第七章 ブルー・ムーン

 ラグランジェ国際宇宙港に入ると、宙に映し出された地球が出迎えた。一昨日、月行きのシャトルを待つ間にセイラと一緒に見たのと同じもの。

 しかし、黒い空間にぽつんと浮かぶ青白のビー玉の上には、美しい緑色の宝冠が輝いていた。

 北極を中心にして、大きさは地球の直径の三分の一弱くらい。環状のオーロラが、無音のスクリーンの中で生き物のようにゆっくりと形を変えていく。

 オーロラの緑は酸素が発光しているのだ。上部を淡く紅色に染めるのもまた酸素。底部のところどころにピンクダイヤのように光るのは窒素。

「オーロラ・ブレークアップね。こんなすごいのは初めて見たわ」

 セイラが立ち止まる。

 クリスは母親の遺品の中にあったティアラを思い出した。安物の模造宝石で出来た、キラキラしてるだけの処分済みジャンク。今はもうない。

「まるで、地球が緑の冠を被ってるみたい」

「オレも同じこと考えてた。母さんのティアラみたいだって」

 あの人はこんなふうにきれいなものが好きだったから。

 急に、ここのところ何度も感じていた胸の痛みが一気に押し寄せてきて、息苦しさににめまいがする。

「大丈夫、クリス?」

 気遣うようなセイラの声で、我に返る。頬が熱くてかゆい。何かがついてるのをセイラが知らせてくれているのかと手をやると、指が透明な液体で濡れた。

 ああ、涙だ。

 そう思ったら、周りの景色が歪むほどあふれてきた。通路を行き交う人が、いぶかしげに自分とセイラを見比べる。

「どうしたの?」

「わかんない……」

 セイラが貸してくれたハンカチで押さえながら首を横にふる。目が熱くて、涙はなかなか止まらない。

「どこかに座ろうか」

 泣きながらうなずくと、クリスの腕をとって近くのベンチまで誘導してくれた。

 自分でも何で泣いているのかわからないし、どうやったら止まるのかもわからない。

 ベンチに座ると、セイラは黙ってクリスの背中に手を当てた。手のひらの熱が丸く感じられて、クリスは少し落ち着いてきた。

 靴音が一つ近づいてきて、声を掛けられる。

「何かお困りですか? 急病でしたら、診療所までご案内しますよ」

 親子やきょうだいには見えない若い女と泣いている子どもを不審に思ったのだろう。制服を着た、若い警備員の男性だった。

 セイラが端末で身分証を見せ、簡単に事情を説明する。母親が死んで泣いている、などとセイラが説明しなかったのは幸いだった。

「悲しい?」

 納得した靴音がまた遠ざかった後、セイラが尋ねる。なかなか泣きやまないクリスに困っているだろうに、セイラの声は変わらず穏やかだった。

「ううん。悲しいわけじゃなくて、ただ涙が止まらないの」

 負け惜しみや苦しい言い訳に聞こえそうだが、事実そうなのだ。クリスには原因がわからない。

「お母さんが亡くなって、悲しいからじゃないの?」

 言われると思った。

 だが、言われるほうを妙に苛立たせるいたわりや同情のようなものが、セイラの言葉には含まれていなかったので、安堵する。

「そのことなら、腹は立ったけど、悲しくはなかったよ。今まで全然泣かなかったし」

 そもそも母親が死んで、悲しいと思ったことは一度もないのだ。もちろん今も。

 もう二度と会えないのが辛いわけでも、さびしいわけでも、悲しいわけでもない。

 親に死なれた自分が可哀想なわけでもない。

 身体のどこかが痛いわけでもない。

 なのに、どうして、なんのために自分が泣くのか、わからない。

「腹が立ったの。それはどうして?」

「よくわかんない。たぶん、母さんのこと、嫌いだったからじゃないかな」

「そうかしら。あなた、本当にお母さんのこと、嫌いだった?」

 他の誰かが同じことを言ったなら、きっとむかついていただろう。

 セイラの言い方は、ただ事実を確認しようとしているだけのような冷静さが感じられる。だからクリスも、自分でもわけのわからないこの涙の理由を確認しようという気になる。

「うん。好きじゃなかったよ、お互いさまだったんだろうけど。どうせオレ、あの人には好かれてなかったしね。死んで腹が立つって、嫌いだったってことじゃないの? 本当に好きだったら、もっとちゃんと悲しいものなんじゃないの?」

 母親のことは、殺そうと思ったことはないにしても、どこかにいなくなってくれたらと何度も考えたし、もし大人になって一人で生きていけるようになったら、二度と彼女と連絡をとることはないだろうと思っていた。その機会が思ったより早くやってきて、驚いてはいても、悲しんだりはしていない。

 向こうだってこっちのことを、産んでしまったから仕方ないくらいのもので、もしも死んだのが自分のほうでも、彼女もやはり泣きはしなかったのではないかとクリスは思うのだ。

「……なんか違う気がするのよね。好かれてなかったからって、嫌いになる理由にはならないでしょ? 人を嫌いになるのには、もっとはっきりした理由があるものじゃないかしら」

「それは、そうかもしれないけど……」

 言われて、考えてみようとする。嫌いなところはたくさんあったはずなのに、ごちゃごちゃした細かい欠片のような記憶ばかりで、それをわざわざ並べたてるのは億劫に感じられた。

「誰かを嫌いになるのって、小さなことが積み重なって、いつかドカーンといくもんじゃないの?」

「普通はね、嫌いな人が死んでも、腹は立たないものなのよ。喜ぶことはあっても」

 思いもかけず、毒を含んだセイラの口調に驚いて彼女を見ると、こちらを見返してにこりと笑った。

「お母さんが亡くなって喜んでるわけじゃないでしょ、あなた」

「そりゃ、喜んではいないけど……」

「だったら、あなたは、お母さんのことが好きだったのよ」

「じゃあ、なんでこんなに腹が立つんだよ?」

 父親への復讐なんて八つ当たりを考えつくほどに。

「母さんにでなければ、オレは誰に対して腹を立ててるの? 母さんが死んだ事故の加害者? そいつだってもう死んでるんだよ。死んでしまった他人なんてどうでもいい。腹なんか立たないよ。だったら、誰? オレは誰に怒ってるの? セイラさん、知ってるなら教えてよ」

 思い当たる人間がいない。見えない。

 ぼんやりとした霧のような核のない苛立ちが、目の前に広がっているようだ。

 クリスに返す言葉がないのか、セイラは黙った。

 結局、セイラも口先だけの、ただのバカな大人だったのだ。

 どうせ期待などしていなかった。

 軽い失望を感じながら顔をあげると、中空の地球には、変わらず緑のオーロラが輝いていた。

 スクリーンの前で他の旅客たちは足を止める。しばらくして、夢から覚めたような表情でまたどこかに立ち去っていく。

「運命の、不条理さ、ってやつかしら」

 不意に聞こえてきた言葉が、頭の中でぱちんと音を立てた。パズルのピースがはまった気がした。

 最初から知っていたのに、忘れてしまったもどかしい何かを再び思い出したように、自分が一瞬で納得してしまったことに驚いた。

 セイラは反論できなかったのではなく、ずっと考えていたのだ。

 彼女のほうを見ると、重大発見をした直後の科学者のような面持ちをしている。

「クリス、あなたが怒ってるのは、運命の不条理さに対してよ。特定の誰かに対してじゃない。もちろん、お母さんに対してでもない」

 ユージンは、理不尽という言葉を使っていた。望まなくても、納得してもできなくても、そういうことはありふれているのだと。

「自分の子どもを嫌う親は、残念だけど、います。あなたのお母さんがそうだったかどうかはわからないけど。でも、思春期までは子どもが親を嫌うことはないのね。虐待されている子どもたちが、自分を傷つける親を他人に対しては庇ったりするのはどうしてだと思う? 彼らは好きなのよ。自分のお父さんやお母さんが。例え、自分を殺すほど傷つける可能性があるとしても」

 育ちの良さそうな、のんきな人の良さをいつも漂わせていたセイラが、一瞬厳しい横顔を見せたが、クリスの視線に気づいて、安心させるように微笑む。

「あなたの場合、ちょっと早めの思春期突入してるみたいだから、そういう思考回路になっちゃったみたいだけど、認めてもいいのよ。お母さんがあなたのことをどう思っていたとしても、見返りも何もなくても、あなたはお母さんのことが好きだったこと」

「そうなの……?」

 だったら、泣いてもよかったの?

 気が抜けたような気分になって、クリスは今まで自分が泣くのを我慢していただけなのに気づく。

 ユージンに対しても、嫌われてもいいと思ってた。どうせそうなるんだからと。

 それは結局、嫌われたくないという気持ちの強い裏返しで、最悪のパターンだけに備えて賢いふりをしている、ただのバカな子ども――自分の本当の気持ちから目を逸らし、自分に嘘ばかりついている――それが自分だったのだ。

「でも、もう手遅れなんだね。もうオレには誰もいなんだ……」

 これから行く場所にも、どこにも、自分を待つ人間はいない。そのことが、急に悲しくて寂しくて仕方なくなってくる。

 また涙が出そうになってきた。

「ねえ、オーロラの出る季節はいつか知ってる?」

 急に話を切り替えられて、クリスはめんくらった。セイラの視線はスクリーンの上にあった。

「冬、でしょう?」

 北半球でも南半球でも、オーロラが出現する季節は冬と決まっている。

「ハズレよ。オーロラは一年中出てるの」

 セイラの得意げな顔に、出そうになっていた涙が止まる。

 北緯、南緯それぞれ六〇度から七〇度の地点に存在する、オーロラオーバルと呼ばれる王冠型のベルト地帯に向けて、太陽風の荷電(プラズマ)粒子が高速で落下。大気中の空気の粒子と衝突し、励起状態になった空気の粒子が元に戻るときに発光するのが、極光(オーロラ)と呼ばれる現象である。

 太陽風は常に吹いている。地球上の磁界も変わるわけではない。それならばオーロラは一年中存在していることになる。

「オーロラが見えるのは冬だけだけど、本当はいつでも輝いてるの。明るすぎる光に消されて見えないだけ」

 高緯度地域の夏は、白夜に包まれる。だから夏のオーロラは見ることができないのだ。

 凍える冬の長い夜に見えるオーロラは、その季節を耐えて越えていく生き物たちへの地球からの贈り物なのかもしれない。

「オーロラは、人の上にもあるのよ。そりゃあ、太陽みたいに強い『愛』に比べたらささやかな光だけど、いつでも私たちの上にあるの。他の人からの、ちょっとした好意、思いやり、そんな優しいものが」

「例えば、あの家の人たちとか?」

「私のことも忘れないでよ」

 セイラが笑うのに、クリスもつられる。

「だから、誰もいないなんて言わないで。それがどんなに幽かでも、見えなくても、あなたの上にいつも輝いてる光もあるのよ」

 気がつくと、スクリーンの中の北半球は、淡くなってきた緑の冠を戴いたまま、やがて来る朝を待っている。あと数時間もすれば、オーロラの儚い光は朝日の中に消えてしまうのだろう。

「ねえ、お腹減らない?」

 まったく普通の調子で、セイラが言う。

「……うん」

 そのさりげなさがありがたくて、また涙が出そうになる。

「ツナサンドがおいしい店があるの。中に入ってる、軽くピクルスしたキュウリの加減がちょうどよくて。ランチにはアイスクリームもついてくるの。食べに行かない?」

「うん」

「顔、洗ってらっしゃい。ここで待ってるから」

 クリスはベンチから立ち上がった。

 こちらを見ていたさっきの警備員と目があうと、彼はにっこりと笑った。その笑い方が少しトーマスに似ていて切なくなったけれど、クリスも笑ってみた。

 洗面所の鏡に映った顔はぐちゃぐちゃだった。でも、自分でも見たことがない表情に見えた。

 鏡に向かって、にっと笑ってみる。

 大丈夫。

 声に出して言ってみる。

「もう、大丈夫」


 セイラおすすめのツナサンドはおいしくて、追加注文しようか悩んでいたら、白いエプロンをした白髪まじりのおじさんが、空いたクリスの皿にフレンチポテトを足してくれた。

「たまに来る客に、お前さんに似た人がいてなあ」

 クリスが礼を言うと、片目をつぶってみせた。

「私も割とよく来てると思うけど、そんなおまけはしてもらったことないわよ」

 むくれ顔のセイラにも、フレンチポテトがサービスされた。

 飲食店エリアを出たクリスとセイラは、動く歩道(ムービング・ウォーク)ではなく、腹ごなしを兼ねて歩いた。

 ラグランジェ宇宙港は人が途切れることがない。アタッシュケースを持った誇らしげな顔のビジネスマンたちや、大きな旅行カバンを期待に満ちて、または満足そうに引きずっていく人々が往来している。ほとんどが大人で、クリスと同じくらいの年齢の子どもはほとんど見ない。

 ふと、一組の親子連れが目についた。窓型モニターを指さして子どもに見せ、談笑している若い夫婦。赤ん坊は自分を抱いている父親の肩越しに、初めての宇宙をこわごわと見つめていた。

 セイラとクリスもつられて立ち止まる。一昨日ここに来たときにも見た、大きな白い客船がゆっくりと動いていた。遠ざかるにつれ、白い船体に映えていたさまざまな色のライトが、船首から広がる闇に溶けていく。

 通路途中には立派なかまえの免税店や専門店が並んでいる。その間にぽつんぽつんとある、ポストカードやちょっとした小物や雑貨、みやげものを扱う小さな店を冷やかしながら二人はゆっくり歩いた。あと三〇分もすれば、ターナソル行きのポッドの搭乗が始まる。

「あら、こんな店あったかしら?」

 セイラが足を止めたのもそんな店のひとつだった。店といっても浅くくぼんだ壁面を利用したもので、その壁一面に、十五センチ角くらいの正方形のプレートがきれいにディスプレイされている。

 棚のずっと上のほうに、しゃれた書体で「ジュークボックス」と書かれていて、それが店名らしかった。

 プレートはプラスチック製で、イラストや写真が入っていた。タイトルらしき文字も読める。そのタイトルのほとんどに月という単語が入っていた。時代がかったデザインのものも、最近の流行のものもあり、見ているだけで楽しい。

「先月できたんだよ。月にちなんだ曲ばかりを集めたデジタル・オルゴール専門店さ。好きな曲をペンダントやキーホルダーや宝石箱にしてあげるよ。気が利いてるだろ? おみやげに一曲どう?」

 伸ばしっぱなしの濃い茶色の髪が肩までかかった店番の青年がセイラに声を掛ける。

「ちょっと見せてね」

と青年に返事をしたセイラは、棚を眺めていたクリスに小声で「トイレに行ってくるから、ちょっと待ってて」と告げて、通路を小走りに引き返していく。少し手前にトイレの表示があったのを、クリスは思い出した。

「お姉さん、どこいったの?」

「すぐ帰ってくるよ」

 不審そうな店番の青年に答えたクリスは、『ブルームーン』のタイトルに惹かれて手を伸ばした。デザインは夜空を背景にした月は金色で、青くはない。なのにブルームーンとは何故だろうと少し不思議に思う。

 プレートをひっくり返すと、曲や演奏者の解説と一緒に、歌詞が書いてあった。


  ブルームーン

  あなたは一人でたたずむ私を見ていた

  この胸には夢もなく、愛する人もいない


 まるでオレのことみたいだ、とクリスは思った。

 言い当てられたようでどきりとして、プレートを棚に戻す。

 次に手に取ったのは。覚えのあるタイトルのプレート。

 ビロードのような濃紺を背景に、いかにも安っぽくて作りものめいた三日月に腰掛けた、口ひげの男と金髪の少女の写真。少女はクリスより少し幼く見えた。

「『ペーパームーン』だね?」

 青年がめざとくクリスに話しかけてきた。

「その写真、映画のポスターなんだよ」

「映画?」

「そう、大昔のね。それは映画のポスターだけど、他のは音楽メディアのジャケットが多いんだ。プレートの右端のスイッチを押すと曲の試聴ができるし、曲の解説や歌詞なんかはプレートの裏に載ってるから、興味があったらどうぞ」

 裏面には、解説と一緒に映画『ペーパームーン』のストーリーも紹介されていた。

――一九三五年、大恐慌時代のアメリカ。ケチな詐欺師の男が、昔の恋人の葬儀に参列する。そこで、母親が死んで一人ぽっちになってしまった女の子を彼女の親戚の家まで送り届けるように頼まれる。仕方なく始まった自動車での旅だったが、大人顔負けの知恵で男のピンチを助け、詐欺の相棒も立派に務めるしっかりものの少女と、大人のくせに頼りない、そして実は彼女の父親かもしれない男。二人の間にはいつしか、親子のような愛情が芽生える。しかし、旅の終わりは近づいていた――。

「きっと、最後は別れちゃうんだろうな。それでもう、二度と会えないんだ……」

 独り言のつもりだった。

「ところが、そうじゃないんだな」

 小さなカウンターの中で頬杖をついていた青年が、横やりをいれる。

「親戚の家には結局行かないの?」

「いや、行くよ。行ってみたらすごく歓迎してくれるんだよ、親戚の叔母さん。叔父さんもいい人でさ。子どもがいなかったんだっけな。ピアノもあって、家の中も綺麗で、きちんとした家って感じで」

「女の子はその家で幸せに暮らして、ハッピーエンド? 男はどうなったの?」

「男はね、叔母さんの家から少し離れたところに車を停めて一休みして、『せいせいしたぜ』とかなんとか言ってたんだけど、女の子が残していった写真を見つけるんだ。そのポスターのと同じ、ハリボテの月に座った女の子の写真さ。だけど、迎えに行けないじゃない? 自分はつまんないケチな詐欺師だし。ちゃんとした仕事も家もない。叔母さんちにいたほうが、女の子だって幸せになれるに決まってる」

「そう、だよね……」

 唇は、そうじゃないという心の声より、理性のほうに従った。

「だけど彼女、その叔母さんの家を飛び出してしまうんだよ。こっそり荷物抱えて。それで、もうずっと先に行ってしまって、いないかもしれない男を追いかけていくんだ」

 その先は少しは想像できた。女の子は見覚えのある車を発見する。中にはしょんぼりと彼女の写真を見ている男。

 彼女は男になんと言ったのだろう?

 何と言えば、一緒にいられたのだろう。

「ハリボテの紙の月だって、信じれば本物になる。『ペーパームーン』って、そんな歌詞だろう? ニセモノの親子だって、お互いの気持ち次第で本物になれる、そんな話なんだよ」

 今、わかった。

 ユージンは、知っていたのだ。この映画を。

 そして、目の前の雛鳥がカッコウであることも。その上で、一緒に暮らそうと言ってくれた。クリスが自分の子どもだと思いこんでいただけではなかったのだ。

 やっとわかった。でも、引き返すにはもう、月は遠すぎる。

「だから、『ペーパームーン』だったんだ……」

 クリスの答えに、青年は満足そうに頷いた。

「その曲、知ってるの? 試聴してみる?」

 クリスは首を横に振り、青年の目を見て微笑んだ。そうしなければまた泣いてしまいそうだった。

「お待たせ」

 小走りで帰ってきたセイラが、クリスの手元をのぞき込んだ。

「あら、『ペーパームーン』ね」

「有名な曲なんだね」

 クリスは棚にプレートを戻した。

「何か欲しい曲ある? あったらプレゼントしてあげる」

「ううん。ない」

「そう。私はちょっと欲しいのができたかも。もう少しだけ待ってて」

 カウンターを見ながらセイラが言う。

「うん。いいよ」

 クリスは違うプレートに手を伸ばした。

「ターナソル行きポッド四四八五便へ搭乗予定のお客様にご連絡します。まもなく搭乗手続きを開始します。ターナソル行きポッド四四八五便へ搭乗予定のお客様は、エリアF、五三番ゲートにお集まりいただくよう、お願い申し上げます」

 アナウンスの声に気づいたクリスは、手にとっていたプレートを棚に戻した。カウンターの方に目をやると、なにやら作業中の青年の前で、セイラはぴょこぴょこと背伸びを繰り返していた。

「何買うの?」

 クリスが近づいていくと、セイラの動きは止まった。

「キーホルダーよ。ペンダントとか宝石箱は、私のイメージじゃないもの」

 そこへ、「はい。終わったよ」と店番の青年が声をかけた。

「どっちがどっちだかわかんないわよ」

 文句を言うセイラに、青年は商品と紙片を手早く渡す。

「聞けばわかるよ。これ説明書」

 「なんて曲?」とクリスが聞くと、セイラは「あとでね」とジャケットのポケットに入れた。

「行きましょうか」

「うん」

 目の縁がまだ赤いままの笑顔で、クリスはセイラを見上げた。

 クリスの旅の終わりは近づいていた。


 昼を過ぎてクリスがいないことに気づいたトーマスは、家中を探し回り、ダイニングテーブルに残されたメモと自分の端末を見つけた。メモには子どもらしい字が丁寧に並んでいて、クリスがどんな気持ちでそれを書いたかを考えて、トーマスは胸が痛んだ。

 すぐに、クリスの端末へと連絡をとってみる。

 数回の呼び出しの後、耳障りなアラームとともに表示されたメッセージは「このユーザーは当該エリアから移動しました。移動先へメッセージの転送を行いますか?」というもの。

「月の門(ムーン・ゲート)を出てしまったのか」

 慌てて着信履歴を調べると、セイラから何件か連絡が入っていた。クリスがターナソルに帰るというので、宇宙港まで付き添うという内容で、最後のメッセージは、これからシャトルに乗り込むというものだった。

 セイラの端末も呼びだしてみる。案の定、クリスと同じ「当該エリアから移動しました」という表示が出る。

 次に、ラグランジェへのシャトルと、ターナソルへのポッドの時刻表を確認しつつ、ユージンの端末を呼び出す。予想通り、留守のメッセージが流れた。

 ユージンが連れていかれたのがUNNのどこかの部署なら、端末の持ち込みは禁止されているので入口で預かりとなる。どこに行ったのかがはっきりしていれば内線を取り次いでもらうこともできるのだが、突発の仕事のせいか未だ契約書は未着で、それもわからない。

 強引に連行された経緯から考えて、ユージン本人が請けた仕事ではない。となると、元凶は一人しかいない。

 その元凶――アリスを呼び出すと、彼女はブランチの途中だった。カフェらしい背景を、黒い前掛けをつけた給仕が横切る。食事は既に終わっていたらしく、仕上げのエスプレッソがカメラの端に映っている。

 緊急の旨を伝えて、ユージンの行き先に連絡をとってもらう。二分後、コールバックがあった。

「結論から言うと、もう仕事が終わって退出したそうよ。あたしの予想の一時間も前。我が弟子ながら恐ろしいわ」

 小さな端末の画面の中で、アリスは肩をすくめ、大げさに両手を広げてみせた。

「あなたの予想は何時だったんですか?」

「一三時よ。UNNの専用車を借りて飛ばせば、一四時には帰り着けるでしょ。車の手配までちゃんと契約には入れといたわよ」

 わがままで奔放に人を振り回しているようで、その実、きっちりと相手の力量を計っている。もし間に合わなければ仕事を引きつぐつもりで、アリスは早めの食事を摂り、備えていたのだろう。

 師弟揃って、そういうところはそっくりだった。いつでも手の上で踊らされているようで、トーマスはそれが少しだけ癪に障る。

「その契約書がまだこちらに転送されてないので、緊急時にもかかわらず連絡がとれなかったわけですが……。その件は、まあいいでしょう。それで彼は今どこに?」

「あなたのパパのオフィスに呼ばれて行ったそうよ。ここから先はあなたの仕事ね、ディー」

 アリスはトーマスのことをディーと呼ぶ。IDのディーダマス――十二使徒の一人、不信のトマスからだった。

「どうして父のところに……」

 トーマスの問いには答えず、ウインクとともに通信は切れた。

 どうにも気にくわない組み合わせだ。とはいえ、連絡をとらないわけにもいかない。

 UNNの士官学校に無理矢理入れられそうになった十八歳のトーマスが家出して、四年間音信不通だったにもかかわらず、再会した父親のスティーブン・カベンディッシュは息子の近況になぜか詳しかった。何らかの調査をしたのかと思っていたが、どうもユージンと個人的に知り合いだったことは後に知った。

 父親の端末へ連絡をすると、仕事中の常で、オフィスへの有線通信に交換された。当然内容は録画もされているはずだ。

「どうしたんだ? お前がこんな時間に電話してくるなんて珍しい」

 画面の外からフェードインしながら画面越しに語りかけてくる父は、一ヶ月前、一緒に食事をしたときと変わっていなかった。

 白髪交じりの茶色の髪は、いましがた床屋に行ったばかりのようにきちんと撫でつけてある。記憶の中ではいつもは厳しかった鳶色の瞳が、いつの間にか掛け始めた老眼鏡越しに微笑んでいる。

 気質も容貌も父親似と評判の六つ年上の兄とは対照的に、母親似のトーマスは一見似ていない。しかし、すらりとした体つきや、足の形、爪の形のような細部が実は似ているためか、それとも他に共通する何かがあるのか、連れ立っているとやはり親子に見られた。

「お久しぶりです、お父さん。そこにユージンがいますよね?」

 オフィスに電話をする度に画面の下部に映る、ウォルナットの深い焦げ茶色のデスクを、トーマスが直接見たことはない。世間話や自慢話をするために、執務室に息子を呼び寄せるような父親ではなかったからだ。

 そういうことも含めて、昔からどうしても父親に対して壁のようなものを感じてしまうときがトーマスにはあった。

 八年前、父親の設定する進路を押しつけられたとき、話し合いではなく家出という非常手段をとってしまったのは、話をしても無駄だという諦めと反発の他に、どうせこの壁は越えられないという思いもあったからかもしれない。

 親子だからといって、解り合わなければならないという義務も必要もない。家を離れて、いつの間にかそう思うようになり、壁の存在を感じてもあまり気にならなくなってきてはいた。

「ユージン。お呼びだ」

 父親はIDのオーカスではなく、名前で呼んだ。入れ替わりに画面に入ってきたユージンは、白いシャツに黒いジャケットとパンツ、腕に黒いコートをかけていた。近所のパン屋に行っただけにしては、まだ見られる服装をしていたので、トーマスは内心安堵した。

「ああ、トーマス君。ちょうど良かった。連絡しようと思ってたんだ。今、君のパパにフォートモアの豪華ランチをおごってもらう予定で」

「フォートモアではなく、ここのカフェテリアだ」

 聞き覚えのあるバリトンが横から訂正を入れる。ちぇっ、ケチ、と横に向かって軽く悪態をついたユージンが続ける。

「……チープな昼メシをおごられてくるから、悪いけど、そっちはそっちで適当になんとかしてよ。十四時までにはちゃんと帰るからさ」

「それどころじゃないんです」

「どうした?」

 トーマスの切迫した様子にもユージンは変わらない。声だけが心持ち低くなった。

「クリスがいなくなりました。端末でいくら呼び出してもつかまらないんです。メッセージを送っても圏外で戻ってくるので、ゲートを出たと考えられます。メモが残ってました。『カッコウにはなりたくないから、帰ります。親切にしてくれて、どうもありがとう』って――どういう意味でしょうか? 心当たりあります?」

 画面の向こうの表情は変わらないまま、長く息を吐き出す音だけが聞こえた。

「……バカだよなあ。ヒヨッコは、自分がオオヨシキリかカッコウかなんて考えずに、ピーピー鳴いて、エサもらってりゃいいのに」

「託卵の話ですか?」

「そうだよ」

 朝八時のメッセージに添付されていた鑑定結果は、クリスがユージンの子どもではないことを証明していた。

 いつかユージンが自分の子どもを持ちたいと思ったとき、自分は邪魔になる。その可能性があるなら、他人=カッコウである自分はこの家にはいられないと、クリスなりに考えた結果だったのだろう。

 ユージンは昨日の朝、クリスは自分の子ではないと言った。すぐに冗談だと訂正したが、あれは嘘ではなかったのだ。だとしたら、クリスへの扶養の申し出は、この鑑定結果を見越した上での提案だったろうに。

 互いに相手のことを思いやったつもりが、こんなふうにすれ違ってしまう。

 ひょっとしたら、父と自分もそういうところがあったのかもしれない、とトーマスはふと思った。

「どうするんです?」

「追いかけるよ。当然だろ?」

 自分の子どもでもないクリスのためにどこまでするだろうか、というトーマスの不安を払拭する、歯切れのよい返事が返ってくる。

「その理由は同情ですか? 可哀想だから?」

 安い同情なら、後々破綻するのは目に見えている。中途半端に関わっても、お互いのためにならない。

「そうしたいからだよ。同情も遺伝子も関係ない」

 思わず、トーマスに笑みがこぼれた。

「じゃあ、ターナソル行きの次の便で迎えにいきましょう。僕も一緒に行きますから」

「次の便って、夜中だろ? それまで待てるか」

「でも、ターナソル行きのポッドは一四時五〇分に搭乗が始まり、一五時〇五分に恒星間移動門(スターゲート)へ移動開始します。そこ(ガーデン)からもここからも、月の門(ムーン・ゲート)まではチューブで一時間半、移動やセキュリティチェックの時間まで入れると更に二〇分。ラグランジェ行きのシャトルは毎時一五分と四五分に離陸する二便です。一番早いシャトルに乗れたとして、一四時四五分の便。所要時間は一時間一〇分だから、到着は一五時五五分。絶対に間に合いません」

 ユージンとクリスの間の物理的距離は、埋めることはできない。

「トーマス君、だから君、モテないんだよ」

「……はい?」

 したり顔のユージンの、思ってもみなかった返答に、トーマスは絶句する。

「諦めがよすぎるんだよ、君は。それにね、ものごとには、タイミングというものがあるんだよ。前々から思ってたんだけど、なんで君、女の子がデートの申し込みしてきた予定のその日の都合が悪いからって、いつもあっさり断るの? その場で代わりの日を提案してりゃ上手くいくのに」

「この件とは関係ないじゃないですか。それにあなたに関して、デートに出かけたことはおろか、誘いがあったという話さえ一度も聞いたことがないのですが。そのあなたがデート指南? あなたにだけは、言われたくない科白でしたね」

 不毛だなという父親の笑い声が、画面の外から聞こえる。

「とにかく、ゲートまで最速で来い。うちの車を使えば、オートドライブでも一時間で来れるだろ? 集合場所は君がゲートに着くまでにメッセージ入れとく。後はなんとかするから」

「わかりました」

「それから、もう一通メッセージが来てるはずだ。バイオローカス社から」

「ちょっと待ってください」

 急いで差出人名だけチェックする。果たしてメッセージは来ていた。一〇時三五分の着信となっている。

「来てます」

「それ、データコピーして持ってきて。プリントアウトがあればなお良し。じゃ、また後で」

 そこで通信は終わった。

「これは……」

 メッセージを開き、添付されていたもう一通の鑑定書を見て、トーマスは驚きの声を上げた。


 ターナソルのような辺境の惑星行きのポッドは、人より貨物の方が多い。エリアFの五三番ゲートの待合室は、あまり混んではいなかった。

 ポッドへ渡る通路前のゲートでは、客室乗務員が集まって搭乗手続きの開始前のミーティングをしている。

 空いている席をみつけて、セイラとクリスは並んで腰を掛けた。

「ああ、先に渡しておかなきゃ」

 座ったばかりのセイラが急に立ち上がった。右手をポケットに突っ込んで取り出したのは、シンプルなコイン型のキーホルダーが二つ。どちらも鮮やかなメタリックブルーだった。

「やっぱり、どっちがどっちだかわかんないわ」

 再び座りながら、セイラは片方の円の下についている突起を押す。流れ出した小さなメロディには、聞き覚えがあった。

「『ペーパームーン』……」

「こっちだったのね」

 はい、と指にひっかけた青いキーホルダーが、クリスの前に突き出される。

「ほんとは好きなんでしょ。この曲」

「うん。でも、この曲が好きなのはユージンだよ。オレの端末に彼から着信が入るとこれが流れるんだ。彼が選んだの」

「そうだったの。じゃあ、着メロと同じ曲もなんだからこっちをあげる」

 セイラはもう一方を差し出してきた。

「ありがと」

 クリスはそれを両手で受け取る。青いコインが手のひらに着地した。

 セイラは妙に嬉しそうな顔で、目の前にぶらさげたもう一つのキーホルダーの奏でる『ペーパームーン』を聴いている。クリスの端末に入っているものとは、本当は歌手が違ったのだが、そこは黙っておくことにした。

「こっちは? なんて曲?」

「『ブルームーン』。恋人ができるお守りにならないかと思って!」

 妙に力が入った言い方をする。

「そういう歌なの?」

 意外そうなクリスに、セイラは自分のキーホルダーのスイッチをもう一度押して曲を止める。

「『ブルームーン』って、私も最初は失恋の歌かと思ってたのよね。聴いてみて」

 言われたクリスがスイッチを押すと、ゆったりしたリズムに乗って、女性の歌声が聞こえてきた。

 歌詞は店で読んだ通りだが、想像していたよりずっとロマンチックな曲だった。


  ブルームーン

  あなたは一人でたたずむ私を見ていた

  この胸には夢もなく、愛する人もいない


  ブルームーン

  あなたは知っていた

  私が何のためにここにいるのか

  あなたは聞いていた

  だれかのために生きたいという、私の祈りを


  すると突然だれかが現れてささやくの

  ずっと抱きしめたかったただ一人の人が

  「どうか側にいて」と

  そのとき、青い月は金色に変わる


  ブルームーン

  もう私はひとりじゃない

  夢も愛も持たない私じゃない


「ブルームーンって、ひと月に二回の満月があるとき、その二回目の満月のことを言うの。滅多にない。でも、実際に『ある』の。だから『青い月』には奇跡の意味もあるのよ。……ね? 恋人ができそうな曲でしょ?」

 同意を求めてセイラが笑う。そのまま、紺色のジャケットの肩が近づいてきたと思ったら、クリスは抱きしめられていた。

「だから、きっとあなたも、きっといつか一人じゃなくなるときが来るから」

 微かに震えて、恐らく涙をこらえているであろう細い肩を、せいいっぱい抱き返しながら、クリスは頷く。セイラには見えなくても。

「ターナソル行きポッド四四八五便へ搭乗予定のお客様にご連絡します。ただいまから搭乗手続きを開始いたします。ターナソル行きポッド四四八五便へ搭乗予定のお客様は、エリアF、五三番ゲートにお越しいただくよう、お願い申し上げます。なお、ポッドの移動開始は二〇分後、一五時〇五分の予定です。搭乗予定のお客さまは、くれぐれもお乗り逃しのないようご注意ください」

 セイラが顔を上げた。繰り返されるアナウンスの中で、怪訝な顔をする。

「ねえ、『ペーパームーン』が聞こえなかった?」

「セイラさんのキーホルダーでしょ?」

「違うわよ」

 ほら、とセイラがポケットから無音のキーホルダーを取り出す。

「でも……」

 聞こえるはずがない。

 ユージンは仕事で軟禁されて数日帰って来ないはずだし、仕事が詰まっているトーマスだって書斎に籠もれば、正午過ぎまで出てくるはずがない。

 カトから月の門(ムーン・ゲート)を経由してラグランジェ宇宙港へ、接続の時間も考えれば最低三時間半はかかる。彼らが、いや、彼らのうちのどちらかひとりでも、今、ここに来れるはずがないのだ。

 奇跡など、起こるはずがない。

 しかし、他人のはずのクリスが、あの家に行きついたのは奇跡ではなかったか?

 奇跡は既に一度起こってしまったのだとしたら。

 ……もう一度起こると信じてみてもいいのかもしれない。

 恐る恐るポケットから取り出した青い端末は、沈黙していた。

「やっぱり……」

 それに、連絡があったからといって、何を言えばいいのだろう。

 今更、あの家に帰りたいなんて、言えるわけがない。

 半ば安心するような気持ちで再びポケットにしまおうとしたクリスの端末を、セイラが取り上げた。

「着信、入ってるわよ?」

 クリスの目の前にモニター部分を突きつける。一五秒前の着信履歴。発信者はユージン。

「見送りに来てくれたのかしら?」

 セイラが立ち上がった途端に、「いたぞ」という聞き覚えのある声が遠く聞こえた。ばたばたという足音とともに、誰かが走ってくる。近づいてくる。

「ほら、やっぱり。見送りに来てくれたわよ、二人とも」

 絶対怒ってるよ、オレが逃げたこと。

 後ろを振り向く勇気を持てないクリスの横で、セイラが無邪気に手を振る。

 近づくにつれ、走っていた二人分の足音は歩く速度へとテンポを変え、やがてクリスのすぐ後ろで止まった。

「クリス、よか、た……間にあって…………」

「こっちを向け、クリス」

 荒い息混じりのトーマスの声と、ほとんど乱れのないユージンの呼吸。

 クリスは立ち上がった。一度目を閉じて覚悟を決め、後ろを向く。

 上半身を折って、呼吸を整えようとしているトーマス。その隣には、朝と同じ黒いハーフコートのユージンが、不機嫌そうな顔で仁王立ちしている。乱れた髪が額にかかって、いつもより若く見えた。

 すごく怒ってる……。

 勝手に逃げたから? それともユージンを信じなかったから? もしかしたら両方かもしれない。

 うつむくクリスの前に、ユージンがコートのポケットから四つ折りされた紙を差し出す。

「まず、これを読め」

 広げると、それは鑑定書のプリントアウトだった。

――レット・ブランディワインが、クリス・バーキンの生物学的父親である確率はかなり高い。総合親子指数は三二万三九九七(事前確率を〇・五とし父子確率は九九・九九九パーセントに相当する)……。

 クリスは息を呑んだ。そして、当然の質問を口にする。

「……レットって、誰?」

「生物学的な父親だ。お前だけじゃなく、俺にとっても」

 ユージンがいかにも不本意そうに答えると、クリスの隣でセイラが驚いた声を上げた。

「あなたたち、異母きょうだいってこと?」

「でも、この人、年が……」

 クリスは鑑定書に、疑問と視線を落とす。

 レット・ブランディワインは、現在の年齢五十四歳となっている。十二年前は四十二歳。

 男については多少目利きだった母親が、いくらなんでも四〇代の中年男と二〇代の若者を間違えるはずがない。

「あいつは、十八の頃からクリッパーとしてずっと、金持ち相手のぼったくり延命用亜光速船に乗ってるんだよ。今はかの有名なエーオース号の船長だ。法的にはともかく、フィジカルには十年に三つしか年をとらない。つまり、お前の母親と知り合った当時のあいつの肉体年齢は二十五歳。計算は合うだろ」

「うそ……」

「嘘じゃない。ちなみに現在の肉体年齢は三十。俺より若いときてる」

 言い方がきつくて、やはり怒っているようにしか見えない。

「……怒ってる?」

 ユージンはそれには答えず、「ヴィターレさん、覚えてるか?」と尋ねた。

「昨日の弁護士の人……」

 初対面のクリスの頭を、妙に親しげになでた。まるで、昔から知っている親戚の子どもにでもそうするように。その感触を思い出す。

「あの人とレット・ブランディワインとは学生時代からの友だちで、何か法的な問題が持ち上がれば彼が対処することになっている。俺も十六年前に世話になった。昨日、うちを出た彼とエセルがどこに向かったと思う?」

「ここ?」

 エーオース号はずっとラグランジェ国際宇宙港に停泊していた。その船長ならば、ずっと船の近くにいたと考えるほうが自然だ。

「そうだ。恐らくお前の父親は、レット・ブランディワインだろうと俺は考えていた。だから、あいつとの鑑定も併せて依頼していたんだ。鑑定結果が俺の予想通りだったら、今日の午後、お前たちを会わせることになっていた」

「ちょっと待って。エーオース号って、さっき出港していかなかった?」

 セイラが口を挟む。

「そうなんですよ。ちょうど僕たちの宇宙船(ふね)と入れ替わりに、あっちはドッグに向けて出港していったんですけど、管制との発着港のやりとりの間に、私用通信では血も凍るような応酬が……」

 やっと息が落ち着いてしゃべれるようになったトーマスが、体を起こしながら答える。それを遮って急かすように、搭乗開始のアナウンスが流れた。

 五三番と書かれたゲートをくぐり、乗客たちは続々とポッドに乗り込んでいく。

「クリス、聞いてるのか?」

「聞いてるよ……」

 怒気をはらんだ声で凄まれて、クリスは他の乗客たちと一緒にゲートをくぐってポッドに逃げ込みたくなってきた。

 ポッドへの通路入り口に立つ女性乗務員と目が合う。「どうするの?」と問いかけるように彼女はクリスに微笑んだ。ターナソルに帰るならもう、時間はない。

「結論から言えば、逃げやがったんだあの男は! お前に会おうともしないで!」

 ユージンの口調は苛烈を極めた。しかし次の瞬間、差し出された彼の右手とともに、穏やかなものに転じる。

「お前のことは怒ってないよ。だから、一緒に家に帰ろう、クリス」

 青い月は、金色に変わった。

 ならば、答えは決まっている。

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