摩天に背く

もくはずし

魔天に背く

 「輝く都は一日にして成らず」


 歴史あるからこその文明、文化。その重みはたった一日の観光ですら、貴方を感動の渦に攫います!

 そう! ここは世界一イケてると評判の黄金の都、ジャポンネ。

 おいしい食事に美しい街並み。夜になれば圧巻の摩天楼をお見せしましょう!


 風景や食事、イベントに盛り上がる旅行客で飾り付けられた張り紙。スマートな商業広告に紛れたそれは異彩を放ち、俺に向けてプレッシャーを放つ。横目でチラリと見た後、低く鼻を唸らせて駅の出口へと向かう。この時間、うなだれて歩いていないのは観光客くらいだ。目線を上げれば、視界は様々な色の頭髪でいっぱいになる。

 明るい夜に帰宅する人々が集う時間。俺はこの時間の景色が好きだ。ちょっと頭を持ち上げるだけで多くの他人を小馬鹿にできる。

―― 見てみろよ、前を向かずに前進していく軍隊だ。暗く淀んだ塹壕で震えるクリスマスが待っているとも知らずに明日もまたここを歩いているマヌケな奴らめ! と、心の中で悪態をついて少しでも気分を晴らす。

 旅行客らはと言うと、笑顔で洗練された列車のフォルムを讃え、人の多さに驚嘆している。目の前の陰気な集団には目もくれず、地元に存在しないものを見つける享楽に有頂天になっている。

 ノンキな奴らだ、と思う。どうせ彼らは一生田舎の農場か、工場の下働きで一生を終える連中だ。よくいる、なけなしの貯金をはたいて人生幾度かの旅を消費しているだけなのだ。あいつらは煌びやかな街に蔓延る精神的貧困にすら気付かない脳無しだ。そう自分に言い聞かせ、帰路を急いだ。


 家に帰ると、選択肢は二つに一つ。二週間で読み終えて返却しなければならないビジネス書の山と、今の生活に滴る一滴のウィスキーが、私の帰りを待っていてくれた。面白くもない番組ばかりのテレビの前で少し息をついた後、酒を取りに台所に向かう。今日も俺の気分は反逆者だ。

 この街は腐っている!誰がお前らの野望に加担してやるものか!


 注がれる落栗色の液体はその罵倒を軽く受け流してグラスを満たしてゆく。私のオアシスはこの六畳一間に備え付けのベランダにある。そこで酒を仰ぎながら、誰もが絶景と褒め称える摩天楼を肴にするのだ。

 明日が休みなことをいいことに、本格的に宴の準備を始める。ベランダに持ち込む為、なるべく持ち歩きやすいものを作る。

 チーズの燻製が収納に眠っており、それに合わせて今日の創作を勘案する。数秒の間をおいて、結論を出す。今日は鳥の串焼きだ。串焼きと言っても串に刺した鳥肉や野菜を火あぶりにする設備はこの部屋にはない。焼いた食材を串にさし、立呑みに最適な形状に加工していく。

 まずは鶏もも肉を10センチ角ほどに切り分ける。肉は大きければ大きいほど食べがいがある。塩胡椒で下味をつけ、ニンニクとバターの香るフライパンに投入。強火で焼き目をつけたら火を弱め、野菜の支度にとりかかる。

 肌寒い季節柄、値段の下がったネギとジャガイモが購入されており、これらを御供に決定する。鶏肉を焼き始めてしまった手前、イモを今から焼き始めるとなると時間の効率が悪いのでビニルラップに包み、電子レンジに投入する。

 ネギはざく切りにし、鶏肉と一緒に炒める。砂糖、しょうゆ、みりん、セージ、バジルを施し、焼きあがった彼らを串に突き刺してゆく。塊で痛めていたニンニクも間に挟んで、最後に粉末パセリを振りかけて、完成。


 至高の時間に飛び立つ。スリッパをはき替え、洗濯物を部屋の中に放り込む。所々タイルが剥がれているベランダに降り立ち、錆びかけた手すりに体を預ける。 

 不夜城の如く闇に聳えるビル群は、周囲の闇を際立たせる。爛々と煌くフィールドが宙に浮かんでいるようで、とても幻想的だ。距離が遠くなお、朧げに揺れるこの輝きが私の拠り所である。

 暫しの間、自身の料理の腕に酒と共に酔いしれていると、甘美な宴の匂いにつられたのか、隣人がベランダに出てくる音がする。仕切りに遮られていて彼女が何をしているかわからない。

 彼女とはあまり見知った顔でもなく、外出の際偶然鉢合わせて挨拶する程度の間柄であった。確か二十七、八の女性だったような。出世街道に女など不要、と四年前の大学卒業以来ろくに異性と話していなかった欲求不満と酔いに溶けた自律心が会話を促す。


「やあ、良い天気ですなあ、御婦人! なんてね。どうだい? 俺と一緒に、この夜景をつまみに一杯」


 一時、間が生まれる。

 振られてしまったかな、と明日の職場に笑い話を土産にするための尾ひれを思案していると、返事があった。


「いいでしょう。付き合いましょう」

「お、そう来なくちゃ。酒は何がお好きですかな」


 気取ったように尋ねる。恐らく年齢はこちらのほうが下だろう。しかし持ち前の落ち着き払った、大人びた仕事用の態度を見られているなら、この下らない上品ぶった言葉遣いも通用するに違いない。


「私は専らビールよ。今も手元のやつを流し込んでるわ」

「乱暴な言葉遣いはよくないなあ。もっとお淑やかな方かと思っていたんだが」

「もう街の私はお休みする時間。いつでも気取ってるような女性がお好み?」


 言葉とは裏腹に、その声は弾みを見せる。彼女も話し相手が欲しかったのだろうか。


「自分に素を見せてくれる、という意味では魅力的だ。浅慮だったかもしれない」

「ようやく大人の魅力に気が付いたの? 坊や」


 クスクスと笑う声に、自分の化けの皮は最初から田舎の実家に置いてきたことを悟った。ひとつまみのジョークと強がりは消滅し、漸く彼女と対等に話せる気がした。


「年下だって気付いていたのか、悪い女だなあ。騙されてやるくらいの器量がないとモテないぞ」

「あら、こうしてナンパされるくらいには器量良しなのよ、私」

「呑み友達ってだけだよ、アンタとは。自信過剰なのは生きて行く上でお得だろうね」

「あなたはもう少し自分に自信を持ったら? ありのままの自分を見せられないってのは本当の自分を愛せていない証拠よ」

「笑止。俺はこの素晴らしい料理の才能に現在進行で酔いしれているところだ。何をやらせても上出来の自分に望むべくものなど何もない」

「料理が上手くても、食材は買えないんじゃなくて? あなたは将来コックさんにでもなるつもりなの? そんなことができなくとも、あなたは魅力的よ」

「ろくに喋ったこともないのに褒めちぎって貰えるなんて嬉しい限りだ。それに、この有能ぶりは仕事にも直結してるんだ。いつかあの夜景を支配する立場になる人間なんだぞ、俺は。今こうして会話できてることを光栄に思え」


 語りながら、夜景の中で一際大きな建物を凝視する。あのビルの天辺に、俺の行き先があるんだと実家に告げて、出てきた。こんなボロマンションに身を置いているのも、稼いだ金を有効に使うためだ。


「あら、こんな安いおうちに住んでるお偉いさんもいたものね。あれを手に入れて、あなたはいったい何をしたいの?」

「決まってるだろ。好きなことをして好きな物を買うんだよ。名声も財も手に入れるのが、この街で生きて行く上で唯一の救いだろう」


 誰もがそこを目指している。自分には到底たどり着けないという思考を振り切りながら、日々精神を摩耗させていく。ゼロサムゲームは勝たなければ意味がないのだ。


「勝たなきゃ意味のない人生、ね。あなたはもし負けたらどうするの?」

「そこらへんを歩いてるカオナシどもになるだけさ」

「本当に一人だけの勝者に成れると思ってるの?」

「なれると思ってなきゃしょうがないだろう。ほかにどうやって生きて行くんだ?」

「貴方はなにがあるかもわからない上に向かって登っていくのね。でも上を見ているだけじゃ道に落ちてるコインに気づかないわよ」

「そんな人生が楽しいのか?」

「楽しいかもしれないじゃない。現に私は今日、そこに行くための決心がついたから、あなたとお話ししているのよ」


 嫌な予感に、理性が酔いの彼方から駆けつけてくる。身を乗り出し、隣の部屋のベランダを見ると、彼女は手すりの上に直立していた。


「馬鹿なことはよせ、未来が無いわけじゃないだろう。おまえにもチャンスはあるはずだ」


 言葉による静止は無力であり、彼女は呆れたような微笑みで私を一瞥し、そのまま街の輝きと反対方向に沈んでいった。完全な闇に見えなくなった彼女の顔が、今まさに目の前で逡巡し続けている。

 彼女のあの哀れんだ表情の意味に理性が追いついたとき、私はこの生活を引き払う為の全てを済ませて、あの忌々しくも輝き続ける街に直通する電話を手に取った。

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