第四章 グッドモーニング、メリー・サンシャイン

 目覚めたとき、クリスは自分が何か肌触りのよいものに頬をぴったりつけているのに気が付いた。ぬいぐるみにしがみつく幼児のように、腕を回してかかえ込んでいる。温かくて気持ちがよいので、それを抱えたまま寝返りを打とうとしたが、意外と重いのか、かなわない。

 瞼を開くと、目の前のそれは黒かった。

――なんだ、これは。

 ぼやけた意識のまま何気なく足元に目をやると、大小二つの見覚えのない家具がある。小さいほうの上には見覚えのあるクリスのバッグが載っている。

 左がまぶしいのは窓があるからだろう。

 では右の方は、と頭を上げたときに、完全に目が覚めた。

 人がいる。

 そして自分の抱えているものは、その人間から伸びている黒い服の腕だった。

「何これ?」

 慌てて起きあがって、放り投げるように腕を離す。

 ベッドの上に座り込んだクリスからは、眠りこけるその腕の持ち主の顔が見えた。

「ユージン……」

 同時に昨夜のことも思い出した。既に「さん」付けする気は失せている。

「通報しとけばよかったかも」

 朝の光の中だからこそ悔し紛れにこんなことも言えるものの、夜だったら一人でいられなかったのは自分でもわかっている。

 おまけに、彼の腕を抱え込んで目が覚めた。眠るときには確かに背を向けていたのに、どこをどう寝ぼけてそんなことをしたのか自分でもわからない。

 今になって考えれば、昨夜の幽霊が出るという話も本当のことなのか怪しい。確かに外観は少々荒れて気味が悪いが、家の中はきれいだし、現に人だって住んでるのだ。

 まんまと騙されたような気がして、じんわりとした屈辱を感じる。

 しかし、わからないのはこの男の思惑だ。

 この、自分のベッドに寝たいだけなら、あんな話などせずにクリスを部屋から追い出せば済むだけだ。大人の力をもってすれば簡単なことだろうし、そもそもクリスをこの家に泊めなければよかったのだ。

 一体何を考えているのだろうと、改めて寝顔を覗きこんでみる。

 男性にしては線の細い整った顔立ちは、眠りの神の手によってますます性別不明に見えた。

 もちろん、何を考えてるのかなどわからない。ただ、なんとなく幸せそうな寝顔だった。

 こちらの気持ちなど知らぬげなその寝顔に苛つく。やはり今から警察かセイラに連絡しようかと思ったが、完全にタイミングは逸してしまっている。昨夜のあの時点で連絡しなければ意味はない。

 クリスはため息をつくと、枕元に落ちていた自分の青い端末を拾った。着替えるためにバッグを持って部屋を出た。

 階段を下りるとすぐに、かすかに、パンの焼ける香ばしい匂いが漂っていることに気づいた。

 一階の風呂場で身支度を終えて、廊下のすぐ奥のダイニングキッチンに入ると、大きな方のソファーで服を着替えたトーマスがお茶を飲んでいた。明るいグレーのジャケットの襟元から、淡いレモンイエローのシャツが覗いている。壁のモニターはニュースを流していた。時計は七時半を指している。

「おはよう、クリス」

「おはよう、トーマスさん」

「朝ご飯、食べるでしょう? そこに座ってて」

 トーマスはすぐに立ち上がった。食卓に座るようクリスに示して、キッチンに向かった。テーブルにはクロスではなく、二枚の布のプレースマットが敷かれていた。昨夜、ユージンとクリスが座っていた席だ。

「トーストとシリアル、どっちがいい? どっちも欲しいならどっちも用意するけど」

 昨日と同じ席に座ると、カウンターの奥からトーマスが声を掛けた。

「あ、ええと、シリアルで」

 母親と一緒に生活していたときは、いつも朝はシリアルだった。学校帰りにそこらの店で買ってくる、何の変哲もないコーンフレークに牛乳をかけ、あればオレンジが一個ということが多かった。

「量は適当でいい?」

「はい」

 ざっとシリアルが盛られる音がして、カウンターの上にスプーンの入ったボウルが、続いて牛乳のプラスチックボトルが置かれた。

「取りに来てね」

 カウンターでシリアルに牛乳をかけていると、「これもね」とトーマスがジュースのコップをカウンターに載せた。あたりには絞ったばかりらしいオレンジの新鮮な匂いがしている。

「卵はどうする? 何個? ゆでる? 目玉焼き? スクランブル? それともオムレツ? ベーコンとソーセージならつけてあげられよ。昨日のミネストローネも温まってるけど」

 矢継ぎ早に聞かれて、クリスはボウルとグラスを持ったまま戸惑う。

「ええと、ゆで卵。一個、だけでいいです」

「固ゆで? 半熟?」

「半熟」

「了解」

 カシャンと小さな音がして、鍋が料理用ヒーターにかけられた。

「ねえ、トーマスさん」

「何?」

 食卓でシリアルをかき混ぜるクリスの呼びかけに、キッチンから出て来たトーマスはソファーに向かいかけた足を止めた。

「今日の朝ご飯は特別?」

「普段と変わりないよ」

 トーマスはソファーのテーブルの上にあったティーセットを持ってくる。そして、冷めてしまった自分の紅茶を入れ直し、クリスの向かいの席についた。

「あっちに座っててもいいのに」

「どうして?」

「食事ぐらい一人でできるよ」

 学校での昼食以外は一人きりのことが多かった。母親は、朝起きてくることはなかったし、夕方帰宅する頃にはもう家にいなかった。休日の昼は一緒に食事することもあったが、大抵お互い無言で、ソープオペラの音声だけが流れる食卓だった。

「君もユージンももっと遅いかと思って今朝は先に食べちゃったけど、お茶でつきあうくらいはいいでしょう?」

 クリスは頷いた。

「明日からは一緒に食べようね」

 ごく自然に言われて、また胸の痛みを感じる。

 これがクリスの日常になることはないのだ。今日の午後か、遅くとも明日には、この家を出て行くのだから。それも多少なりとも憎まれて。

 トーマスはまとわりつくペットをあしらうようにではなく、ちゃんとクリスの目を見て話しかけてくれた。クリスが育った町には、こんな大人はいなかった。子どもに話しかけてくるのは、妙な下心や目的のあるやつばかり。

 例えば、子どもにキャンディをくれる男がいた。家には最新のゲームやおもちゃがあって、遊ばせてくれるという噂もあった。

 二年前、ひとりでいるときに声をかけられたクリスは、どことなくその男の下卑た表情が気持ち悪くて、即座に走って逃げた。翌日その話をしたクリスをバカにして「優しいおじさん」のもとに通い続けていたクラスメイトの女の子は、いつの間にかその家のある界隈にさえ近づきたがらなくなった。

 学校は生徒による窃盗、暴力、薬物乱用、売春といったトラブルをいつも抱えていた。教師たちはその対応に疲れ切っていて、クリスのように手間のかからない子どもはどうしても扱いがおざなりになる。

 寂しさからトラブルを起こす子どもも大勢いた。その誰もがろくでもない結果にしかならないことを知っていたけれど、ろくな結果というものがどんなものなのかを、皆知らなかった。

 子どもたちは誰にも相談できないまま、暗い秘密を抱えて荒んだ大人になる。そんなところでクリスは生まれて育った。こことは違う。

 親切な大人がいなかったわけではない。ターナソルの福祉関係者もそれなりだったし、セイラにもよくしてくれているが、所詮彼らはそれが仕事なのだ。それを自分に対する好意と勘違いするほど、クリスはおめでたくはない。

 けれども、トーマスにはクリスの機嫌をとる必要も好かれる必要もない。そんな理由をいちいち検討するまでもなく、クリスはなぜかトーマスが自分に好意を持っていると素直に確信することができた。それはチョコレートが好きとかかわいい子犬が好きとか、そういう他愛もないものなのかもしれないが、それだけに単純で心地よく感じられた。

 ついうっかり、自分がここに来た理由を告白したくなる。そして、すべてをリセットして、ここでずっと――。

 そこまで考えて、クリスは自分の甘さがつくづく情けなくなった。許される前提で考えているのが間違いなのだ。心ならず苦笑が漏れる。

「どうかした?」

 トーマスの声に目を上げると、彼はぐずぐずとシリアルをかき混ぜるクリスを穏やかなまなざしで見守っている。

 この人には嘘をつきたくない、と思ってしまう。

 しかし、下手なことを言えば、自分の企みはバレて阻止されるかもしれない。そうでなくても、この家のセキュリティは厳しいらしい。何もできずに終わる可能性もある。それくらいならいっそ何もせず、大人しくこのまま――と、思考はまたループを始める。

「ううん。なんでもない」

 そう言って、クリスはシリアルを口に運んだ。牛乳で緩んでしまったそれは無様に甘く、自分の姿に重なった。もう少し放っておけば脆く崩れて、食べられない物になってしまう。

 やはり、今日の午後、セイラと一緒にこの家を出よう。この 居心地の良さに慣れてしまう前に。でもせめて、トーマスにだけはそのことを伝えておきたかった。

「トーマスさん、あのね。オレ、今日……」

「あ、ちょっと待って。卵ができたみたい」

 小さな電子音が鳴って、トーマスは立ち上がった。

「ごめんね。話を中断させて。今日は何?」

 塩の小瓶とエッグスタンドを持って帰ってきたトーマスの顔を見ると何故か、予定していたはずの言葉は続かなかった。

「え、えと、ああ、そうだ。あのね、今日はトーマスさんは仕事なのかなと思って」

「僕は今日は一日詰まってるけど、ユージンはオフだから、相手してもらったら?」

「えっ……」

 それは気まずい。むしろ放置してもらうほうがいい。

「どこか行きたい場所はないの、クリス?」

「別に……」

 それきり黙ってしまったクリスをトーマスは気遣うように見つめている。後ろ暗いところのあるクリスは視線を落とし、食事に没頭するふりをした。

「今朝はあんまりしゃべらないんだね、クリス。つまらない?」

 しばらくして、トーマスがぽつりと言った。

「あ、ごめんなさい。お腹減ってたからつい」

 本当に空腹だったクリスは、いつのまにか皿を空にしていた。

「それならいいけど。ひょっとして君に嫌われてしまったのかと思ったよ。昨夜は余計なことを言ってしまったんじゃないかと……」

 少し寂しげなトーマスの口調に、つられるようにクリスは答える。

「そんなことない。オレ、トーマスさんのこと、好きだよ。いい人だもん。あんなにしゃべったのは初めてだったけど、楽しかったよ」

 トーマスは「よかった」と微笑むと、今度はさきほどよりは明るい声で続けた。

「そういえば、昨夜言い忘れてたんだけど、君がユージンと二人で暮らしたいなら、僕はこの家を出て行ってもいいんだからね」

「えっ……」

 クリスはトーマスの言葉に絶句した。

 物事がクリスの予定通りに進めばありえないのだが、万が一にも考えたくない未来だった。トーマスがいてくれるならともかく。

「トーマスさん、あの人のこと好きなんでしょう? だから一緒に住んでるんじゃないの? なのに、どうして出ていってもいいなんて言うの?」

「確かに、ユージンのことは好きだよ。友だちだからね。でも、彼にとって本当に必要なのは、友だちじゃなくて家族なんだよ。恋人でもいいんだけど、そういう方面には興味なさそうなんだよね、彼……」

 トーマスは不満そうなため息をつく。

 この二人はつきあってるんじゃなかったの? っていうか、ほんとに『違った』の?

「だから、僕にとって君が――彼の子どもがいたということは、本当に嬉しいことなんだ。結婚相手なら別れたら他人だけど、親子なら死んでも親子のままだ。君たちが上手くいくためなら、僕はなんでも協力するよ。僕が出ていったほうがいいなら出ていく。どうだろう? 遠慮はしなくてもいいんだよ」

「あの人と二人っていうのはちょっと……無理」

 つい本音が出た。

「彼のことが苦手?」

 クリスは即座に首を縦に振った。

「嫌い?」

 今度は躊躇した。

 嫌いとまで言ってしまっては、じゃあなぜこの家にいるのかと聞かれてしまうかもしれない。問いつめられたら余計なことまで白状してしまうかもしれない。

 そう考えると、うかつに頷くことはできなかった。

 それに、少しだけ気にかかっていた。ユージンは自分のことを気に入っているという昨夜のトーマスの科白と、彼の手の温かさが。

「彼のことは、嫌いなわけじゃないんだね?」

 確認するようなトーマスに、クリスは「多分」と答えた。

 その答えは、多分、嘘だけれど。


「それにしても、いつまで寝てるつもりなのかなあの人は」

 茶器を片付けようとトーマスが立ち上がったとき、時計は八時を回っていた。

「当分起きないと思うよ」

 オレンジジュースのグラスを手にしたクリスが、意外なことを言う。

 クリスの寝ていたのはユージンが寝ているはずの猫部屋の隣だから、帰ってきた物音が聞こえた可能性はある。しかしこの場合、そういうことではないかもしれない。

「まさかと思うけど、彼は君の寝てる部屋に来た?」

「うん。三時くらいだったかな」

「それで?」

「まだ寝てる」

「どこで?」

「オレが寝てたベッドで」

「クリス、君はどこで寝たの?」

「仕方ないから一緒に寝たよ」

 水を止めて、テーブルに座っているクリスをトーマスは見た。別段おかしな様子はない。

 トーマスの知る限り、ユージンにペドフィリアの趣味はない。他のアブノーマルな性向もないように思われた。

 しかし、出会ってから七年間、トーマスは恋人を紹介されたことがない。男女問わず、特定の誰かとつきあっている気配もない。身体的にも宗教的にも何の問題もない成人男子が、である。

 とりあえずクリスの出現によって、彼が成人女性とはつきあえるらしいことはわかったけれど、他人に言えない性癖をひた隠しにしている可能性もないではない。

「変なこと、されたりしなかったよね?」

 ううんと首を横に振った後で、クリスがふと不安そうな顔をする。

「……そういう人なの?」

 その反応にトーマスは却って安堵した。そんなところは見たことがないが、適当に取り繕う。

「いや、そうじゃなくて、彼は寝ぼけることがあるんだよ。いい加減起きてもらわなきゃ困るから、ちょっと起こしてくるね」

 五リットルはあろうか、たっぷり水の入った鍋を片手にダイニングを出て行くトーマスを、クリスは不思議そうに見送っていた。


 ドアを開けたとたんに、「ちょっと待て」という声が聞こえた。無視して部屋に入ると、うっすらと酒の臭いが残っている。端末で窓を全開にすると、朝の冷たい空気がアルコールを洗い流すように入ってくる。

 トーマスはそのまま至近距離まで近づいた。水の入った鍋を右手に構える。

「起きてください」

 ユージンはしぶしぶというように起きあがり、ベッドの上で背中を丸めて胡座をかいた。

「殺気垂れ流し。暗殺者には向かないなあ、君」

 まだ眠そうな彼の声は少ししゃがれている。

「そういう方面への転職予定はないので問題はありません。ところで、なんであなたがここで寝てるんです? 僕は隣の部屋で猫と寝るように言いましたよね? 子ども相手に何やってるんですか? どういうことか説明してもらいましょうか?」

「そんな怒らなくてもいいじゃない。うちにきた子はいつも最初は俺と寝てるんだし」

「うちにきた子?」

「タマラとかジェイとかフレディとか、みんなそうだったろ?」

「……みんな猫じゃないですか。クリスと、人間と一緒にしないでください。水浸しになりたいんですか?」

 ユージンの服は昨夜出かけたときのままだった。着替えてもいない。人を食った返答に加えて、そのことにもトーマスの苛だちは募った。水を掛けるだけじゃなく、いっそのこと鍋ごとぶつけてやろうかと思うくらいに。

「ああ、それ水? のどが渇いてたんだ。ちょうどよかった。飲ませてよ」

 右手を伸ばしたユージンから、トーマスは鍋ごと身を遠ざける。

「もっとまともに説明してください。僕が納得できるように」

「質問は一つずつにしてくれ。まだ頭まわってなくて」

 ユージンは酒臭い息をついた。

「それじゃまず、なぜここで寝てるんです?」

「話せば長くなるんだけど」

「コンパクトにまとめてください。コンパクトに」

「コートを置きに来たんだよ。それでそのまま」

「端折りすぎです。それじゃ意味がわかりません」

 そうか、とユージンが俯く。

「どうしても言わなきゃダメかな?」

「当然です」

 上目遣いのユージンに、鍋を構えたままのトーマスが威圧的に答える。

「実は、コートを置きに来たらさ、泣いてたんだよクリス。眠りながらだったから、自分が泣いてたことは憶えてないみたいだけど」

「……そうでしたか」

 何度か泣きそうな表情をしていた昨夜のクリスを思い出していた。鍋を持つ手が自然と下がる。

「寝言で『母さん』って言ってたな。資料を見た限りでは、母親とは折り合いはよくなかったようだったけど。……そんで添い寝してやろうと思ったわけよ」

「だからなんでそういう結論になるんです? 添い寝はしなくてもいいでしょう。彼、嫌がりませんでした?」

 ユージンは一瞬、興味深げな表情を浮かべた。

「嫌がった。けど、子どもがひとりで泣いてるとこなんか見たら放っておけないだろ」

 悪意はないのだ。

「俺も眠かったしな」

 善意だけでもないけれど。

 だんだん馬鹿馬鹿しくなってきたトーマスは、鍋を持ったままベッドの足元に腰掛けた。

「で、どんな手を使ったんですか?」

「実はここは『出る』んだけど、一人でも大丈夫かって言った。やっぱり子どもだね。お化けは怖いんだね。一発だったよ」

「……またそのネタですか。僕は見たことないんですけど」

 人の悪い笑みを浮かべるユージンに、トーマスはうんざりとため息をつく。顕微鏡でも望遠鏡でも見えず、レーダーにも各種検知器にもひっかからないものなど、信じられるわけがない。

「そりゃあ、君はいろいろと鈍いから」

 そんなトーマスを横目に、ユージンが鍋に手を伸ばす。

「それ、水道水ですけど」

 月やコロニーや宇宙船の中のように閉じられた生活空間では、水は使い回される。浄水処理はされているといえども、元は下水も混じっているのかと思うと気持ちのよいものではない。故に、飲料水は地球から取り寄せたミネラルウォーターか、電気分解した水を再合成した再生水が使われることが多い。

「他人の内臓を通った水が怖くて宇宙船(フネ)に乗れるか」

 ユージンは構わず、鍋に直接口をつけた。

「で、昨夜はどうだった? 変わったことは?」

 ひとしきり水分補給に努めたあと、ユージンは鍋をナイトテーブルに置き、ベッドから降りた。クローゼットから適当に服を物色しつつ、着ているものを脱ぎ始める。

「あなたたちが出て行ってから、少しおしゃべりしてました。十時過ぎにベッドに入れたらすぐに寝ついたから、そのあと僕は自分の部屋に。変わったことは特にありません」

「ふうん。さっそく仲良しになったんだ」

「仲良しっていうほどでもないでしょう」

 着替えるユージンの背には、これから子ども一人を育てていかなければならないという緊張感も気負いはない。これで大丈夫なんだろうかとトーマスはいささか心配になる。会ったばかりでまだ慣れてないとはいえ、我が子にさっそく苦手宣言されているというのに。

「君から見て、クリスってどんな子?」

 着古したTシャツに頭を突っ込みながら、ユージンが質問する。

「頭の良い子ですね。情緒的に不安定なところがあるようですが、それは慣れない環境で緊張しているのと、お母さんが亡くなって間もないせいでしょう。しばらくしたら落ち着くんじゃないでしょうか」

「そうか。他に気づいたことは?」

「たまに泣きそうな顔をするのが気になります。話の流れや雰囲気として、泣くようなところじゃないはずなんですが。なんなんでしょうね、あれは。でも……笑うと可愛いんですよね、あの子」

「ふうん。やっぱり仲良しじゃないか。あいつ、俺には愛想笑いしか見せないのに」

 少しふて腐れたように着古したTシャツに頭を通すと、ユージンはまじめな顔でトーマスを振り返った。

「あの子のこと、どうしようか?」

 続いて毛玉のできたカーディガンを羽織るユージンの背中を、トーマスは戸惑いながら見上げた。オンかオフかはっきりした、具体的かつ明解な発言を好むユージンが、こんなふうに漠然とした――まるで相談するような言い方をするのは珍しい。

「どうしようかって、どういう意味です? なぜそんなことを僕に?」

「だって、一番面倒見てくれそうなのは君じゃないか。もうすっかり仲良しなんだろ」

 思わず納得しそうになり、慌てて首を横に振る。

「自分の子どもくらい、自分で面倒を見てください」

「それなんだけどさ」

 着替え終わったユージンがこちらを向く。閉じたクローゼットの扉に背を預けて腕を組むその仕草に、トーマスは何となく嫌な予感を覚えた。

「あいつ、俺の子どもじゃないんだ」

 多分、と彼は付け加えた。

「根拠は? 確かな根拠があるんでしょうね? 他人ならどうしてうちに泊めたりしたんです? 期待を持たせるようなことしてどうするんですか?」

 トーマスの脳裏を、昨日ドアを開けるなり抱きついてきたクリスの体の軽さが、ベッドサイドから去ろうとしたとき引き留めるように伸ばされた手が、時々見せる泣きそうな表情が、そして今、ダイニングに一人で座っている姿がよぎった。

「……今のは冗談ですよね?」

「うん。冗談だ」

 ユージンがふっと笑って腕組みを解く。

 ナイトテーブルの上の、まだたっぷり水の残っている鍋を投げつけたくなる衝動を、トーマスは堪えた。

「言っていい冗談と、悪い冗談があるでしょう」

「そうだな。度が過ぎたよ。ごめん」

 茶化しもせず、いつになく素直に謝ってドアに向かおうとするユージンの腕を、ベッドから立ち上がったトーマスが掴む。

「どこに行くんですか?」

「顔洗って何か食うよ。腹減った」

「ちょっと待ってください」

 さっきのクリスは自分の子どもではないという発言は本当に冗談なのか。そうだとしてもそうじゃなくても、何故そんなことを言うのか。

「もし、仮に、クリスがあなたの子どもでないなら、彼をどうするつもりですか?」

 かまをかけるトーマスに、ユージンは含み笑いを返す。

「心配しなくても、悪いようにはしないから」

「何を隠してるんですか? それとも、企んでるんですか?」

「トーマス君、君はまず、大きな誤解をしてる。その訂正は後日することにして、とりあえず今は」

 掴まれている方の腕をユージンが勢いよく跳ね上げた。

「飯を食わせてくれ」

 あっさりと掴んでいた手を外されて立ちつくすトーマスを残し、ユージンは部屋から出ていった。

 何か言い忘れたような気がして背後を見ると、ベッドの上には脱いだ服がそのまま残されている。

「また脱ぎっぱなしにして!」

 今日はオフだし、彼が自分でなんとかするだろう。というより、するべきだ。

 それは放っておくことにして、何気なく目を移すと、シーツには寄り添うような大小二つの人型が残っていた。

 彼が悪いようにしないと言うなら、トーマスは心配するつもりはなかった。そのくらいの信頼関係はできているつもりだった。

 しかし――。

「誤解……?」

 わからない。何を誤解しているというのか。

 だらしないスフィンクスが閉め忘れていったドアを見つめながら、トーマスは眉間に軽く皺を刻んだ。


 二階のユージンの部屋にトーマスが上がって行ってからしばらく経つ。一人でいるクリスには、時間が過ぎるのがやたらと遅く感じられた。

 時計ならちゃんとサイドボードの上にあるのに、つい携帯端末で時刻をチェックしてしまう。見ると、メッセージが入っていた。セイラからだ。

――朝ご飯、ちゃんと食べた?

「あ、メッセージするの忘れてた……」

 食事は既に終わって、皿も片付けてしまった。朝食のメニューなんて特殊なものでもないから良いだろうと、テキストだけの連絡を入れることにする。返事はすぐにきた。

――他に問題はない?

 「今日からはやっぱりホテルに泊まりたいんですが」と入力しかけて指が止まる。

 本当に、午前中でなんとかできるのか? なんとかできなければ、おめおめ帰るのか?

 それでは、なんのためにこんなところまで来たのかわからない。

 それに――。

 明日からは一緒に食べようね。

 トーマスはそう言ったのだ。

 それは何気ないひとことだったのだろうが、海底に深く打ち込まれた船の錨のように、クリスを引き留めようとしていた。

 せめてあと一日だけ――。

 儚い泡のように浮かび上がってきた願いを、クリスは現実的判断に書き換える。そんなの関係ない。鑑定結果が出るまではどうせ動きようもないから、ここにいるだけだ。どこに泊まるかなんてそのくらいの手配、いつでも融通は利くはずだ。

 書きかけのメッセージは一応仮保存して、「特に何もありません」と送信した。

――安心しました。

――何かあったらすぐに連絡してね。

――じゃあ、また後で。

 セイラとのやりとりが終わると、もうすることはなくなって、ソファーに席を移し、壁のモニターに流れるニュースの映像をただ眺めることことになる。ニュースは昨日とほぼ同じで、あまり代わり映えもしない。

 画面に映っているのは、またあの宇宙船。白くて大きな。

 通常の宇宙旅行には、各星系に一つずつある恒星間移動(スターゲート)門が使われる。

 遠い星域に移住可能な惑星を探して旅する調査船に乗るか、宇宙のどこかで紛争が起きたらすぐに駆けつけるUUNの軍人にでもならない限り、クリッパーの操る光速船には乗ることはない。

 唯一可能性があるとすれば、一山当てて超がつくほどの大金持ちになり、このエーオース号のような船に乗ることだ。

 光速に近い宇宙船の中にいると、通常空間にいるときより時間の進みが遅い。例えば、船内では一年しか経たなくても、地上では三年が過ぎていたというように。

 エーオース号は、そういう、俗にいうところのウラシマ効果を利用した延命用の豪華客船なのだ。

 そんな船に乗れる身分が素直に羨ましい反面、家族や友だちを地上に残して、ひとりだけ長生きするのは寂しくないのだろうか、と画面の中の白い船を見ながらクリスはふと思った。

 取り残されているのは地上の人たちじゃなくて、この船の中の人たちみたいだ……。

 突然、画面が真っ暗になった。

「ったく朝っぱらから最低だ」

 ぶつぶつと文句を言いながらダイニングに入ってきたのはユージンだった。不機嫌な様子で、色の抜けかけた紺色のカーディガンのポケットに端末を突っ込む。

「だからこの時期は嫌いなんだよ。どうして俺がこの部屋に入ってくるたびに、あの船がでかでかと画面に映ってるんだ! クソむかつく。そもそも……」

 そこでユージンはやっと、まっ黒なモニターの前で彼を見つめるクリスに気がついたらしい。

「よ、おはよう」

 特に笑顔を作るでもなく、軽く右手を上げる。

「おはようございます」

 暗いモニターに向き直ったクリスが挨拶を返す。

 その時にはもうユージンはキッチンに入りこんでいた。ガシャガシャと鍋をコンロにかける音が聞こえる。

 ほどなく、開けっ放しのドアに眉をひそめながら空の鍋を持ったトーマスが入ってきた。クリスと目が合うと微笑む。後ろを通りすぎていくトーマスを、振り返ったクリスが目で追うと、カウンターに鍋を置き、ダイニングテーブルに座った。その向かいのプレースマットが残っていた席には、キッチンから出てきたユージンが座る。

「仕事の話を少しするから、何か見ててね」

 モニターがついていないのに気づいたトーマスが、ダイニングテーブルの方を向いているクリスに声をかけた。

「ニュース以外でな」

 ユージンが付け加える。

 また勝手に消されるのも不愉快なので、当たり障りのなさそうなアニマル・チャンネルを選ぶ。これなら大丈夫だろう。

 番組は、海の生き物特集。開発された惑星の限られた生物種とは違って、地球の海は多種多様な生命で埋めつくされているらしい。

 顔は画面を向いているものの、テーブルの二人の会話がクリスは気になった。そうするつもりもなく聞き耳を立ててしまう。

 ユージンの声は少し低くて聞き取りにくいが、トーマスの声は通るので聞き取りやすい。どうやら本当に仕事の話のようだ。人名や日付が聞き取れた。

「わかりました。明日は午前中で切り上げます」

 トーマスの声が話のピリオドを打つ。椅子を引く音に振り返ると、トーマスが立ち上がるところだった。

「あ、ちょっと待って」

 ユージンがトーマスに制止をかけ、こちらを見ているクリスを手招きをした。と思えば、自分は立ち上がってキッチンへと入っていく。

 クリスがテーブルに近付いて、座る必要があるのか決めかねていると、トーマスが横から椅子を引いてくれた。クリスはトーマスに軽く礼を言って座る。

 ほどなく戻ってきたユージンの両手は、ミネストローネのボウルとコーヒーカップでふさがっていた。

「今日のことで、いくつか言っておくことがある」

 ボウルとカップをプレースマットの上に置き、席に着いたユージンが切り出した。改まったもの言いにクリスは、背筋を伸ばして何となく身構える。

「その一。今日の食事は俺が作る。昼は中華に決定済みだけど、夜はリクエスト受付中。何か食べたいものはある、クリス?」

 椅子に座りながらユージンが尋ねてきた。何事かと思えばそんなことかと、クリスは脱力しながら首を横に振る。

「トーマス君は?」

「僕も特にリクエストは……。でも、何故昼は『中華に決定済み』なんですか?」

 その点はクリスも気になった。

「その二。昼にエセルが来る」

「遊びに来るんですか? 僕には連絡ありませんでしたけど」

 嬉しそうではあったが、不思議そうに連絡がなかったと言うところからすると、その人物とトーマスは親しいらしい。そして、その彼もしくは彼女が中華料理好きなのだろう。

 トーマスの友人がどんな人物なのか、クリスは気になった。

「親子鑑定の件で仕事を依頼した。ついでだから昼飯でも食っていってもらおうと思ってさ」

「ああそうか。彼は私立探偵だから、そういう関係の代理店ライセンスも持ってるわけですね」

 そういうこと、とユージンが頷く。

 私立探偵と聞いて、クリスはますます興味が湧く。

「最後に、その三。一四時には弁護士も来る」

「エックハルトさんですか?」

「いや、彼女じゃなくて別口。ヴィッターレという男性だ」

「というと?」

「こういうのが得意な弁護士が知り合いにいたから頼んだ。以上。何か質問は?」

 ユージンは確認するようにトーマスとクリスを交互に見る。視線を合わせないように目を伏せたクリスは、無言で首を横に振った。

「そういうあなたの今日の予定は?」

「一四時に昨日の市役所の人の立ち会いで親子鑑定用の試料採るくらいで、後はヒマ」

 トーマスの質問に、ユージンはミネストローネをかき回しつつ答える。加熱したトマトの匂いが漂ってくる。

「だったらクリスをどこかに連れていってあげたらどうです? 暇なんでしょう?」

 トーマスがこちらを向く。

「クリス、どこか行きたいところがあるなら言ったほうがいいよ。休みだからって、どうせこの人は何にもやることなんかないんだから」

 トーマスの声には、あきれたような響きがあった。

「行きたいところなんて別に……」

 消えるクリスの語尾に

「悪かったね、無趣味なつまんない男で」

ユージンのぼやきが重なる。

「そこまでは言ってませんけど、自覚があるなら結構。ところで、奥の部屋のベッドマットはクリーニングの予約を入れておきましたから、もうすぐ取りに来るはずです。引き渡しよろしくお願いします。夕方には仕上がってくるはずですから」

「えーっ、一人であのマットを上げ下げしろと?」

「何を甘えたこと言ってるんですか。元凶は自分でしょう? 僕は手伝いませんからね」

 はいはいと投げやりに返事をするユージンを一瞥すると、「じゃあ、僕は仕事します」とトーマスは席を立った。

「何かあったら端末で呼んでね。直接来てもいいし。仕事部屋はわかるよね?」

 トーマスはクリスの肩に軽く手を触れてドアに向かいかけ、足を止めた。

「ああ、そうだ。洗濯も忘れてるでしょう? 二週間も溜めて。いい加減カビが生えますよ」

「そうだった……」

 憂鬱そうに頭を抱えるユージンには目もくれず、トーマスは笑顔でクリスに手を振ってドアを閉めた。

 トーマスが出ていってしまうと、クリスはソファーに戻った。

 テーブルにひとり残されたユージンは朝食中で、時折食器の触れ合う音がかすかに聞こえる。

 番組は変わって、今度はカッコウの生態についてらしい。画面には大きく不格好なヒナが映し出される。そのヒナを世話するのは、そのヒナより体の小さなオオヨシキリ。

 既に卵のあるオオヨシキリの巣に、親鳥の不在を狙って忍び込み、カッコウは産卵する。成鳥の大きさは全く違うが、オオヨシキリとカッコウの卵はよく似ている。数をかぞえたり憶えたりすることのできない鳥ならではの愚かさで、卵が一個増えてもオオヨシキリは気がつかない。

 オオヨシキリより孵化の早いカッコウのヒナは、孵ると同時に同じ巣で生まれた兄弟=ライバルたちを蹴落としにかかる。文字通り、巣から落としてしまうのだ。もちろん落ちたヒナや卵は絶命し、親のオオヨシキリは一羽残ったカッコウのヒナを大事に育てる。自分の子どもでもないのに。

「気分の悪い話だよなあ」

 頷いた後で我にかえる。今のは自分の心の声ではなく、ユージンだ。

 こちらを見ていたのかと思うと、もう画面には集中できない。後ろが気にかかる。

 椅子が動く音がした。足音はキッチンを回って、しばらくごそごそしている。食器の触れ合う音に混じって、鼻歌まで聞こえる。どこかで聞いたことのある明るいメロディ。

 と思っていたら、それが近づいてきた。

 オレのことは放っておいてくれ……。

 クリスの祈りも虚しく、足音の主は右隣にどっかりと腰を下ろした。

 目の前に昨日のタルトの皿と、マグカップに入った紅茶がつきつけられる。

「食えよ」

 その意志があるかどうかを尋ねるでもなく勧めるでもなく、いきなりの命令形に、思わず睨みつける。

「……よかったら」

 付け加えられた言葉に多少は溜飲が下がった。あまり反抗的な態度をとって、警戒されるのもよくないだろう。

「ありがとうございます」

 礼を言って、受け取った皿とカップをテーブルに置いた。画面に注意を戻すと、今度はなにやら右側から痛いほどの視線を感じる。

「何ですか?」

 わざとそちらを向かないように、そっけなく尋ねる。

「食べないの、タルト。美味いよ?」

「食べます、後で」

「食べさせてやろうか?」

 ユージンはクリスの言葉を聞いてなどいない。

「結構です! ……っ?」

 文句を言おうとしかめ面で振り向いたクリスの顔に、何かが張り付いた。ぐいと押されて頭が後ろに倒れそうになる。

 これはユージンの右手だ。額の皮膚がVの字の指で横にひっぱり広げられる。指の隙間から薄く笑ったユージンの顔が見えた。

「お前、朝っぱらから眉間にシワなんか寄せてんじゃないよ。子どものくせに」

「やめてよ!」

 両手で引きはがしにかかる。案外あっさりと手は外れて、視界はクリアになった。

 文句を言ってやろうと思ったのに。

 彼の手を掴んだまま、クリスは動けなくなった。

 指の形に切り取られて歪んで見えた笑顔は、障害物を取り去ってみればひどく優しいものだったから。

 ユージンは自分の手からクリスの両手をそっとはずした。どうしたらいいかわからずに、クリスは彼から視線を逸らす。拒否するために宙に上がっていた小さな手は、やがてゆっくりひざの上に軟着陸した。伏せた視線の端でユージンの右手が動き、今度はクリスの頭をなではじめる。

「ねえ、なんでこんなことするの?」

 しばらくしても終わらない慰撫の動作に、俯いたままクリスが尋ねる。

「俺がそうしたいから」

「いつまでこうしてるつもり?」

「紅茶が飲み頃になるまでかな」

 結局それは、間もなくやってきたクリーニングの集配によって中断された。慌てて下ろしたベッドマットを引き渡してきたユージンが帰ってきたとき、紅茶は、猫舌の人間たちにとってちょうど良いに温度になっていた。

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