人……じゃなかった、その鬼に料理を教わったんだっけ?」


 美鬼は満面の笑顔で軽やかにはじめに近づき


「はい! 茨木は自慢の料理の腕で酒呑しゅてんの心を掴みんした! いずれ旦那様は、わっちの手料理を食わねば生きていけぬ身体となりんしょう!」


 っと唇を重ねる寸でのところまで顔を近付けてきたが、彼女からは決して唇を重ねることはない。その理由をはじめは解っていなかった。


 しかし、何となく予測はしていた。恐らく、彼女は成り行きでこの関係になったことをまだ受け入れていないのだと。人間である自分を、完全に心を許してはいないのだと、そう思っていた。それでも、彼女を愛しているからこそ


「う、うん。本当に美鬼ちゃんは料理が美味しいから、いつも楽しみだよ」


 っと答えるのだった。そして、このまま、まだ誰もいないダイニングキッチンで唇を重ねようと瞳を覗き込み、彼女がその雰囲気に気付き瞼を閉じたのを確認して、唇を重ねようと真っ黒い影のような髪を下ろしている彼女の横髪を少しかき分け頬に手を置いて唇を近付けた。


「おはよう二人とも」


 突然の母の声に驚いた二人は顔を赤らめながら距離を取り、はじめから「お、おはよう母さん」っと返事をした。美鬼も


「おはようございんすお義母様」


 っと答えた。宮部凛みやべりんは全てを悟っている御仏みほとけのように微笑みながらテーブルに歩み


「美鬼ちゃん今日もご飯の支度してくれたのね。ありがとう」


 っと食卓を見て口にした。美鬼は気まずそうになっていた表情から再び笑顔になり


「旦那様の胃袋を鷲掴みにするためでありんすから! これくらい朝飯前! お義母さま、今日も味付けのご指南をくだされ!」


 っと凛に言ったのだった。


「えぇ、家の味噌汁の味を覚えたから、今日は醤油汁の味を覚えましょうね」


「はい! 旦那様! 今日の夕飯も楽しみにしてくださいませ!」


 美鬼の言葉を返そうとした時にドタドタと足音が聞こえ


「おはよう」


 っと姉のれいが寝癖の酷いボサボサの乱れ髪で左頬を掻きながらやって来た。はじめは「おはよう姉ちゃん」っと凛に言い「おはよう麗」っと凛が言った後に美鬼も


「おはようございんすお姉様」


 っと挨拶をしたのだが、麗は不機嫌で、美鬼を一目見た瞬間に不都合な物を嫌悪した表情で彼女を通り過ぎる際に流し目をして「うん」っと答えたのだった。それを見た凛は浅い溜息を鼻から洩らしたが、気持ちを切り替えるように


「じゃあ美鬼ちゃん、ご飯を装いましょうか?」


 っと言い、下に俯いていた美鬼もその一言で


「は、はい!」


 っと答えてキッチンに足を進ませた凛に続いた。二人がご飯と味噌汁を装い始めたのを少し見つめてから、はじめは椅子に腰を下ろした。


 目の前に仏頂面で座っている母と同じ、白髪の長い髪が陽の光で銀色に見える姉を見た。後ろ姿だけならば、母と姉のどちらかなのか見分けがつかないくらい現在は同じ髪の長さまで伸びていた。ふと目が合った瞬間に彼女からの眼差しからの不快感に目を逸らした。


 はじめは部屋中に漂う魚の焼ける匂いに胃袋が反応し、口の中に唾液が溢れ出してきた。味噌の煮込まれた匂いも加わり、今か今かとキッチンにいる美鬼と凛を見ていた。


 麗は左腕で片肘を付きながらテレビをつけて朝のニュース番組を見始めた。その眼に生気を感じないのは、気のせいではないと思った。


「お待たせ致しんした!」


 っとの声が聞こえると、美鬼が鮭と味噌汁を盆に載せてテーブルに配膳し始めた。凛も一緒に配膳し、美鬼は凛と麗を、凛ははじめと美鬼に配膳した。テレビを見ていた麗は眼球だけを動かして焼き魚を見て


「うわぁー! 今日も美味しそうだねぇ美鬼ちゃん!」


 っと先程までとは別人のような、打って変わった無邪気な子供に似た表情となり、美鬼へと視線を移した。ようやく不機嫌だった麗が、料理をきっかけに自分の目を見て話してくれたことに美鬼は


「はい! 本日も真心込めて作りんした! お姉様のお口に合えば幸いでありんす!」


 っと笑顔で答えたのだった。配膳を終えた凛が先に椅子へ座ったのを見た美鬼は、そこで初めて椅子に腰を下ろした。はじめは彼女は古風なのかなと思うことが多々ある。


 この四日の間、彼女は目上、と言っても彼女は人よりも上位の存在の鬼であるが、人である目上の凛や麗に対しての接し方や話し方において、丁寧かつ謙譲であると思うのだ。そして、そこに家族との、人との間に壁を感じているのではないかと思っていた。


「それじゃあ、いただきます」


 凛が音頭を取れば、はじめと麗も「「いただきます」」っと言い、宮部家に一呼吸遅れて美鬼が「いただきんす」っと合掌しながら声に出し、箸を持った。

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