第2話
私が「発見」をして、それからしばらく経ったある日のことだ。両親は仕事に行ってしまっていて、例によって私は祖父の家に連れてこられていた。私はお気に入りの縁側に座って、特に何かあるでもなし、じっと庭を見つめていた。その時、コンコンと心地のよい、トタンに水が跳ねるような音が響いた。私はこの音が何かを知っている。これは水琴窟の音だ。祖父の家は、室町から続く名家だったらしく、その名残が色々な場所で見ることができる。水琴窟もその1つだ。
私はその音が心底好きだった。その耳を打つ音は、とても澄んでいて穏やかで、白砂の庭がより映えるようだった。私が、かつて雲を見て驚いた時から、私は、かつて過ごしていたような焦りを覚えなくなった。
いつものように朝、母は私の部屋のドアを開けて言った。
「
寝ぼけ眼の私は、促されるままに、寝床の横に用意していた服を着る。着替えて下に降りた私を待っていたのは、できたばかりの朝食だった。パンと目玉焼き。私が好みなのは少し半熟くらいだが、母はいつも全体を焼ききる。私の弟の
「お母さん。お父さんは? 」
もう仕事に行ったわよ。そんな返事が聞こえてきた。私の1歳下の弟は遅れて降りてきていた。目をこすって降りてきていて、まだまだ眠そうだ。私も私の弟も、幼稚園には行っていなかった。歳6歳と5歳だから幼稚園に行くのが普通なのかもしれないが、私も私の弟も幼稚園に行くよりも、祖父の家に行きたがった。私も何歳なのかさえわからない最初期の記憶で、大泣きしていたのを思い出す。床に座り込んで必死に「お母さん」と大声で叫んでいた、という記憶がある。いつのことかもわからないし、6歳の頃においてはそんなことをすることはないだろうが、だが、記憶さえ曖昧な当時の私にとって幼稚園というのは、あるいは親の元を離れるというのはひどく恐ろしかったのだろう。ところが、共働きの親は、自分が働いている間自分の子供を見てくれる人が必要だから、幼稚園にも入れたかったのだろう。そんな両親と私たちにとって、祖父の家は第2の家だったし、私たちも心から安心することができる場所なのだから、こんな恰好の場所はなかった。祖父は子煩悩だし、孫の私たちを見てはいつも頬をほころばせ、優しい目で私達を見ていてくれた。
「今日もおじいちゃんの家?」
5歳になる弟は私に向かって尋ねた。そうだよ、と私がいうとすぐに朝ごはんを頬張った。本当は我が家の方が断然いいと思う。お父さんやお母さんが絶対いい。でも、仕方ない。そんなことを思えるようになったのは、何歳の頃からだろう。当時の私たちは、そんなことを思えるようになるには少し幼かった。
祖父の家に向かう車の中で、またじっと空を見つめた。隣で弟は電車のおもちゃを使って遊んでいた。ガシャーンとか、そんなことを言いながら。あの時の感動を思い浮かべながら、私はまた車の向かう先を思い出す。
祖父はどんな顔で待ってくれているだろうか。また、目を糸のように細くして、「よく来たね」といってくれるのだろうか。また、大きな手で私の頭を撫でてくれるだろうか。一緒に散歩に行ってくれるだろうか。そんなことを考えていた。弟はといえば、そんなことはまさか考えてはいるまい。ただ、起きることをありのまま受け入れているだけだ。
「お母さん、おじいちゃんは朝ご飯食べたかな?」
「あら、食べたわよ、きっと。もう9時でしょ?」
今にして思えば、車に揺られながらなんともなしに口を開いたのは、特に意味はないと思う。単純にお母さんと話をしたかっただけなのか、あるいは少しでも気を引きたかったのか。
祖父が食べている朝ごはんはなんだろうか。また、塩鮭とご飯、お味噌汁だろうか。お味噌汁にはなめこが入っているのだろうか。存外なめこの味噌汁は美味しかったな、と傘のついた山を見上げながら思っていた。
色々なものがとてつもない速さで通り過ぎていく高速道路においてさえ、雲はそのスピードを見失ってはいなかった。車に乗った私達から見れば、雲は止まっているようにしか見えなかったけれど、雲の速さからすればビルの方がよほど速いスピードで私達とすれ違っていたし、追い越していく車は目で追えないくらいの速さだった。車に乗っているのだから私達がどうにかできるようなことは一つもなかったけど、今にして思えば、色々なものがもっとゆっくりでもいいと思う。どんな物事も焦っているようにしか見えなかったし、何か追われているようにしか見えなかった。
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