百鬼絢爛

第零話

触れ、重ね、溺れた唇

触れた唇

　目が覚めた時、愛しの人が傍に居ないのが心苦しく胸を締め付け、とても、とても寂しかった。いや、むしろ辛いのだ。

　そのせいで心の臓が引き千切られるほどの痛みを感じる。大きく息を吸い込み、畳と真新しい枕の匂いにうんざりとしながら徐に起き上がった。

　そして、愛しの人を思えば、何故ゆえに自分が一人でいることが辛いと感じるのはいつからだったのかを思い出し始めた。

　幼き頃は母にべったりで、外の世界など怖くて見たいなどと思っていなかったが、母に連れられて全国各地を見て回った。その時に様々な地方の言葉を覚えることができた。

　何より数えきれないほどの知識も培った。人の一生では多くの者が知りえる事ができない知恵まで与えてくれた母には感謝しかない。

　しかし、十六になると母はいつも何処かに出掛けては、帰りはすでに夜更けになっていた。その時からだったかもしれない。たった一人で森の中にいるのが、いや、一人でいることが寂しいと思い始めたのは。

　母の手下である五鬼衆（ごきしゅう）が日替わりで自分の面倒を見てくれることもあったが、それでも、母と一緒にいたかった。母以外の者たちと食事をすることが違和感だった。

　誰も来ない時本当には一人で寂しかった。一人で眠ることが寂しかった。寂しいと口にすれば、五鬼衆はすぐに集まり、一人でいることはなくなった。何か違う気がしたが、一人ではないことが心を落ち着かせた。

　ある日のことだった。一人で森を散策していたら、他の妖怪変化の子らが水辺で遊んでいるのを見かけた。初めて声を掛けた時、彼らは自分のことを恐れ、敬い、首を垂れてきた。

　最初は恐る恐る自分をはれ物にでも触るかのように接して、決して怒らせないようにしていたが、次第に心許す仲になった。　

　それは初めてで来た友人と呼べるものたちだった。しかし、最近の行動を不審に思った五鬼衆の一人が、自分を付けていた。付けていた。それに気づくことができず、彼らと一緒にいることを母に知られてしまった。

　周りの、他の奴らにそんな態度を見せてはいけないと叱られ、彼らを殺そうとした母を止めるために突き放した。そして、母から威厳や風格、あるべき姿を叩きこまれた。それからは常に表向きは強気で気高くいようとした。そう振る舞えと言われたからだ。

　そして、避けられた。誰も自分に近寄って来なくなってしまった。また一人になり寂しかったが、母の言いつけを守らなければいけない。そう思った。

　たった一人でいることが怖くて怖くて堪らなかった。何よりもしも、もしもこのまま今生、いや、永遠の時を一人で生きていくことを考えると、やはり寂しく辛かった。

　永遠の時を生きることは恐らく憧れや死の恐怖から逃げ出せるとして、多くの者達が欲するものであるが、自分にとってそんなことはどうでも良かった。ただ、一人でいたくなかっただけなのだ。

　だから、母が決めてくれた相手との婚約は悪い気はしなかった。むしろホッと胸を撫で下ろして安堵したのだ。これで、ようやく永遠を一人で生きていかなくて良いのだと思うと。

　それから始まった母と許嫁と一緒の生活は楽しかったように思うが、許嫁は自分を本当に好きなのか不安しかなかった。いや、常に疑心に満ちていた。ただ、母の持つ物を欲している。だから近づいてきたのだと。そう思った。

　他の女に手を出しているとも思っていた。何故なら、自分とは他の女の匂いを漂わせていたのだから。

　次第に三人での生活は暗く、会話もしなくなり、許嫁とは目すら合わせることがなくなった。心配した母は気に入らないのなら許嫁を殺すと言われたが、そこまでのことは望んでいなかった。

　だからこそ気分を変えたかった。それにいつまでも母と三人で暮らしている訳にもいかない。そう思った。だから、自分にとって住みやすそうな場所を探すために全国を旅した。

　先ずは南に行った。ここは違うと思った。だから、北に行った。ここも違った。それから下へ下へ旅を続けた。その間に子を作ろうと言われたが断った。やんわりと。

　かなりの時間を二人で過ごしていたが、唇でさえ、一度も許嫁に触れさせたことはない。自分は相手を愛してなどいなかった。ただ、傍に誰かいて欲しかっただけ。母が決めただけの、そんな存在だった。

　そして、各地で噂されていたことを聞いて、ここにやって来た。そして、愛しい人に出会った。しかし、初めて会った時、自分は彼に何も感じることなどできなかった。

　目の前で喚き散らすだけの鬱陶しい存在だと思ったのだ。言うことはただの綺麗事で、それが出来ないと解っているのに、彼は果敢に立ち向かって行った。

　そして、自分を窮地から救ってくれた。許嫁の束縛から、母の束縛から、世界の束縛から、世界の暗闇に閉じ籠っていた自分を解き放ってくれた。

　初めて触れた唇は柔らかくて、甘いようで、悲しいようで、胸がはち切れて心の臓は一度その活動を停止したかのように思えた。そして、指切りをしたのだ。命を懸けて、彼を傷つける全ての者を殺すと。

　こんな自分を彼は、受け入れてくれた。恐ろしい、いや、恐れられる存在である自分を。生まれて初めて言われたあの言葉は決して忘れることはできない。

　だから彼が歌い、自分は踊る。だから傍に居て欲しい。傍に置いて欲しい。誰よりも自分を見て欲しい。誰よりも好きでいて欲しい。誰よりも愛（め）でて欲しい。誰よりも愛して欲しい。誰よりも、自分が一番であって欲しい。そう思っている。

　そう、今まで、今まで生きてきて、暗い水の底に何処までも沈んでいくような寂しさを、忘れることができた。雲一つない、静寂の夜空に、吸い込まれてしまいそうな悲しさも、忘れることができた。

　ゆっくりと立ち上がり彼の部屋へと足を向けた。ここ数日、そう、三日の間、夜は彼が眠りに就くまで寄り添い、朝は必ず彼の寝顔を見ながら起きるのを待つ。それが彼女にとって日課となっていた。

　扉の前まで来て手で開けることなく、彼女は影の中に沈み込んで部屋に入った。部屋に入り、影から抜け出して彼を起こさないように狭いシングルベッドに入り込んで寝顔を眺めた。

　純粋で無垢（むく）な寝顔を見ていて、心が洗われるようだ。彼に触れたい気持ちが先行して、勝手に顔を近付かせ唇を重ねようとしたが、自分からしてはいけない。そう思い留まった。

　自分が愛していることを彼は十分に解りきっている。しかし、彼はあの告白から一度も思いを口に、言葉にしてくれることがない。しかし、これだけは彼の方からしてくれる。唇を重ねることだけは、彼はいつもしてくれるのだ。

　彼が自分の気配に気付いて目を開けた。

　そして、何も言わずに彼は微笑み自分の顔を引き寄せた。触れる唇に愛を感じる。今はこれだけでも良い。好きも、愛しているも言葉にしてくれないけれど幸せだ。

　今は、このままで良い――。それだけで良い――。とりあえず、今は――。

「愛していんす、旦那様――」