第六章 バット、ノット・フォー・ミー
さすがに色の抜けたカーディガンではやばいと思ったのか、ユージンはいつのまにかまともなシャツとジャケットに着替えている。
「クリス、お母さんの髪の毛とか、鑑定の試料になりそうなものは持ってる?」
エセルに言われて、二階に駆け上がる。必要になることがあるかもしれないと、ブラシについていた母親の髪の毛を何本か保管していたのだ。
髪の毛の入った封筒を持って慌てて下りてくると、ユージンがセイラと壮年の男性を出迎えていた。
昨日と似たようなパンツスーツのセイラは、階段から現れたクリスに手を振って笑いかけた。
初めて見るその紳士然とした男性は、仕立てのよさそうなスーツにブリーフケースを持っている。セイラの挙動からクリスに気づき、思わずというように破顔して、ユージンに一言二言囁く。
ユージンは、昨日初めてあったときのような曖昧な笑みを浮かべ、来客たちへ応接室への移動を促した。階段の途中で立ち止まっていたクリスにも手招きをする。
遅れて二人が部屋の中に入ると、初対面同士の弁護士と探偵と市役所職員は自己紹介し合っていた。その向こうの、窓際のサイドボードの上には、カメラが三脚にセットしてある。
端末の身分証をクリスに見せた弁護士は、ヴィターレと名乗った。髪には白いものが交じり始めているが、肌はまだ若々しい。握手のあとで軽くクリスの頭をなでたその仕草には、妙な親しみが込められているような気がした。
クリスはエセルに母親の髪の入った封筒を渡した。
「返却して欲しい?」
「ううん。別に」
クリスが返答すると、エセルは封筒を持ってきたアタッシュケースに仕舞い、代わりに書類を取り出した。
「じゃあ、みなさん、鑑定依頼書に承認(サイン)をお願いします」
エセルが提示した書式データに、依頼人、立会人として各人がサインして、採集が始まった。
エセルは録画しながら撮影者兼採集者として自分のフルネームを名乗り、次に鑑定の当該者のユージンとクリス、他の二人も立会人として宣誓させた。
ユージンとクリスの細胞は探偵が自ら採取した。綿棒で頬の内側を軽くこすられると、くすぐったさにクリスは軽く身をよじる。
エセルは綿棒を入れたケースがカメラに写るようにラベルを貼り、シーリングを施した。
採集自体は五分ほどで終わり、探偵と弁護士は連れだって退出することになった。「二人を玄関まで送っていくよ」と、ユージンも応接室から出て行く。
残されたセイラとクリスは、昨日来たときと同じように客用のソファに並んで腰掛けた。座るなり、セイラが話しかけてくる。
「お昼ご飯のメッセージ、見たわよ。とっても美味しそうだった。麻婆豆腐、食べたくなっちゃった」
「あれね、すごく辛いんだよ」
「辛いの大好き。どこのメーカーの素を使ってた?」
「もと?」
クリスは首を傾げる。
「よくスーパーで、調味料を混ぜたのがパックに入って売ってるじゃない」
「瓶に入った茶色いペーストは入れてたけど、それのこと?」
「それ多分、豆板醤だわ。全部自分で作ったのね。すごい、本格的!」
セイラは感嘆の声をあげるが、短時間でぱぱっと、しかも適当そうに作っているのを見ていると、そんなに大したこととは思えない。
それにしても、どうして大人は辛いものとか苦いものが好きなんだろう。理解に苦しむ。
「あなたは何が美味しかった?」
「スープと餃子」
無理に食べたタルトの影響もあって、クリスがなんとか食べられたのは、粟米湯(コーンスープ)、セロリと大根の炒め物、餃子とニラまんじゅうだけだった。
そこに、「お待たせしました」とユージンが帰ってきた。彼はセイラとクリスの向いの席に、一人で座った。
「結果は明日の正午までには届く予定です。遅延の場合を考えて、また明日の一四時に、結果の確認並びにその後の事務処理を行いたいと思うのですが、いかがでしょうか?」
「市役所としては異存ありません。クリスは?」
セイラに促されて「オレもそれでいいです」とクリスが答える。
「それで、クリスはこのままこの家にいても大丈夫ですか?」
「ええ。もちろん」
ユージンはすみやかに答える。
「クリスは? どうする?」
「あ……」
今、セイラと一緒に行ったほうがいいんじゃないか。そんな気がした。
でも、何もできないままなのは、癪に障る。
「何? クリス」
「ううん。なんでもない。ここにいます」
煮え切らない様子でセイラに返事をするクリスを、観察するようにじっと見ているユージンと目が合う。慌てて目を逸らした。
「あの、ブランディワインさん」
「はい。なんでしょう」
慇懃かつ事務的に答えるユージンに、心持ち頬を赤らめたセイラが笑顔で話しかける。
「お料理、得意なんですね。この子が送ってくるメッセージの料理の写真がとってもおいしそうで」
「ありがとうございます」
目も合わせずにユージンがそっけなく礼を言うと、「じゃあ、私はこの辺で」とセイラが立ち上がった。
立ち上がったセイラを、ユージンとクリスは玄関まで送る。
「明日の一四時にまた」
「この子のこと、よろしくお願いします」
セイラは、「じゃあね」とクリスに手を振って去っていった。
「あのさ……」
玄関を開けたままセイラで見送りながら、ユージンがクリスに言いにくそうに話しかけてきた。
「何?」
ろくでもないことだろうと、そちらも見ずにクリスが答える。
「俺、昨夜あんまり寝てないから仮眠しようと思ってさ」
「で?」
「相手できないんだけど、一人で大丈夫か?」
好機到来。
「もちろん」とクリスは頷いた。
ユージンが寝場所に選んだのは、自室のベッドではなく、猫部屋のソファだった。ウォークインクローゼットに常備してあるらしい毛布を持ってきて横になると、すぐに寝息を立て始める。昨夜もそうだったが、あきれるほど寝つきがよい。
すぐに白黒猫のボイシーがやってきて、寝ている飼い主の胸の上で、前足を自分の身体の下に折り畳んだ座り方で落ち着く。
ブギーとサダは相変わらずクローゼットに逃げ込み、黒猫のジェイはクリスの足下で「さあ、なでろ」と言わんばかりに腹を見せて転がっている。他の猫はてんでばらばらにソファーや棚の上や、クリスには見えないところでくつろいでいた。
ドアを閉めて、隣の部屋に置いてあった荷物を取り、階下に向かう。
誰もいないダイニングはがらんとしていて、少し寂しい気もしたが、人がいてはさすがに悪さはできない。
作業する場所なんてどこでもいいのに、やはり長く居た場所の方が安心する。慣れてきたソファの感触を確かめるように、深く腰かける。
昨日失敗したハッキングよりも、端末で簡単にできるこの家のメッセージのチェックから始める。
送信より受信のほうが多いので、少ない送信メッセージから見てみると、講演会や勉強会への出欠の返事が多い。たまにパーティへの誘いの返事も混じっていた。そのくらいでめぼしいものはない。
では受信メッセージはと見てみると、これもまた収穫はない。スーパーのクーポン付きマガジン、公共料金や税金の引落通知、返信にもあった講演会などの集まりごとの出欠確認。まれにユージン宛に飲みに行こうという私信が混じっているくらいで、つまらないことこの上ない。
「個人用メッセージは別口なのか……」
念のために、ファイル復元ツールを使って、削除されたメッセージも浚ってみる。と、気になるタイトルの、添付ファイル付きのメッセージを発見した。
「らぶれたーふぉーゆー?」
差出人はユージン・ブランディワイン。しかし、独身男がラブレターの一つや二つ送ったところで、相手が既婚者で、よほどスキャンダルを嫌う相手でもなければ……。
「一応、見ておかなきゃね」
好奇心に負けたことを自覚しつつも、言い訳がましいひとりごとで自分自身を誤魔化す。
「ええと、本文は……」
――いつもは照れくさくて言えない言葉だけど、音声ファイルにしてみたので聞いてみてください。
送付先を見て驚いた。一人や二人ではない。
「やっぱり、タラシか。タラシなんだな!」
買い物に行ったときの、父親の――ということはクリスにとっては祖父に当たるのだろうが――女癖が悪いと告白したときの、あの憂鬱そうなそぶりは何だったのだろう?
忌々しく思いつつ、送付先を数えてみる。
「二十四人? しかも、男も女も関係ないのか。節操なさすぎだよ。 ……や、いくらなんでも数が多すぎる、ような……?」
もしかしてという予感が、添付ファイルをそのまま開くのを止めさせた。
解析ツールを使ってみる。浮かび上がってきたその構造は、自己プログラムの複製、複製したファイルの偽装、ファイルの書き換え……。
「ウイルスか」
メッセージで拡散するタイプにしては、感染源の受信メッセージは見あたらない。ということは、ユージンがウイルスの制作者ということも考えられる。
「にしても、変だな」
ウイルスチェッカーにかけてみるが、ひっかからないのだ。
疑問はあったが、ウイルスとして警察にそのメッセージを転送し通報することにした。被害状況にもよるだろうが、何らかの処罰を食らうことは間違いない。
メッセージは全て削除して、元の状態に戻して置いた。これでユージンには気づかれない。
警察のツールならかなり前のデータでも復元できるというから、問題ないだろう。
一矢報いたようで、クリスは機嫌よく次の作業にかかる。
バッグの中からゲーム機を取り出すと、昨日の続きを開始する。が、何分経ってもパスワードは破れない。昨夜のうちに採集しておいたキーワードを使っても、やはりだめだった。
「くそ」
ゲーム機を握ったままソファに寝ころぶと、天井が見えた。
この真上はユージンの部屋だ。クローゼットの中にひっそりと置かれた黒いスーツケースを思い出す。あの中には何かあるのかもしれない。なにしろ六桁もある数字錠がついているのだから。
「鍵つきってことはなんかあるんだよな、きっと」
天井を見つめたまま、クリスは立ち上がった。
二階の猫部屋の前を通るときは、ドアも閉まっているのに、なんとなく息も止め、足音も忍ばせた。
ユージンの部屋のクローゼットを開くと、目当ての黒いスーツケースは朝と同じく、隅にひっそりと置かれていた。
服をかき分け、中に入る。万が一扉を開けられても見えないように、長めのコートを何枚か、自分の姿が隠れるように配置してしゃがみこむ。折り戸になっている扉を内側から閉めると、真っ暗になった。
端末のバックライトを頼りに、スーツケースを調べてみる。数字錠は端末とはリンクできない方式で、持ってきたゲーム機も役には立たない。
となると、あとは総当たりで数字を入れていくしかない。開く望みは薄いが、他に方法もない。
クローゼットに入り込んだまま、000000から始めて、000253まで試したとき、ドアの開く音がした。続いて、錠の下りる音もする。
この部屋に入ってくるのは、一人しか思い当たらない。
――ユージン……。
靴音が近づいて、止まった。
クリスは息を殺す。暗闇の中では心臓が脈打つ音が拡大して思える。そんなことはあるわけないのに、外に漏れ聞こえそうで、また更にドキドキする。
じっとしていれば、見つからないはずだ。だって扉は閉めてあるんだから。見えないんだから。
きっと、ベッドに寝に来ただけに決まってる。あの人、三〇秒もすれば寝つくから、それから出ていけばきっとバレはしな……。
「そこで何してるんだ、クリス?」
扉の外から、苛立たしげなユージンの声が聞こえた。
どうして? 何でわかったの?
声が出そうになるのを、口を押さえて必死に止める。
さっき施錠されたから、部屋のドアは突破できない。トーマスに端末で助けを呼ぶことも考えたが、こんな弁解のしようもない状況ではそれはできない。
ハッタリに決まってる。だって見えてるはずないんだから……。
「黙っていればわからないと思ってるのか?」
クローゼットの扉が開く。
長いコートを目隠しにしていたのに、いることがわかっているかのようにそれが取り払われた。ユージンの姿が逆光に浮かび上がる。
「お前、さっきからガチャガチャうるさいんだよ、ノイズが。眠れやしない」
突き刺すような言い方に、なぜか涙が出そうになる。
クローゼットの隅にうずくまるクリスにユージンは手を伸ばす。クリスは開かないスーツケースを盾に、身を縮めてやり過ごそうとした。そんなものはその場しのぎとわかっていても、そうせずにはいられなかった。
どうせかわせない。やがて引きずり出されてしまう。
それでも目をつぶり、頭を守るように抱えてもっと身を縮める。
が、身体のどこかを乱暴に掴まれる感触は、いつまで経ってもない。
恐々と見上げると、中腰でクローゼットを覗き込んでいるユージンと目があった。さきほどの声の調子とは反して、怒っているようではない。しかし、無表情で何の感情も籠もらない視線は、自分が物になってしまったようで耐えがたくて、クリスはうつむいてしまう。
スーツケースがカタンと揺れて、ユージンの手が掛かったのが視界の端に映った。
「この中を見たいのか?」
クリスは頷いた。その場しのぎに頷いたようなものだったが、スーツケースの中を見たかったのは本当だ。
ユージンはスーツケースの前にしゃがみ込んで、数字錠に六桁の数値を打ち込んだ。ケースを開き、横向きに置く。中には、制服のようなものと、拳銃が入っていた。
鉄の冷たい輝きにぞっとする。息を飲み、思わずユージンを見る。
「言っておくけどな、保管許可はちゃんととってるからな。違法じゃないぞそれ。銃は鍵付きのケースに保管しろっていうから、そこに入れてただけで」
ため息をつくと、ユージンはスーツケースを閉めた。それを元通りクリスと自分の間に置いて、開けたままのクローゼットの前に座り込む。
「満足したか? ……するわけないよな」
組んだ胡座の上に片肘をつき、ユージンは目を細める。
「お前さ、何しに来たの? 目的は何?」
「何って……」
ユージンの質問に、クリスは答えられない。復讐なんて言えるわけがない。
「昨日もトイレの中でハッキングしようとしてただろ。お前、何がしたいの?」
バレてた?
「なんで、わかったの?」
「こっちの質問には答えず、自分の質問か」
思わず言ってしまったのを鼻で笑われて、むっとする。何もしゃべってやるもんかと意地になる。そんなクリスの気持ちも知らぬげに、ユージンが続ける。
「理由はとりあえず置いておくとして、俺は電脳化してんの。だから、近場で妙な電波飛ばされたり、電子ロックを無理矢理開けようとしたりすると、ノイズを受信するからわかっちゃうんだよ」
身の回りにはいなかったけれど、そういう人間もいるとテキストでは読んだ。通常のインターフェイスではなく、もっと直接的かつ迅速にコンピュータと繋がることができ、その必要のある人間――オペレーターやプログラマー、パイロットのような。元クリッパーならそうであっても不思議はない。
ああ、そりゃバレるな。
他人事のように冷静に納得がいった。その点については。
どうしてもわからないのは、クリスが妙な小細工しているのを知っていて、この家に泊めた理由だ。
ホテルに泊まることになっていたら手も足もでなかっただろう。だが、この状況がそれよりましだとも思えなかった。
「いつまで黙ってるつもりだ?」
クリスとしては好きで黙っている部分もあるが、沈黙する以外の選択肢もない。
「黙っていたければ、好きなだけ黙っててもいいぞ。明々後日の朝までだったらつきあってやる」
床の上に胡座をかいたまま、ユージンは気の長いことを言うが、実際は明日の一四時にセイラとの約束がある。それまで保てばいい。
居眠りをしてくれたら、逃げ出して、セイラに保護を求めてもよいだろう。端末はポケットの中にあるのだ。
と、思っていたのだが。
「……そっちが理由言ったら、こっちも言うよ」
一時間半後、根を上げたのはクリスのほうだった。
要因はいろいろある。ユージンに夜中起こされて寝不足だったことや、昼食を軽くしすぎたために今更こみあげてきた空腹感、午前中の買い物による体力の消耗、スーツケースを挟んでの睨みあいからくる精神疲労など。窓の外がオレンジ色に染まり、夕方の気配がしてきたのも、一層疲れを増加させた。
眠いと言っていたはずのユージンは、その一時間半の間、微動もせず、クリスを眺めていた。
最初は、彼の視線を避けてスーツケースの陰に隠れようとしていたクリスだったが、だんだん疲れてくるとそれも面倒くさくなってきた。うっかり視線を合わせることも多くなってくる。
それで気がついたのは、ユージンは怒っていないということだ。少なくとも今は。
クリスに向けられる彼の視線や表情からは、そういうものは感じられなかった。それどころか、つい緩んだとでもいうように、微かに口角があがっている瞬間さえある。
それも、ギブアップを決意した原因の一つだった。
「理由? なんの?」
「オレがハッキングしようとしてたの知ってて、なんでこの家に泊めたの?」
やっと動いて、腕組みを解いたユージンが、ああ、と合点がいったように頷いた。
「面白いからだよ。縁もゆかりもなかった人間の家に来て、いきなりハッキングかまそうとする十一歳なんて、面白すぎだろ。他に何をやらかすかなーと思ってさ」
「はあ?」
理解不能だ……。
「こっちは正直に答えたんだからな、今度はそっちの番だ。正直に吐け」
そそのかすように、ユージンはにやりと笑った。
「…………復讐、しようと思って」
クリスはしぶしぶ答える。
あれだけ正当な理由なのだと信じていたのに、それをいざ口に出すと滑稽に思えて仕方ない。答えながら、恥ずかしさで頬が染まった。
「復讐? なんで?」
ユージンは心底意外そうな声を出す。
笑われなくて良かったと、クリスはほっとするが、恥ずかしがってばかりもいられない。
「だって、今までオレのことほっといたんじゃないか!」
「いや、でもそれは好きで放っておいたわけじゃない。そのこと、わかってる?」
「わかってるけど……」
そんなことはわかってる。
わけのわからないところもあるけれど、ユージンが意外といいやつだってことは。
クリスの復讐は、八つ当たり以外の何でもない。そんなことは多分、最初から自分でもわかってた。考えないようにしていただけだ。
止められなかったのは、自分の気が済まなかったからだ。
「復讐か……」
静かに呟いて、ユージンは胡座から膝立ちになった。そのまま、クローゼットの中のクリスに近づく。
クリスは近づいてきたユージンを避けるように、スーツケースの陰に身を縮めた。
彼はクリスには触れずに、スーツケースを開け、銃を手に取る。銃身部分を持ち、グリップをクリスに差し出した。
「撃ってみる? 俺を」
「え?」
クリスは、ユージンと銃を交互に見比べる。彼の表情は真摯で、銃は銀色に重く光っている。
「俺のこと、恨んでるんだろ? 世の中ってさ、理不尽なことがいっぱいあるわけ。殺せないなら、許すしかないんだよ。お前はどっちを選ぶの?」
「……どっちもイヤ」
クリスは首を横に振る。
許したくない。だけど、殺したくもない。
「わがままなお子様だなあ」
呆れたように、ユージンが苦笑する。
「復讐したいんだろ? 気分がすっきりするかもしれないぞ。警察には事故だって言い張れば大丈夫だし」
さあ、と銃がクリスに突きつけられる。銃口は突きつけた本人に向けられているのだが。
「死んじゃうよ……」
「その弾は貫通するから、簡単には死なない。頭と心臓外して、すぐに救急車呼んでくれたら大丈夫だから」
「だって、撃たれたら痛いよ」
「お前だって痛かったんだろ、今まで。復讐なんて考えるくらいなんだから」
ユージンはクリスを見つめていた。生真面目に、ひたむきに。
クリスは、月に来てから何度も感じていた胸の痛みをまた感じた。今度はあまりにも痛くて、息が詰まり、涙がにじむ。
胸に手を当て、言葉もなく、ユージンを見つめ返す。
クリスがやろうとしていたことは、直接に肉体を傷つけることはない。だが、違うものを傷つけようとしていた。
心や目に見えないものなら血を流さない。傷つけても罪に問われることはまずないし、罪悪感も感じず平気だろうと考えていた。
どちらも同じことだった。
銃を手に取ることができないクリスは、もうどんな方法でもユージンを傷つけたいと思わない。
誰かを打てば手が痛むように、誰かの心を傷つければこちらの心も痛む。そんなありふれた善良さを自分が持っていたことに、クリスは今更ながら気づいたのだ。
「やだ。そんなこと、したくない……」
クリスは必死にかぶりを振りながら、クローゼットの隅に縮まり、できるだけ銃から遠ざかろうとする。
ユージンは諦めたのか、銃をスーツケースに放り込んで蓋を閉めた。横倒しのスーツケースはもうクリスを隠さない。それでも、クリスは銃が見えなくなってほっとした。
「じゃあ、どうする? どうしたい?」
「……わかんないよ」
ここに来た目的は失われた。何のために今ここにいるのか、わからない。
けれど、クリスは途方に暮れつつも安堵していた。
もう、恨んだり、憎んだりしなくてもよいということに。
「ねえ、あんたはどうしたいの? オレのこと、どうするの?」
「そうだな……」
気になって聞いてみると、ユージンが思案するように腕を組む。
この家から追い出される程度ですめばよいが、場合によっては警察への通報も免れまい。未遂なので、あまり深刻なことにはならないだろうことが救いだ。
ただ、自分で引き起こしたこととはいえ、トーマスにこのことが知られるのは、少し辛かった。
「とりあえず、夕食の用意を手伝ってもらおうか」
「え? ああ……うん。わかった」
意外ではあったものの、子ども相手の罰ならこれくらいが妥当だと思われているのかもしれないと気が抜ける。そのせいか、それとも何時間かぶりに立ち上がろうとしたせいか、クリスはよろめいた。それを慌ててユージンが膝立ちのまま抱きとめる。
「あ、ありがと」
礼を言って身を離そうとするクリスの背に、ユージンの腕が回った。
「それから、晩飯も食べるんだ。みんなで」
腹は減っているので、クリスとしてはそれはありがたい。
「ありがとう。助かるよ。お腹減っちゃって……」
「明日の朝食も、昼食も、夕食も、一緒に食べよう。明後日も、その先もずっと」
「……え?」
驚いて顔を上げようとしたところを、強く抱き寄せられる。
「鑑定なんかどうでもいい。お前に行くべき場所ができるまで、ここにいてくれ。それが俺の願いだ、クリス」
「……どうして?」
ユージンの肩に頭をつけたまま、クリスは尋ねる。
「誰かを幸せにすることが、まだ俺にもできると思いたいんだ。お前のためじゃなくて、俺自身のために」
「オレのためじゃなくて……?」
「そう。俺がやりたくてやること。だから、お前は遠慮なんかせずに、ここにいていいんだよ」
ユージンに必要なのは、友だちではなくて家族なのだ、とトーマスは言った。確かに、友だちは幸せにするというようなものではない。そういう意味では、クリスはユージンに必要とされているのだ。
こんなことを言ってもらえるのも、血のつながった家族だと思えばこそだろう。そうでなければ、クリスなど取るに足りないクソガキでしかない。
「うん。わかった」
ユージンの背中におずおずと手をまわしながら、クリスはこの幸運に感謝する。
母親が選んだ男が彼だったことを。
そして、巡り合えたことを。
「あの、言っておかなきゃいけないことがあるんだけど」
予告通りキッチンに拉致され、ダイニングテーブルでネギをハサミで切っていたクリスは、重要なことを思い出して、切り出した。
「何?」
キッチンで野菜を刻むユージンは、手も止めずに応答する。
「実は、メッセージクライアントの削除ファイルを復元した中に、オリジナルのウイルスらしいものがあったんで、警察にファイル添付した通報メッセージ送っちゃったんだけど……大丈夫?」
「メッセージのタイトルは?」
「ラブレター・フォー・ユー」
げっという潰されるカエルのような声を出して、手を止めたユージンがクリスを向く。笑おうとして失敗したような、少しひきつった顔をしていた。
「……ファイル、開いた?」
「ううん。だってウイルスだと思ったから」
「いや、あれはウイルスを偽装した、単なるいたずらファイルだったんだけど。そうか警察に送っちゃったか……」
「ごめんなさい。やっぱり困るよね?」
「いや、困りはしない。というか、そもそもウイルスじゃないから問題にはならないとは思う。最悪、バカないたずらすんなって説教食らうくらいかな。にしても、あれが残ってたか……」
恥ずかしそうなのが不可解ではあるものの、大したことはなさそうでクリスは安心する。
「終わったよ」
細かく切り終わったネギの入ったカップを、カウンター越しにユージンに渡すと、
「トーマス君に、晩飯はあと二〇分くらいって伝えて」
と頼まれる。「内線でもいいけど」とも言われたが、直接行くことにした。
教えられた通り、二階の右側、手前のドアをノックする。
「誰?」
中から誰何の声がした。
「オレ……クリスです」
「どうぞ」
許可を受けてドアを開けると、どっしりした木製のデスクの向こうにトーマスがいた。机の上にはモニターと、他には擦り切れかけた本がたくさん積み重ねられている。何となく圧迫感を感じて、見回すと、部屋の両側の本棚も同じように古びた本で埋め尽くされている。
「何か用だった?」
キーボードを叩きながらトーマスが聞く。
「夜ご飯、あと二〇分くらいだって」
「ありがとう。僕ももう少しで終わるからって、ユージンに伝えておいて」
トーマスは打鍵を続ける。クリスが立ち去らないのに気づき、手を止めた。
「どうしたの?」
「あのね、トーマスさん」
「何?」というように、トーマスが首をかしげる。
「オレ、ずっとここにいてもいいんだって」
にこにこしながら言うクリスにつられるように、トーマスも微笑む。
「よかったね」
「うん!」
戸口で「また後でね」と手を振って、クリスは元気よくトーマスの書斎を出て行った。
「一体、どんな魔法を使ったんだろうね、あの人は」
嬉しくて、誰かに言わずにはいられない。そんなクリスの様子を思い出し、トーマスはもう一度微笑む。そして、早く温かい食事にありつくべく、再びキーボードを叩き始めた。
夕食は、昼食の残りの唐揚げを転用した油淋鶏(ゆーりんちー)がメインの和食だった。
聞くと、ユージンの以前の職場の先輩が日系人で、その人に仕込まれたらしい。和食の日も少なくないということだった。
「僕も箸の使い方が上手くなっちゃってね」
と、トーマスも見事な箸さばきを見せるが、クリスは途中で諦めて、スプーンとフォークに切り替えた。
夕食の後片づけを済ませたユージンが、自分と一緒に二階に行くようにとクリスに声をかけた。トーマスは読みかけの本があるからと早々に自室に引っ込んだ後だった。クリスは暇を持て余しながらも、なんとなくソファでごろごろしていた。
ついていくと、昨日の夜に寝る予定だった部屋で、クリーニング済みのベッドマットの上に、リネン類が山盛りに置かれていた。
「『自分のことは自分する』ってのがうちの方針だから、できることは自分でしろよ」
普段やっていたことだから手間でもない。手早くベッドメイクを済ますと、ドアの前で見ていたユージンが「慣れたもんだなー。俺んとこもやってもらうか」と感心したように言う。
ぼけっと突っ立って見てたんなら、手伝ってくれればいいのに。
ていうか、『自分のことは自分でしましょう』って今言ってなかったか、あんた?
トーマスの日ごろの苦労がしのばれる。
「疲れてるなら、早めに寝てもいいぞ」
「そうだね……」
言われると、瞼が重いような気がする。
「歯を磨いてからな」
言って出て行きかけたユージンが、途中で戻ってきた。
「ああそうだ。寝るとき明りは……」
「はいはい。ちゃんと消しとく」
一日でもうこの家にも慣れた。昨夜の幽霊の話も、ユージンの出まかせだったのだろうと判断して、もう平気だ。
「いや、つけといたままでもいいよ」
クリスは、怪訝な顔でユージンを見る。
「実は俺、暗いところで眠れないんだよ。トーマス君にはよく『子どもですか』って怒られるんだけど、別に明りくらいいいじゃないか。ねえ?」
同意を求められても困る。
暗い部屋では怖くて眠れない、お子様仲間がほしいだけなのか?
「でも、昨夜は部屋、暗かったじゃない?」
クリスが寝入ってから、トーマスが明りを消していったのだろう。ユージンが帰ってきたときには、部屋は暗かった。そのままベッドにもぐりこんできた彼は、明りをつけることはなかった。
「うん。だから一人で寝るときだけ」
「……子ども?」
思わず突っ込んでしまう。
「くそう。本物の子どもにまで子ども扱いされるとは」
言葉とは裏腹に、ユージンは嬉しそうにクリスの髪をくしゃっとかき混ぜた。
そして、おやすみを言うと、部屋から出て行った。
「変な人……」
乱れた髪を手で整えながら、クリスは呟く。
ユージンはあまり大人らしくない。
自分より年下のトーマスに怒られてもなんだか嬉しそうだし、クリスにまで子ども扱いされても怒らない。大人としてのプライドはないのだろうかと思う。クリスの母親や他の普通の大人だったら、子どもに舐められたと激怒しているところだろう。
とはいえ、トーマスくらいしっかりした大人の男の人だったら、ユージンでなくても怒られてしまうかもしれないのだが。
「まあいいや。寝よ」
洗面所で歯を磨き、部屋でパジャマに着替えてベッドに潜り込み、一瞬躊躇った後、明かりを消した。しかし、部屋になれないせいか寝付きが悪い。しばらく何度か寝がえりを繰り返したあと、明かりをつけて起きあがる。
のどが渇いていた。
キッチンで水を飲み、部屋に戻る途中、猫部屋から猫が出てきた。ドアが少し開いていて、暗い部屋の中で緑色や赤に光る瞳がこちらを向く。
出てきた猫は白黒のボイシー。一度立ち止まってクリスを振り返り、左隣のユージンの部屋に入っていった。
ドアの中に滑り込むしっぽにつられて、隙間から中をのぞき込むと、明かりをつけたままユージンが眠っていた。
ボイシーがベッドの上にあがって枕元に行くと、ユージンが目を閉じたままふとんを持ち上げる。猫は当然のように中に潜り込む。布越しにかたまりがもこもこと動いて、彼の足の間で落ち着いた。
起きているにしても、寝ぼけているにしても、よく躾られているものだ。猫に。
半ば呆れ、半ば感心していると、
「おいで」
目を閉じてふとんを持ち上げたまま、ユージンが寝言のように呟いた。
ふとんの端に陣取った白とグレー――タマラとフレディの二匹以外、他に猫は見あたらないが、その二匹は呼ばれても動く気配はない。
やっぱり寝ぼけてるのかな?
面白いのでそのまま見ていると、
「おいで。クリス」
今度は名前を呼ばれた。
部屋の中に入って、ユージンの隣に潜り込む。ふとんの上にいた二匹は迷惑そうな顔で、ベッドから飛び降りて出ていく。
ふとんを持ち上げていた彼の腕は、当然のようにクリスの首の下に回されて抱き寄せられる。慣れてる感じがして少し意外だったが、どうせ彼は独身なんだし、母親以外につきあった相手がいてもおかしくはない。
そんなことより、身体が温まるにつれて増してきた眠気に意識をゆだねるほうが心地よかった。
翌朝、衣擦れの音に目を覚ますと、ユージンが開いたクローゼットの前で身支度をしていた。窓の外はまだ暗い。
「どこかに行くの?」
声をかけると、彼は着替えの手を止めた。
「ちょっとパン屋に行って来る。寝てろよ。まだ六時前だから」
「こんな早くに?」
「ライ麦パンが六時に焼き上がるんだ。あそこのは七時には売り切れるから、早く行かなきゃ」
「オレも一緒に行く。連れてって」
クリスは起きあがった。少しだるいが、眠気はもうなくなっていた。
「早く着替えて、顔洗って来い」
「わかった」
ベッドから飛び出して、昨夜一人で眠るはずだった部屋で着替える。洗面まで済ませて戻ると、ユージンは黒いハーフコートを着込んでいた。
「じゃあ、行くか」
「うん」
朝早くの道は、暗くて冷たくてひとけがなかった。十五分ほど歩くと、バターと砂糖と小麦のいい匂いが朝の冷たい空気の中に漂ってきた。
こぢんまりとした構えの店に入るなり、ユージンは焼きたてと書かれた棚に突進した。大きくて固そうな茶色のライ麦パンを二つ、トレーに載せて頬を緩ませる。
クリスが眺めていると、店には客が入れかわり訪れていた。早朝に関わらず、なかなかの盛況ぶりだ。
「何か食べたいものはある?」
「何でもいいよ」
大きなパンを二つも確保しておいてまだ食べるつもりかと少し呆れていると、ごまや芥子の実がたくさんついた小さめの丸いパンとベーグルをいくつかトレーに追加して、ユージンは精算した。
「こんなに沢山、今日食べるつもり?」
少し明るくなってきた帰り道で並んで歩きながら尋ねると、いいやとユージンは首を横に振る。
「ライ麦パンは一日くらい置いたほうが美味い。だから、この二つは明日の分だ。楽しみにしてろよ、クリス」
クリスは笑顔でうなずく。
他愛のない話――主にトーマスに関する――をしながら、二人で帰った。
街がどんどん明るくなっていく。何かいいことがありそうな気分になるのは、薄汚れた街でも地下都市の制御された人工の朝でも同じだ。
家まであと少しというところで、ユージンの足が止まった。
「どうしたの?」
彼の視線の先には、黒い車が一台止まっていた。さっき、後ろから彼らを追い越してきた車だ。中から出てきたのは、朝にそぐわない、サングラスに黒服の男三人。
「くそ。やられた」
ユージンが悪態をつく。
「本人確認を」
近づいてきた男の一人が、ユージンが不承不承コートのポケットから出した端末を使って、身元を確認をする。
「ご同行願えますか?」
一番偉そうに見える一人が、自分の端末をユージンに見せる。
「……わかった」
ユージンが観念したようにうなずいて、パンの袋をクリスに預けた。意外な重さがクリスを動けなくする。
「ちょっと仕事入ったから、トーマス君に言って、ご飯食べさせてもらいなさい」
「ねえ、どこに行くの?」
それには答えず、ユージンは男たちに挟まれるように車に乗り込む。
「安心しろ、クリス。仕事だよ。一四時までには帰ってくるから」
「今日、帰れると思ってるのか? 二、三日はかかるぞ」
ユージンの科白を聞いて、男たちが失笑する。ドアが閉まり、車は走り出した。
クリスは一人残された。
どうしよう。
警察だ。
オレが昨日、転送したあのファイルのせいだ。
「早くトーマスさんに知らせなきゃ」
慌てて二階に駆け上る。右側の手前のドアを必死で叩いていると
「クリス、どうしたの?」
一つ向こうのドアから、トーマスが顔を見せた。ガウンの下はまだパジャマで、なぜか眼鏡を掛けている。
「眼鏡?」
「ああ、まだ顔洗ってないから、コンタクト着けられなくて。で、どうしたの? 何かあったの?」
「ユージンが連れて行かれちゃったの、警察に!」
「え?」
慌てたトーマスは一度部屋に戻って、自分の端末を取ってきて、チェックする。
「クリス、彼を連れていったのって、ほんとに警察だった?」
「多分……」
刑事ドラマで見るシーンにそっくりだったのだから。
「罪状と権利の読み上げ、やってた?」
「え……いや、やってなかったと思う、けど……」
「急に仕事入ったみたいだね、彼」
平穏なトーマスの口調に安心して、クリスは床にへたりこんだ。
「でも、今日は帰れないって。どうしよう……」
「本人は一四時までには絶対帰るって言ってるけど、メッセージで」
「でも、連れていった人が……」
「本人は何て言ってた?」
「一四時までには帰るって、言ってたけど……」
「じゃあ、信じていいと思うよ」
トーマスはクリスに近づいてきて、しゃがみこんだ。クリスの持っていたパンの袋を取り上げ、顔を寄せる。
「いい匂い。着替えてくるから、少し待っててね。朝ご飯にしよう」
クリスは座り込んだまま、うなずいた。
いつものようにシャツとジャケットに着替えてきたトーマスは、買ってきた丸いパンにチーズやハムや卵を挟んでサンドイッチを作ってくれた。まぶしてある芥子の実やゴマが香ばしい。
「なんでそんな勘違いしちゃったのかわかんないけど、よっぽど人相が悪かったんだろうね、迎えに来た人たち」
トーマスは笑った。
ウイルスを通報したことを言わずに済んで、クリスはほっとする。
「こんなこと、よくあるの?」
逮捕が自分の勘違いだとわかったクリスは、恥ずかしさから、少し怒ったような口調になる。
「ないよ。仕事でいちいち拉致だの連行だのされてたら、やってられないじゃない」
「それもそうだよね。彼、どこに行ったの?」
「多分、〈庭〉のどこかだよ。あそこは建物の入り口で端末を預けてしまうから、仕事が終わるまでは連絡はとれないだろうね。ところで、まだ入る?」
目の前にベーグルを片眼鏡のようにつまみあげたトーマスが、クリスに尋ねる。
「ううん。無理」
「一番食べる人がいないから、余っちゃうね」
食事を先に終えたトーマスは、二人とも手をつけなかったベーグルを保存容器に入れて戸棚に仕舞った。
「ところでクリス、ユージンが帰ってくるまで、僕の部屋にいる? 仕事中は構ってあげられないけど」
「大丈夫だよ。猫と遊ぶか、ゲームでもしてるから」
クリスはやっとサンドイッチを食べ終え、今度はカップにまだ半分以上残っているココアに口をつける。
トーマスは空いた皿をまとめて食器洗浄機にセットした。残っているのは、クリスのココアのカップだけ。
「飲み終わったら、そのカップまで入れて、このスイッチを押してね。僕は仕事するから。何かあったら、手前のほうの部屋に来て」
「うん。わかった」
「今度は部屋、間違えないでね」
「わかったってば。トーマスさんの意地悪!」
殴るまねをするクリスの拳を、やはりまねで受けとめながら、トーマスはダイニングを出ていった。
今日は一四時まで、何をしよう。
猫部屋にずっといたら、少しは猫たちもクリスに慣れてくれるだろうか?
「鑑定結果、いつ出るのかな」
ほぼ間違いなく親子だと思っていても、一抹の不安はある。
クリスは早く安心したかった。
「あれ? 端末……?」
ちょうどココアを飲み終え、カップをカウンターに載せたとき、シルバーメタリックの端末が置いてあるのに気がついた。トーマスのものだ。
「置きっぱなしで行っちゃったのか」
二階を見上げる。
「持っていこうかな」
呟いたクリスの耳に、ホームサーバへのメッセージの着信を知らせるアラームが、トーマスのと自分のものと、二つ重なって聞こえた。
早速、自分の端末で確認する。
「……うそ」
クリスの手から、青い端末が転がり落ちた。
――父子鑑定報告書
――結論、ユージン・ブランディワインは、クリス・バーキンの生物学的父親ではない。
――複合遺伝システムの結果、ユージン・ブランディワインは、クリス・バーキンに対し父性由来すべきDNAが存在しないため、生物学的な父親ではない。総合親子指数は0(ゼロ)。
「うそ……」
何かの間違いであってほしい。落とした端末を拾い上げ、何度見直しても、結果は変わらない。
「ゼロ……」
悲しくて、苦しい。喉の奥に熱い固まりがこもって、それがどんどん大きくなってくる。その熱を逃そうと、クリスはあえぐように口を開ける。出てきたのは、自嘲するような笑い声だった。
ユージンはクリスを自分の子どもだと思いこんでいる。そうでなければ、ここにいてくれなんて言うわけがない。なのに、この鑑定結果。
結論からいえば、この家は、クリスのための場所ではなかったのだ。
「どうしよう……」
持っていた青い端末は再び手から落ちて、床に転がった。
ユージンは、自分の子どもじゃないからといって、いきなりてのひらを返すように冷たくなる人間ではないだろう。トーマスだってそうだ。
嫌われるわけでも冷たくされるわけでもない。だけど、今までと同じわけがない。
このことを知ったあと、ユージンが、トーマスが、どんな態度をとるのか、どんな目つきで自分を見るのか、考えるだけで怖くてたまらない。
でも、もし彼らが変わらなかったら?
それどころか、このままこの家にいてもいいと言ってくれたら?
アニマル・チャンネルで見たカッコウの雛の姿がクリスの脳裏をよぎった。
託卵。
オオヨシキリの子どもになりすまして、自分だけが生き残ろうとするカッコウのヒナのエゴ。それは他に生きていく手段を持たない子どもにとって必要な生存本能なのかもしれない。
でも、カッコウと同じことを、クリスはしたくない。
ユージンはまだ若い。
今、恋人がいないとしても、将来できないとは限らない。彼が結婚して、自分の子どもが欲しいと思ったとき、クリスがいたらどうなる?
無意識のうちに、卵を巣から落とすようなことを自分は絶対にしないと言いきれるのか?
どちらにしても、最良の方法は同じだ。今すぐにこの家を出ていくこと。
誰もいないこの隙に、誰にも知られずに。
けれども、子どもひとりでは〈月の門〉を出ることすらできない。保護者のいない十五歳以下の子どもは、すぐに捕まって保護されてしまう。
ソファーの端で小さくなって、膝を抱える。
動けなくなっていたクリスの耳に、再びメッセージの着信音が聞こえた。今度は一つだけ。
――朝ご飯、ちゃんと食べた?
セイラからだった。
「そうか。あの人がいる……」
ユージン名義のメッセージを作成。ホームアドレスから送信する。
内容は、急な仕事でトーマスともども外出することになり、クリスを一人残していくので、何かあったら後を頼むというもの。
それから三〇分ほど待って、今度は鑑定結果を直接転送する。セイラはそこまで確認しないだろうとは思いつつも、念のために、着信時間を直近に書き換えたものを送る。すぐに音声通信が入った。
「……大丈夫?」
結果を見たのだろう。気遣うようなセイラの声を聞くと、少し心が痛んだ。
「大丈夫です。こういうわけで、ターナソルに帰ろうと思うんですけど、宇宙港まで付き添ってもらえませんか? ブランディワインさんもカベンディッシュさんも仕事で出かけてしまって、留守なんですけど」
思ったより、嘘はすらすらとつけた。
「お二人が戻ってくるまで待ってたほうがいいんじゃない? お別れくらい言いたいでしょう?」
「それも辛くて。今日は二人とも遅くなるって言ってましたし」
「気持ちはわかるけど……駄目よ。ちゃんと待って、お礼とお別れを言わなくちゃ」
セイラの声が困っていた。
「でも、帰ってくるまでこのまま待ってるのも、顔を見るのも却って辛くて。できたらすぐにでもここを出たいんです」
「無理よ、クリス。子どもひとりではシャトルにも乗れないのよ。どうやって宇宙港まで行くの?」
「親切な人に頼みます。そういうおじさん、いっぱいいるよね。オレ、よく声かけられるんだ」
声をかけられる度に、脱兎のごとく逃げているのは伏せておく。我ながら卑怯だとは思ったが、他に方法はないのだ。そう自分に言い聞かせる。
「……わかったわ。事務所に連絡してから、そっちに向かう。お二人には、後で私からも挨拶しておきます」
「お願いします」
通信が切れて、クリスは深呼吸をする。
セイラが来るまでに、急いで支度をしなければ。玄関の呼び鈴をおされたら、トーマスに知られてしまう。
二階に駆け上がって、昨夜寝るはずだった寝室に置いてあったバッグを取ってくる。荷物はそれだけだ。
途中で猫部屋を開てみる。無関心そうな、そうでもなさそうな猫たちの中から、黒猫のジェイが寄ってきた。クリスをまっすぐ見上げて、片方の前足を微かに浮かせたまま、声を出さすに鳴く。行くなと抗議されているような気がしたが、バイバイと声を掛けてドアを閉じる。
階段の手前から、トーマスの部屋のドアが見える。今は手前の部屋で仕事をしているのだろう。
ユージンの家族かもしれないというだけで、親切にしてくれたわけでもないだろう。本当に優しい人なんだろうとクリスは思う。だけど、別れの挨拶などできない。
クリスは階段を駆け下りる。そのままダイニングに行き、テーブルの上にほったらかしになっていたココアのカップを食器洗浄機に入れて、スイッチを入れた。水音がし始めて、洗い流されていく。それだけで、ひどく寂しくなった。
母親と住んでいたアパートを引き払ったときもこんな風には思わなかったのに、たかがカップを一つを片づけただけで、世界から自分だけが消えていくような気持ちになる。
そのままダイニングを出ようとして、どうしても、クリスは自分がいた跡を少しだけ残していきたくなった。
メッセージのように指一本で消えたりはしないけど、捨てようと思えばすぐに捨てられる、そんなささやかでどうでもよいものを。
できるだけ丁寧に、きれいな字で書いて、ペンを置いた。
彼ならこれでわかってくれる。
クリスに連絡を入れた後、セイラは確認のために連絡をとってみた。
家のほうにメッセージを入れても開封通知がないし、知らされていたユージンの個人回線のほうに連絡をとろうとしても、留守扱いになる。クリスの言うとおり、二人とも外出しているのだろう。
「タイミング悪いな。……っていうか、私、やばいかも」
仮のとはいえ、保護者の留守中に未成年を連れだしたとなれば、それなりの処分をくらう可能性は高い。下手をすれば免職だ。
しかし、クリスを放っておいては何をしでかすかわからない。それくらいならば、本人の望みどおり宇宙港まで送り届けたほうが良いだろう。ターナソルに帰るのが、クリスの望みなのだから。
それに、家に居づらいというクリスの気持ちもわかる。こうなってしまっては、ユージンの申し出を受け、クリスを彼の家に預けたのは失敗だったのかもしれない。
父親候補のユージンはクリスによく似ていたし、クリスの引き取りと養育も快諾していた。あとは鑑定結果を待つだけだと思ったのに。
セイラは上司に連絡を入れ、休暇をとってもよいか伺いをたてた。本当のことなど言えるわけがない。案の定、休暇の件はすぐに了承された。
子どもの数自体が少なく、経済的にも恵まれた保護者の多い月では、比較的暇な部署なのだ。だからといって、問題がないわけではない。精神や肉体に対する、または性的な虐待などは、外部の人間が容易に立ち入れない家庭の奥深くに沈み込み、見えづらいだけなのだ。
鑑定結果を転送してきた際のクリスの口調はあっさりしたもので、様子も暗くはなかった。それでもセイラは急いで、街の外れ近い、ユージンの家へとタクシーを走らせる。
車が着いたとき、クリスは門の外で家の二階を見上げていた。
ただ見ているだけのような、何の感慨もなさそうな表情で、少しだけ微笑を浮かべているようにもセイラには見えた。
クリスをタクシーに乗せ、そのまま街の外のチューブの駅まで向かう。
途中、あまり言葉を交わすこともなかったけれど、もともとクリスはおしゃべりなほうでもないので、それを気にすることもなかった。
気づいたのは、宇宙港行きシャトルの待ち時間のことだ。
ターナソルへのポッドは一五時〇五分発だから、今からラグランジェに向かっても時間は余るのだが、すぐにでも月を離れたいというクリスの意向を尊重して早めに宇宙港へ向かうことにした。
人のごったがえすロビーに大人しく座っているクリスを残し、直近の自動販売機に水を買いに行くと、短いながら列ができていた。仕方なく列の最後尾に並びつつ、何事もないかと何度もクリスを振り返っているうちに覚えた違和感。
「クリス、あなた、髪の毛でも切った?」
買ってきた水のペットボトルを渡しながら聞くと、クリスは怪訝な顔をして「ううん」と答える。
「なんだか、感じが少し変わったみたい」
「そう? どんなふうに?」
逆に聞かれて、セイラはクリスの顔をまじまじと見つめる。その視線を、クリスはまっすぐ受け止める。
「そうね……。なんとなくなんだけど、すっきりした感じがする」
「ひょっとしてやせた? あそこではすごくたくさん食べてたから、てっきり太ったと思ってたんだけど」
そう言って、クリスは笑った。その顔を見て、セイラはやっぱりと思う。
この子、こんな笑い方しなかった。もっと神経質そうな、笑ってるけど心底からは笑ってないような、実はストレス溜まってますって感じの顔してたもの。母親を亡くした直後じゃ、それも当然かもしれないと思っていたけど。
「今だから言うけど、目の毒だったわ、あなたからの食事報告のメッセージ」
「でしょ。セイラさんも一回くらい一緒にご飯食べればよかったね」
「最近、あんまりまともなもの食べてなかったのよね。ラグランジェに着いたら時間もあるし、何か美味しいもの食べに行きましょ」
「やったあ。じゃあ、お礼にそれ捨ててくるよ」
空になったセイラのボトルを受け取って、クリスがカウンターのセキュリティに渡しに行く。
ちょっとかわいくなったのかしら?
もともと顔立ちはきれいな子だったけど、無闇にしっかりしてて、子どもらしいかわいらしさを感じることはなかったのに。
クリスの後ろ姿を見ながら、セイラは思う。
子どもが子どもらしくあるためには、正しく子ども扱いしてくれる環境が必要だというのがセイラの持論だった。
周囲の大人が頼りなければ、子どもはしっかりするが、本来の子どもらしさは失われる。逆に大人がしっかりしすぎていて、子どものやることに手助けしすぎれば子ども自身の成長はない。
頭の良いクリスは、周囲の頼りない大人たちを見て馬鹿にすることはあっても、頼りにしたことなどなかったのかもしれない。
男の二人世帯だし、いろんな意味で大丈夫なのかと最初は心配もしたが、想像したよりずっとまめに世話を焼いてもらっていたようだし、なにより、二日やそこらでこの変化だ。きっとあの二人は、正しい大人だったのだろう。
もっと長く一緒にいられたら、よかったのにね……。
でも、それは口に出しては言えない。
クリス自身が、一番そう思っているのだろうから。
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