第五章 陽のあたる大通りで
おかわりした二つめのタルトを平らげ、ユージンは元気にソファーから立ち上がった。
「さて。糖分も補給したことだし、ばりばり家事を片付けようか、クリス」
なぜオレに振る?
朝食をしっかり摂ったにも関わらず、うっかりタルトまで食べてしまったクリスは、重くなりすぎた胃袋を抱えて彼を恨めしげに見上げる。
「ほら、立って」
目の前に手が差しのべられる。それを無視してぐずぐずと座り込んだままのクリスに、ユージンはにやりと笑った。
「立てないなら、抱っこしてやろうか?」
クリスは慌てて立ち上がった。後ろも見ずに、さっさと部屋を出て行くユージンを追いかける。
「手伝いっていっても手伝ってもらうようなことは大してないんだけどさ。猫部屋、見た?」
二階への階段の途中でユージンが立ち止まって振り返る。
「うん。トーマスさんに見せてもらった」
二人の間には少し距離があった。足早で追いかけてきたクリスを待って、今度はゆっくり歩き出す。
「そうか。でも紹介まではしなかっただろ?」
「紹介? 誰に?」
「猫に」
「オレに猫を?」
「猫にお前を、だ」
紹介するものとされるものが逆じゃないのかとクリスは思ったが、黙っていた。
階段を上がりきったところで、クリスは右手に目をやる。建物の二階右側はトーマスの部屋だと聞いている。
手前のほうの部屋では、トーマスは仕事をしているはずだった。仕事といっても、どういうことをやっているのかクリスには具体的にはわからない。彼らの体格や服装から判断すると、デスクワークなのだろう。
猫部屋の前に着くと、ユージンはドアを開けた。
「猫とのつきあい方四か条。一、大声を出さない。二、いきなり動かない。三、自分から近付かない。四、視線を合わさない。これさえ守れば、今日からアナタも猫にモテモテ」
「それ、アヤシイ広告みたいだよ」
胡散臭い口上を述べながらユージンがドアを押さえている間に、クリスは部屋に入った。
昨日は覗いただけだった部屋の中は、ユージンの部屋よりは若干狭い。そのかわり、部屋の右側に小部屋がついている。本来はウォークイン・クローゼットなのだろう。見なれぬ人間の姿に、人見知りらしい2匹が逃げ込む。
「今逃げたのが、ブギーとサダ。あいつらちょっと臆病だからな」
入って左側の壁沿いには、天井と床の間にはまった太いつっかえ棒に、棚や箱がついたようなものが三本ばかりある。真ん中の棒の、一番上の棚の上からは、顔の上半分が仮面を被ったように黒い白黒猫が神妙な顔つきで、きちんと座って見下ろしている。その両側の棒の棚には、寝そべった茶トラと白猫がそれぞれ陣取っている。
「真ん中の白黒がボイシー、左のオレンジのがロロ、右の白いのがタマラ」
クリスの視線を追うように、ユージンが猫の名前を説明する。
窓側の、大きな布を被せたソファの真ん中には、黒と茶が細かく混ざったような猫が前足を揃えて寝そべっている。それと体をくっつけて座っていたグレー縞の猫は、毛繕いの途中の片足を伸ばし、舌を出したまま、驚いたような顔でこちらを見ている。
「そのべっこう色の猫がカヤ、グレーのがフレディ」
べっこう色という言い回しは初めて聞いたが、言われればそう見えないこともない。
もう一つのソファから飛び降りた大きな黒猫が、伸びをしながらクリスの足下にやってきた。黒ヒョウのようでかっこいい。黒猫はにゃあと鳴く形に口を開け、体をクリスに二、三度こすりつけると、腹を見せて転がる。
「相変わらず警戒心ないなあ、ジェイは」
後ろからやってきたユージンはクリスの脇にかがみ込んで、黒猫の腹をがしがしと擦る。猫は両手を両足を伸ばし、気持ちよさそうに床の上に長く伸びた。それをユージンはひょいと抱え上げて、「抱いてろ」とクリスに渡す。
反射的に差し出してしまったクリスの腕に、仰向けの黒猫が収まった。目を細め、満足そうにぐるぐると喉を鳴らしている。見た目よりずっと重く、温かくてぐにゃぐにゃしている。抱えるのは思ったより大変だった。
「そいつはジェイ。重かったら下ろしてもいいから」
言い置いて、ユージンはソファから猫を追い立て、ソファにかけてあった毛だらけの布カバーを外した。クローゼットから新しい布を持ってきて被せると、追い払われていた二匹が戻ってきて、当然のような顔でまた同じ場所に座り込む。
「座れば?」
言われて、ぎこちない手つきで黒猫のジェイを抱えていたクリスは、カバーを替えたばかりのもう一つのソファに座った。
とたんに仰向けの猫がもがいたので、逃げたいのかと思ったクリスはそっと腕から放す。するとくるりと半転して姿勢を整えた黒猫は、クリスの方を向いて膝の上に乗ってきた。そのまま、前足を胸にのっしりとかけ、顔を近づけてくる。
クリスは顔を反らせた。ジェイは喉を鳴らしながら、クリスの顔に何度も頭をこすりつけてくる。
使用済みのカバーをもってどこかに行っていたユージンが、黒猫にのしかかられているクリスを感心したように一瞥する。
「随分と気に入られたな」
「助けてよ……」
「ジェイは人間大好きだからなあ」
気にも止めず、ユージンはもう一つのソファの後ろにしゃがみ込み、なにやらチェックを始めた。
今や黒猫は、熱い包容を交わす恋人同士のような親密さでクリスの首にしがみつき、濡れた鼻面を押しつけるだけでなく、クリスのほっぺたをざらざらする舌で舐めたり、顎の先を軽く噛んだりする。
しばらくして、作業を終えたらしいユージンが、黒猫の胴体を片手でひょいと抱えて引き離す。そのまま床に下ろすと、ジェイはユージンを見上げて甘えるように声を出さすに鳴く。しかし、ユージンが構ってくれないとわかると、がっかりしたようにクローゼットに入っていった。
「さっきの黒いやつの名前覚えた?」
ごしごしと服の袖で顔を拭っていたクリスの隣に、作業を終えたらしいユージンが座った。
「ジェイでしょ」
「じゃあ、残りは?」
「ロロ、ボイシー、タマラ、フレディ、カヤ。クローゼットにいるのが、どっちがどっちかわかんないけど、ブギーとサダ」
左手から順に名前を挙げると、おおーと大げさに拍手された。誉められたというより、バカにされてる気がする。
「クローゼットの中のは、白黒がブギーで、三毛がサダ。そのうち慣れて出てくる。あっちから寄ってくるまで放っておけば、嫌われることはない」
オレにもそうしてくれたらいいのに。
こんな風にずっと側にいられると、なんだか調子が狂う。
「ねえ、なんで猫なの? 犬のほうが賢いし、言うことも聞くじゃない? 犬は嫌いなの?」
こんな風にくだらないことを聞いてしまうほど。
「犬も好きだよ。でも、一緒に生活するとなるとちょっと疲れるからさ」
「なんで?」
「人間が犬になめられたら、お互いの不幸になるだろ? いつでも人間は犬より偉くなきゃいけない。それって疲れないか?」
犬は飼い主の家庭を一つの群に見立てて、自分をその構成員と考える。家族に小さな子どもなどがいる場合は、犬は子どもを自分より格下の存在と考えることもあり、人間のほうが上なのだときちんと順位づけされていないとトラブルが起こることもあると聞く。
「家の中では、そういう上下関係は考えたくないんだよなあ」
仰向けにソファに寄りかかったユージンが、同意を求めるようにこちらを見る。
人間のくせに、犬以下の地位でもいいというのか?
理解できない……。
クリスはふるふると首を横に振る。
「猫はさ、もっとフレキシブルだよ。普段は対等なんだと思う。でも、自分が甘えたいときは人間を親がわりにして、人間が落ち込んでるときは自分が親のつもりで面倒をみてくれるんだ」
「猫がどうやって人間の面倒みるの?」
「それは実際にそうなったとき、確かめてみればいいさ」
そう言うと、ユージンはカーディガンのポケットから端末を取り出して時刻を確認した。
「さーて、そろそろ買い物行くか。めんどくさいなあ」
背伸びしながら立ち上がるユージンを見て、この人でも落ち込むことがあるんだろうか、とクリスは思う。
悩みもなさそうだし、苦労もしてなさそうだし、他人にバカにされたこともないのだろう。だからこそ動物になめられても平気みたいなことを言えるのだろう。
でも、さっきの「実際にそうなったとき」という言い方は、彼も実際にそうなった経験があるように聞こえた。
「何ゆっくり座ってんの。お前も一緒に行くんだよ、クリス」
……のは気のせいなんだろう。
断りようもないので、クリスは黙ってついていく。
すぐに出かけるかと思いきや、一度ダイニングに立ち寄った。
「クリス、端末貸して。設定やりなおすから」
言われて、青い携帯端末をユージンに渡す。
クリスの現在の設定では、家の施錠と解錠、家電の操作くらいしかできない。もう少し権限を拡張するつもりなのだろう。それなら、もうパスワードは探らなくてもいいかもしれない。サーバに直接アクセスできれば、何か釣果はあるだろう。
「その間に俺の部屋のクローゼットからコート持ってきて。何でもいいから適当に」
「……わかった」
人づかいの荒さにむっとしながらも、二階に向かった。
ユージンの部屋のクローゼットを開けて、コートを探す。掛けてある服は黒や灰、紺などの地味なものばかりで、たまにとんでもなく派手な花柄のシャツなどが混じっている。
「なんなんだ、この人の服の趣味は?」
言われた通り、適当に選んだ黒いコートをハンガーから外したとき、クローゼットの左奥にスーツケースが置いてあるのに気がついた。コートを抱えたまま、クローゼットに潜り込む。スーツケースには6桁の電子数字錠がついていた。
「鍵付きってことは、なんかあるんだよな」
しかし、今は時間がない。中身を探る機会は後でもあるだろう。
クローゼットを閉めて階下に戻ると、ユージンが待ちかねたように「ほら」とクリスに端末を押しつける。
「メッセージサーバへのアクセスができるようにしておいた。今日の鑑定結果は明日メッセージで来るはずだから」
「わかった。ありがと」
メッセージだけかとがっかりしながら青い端末を受け取り、かわりに黒いコートを渡す。
ありがとうと言いつつ受け取ったコートをユージンがなかなか着ようとしないので、どうしたんだろうと見ていると、どこからか音楽が聞こえてきた。
古くさいメロディに乗った男の声が「紙の月も、書き割りの海も、君が信じてくれるなら本物になるよ」と歌う。それはクリスの端末から流れてきていた。
端末に着信中のユージンの名前を確認したクリスの口から出たのは、自分でも予想していなかったほど皮肉めいた声だった。
「……何これ?」
「『ペーパームーン』て曲。知らない? 着メロにしてみた。個人的な好みでいえば『ルート66』のほうなんだが、俺たちにはこっちのほうが似合いだから」
「君の愛がなければ、この世はニセモノ」と歌は続く。失笑したくなるほど安っぽいラブソングだ。
信じてくれるなら本物になるってことは、今はニセモノってことだ。それが自分たちに似合いというなら、自分たちは親子ではないと暗に言われているようで。
「気にくわなければ、他の曲でもいいけど? リクエストがあれば……」
「このままでもいいよ。変えるの面倒でしょ」
譲歩案をさえぎって却下し、メロディの途切れた端末を上着のポケットに入れた。
この家にいるのも、長くて明日まで。どうせこの曲が鳴ることはないのだから。
「行かないの? 買い物」
ダイニングを出るドアを開けながら、紙の月が本物になるように、ニセモノがホンモノになることなんかあるんだろうかとクリスは考えていた。
そんなことがあるのなら奇跡だ。
クリスは、奇跡を信じたことも、祈ったこともなかった。
「こっちだ」とか「あっちだ」とユージンがたまに道案内する以外は黙りこくったまま、二人でひたすら歩いて二〇分。大通りに出た。
まだ一〇時すぎだというのに、人工太陽が真上から照らす通りは影がなく、夏の正午のよう。なのに、気温は冬で、クリスには違和感ばかりだ。
ユージンの家のあたりは住宅ばかりでせいぜい二階建てだったが、通りを隔てたとたんに今度は中層のビルばかりになる。一、二階が店舗や事務所というものが多い。人通りも相応で、出勤や仕事の途中らしいスーツや制服、作業着などと、近場への買い物や用足しといった気楽な服装が混じり合っている。
夜に光っていた地下都市(ジオフロント)を支える柱が近くなるにつれ、建物の高さも高くなっていくようで、中層の街の更に向こうは更に高い建物の影が見えた。
大通りから小さな通りに入って、右折と左折を繰り返して更に十分。
飲食店の集まった路地に出た。開いている店は多いものの閑散とした雰囲気で、昼の仕込みのために何かを煮込む匂いがあたりに漂っている。
その中の、赤に金字の派手な看板の店にユージンは向かっていった。普通の飲食店のようなガラス張りのドアもあるが、中身のないショーケースもその横にあって、店頭売りもしているらしい。
こんにちはとユージンが声をかけると、ショーケースの上のガラス戸が開いた。
「久しぶりだね」
「仕事が立て込んでたんだ」
顔を出したのは、昔は美人だったんだろうという風情を残した初老の女で、ユージンの後ろにいるクリスに気づくと、「おや?」という顔をした。
「あんたの子?」
「そう」
軽い一言だったが、クリスはどきんとして見上げる。特に愛想よくもない普通の様子で、ユージンの表情に変わりはない。
「今日はまだ何も出来てないんだけど、冷凍でいいかい?」
「いいよ」
「じゃあ、何をあげようか?」
「ギョーザ二十個と、ニラまんじゅう十五個、ある?」
言いながら、ユージンは持ってきた布の買い物袋の中からタッパーを取りだしてショーケースの上に置く。女はそれを受け取り、「少し待ってて」と奥に引っ込んだ。
「三〇〇だよ」
しばらくして戻ってきた女に言われたユージンは、チェッカーにカードを差し込んで清算する。
礼を言って、タッパーを持参した買い物袋に入れ、行こうとする二人を女が呼び止めた。
「ちょっと待ちな。あんたじゃなくてそっちの子のほうだよ」
クリスが近づくと、ショーケースの上から、「ほら」と小さなプラスチックの袋を落とされた。受け止めると、茶色の棒のようなものが入っている。
「サンザシだよ。お食べ」
「……ありがと」
クリスが礼を言うと、
「今度は店のほうにおいで。父さんと一緒にね」
女は手を振って店の奥に消えた。
それからその界の八百屋や肉屋や魚屋を回るたびに、「あんたの子か?」「そうだ」というやりとりが繰り返され、その度に何かしらちょっとした商品がおまけとして追加された。おかげで、必要な品物を一通り整えた頃には、買い物袋は三つになっていた。重そうに揺れるその荷物を両手で持って、ユージンはクリスの前をすたすたと歩いていく。
まだ鑑定は済んでないのに、あまりにも当たり前のように自分の子どもだと肯定するので、クリスは不思議で仕方ない。
「ねえ」
「ん?」
呼びかけると、ユージンは足を止めて振り返った。
「なんでオレのこと、『子どもか?』って聞かれて否定しなかったの?」
「それが一番面倒の少ない答えだからだ」
何事もなかったように再び歩き出したユージンを、クリスは追った。並んで歩きながらまた問う。
「どういう意味?」
「例えば『違う』と答える。そうすると、『じゃあ、この子はお前の何なんだ?』という話になるだろ? 『親子かもしれなくて、鑑定待ちです』なんていちいち説明するの、めんどくさいじゃないか」
「違ってたらどうするの? 親子じゃなかったら」
「『実は違いました』って後で言えばいいんじゃないか?」
少しがっかりするような、納得するような。でも、さほど嫌な気はしない。
もし、彼がそんな問答自体をしたくないのなら、そもそも買い物にクリスを連れていくなんてことはしないだろう。行くとしても、そういうコミュニケーションが発生するようなタイプの、しかも行きつけの店ではなく、途中にあったスーパーマーケットのほうに行くだろうから。
それに鑑定の会社を変えたのだって、安くなるとか融通が利くとか、そういうメリットがあって、知り合いのところに頼もうと思っただけかもしれない。
そこまで考えたとき、クリスは隣にいたはずのユージンがいなくなっているのに気がついた。
見回すと、五メートルほど先でクリスを待つように突っ立っているユージンがいた。慌てて追いつくと、彼は黙って歩き始める。
自分が選んだコートを着たその背中を見ながら、クリスはまた考える。
あの曲、『ペーパームーン』。何か意味があるのかもしれない。「俺たちに似合い」と彼は言ったのだから。
ちょっと聞いただけでは、ありがちなただのラブソングで、男が信じてくれとか君の愛がなければと訴えてるところから推察するに、つきあい始めで信頼関係がまだ浅いか、浮気がばれたかという状況だろうか。
それが自分たちにどう関係しているのか、どうもよくわからない。どう考えても親子とは関係のない恋の歌だ。
ユージンがクリスに自分を信じてほしいという気持ちを託したと考えてみるが、何を信じてほしいのか、思い当たることがない。逆にクリスがユージンに信じてほしいことも、当然ない。
だったら、なぜあの曲なんだろう?
そこでクリスは自分が立ち止まっていることに気づく。目の前にあったはずの背中は消えていた。
前方を見ると、やはり五メートルほど前でユージンがこちらを見ている。小走りで駆け寄ると、彼は両手に持っていた荷物を左手にまとめた。
「手、出して」
手のひらを下にして両手を出すと、クリスの左手をユージンは空いた右手で握った。そのまま彼は歩き出す。ひっぱられて歩き始めたクリスは、自分が幼い子どものように彼と手をつないでいるのに気がついた。
「離してよ」
さすがに十一にもなって、誰かと手をつなぐのは恥ずかしい。
振り離そうとするクリスの手を、ユージンは強く掴んで離さない。きつく握られた手がしびれてきた。
「わかった。このままでもいいから、力抜いて。手が痛いよ」
「お前は考え事し始めると足が止まるみたいだから、どうも危なっかしくて仕方ない」
クリスの訴えにユージンは慌てて力を弛め、言い訳のように呟く。
初めて通る道に気を取られて、行きは平気だった沈黙が、帰り道ではどうにも耐え難く感じられるのは、道を覚えて町並みも見慣れて飽きたせいか、それともつないだ手の温かさのせいか。
クリスが母親と最後に手をつないだのは、確か六歳くらいの頃だった。
この人はどうなんだろうと考えて、そういえば、ユージンの家族構成を知らないことに思い至る。
結婚や離婚の多い昨今では、個人情報は家族といえども同居していても本人の許可なく知らされることはない。家族や親しい間柄なら、普通は聞けば教えてもらえることなので、わざわざ開示請求まで出すことはないのだろうが。
「あの、家族って、いるの?」
「俺?」
歩きながらこちらを見るユージンに、クリスはこくんと頷く。
「しっかり者の、弟みたいなのなら一人いるけど」
トーマスのことだと思った。
「でも、そう思ってるのはこっちだけかもしれないし、面倒かけてばかりだから、いつか愛想つかされてしまうかもね」
そうなることをむしろ願っているような口ぶりに驚いて見上げると、ユージンは少し笑っていた。穏やかな諦めがその笑みには含まれているように、クリスは感じた。
トーマスは、ユージンに家族を望んでいる。
でもその当人は、トーマスを既に家族として認めている。そのくせ、こんなことをこんな顔で言う。クリスには不可解だった。
相手のことを思っているのに、なんだかズレている。そんな話をどこかで読んだことがあった。ある夫婦の幸せな物語。確かクリスマスのプレゼントを買う話だった。
見回せば街の飾りつけはクリスマスのディスプレイが施され、赤と緑を基調に、白に金銀と華やかだ。プレゼント用品のディスカウントに入っている店もあった。
「本当の親とかきょうだいはいないの? 例えば、クリスマス・カードを送るような」
「法的には父親はいるが、カードを送ったことはない」
そう言う横顔はさほどでもないが、憂鬱そうな口ぶりがひっかかった。
「法的ってことは、義理の、とか?」
「いや、生物的な。いわゆる実父というやつだけど、母は結婚式の二週間後に離婚してしまって、俺が写真じゃない実物に会ったのは今までで一度だけだ」
クリスの身の回りにも、結婚してすぐに離婚するカップルは多かったが、それにしても最短記録といえる。
「なんでそんなにすぐ離婚しちゃったの?」
「母曰く、ありえないほど女癖が悪かったそうだ」
「そんなに?」
「俺もその話を聞いたときは、嫉妬で誇張が入ってるんだろうと思った。でも実際に会ってみたら、それが真実だとわかったよ」
口ぶりだけでなく、今度は表情まで憂鬱そうになって語るが、その血を引いているのならユージンだって多少はそういうところがあるのだろう。そうでなければ、母親のエレンが食いつくはずがない、とクリスは密かに思う。
「一度って、いつ? どうして会おうと思ったの?」
「十五歳のとき、母が事故で亡くなった。それで調べてみたら、父が生きていることがわかって、会いにいった。身元引受人が欲しくて……いや、違うな。自分の根源みたいなものを確かめたかったのかもしれない」
「ふーん」
気のない相づちを打ちつつも、自分たちの境遇は少し似ているとクリスは思った。
「お前もそんなことを考えて、うちに来たんじゃないのか?」
言われて考え込む。
そういう部分もあるのかもしれない。復讐、それだけではないのだ、多分。今、クリスがここにいる理由は。
だからといって、ユージンのように単純に父親に会ってみたいというだけではない。
クリスが何らかの怒りを感じていて、父親であるユージン・ブランディワインという人物の存在がはっきりすると、彼に向かって復讐という名のベクトルを持った。それは確かなのだ。
そこまで考えたとき――、
「……あ」
またもや足が止まっているのにクリスは気づいた。つないだ手はひっぱられることはなかった。ということは、クリスに合わせてユージンも立ち止まったのだ。
気まずい思いで左手を見上げると、自分をじっと見ているユージンと目が合った。苛ついているようにも怒っているようでもなく、どちらかというと面白がっているように見えた。
「行くぞ」
出発の合図のように、つないだ手を二、三度振って、ユージンはまた歩き始めた。
立ち止まってばかりいるクリスを叱ったり責めたりする言葉がなかったので、素直に謝る気になった。
「あの、ごめんなさい。何度も止まって」
「いいんだよ。一四時までに帰り着けばいいんだから」
まだ一一時にもなっていないのに、いくらなんでも気の長い話だ。
「それじゃ、お昼ご飯なくてトーマスさんが困るでしょ」
「自分でなんとかするよ、彼なら」
「お客さん、来るんじゃなかったの?」
「大丈夫だって。トーマス君がなんとかするから。冷凍庫にはピザもあるし」
と、つないだ手がかくんと後ろに引かれて、クリスは振り返る。今度はユージンが立ち止まっていた。
「昼飯を作らなくてすむっていうのは、ちょっといい考えだな。クリス、どこかに食べに行かないか?」
「そんなのダメ!」
ユージンの手を引っ張るようにして、クリスは帰路をたどった。
「待ってたわよ」
買い物から帰ってきた二人を、女の声が出迎えた。
「うわ。めんどくさい人が……」
ダイニングの入り口の床に荷物を落としたユージンが、片手で顔を覆う。
脚を組み、ソファーに腰掛けて待っていたのは、妙齢の美女だった。黒いエレガントなドレスをまとっていて、結い上げた蜂蜜色の髪の先から華奢なデザインのハイヒールのつま先まで、まんべんなく金がかかってそうだ。
「勝手に子どもを作るのはともかく、私の呼び出しに応じないってあなた、どういう了見?」
「あのさ、俺、オフなんだよね。明後日まで。それまで忙しいんだよ」
気を取り直したらしいユージンが、荷物を持ち直してキッチンに入る。挨拶のタイミングを逃したクリスも、何となく彼に隠れるようにしてついていく。
「明日と明後日のスケジュール、どうなってるの? 教えなさい、オーカス」
ユージンの抗弁など聞かなかったように、ソファーからほぼ命令に近い質問が飛ぶ。
「オーカスって何?」
クリスが小声で聞くと、「俺の仕事上のIDだよ」とユージンも小声で答えた。
「あの人、恋人?」
あちらが若干年上に見えたし、力関係が一方的な気もするが、それも好きずきというものだろう。男女の仲は外からは理解できないことも多い、ということをクリスは十一歳にして悟っていた。が、ユージンはとんでもないという風に首を横に振る。
「あれは仕事の師匠だよ。IDはアリス」
アリスというよりはハートの女王だ。
ヒールの音がコツコツと近づいてきた。うふふ、という色っぽい笑い声とともに、アリスはカウンター越しにキッチンを覗き込む。クリスは思わず、ユージンの後ろに隠れる。
「ねえ。スケジュール、教えなさいよ、オーカスってば」
「……まだ未定だけど、明日の午後は人と会う約束が入るはずだから駄目。明後日ならいい。でも、明日は絶対駄目」
買ってきたものを作業台の上で仕分けしていたユージンが、根負けしたように言う。それから、思い出したようにコートを脱いで、近くにあったの箱の上に放った。
「んー。ちょっとタイトだわねえ。でも、ま、大丈夫でしょ」
アリスは唇に指を当てて、モデルのようにくるりと踵を返した。ほっそりして姿勢が良く、背も高かったが、モデルにしては、やや古風な雰囲気の美貌ではある。
クリスはユージンが脱ぎ捨てたコートが気になって仕方ない。品は悪くないのに、あんな風に放り出していては型くずれしてしまう。
「これ、掛けてくるよ」
放り出されたコートを掴んで部屋の入り口のハンガーに向かう。「ありがとう」というユージンの少し戸惑うような声が背中で聞こえた。
コートを掛け終え、キッチンに戻ろうと振り向いたところで、猛獣のようなアリスと目があった。
「あなたね、うわさの、彼の子どもっていうのは」
ヒールの音も高らかに近づいてきたアリスは、クリスの片腕を取った。
「ちょっと………やだ……」
抵抗しようとしたもう片方の腕もまとめて、クリスの両腕はひねり上げられた。あっという間に。しかも片手で。アリスの腕は細いくせに力が強く、振り切れない。
空いた手でクリスの顎を持ち上げ、アリスはためつすがめつ検分する。
「ねえ……」
クリスはキッチンの中のユージンに目で縋るが、
「クリス。諦めてくれ」
という頼りにならない返答が、野菜を洗う水音に混じって聞こえた。
「クリスっていうの? そんなに怖がらなくていいのよ。ふふ。ほんとに昔のユージンにそっくり。まあ、お肌すべすべ」
なでられる。頬ずりされる。抱きしめられて、もみくちゃにされる。
「何をやってるんですか。その子から離れてください」
涙目になっているクリスを救ったのは、トーマスだった。
「出たわね、ディー。若造は引っ込んでなさい。生意気なのよ、あなた」
トーマスは部屋の入り口近くで弄ばれていたクリスに近付くと、アリスから引きはがした。そして、クリスを背後にかばうようにしてアリスに詰め寄る。
「食事の準備でも手伝おうと思って、午前の仕事を早く切り上げてくれば、なんなんですかこれは?」
「触るぐらいいいじゃないの、減るもんじゃなし」
「減りますから触らないでください」
きっぱり言いきられて、アリスはたじろぐ。
「ふん。いいわよ。打ち合わせに行っちゃうんだから!」
「あれ、今日は食べていかないの、師匠?」
自分でコートに腕を通す美女に、ユージンが意外そうに声を掛ける。
「ランチ・ミーティングだから、最初からそのつもりはなかったわ」
「ああそう。じゃあ、また今度」
「あなたも自分の弟子のしつけくらいちゃんとなさい、オーカス」
部屋の入口で立ち止まってトーマスを睨み、アリスは出て行った。
「弟子?」
トーマスの背後から顔を出したクリスが、彼を見上げる。
「僕らの仕事って責任とか絡みが複雑で、師弟制度をとってるんだよ。仕事を紹介してくれることも多いし、何か手に負えない問題が起こったら、師匠が出てきて収拾することになってるんだ」
それならば、アリスの横暴なふるまいをユージンが許しているのもわからないでもない。
「ちなみに、僕の師匠はユージンということになっている」
遺憾そうなトーマスに、クリスは心底同情した。
ちょうど十二時に現れた、次の訪問者は小型だった。
「こんにちはー。SAM探偵事務所のショーでーす」
軽い挨拶もさることながら、どう見てもハイスクールの生徒にしか見えない幼い背丈と顔つきは、百歩譲っても大学生。一応ネクタイとジャケット姿だが、見事な赤い髪といたずら小僧のようなそばかすも相まって、制服にしか見えない。
「久しぶり」
クリスと一緒にテーブルを片づけていたトーマスが、笑顔で挨拶する。
これが、探偵?
ドラマとか映画って、ほんとにフィクションだったんだなあ……。
内心がっくりしていたクリスに、探偵が人なつこい笑顔で右手を出す。
「君がクリス・バーキンだね。話はユージンから聞いてるよ。僕はエセルバート・ロイ・ショー。エセルでいいよ。今日はよろしくね」
「よろしくお願いします」
握手を交わしたところに、ユージンがキッチンから顔を出した。
「よう、エセル。あと五分待って」
それだけ言って、また引っ込む。
「オッケー」
持ってきたアタッシュケースを壁際において、エセルはトレンチコート――ダッフルコートだったら絶対に学生にしか見えなかっただろう――を脱いだ。この家に来る他の客と同じように、自分でコートをハンガーにかける。
テーブルの準備は終わって、トーマスは出来上がった料理を運びつつあった。クリスもあわてて手伝う。
セロリと大根の炒めもの、青梗菜のオイスターソース炒め、粟米湯(コーンスープ)、麻婆豆腐、海鮮あんかけ焼きそば、鳥の唐揚げと付け合わせの白菜サラダ、それと杯のような小ぶりの茶碗に入った中国茶。
取り皿も準備し、四人揃ってテーブルにつく。
「わーい。中華だ。いただきまーす」
探偵は元気よく先陣をきった。まず唐揚げに取りかかる。
「唐揚げはちょっと味薄目だから、必要なら山椒塩でもスイートチリでも好きなほう使って」
「了解」
返事をしたエセルは、揚げたての熱い鶏肉にかぶりつく。
唐揚げは、信じられないほどの量を揚げていた。揚げるのを見ていただけでクリスは既にお腹いっぱいの気分だったが、ユージンに聞くと、夕食にまた出る予定だそうだ。手を出す気にはとてもなれない。
「後で、餃子とニラまんじゅうも出るからそのつもりで」
「あ、そうなんですか」
焼きそばを取り分けたトーマスに、ユージンが一言入れる。
「白いご飯が欲しい人は遠慮なく言ってくれ。解凍すればあるから。ただし先着二名まで」
言いながら、ユージンは自分の取り皿に麻婆豆腐をてんこ盛りにした。
「クリス、この人、いくつに見える?」
食事も進み、皿も大分空いてきた頃、次の料理の準備のため一度中座したユージンが帰ってきてクリスに聞く。この人というのは、探偵のことだ。
そんなことをわざわざ聞くということは、見た目通りの年齢――せいぜい二十かそこら――ではないのだろう。トーマスの友達なら、年齢も同じくらいというところか。
「トーマスさんと同じくらい?」
「はい、ハズレ。僕、三十歳です」
クリスの目の前の席の探偵が自ら答える。
麻婆豆腐に口をつけたクリスは、派手にむせた。
「そんなに驚いたか?」
「いや、そうじゃなくて。何これ。辛っ……」
黙ってにこにこしている探偵に代わって、出題者のユージンが意外そうな声をあげる。本当は驚いたのもあったのだが、それをごまかしてもなお麻婆豆腐は辛かった。
「あー、子どもにはちょっと辛かったかなあ」
「そんなことないよ。麻婆豆腐ならこれくらいがいいと思うけどな、僕」
ユージンが言うのに、味見をしたエセルはしれっと答える。
中身はやっぱり大人なんだ、この人。
クリスは妙なところで感心する。
「そういえばエセル、エクスプレス・パックって本当に十二時間で大丈夫なのか?」
「今までの経験から言えば、大丈夫だよ。バイオローカスのスタッフは真面目で優秀だから、実際は十二時間かからない。経験済みだよ」
チリソースを取り皿に足したエセルにユージンが尋ねると、彼はそう断言してまた唐揚げにかぶりついた。
「じゃあ、一二時は確実だな。一応、一四時のつもりで段取りしてあるから、現行で問題ないか」
エセルは唐揚げをくわえたまま、うんうんと無言で同意する。
クリスには何のことだかわからなかったが、遺伝子座(ローカス)という名称から、親子鑑定に関係があるのではないかと思った。少し気になったものの、その会話はそこで終わってしまった。
蒸籠(せいろ)に入ったギョーザと、蒸した後に軽く焼いたニラまんじゅうが出されて、昼食は終わった。
トーマスは「また今度ゆっくり」とエセルに言い残して、仕事に戻った。
交代で歯を磨き、三人並んで口臭予防タブレットを服用したあと、ユージンは後片付けをしながら、エセルとクリスはソファーでそれぞれコーヒーと紅茶を飲みながら、一四時になるのを待っていた。
「どうやってトーマスさんと友達になったんですか?」
上品で真面目で優等生のようなトーマスと、元気で活動的で親しみやすそうなエセルではタイプが少し違う。エセルの場合、本人も自分がそういうタイプに見えることをよくわかって、ことさらそのようにふるまっているようにも思えたが、年齢も違う彼らは、学校やスポーツクラブで知り合った仲でもないだろう。
「僕らの事務所ね、六年前に友達と三人で立ち上げたんだけど、最初に受けた仕事がトーマスの護衛だったんだ」
「……護衛?」
「二年に一回、火星で武器の見本市があるんだよ。本当は情報業界団体の代表としてユージンが行く予定だったんだけど、彼、盲腸になっちゃって」
「いまどき、盲腸ですか?」
大昔にはかなりポピュラーな病気だったが、現在ではかかる人間のほうが少ないと聞く。
「いまどきでもなんどきでも、なっちゃったもんは仕方ないよ。それで、代わりにトーマスが行くことになったんだ。でも、以前の見本市のとき、代表で行った人が行方不明になったことがあって。それ以来、協会の経費で護衛をつけてもいいっていう規定ができたんだ。で、初めて護衛がついたのが、トーマスだったんだよ」
「護衛っていうから、トーマスさん、実はVIPなのかと思っちゃったよ」
いやあ、違う違うと、エセルは笑って否定した。
「詳しいことは守秘義務あるから言えないんだけど、そのときちょっとした事件に巻き込まれちゃってさ。結果としてはこの通り。彼も僕も無事で、めでたしめでたし。それ以来の付き合いかな」
「守秘義務なんて言葉、生で聞いたのは初めてだよ。すごいね、エセルさんの仕事」
「そう? トーマスの本当の専門は歴史だから、あんまりそういうことはないみたいだけど、ユージンは軍事だから誰にも話せないことはたくさんあるんじゃない?」
「そうなの……」
守秘義務満載の男は、のんきそうに鼻歌を歌いながらキッチンの中で洗い物をしている。
「知らなかった?」
「うん。昨日会ったばっかりだし」
「そうか。そうだよね」
復讐しようと決意はして月に来たものの、クリスはユージンのことはほとんど何も知らない。
本当に彼は、復讐されなきゃいけないほど、悪いことをしたんだろうか?
一瞬、自分の行動への疑問がよぎる。
でも、そうしなきゃ、何のためにここまで来たのかわかんない……。
そのとき、呼び鈴が鳴った。時計を見るとちょうど十四時。
セイラと弁護士の来訪を知らせるベルだった。
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