重ねた唇
あの時のことは良く覚えているし、これから先において生涯忘れることはないだろうと思う。あの時の夏の太陽は容赦なく地上にいる生きとし生けるもの全てに降り注いで、生命の尊さを噛み締めさせるように暑さを感じさせていた。
そして、彼女に初めて出会ったのだ。簪で束ねた長い黒髪は風に靡くたびに踊っているようで、きりっとした目の大きな瞳はブラックホールのようで、そのまま果てのない暗闇へ吸い込まれてしまいそうだ。
薄く緩やかな曲線の唇に触れてみたいと思う気持ちが胸の高鳴りを躍動させていく。上げればキリがないと言うほど彼女をどう表現すれば良いのか。いや、ただ、ただ、美しい。そう思った。
自分以外の人々も老若男女問わず彼女を目で追いかけていた。これを妖艶や傾国の美女とでも言うのだろうか?
思考は止まることなく前方から歩いてくる彼女のことをひたすらに考えていた。もしかしたら、彼女の美しさだけでなく、その服装も人々の関心を引く要因なのかもしれないとすら思った。
彼女は白を基調とした着物で、その着物には冴えわたるような桃色の花柄が描かれていた。しかし、それだけではない。
着物の帯も独特なのだ。黒と黄色の縞模様はまさしく虎柄だ。これも人目を引く要因になっているのかもしれない。
彼女に話しかける勇気がほんの少しでも欲しい。その時、そう思っていた。
突然に場面が切り替わって夜になっていた。彼女と公園のベンチに寄り添い話していたが、ふいに、彼女のか細い手をそっと握り締めた。
彼女は一瞬拒むような反応をし、握りしめられた手を少し引いた。しかし、その時彼女が何を思ったのか解らなかったが、一度は逃げようとした彼女は手を反転させ、指を絡めて顔を近づけてきた。
徐々に近づいてくる彼女の唇。重力のように引き寄せられた唇が重なる寸での所で、再び場面が変わった。月夜に群がる有象無象の異形の集団が町に溢れ、その中に彼女がいた。
ビル群の立ち並ぶ街の中心部で人々はただそこに案山子になったかのように立ち尽くし、道路の車は何台も異形の集団に見惚れて止まっていた。
異形の者達が行進している光景はまさにこの世のものとは思えない、そう簡潔に言えば異様だが、どうしてか、或いは、ただ幻惑されてしまっていたのかもしれないが、ただ、ただ、美しかったのだ。
また場面が変わり、彼女は異形の者と戯れるように戦っていた。そして、そのままあの場所に切り替わった。人生を、多くの命の運命を変えたあの瞬間へと。
顔中血まみれになって地面に倒れ喚き散らす彼女の姿、さらに倒れている母と姉、薄ら笑いを浮かべる二匹の九尾とゲラゲラと笑う鬼の姿があった。
そして、倒れている彼女と唇を重ねて指切りをした、あの瞬間。
さらに場面が切り替わり、山を見越すような巨大な影、その傍らにいる女性の姿、叫び声を上げる母、姉と兄のように慕っている男性の三人が、がむしゃらに異形の者達と戦っている光景。
それから刀を振り回している自分の姿が客観的に見えた。そして、彼女の姿もそこにあった。自分から託された刀を手に彼女は山を駆け上るように巨大な影を物凄い速さで駆けて行った。
そして、自分の手を見た。異形の者達の血で染まった手を拭おうとしたが、すでに着ている服どころか、全身が血まみれになっていた。
徐に彼女を見た。彼女も全身に返り血を浴びていた。白い、真っ白い雪原のような肌に艶やかな真紅を纏い、その表情は穏やかで、むしろ、より彼女は美しかった。そう思ったのだ。
そこで目が覚め、少しばかり息が荒いことに気が付いた。ここ数日起床する度に嫌なことが思い出されることに嫌気がさしてくる。しかし、むしろそれが正常なのかもしれないとすら思った。まだ、四日しか経っていないのだから。
「どうしんした旦那様? 悪い夢でも見られたのでありんすか?」
彼女の声を辿って右へと顔を向けると、その顔は触れられる位置、そう間近、隣にいたのだ。彼女は狭いシングルベッドに無理矢理に身体を預けていた。
「おはよう」
「おはようございます旦那様」
夏を彩る大きく花開いた向日葵のような笑顔で彼女は彼を見ていた。彼はどうして自分の部屋にいるのかと問うことはしない。彼女は毎日、夜は自分が眠りに就くまで寄り添い、朝はもう自分が目覚める時にはすでにいるからだ。
どうしてここにいるのかと聞いた時に返ってきた言葉は「愛している人の傍にいたいからでありんす。一人でいることが寂しいから」っと答えたのだった。彼は咲き誇る花に微笑むように彼女へ笑顔を見せた。
「ちょっと、この間のことを思い出しただけだよ」
「そうでありんしたか。仕方ないでありんす。あれは人間には耐えがたいほどの経験でありんしたから」
真っ直ぐにこちらを見つめる彼女の目に吸い込まれそうになり視線を下に逸らすと、着物の隙間から胸の谷間が見えていた。
わざと自分に見せているようにも思え、しかし、凝視していることで自分がどう思われてしまうのかと、それも考えたが、それでも、少しばかり見ていた。
「ふふ」
彼女の笑い声に視線を上げ、唇を見つめた。
「わっちは旦那様に全てを捧げんした。どうぞ、好きにしてくださいまし」
そう言って彼女の頬は紅潮し、彼女の右手は桜の花弁のように彼の左頬にゆっくりと舞い落ちた。彼はその手をそっと包み込み、彼女の体温を感じた。とても、とても冷たかった。
「一つになりんしょう。わっちは、もう旦那様しかおりんせん。心も身体も全て、めちゃくちゃにして下さいまし。全てを忘れて一つに」
唇が触れる寸での所まで彼女は近づいたが、そこからは微動だにすることはなく、彼のことを待っていた。そう、この数日で気付いたことではあるのだが、彼女から唇を重ね合わせることがない。あの時、あの一度だけ、彼女から重ねてきた、あの時だけなのだ。
彼女の口から溢れ出す魅惑の言葉に導かれ彼は彼女の身体を抱き寄せ、首と肩の曲線状に顔を埋め彼女の匂いを深く吸い込んだ。
母や姉、そして、幼馴染とも違う彼女の匂いは甘味のようで狂おしいまでに噛り付きたいとすら思った。
彼女の漏れる吐息と声に反応し、このまま何処までも暗闇の中を進んで行こうと思ったが、先程見た夢が走馬灯のように脳裏を過ぎり、紅に染まった椿の花に似た彼女の残像が理性を甦らせた。
彼から聞こえていた吐息と貪るような衝動的な動作が止まり、彼女はゆっくりと彼と顔を突き合わせた。それからどれほどの時間を二人で見つめ合っていたのか配分の見当もつかないほど、ただ、ただ、お互いの瞳を見つめ合った。
そして、彼女の顔を引き寄せて唇を重ねた。唇が触れた瞬間に獲物を探すように彼女の舌が入り込んで重ね合い始めた。彼女の舌に身を委ねるわけでなく、自らも彼女を欲していることを知ってもらうために彼も舌を絡ませた。
彼女のか細い身体が何処にも行ってしまわぬように、彼は強く抱きしめた。それに呼応するように彼女もまた彼が離れてしまわぬように抱き締めた。
しかし、これ以上は取り戻したはずの理性が再び崩壊してしまうと彼は思い留まり、また見つめ合った。
ここで好きと言えば良いのかもしれない。いや、愛していると口に出して、声にして伝えることが彼女には至上の喜びになるだろう。
それは解っている。解ってはいるが、胸張り裂ける思いが邪魔をして彼はただ彼女を見つめることしかできなかった。
暫しの沈黙の後、彼女は再び彼の頬に手を置いて
「愛していんす旦那様。心から、愛していんす」
そう言って彼女は彼の胸元に顔を埋めた。彼女の頭を優しく撫でながら、額にある朱色の二本の角を見つめていた。
彼女が人間であって欲しかった。あの時、あの場所で出会わなければ、あの時、あの場所で彼女に自分の思いを伝えなければ、何よりも好きにならなければ良かった。
今生で、この苦しい思いを、過去を引きずったままでいることに耐えられるのだろうか。これならいっそ彼女に話しかけず、何も知らぬまま
彼女を
殺せば良かった。
そう、思ったが、そんな考えを少しでもしてしまった自分を憎悪した。
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