第三章 二人でお茶を
食事が終わると、酒飲みの二人は元気に夜の町に出ていった。
「いいの?」
クリスが声をかけると、テーブルの上の皿を片づけていたトーマスは不思議そうな顔で手を止めた。
「何のこと?」
「トーマスさんも一緒に行きたかったんじゃないのかなって」
「僕はあまりお酒は得意じゃないから。それに、子どもをひとり残して行くわけがないでしょう」
クリスの住んでいたあたりでは、考えられないほど過保護な答えが返ってくる。あの街では、夜働く親、それも片親の家庭が多い。ある程度の年齢になると、子どもだけで留守番をするのは当たり前のことだった。
過保護といえば、セイラからも返信が来ていた。
――意外とちゃんと面倒見てくれそうで、安心しました。
――また明日の朝メッセージします。
――でも、何かあったら夜中でも構わないので、すぐ連絡を。
連絡をしなければならない事態など起こりそうではない。
セイラの心配症ぶりにも呆れつつ、クリスは端末をポケットに仕舞った。
「それじゃ、デザートをいただこうか」
皿を洗浄機に入れ終わったトーマスが、パトリックの手土産の菓子箱を取り出した。
出てきたりんごのタルトを嬉しそうに切り分けるトーマスを見ていると、酒が好きではないというのは本当の話に思えた。むしろ甘いもののほうが好みなのだろう。
お酒よりお菓子のほうが好きだなんて子どもみたいだ、とクリスは微笑ましい気持ちになる。
「お茶でいい?」
うなずくと、
「これをあっちに持っていってね」
皿を二つ渡され、ソファーの方を示された。
ソファーの前のテーブルに皿を置く。タルトの表面は煮込まれたリンゴでつやつやと飴色に光っていた。
そのまま大きな方のソファーに座ると、思わずため息が漏れた。
やっぱりあの二人、デキてるんだろうな。
ダイニングテーブルのほうをちらりと見やると、トーマスがお茶の用意をしていた。
茶葉をきっちり計ってティーポットに入れ、薬罐から湯を注ぐ。いつの間にか部屋の灯りは柔らかいオレンジ色の間接照明に代わっていて、トーマスのくすんだ色の金髪を淡く照らしていた。
死んだ母親が好きなタイプの男なら絶対に女好き、それも複数同時進行が得意な女たらしに決まっていると思い込んでいた。エレンが今までつきあった男は、クリスの知る限り、例外なくそういうろくでなしばかりだったからだ。
その予想が外れて、クリスは困惑している。
既成事実(クリス)が存在する以上、女も大丈夫なのだろうが、それにしても……。
もう一度、ため息が漏れた。
父親の、ユージンの態度にも困惑している。
拒絶するような態度と、その直後に差し出された手。疎んじているのか、そうでもないのか。
しかし、いやがらせのためだけにここ来た自分には、そんなことは全部どうでもよいとのだいうことに気づいて、また困惑する。こうなるともう、何をどうしたらいいのかわからない。
急に体が重くなった気がして、ソファーに背中を預けた。
「眠い?」
声を掛けられて慌てて身を起こすと、トーマスが、食事の前にも座っていた小さい方のソファーに腰を下ろすところだった。
「ううん。眠いわけじゃなくて」
「疲れた?」
「少し」
クリスは自分の前にカップが置かれているのに気づいた。
「ありがと」
礼を言って口をつけるが、熱いだけで味もない。砂糖を二つ落としてかき混ぜて、冷めるまで放置することにした。
トーマスはそれを見て、くすりと笑う。
「君も猫舌なんだね」
「え?」
「彼もそうなんだよ」
「……ああ」
この場で彼と言えば一人しかいない。でもその彼が猫舌だとかそんなことはクリスにとってはどうでもいいことだ。だから曖昧な相づちしか出ない。
他にすることも言うこともなく、ただカップを見ていた。角砂糖を沈めるときにできた小さな泡がくるくると回っている。
結局、あてはすべて外れてしまっていた。
父親は独身で、子どももいない。本心は違うのだろうが、表面上は同居も養育も承諾している。
その恋人は男で、嫉妬のそぶりも見せない。これではつついて仲を壊すのは難しい。もっとも、月に長居するつもりのないクリスにとって、初対面で露骨に厭な顔をするくらいの相手でもなければ、その手は使えないのだが。
残るは、後ろめたい秘密を探り出し暴露することだが、もしそれさえも失敗してしまったら、何のためにこんなところまで来たのか……。
「クリス、君は無口なほう?」
考え込んでいるところに、思いがけない質問が飛んできた。顔をあげると、トーマスと目があう。黙り込んでいたことを咎めているわけではないことは、穏やかな瞳を見ればわかった。
「どうかな。よくわかんない」
改めて考えてみれば、何か必要なことを言われて受け答えするくらいで、家でも学校でもしゃべっているのは周りの人間ばかりだった。
たまに何かを言っても、無視されたり怒鳴られたりすることが多く、クリスが自分から誰かに話しかけることは少なくなっていた。
「人と話すのは好き?」
「嫌いじゃない、と思います」
「それなら、少し僕と話をしようか」
「かまいませんけど」
話といってもクリスからは、特に何か言いたいことなどない。それならば、一体この人は何を言いたいのだろうと、不審に思いながら承諾する。
「君のお母さんは最近亡くなったんだよね?」
「ええ。先月、交通事故で。詳細はブランディワインさんに渡した資料を見てください」
トーマスはセイラの簡単な説明しか聞いていないはずだ。詳細を知りたいのかと思ってそう答えると、違う反応が返ってきた。
「実はね、僕の母も僕が小さいときに亡くなってるんだ。テロでね」
「あ、ああ……」
テロという言葉に驚いていた。
クリスの生まれたところは殺伐とはしていても、そういう種類の暴力は存在していない。たまにニュースで聞く他の惑星――主に地球での事件は、遠いできごとのように感じていた。
「死ぬはずのなかった人を突然亡くしたのは同じだから、僕にも君の気持ちは少しくらいはわかるかもしれない」
不意に、胸の中に何かのかたまりができたような気がした。息が詰まってなかなか吐き出せない。
「それだけの話だけど、少しだけ心に留めておいてくれたらと思ってね」
そう言うと、トーマスは思い出したように自分の前のカップを手に取った。
何か言ったほうがいいのはわかっているのに、何を言ったらいいのかわからないまま、クリスは黙っていた。
教科書に載っていることならすぐに覚えられるし、方程式を解くのも簡単なのに、こんなときにどうしたらいいかなんて誰も教えてくれなかったし、わからない。
――もっと普通の、かわいげのある子が欲しかったのよ、あたしは。
母親の言葉が記憶の底から黒く染み出してくる。
他の子どもならもっとちゃんとできるの?
クリスにはそうは思えなかった。しかし、自分の考えに確信も持てなかった。
オレじゃダメなの? それとも、オレだからダメなの?
いつも――いつか聞こうと思っていた。もうその答えは聞くことはできない。どんな答えであっても、聞いておくべきだったのかもしれないと、クリスは少しだけ悔やんだ。
今だって、きっと簡単なことだという気がしているのに、わからない。そんな自分がくやしかった。
オレが子どもだからわからないのかな。
もし大人だったらわかるのかな。
もし、オレがオレじゃなくて、違う人間だったら、わかるのかな?
例えば、もしトーマスさんがオレだったら――そこまで考えて、やっとクリスは気がついた。
そうか。やっぱり簡単なことだったんだ。
「トーマスさん」
彼が「何か?」というようにこちらを見る。
「ありがとう」
「どういたしまして」
トーマスの表情が柔らかく緩んだ。
クリスの胸の中のかたまりも。
溶け出したそれは、やがてクリスの心をじんわりと温めはじめた。
夜の八時すぎだというのに、喧しい音楽も酔っぱらいの馬鹿笑いも誰かのすすり泣きも叫び声も聞こえない。もちろん、銃声も緊急車両のサイレンも。
辺りは静まりかえっていた。部屋の中にも音はない。静かな十二月の夜だった。
話をしようと言ったくせに、トーマスはそのままゆっくりとお茶を飲んでいるだけだ。
このまま黙ったままでいるのもいいのかもしれないけど……。
沈黙に耐えかねて、クリスはついに口を開いた。
「そういえば、トーマスさんていくつ?」
とりあえずの無難な質問ならそんなところだろう。
「二十六歳」
トーマスは左手に持ったソーサーにカップを置いて答えた。
年相応のような気もするが、大人の見た目はどうもよくわからない。
「そういえばクリス、君はいくつ?」
トーマスはいたずらっぽく笑って、昼間に聞いたはずのことを尋ねる。
「知ってるくせに」
クリスもつられて笑いながら「十一だよ」と答えた。トーマスは眩しそうに瞬きをして、その後、何故か嬉しそうな顔をする。
「ねえ、クリス。その『トーマスさん』というのは止めてくれない? 呼び捨てで構わないよ」
「あの人は『トーマス君』て呼んでるじゃない」
「彼はそれで定着しちゃってるから……」
苦笑しつつ、トーマスは空になった自分のカップにおかわりを注ぐ。
クリスも自分のカップの存在を思い出して、口をつけた。ほどよい温かさの濃く甘い液体が、自分の中を満たしていく。
「これ、おいしい。トーマスさ、あ……」
途中で気付いて、クリスは黙り込んだ。
「呼び捨ては、できたらってことでいいから。クリス、何?」
「トーマスさん、紅茶が好きなの?」
「好きだよ。君は? どんな飲物が好き?」
聞かれてクリスは少し悩んだ。
「あんまりそんなこと考えたことなかったな。学校では牛乳ばっかり飲んでたし」
「牛乳が好きなの?」
「好きというわけじゃないけど」
「けど?」
「大きくなりたいから」
クリスはクラスの中でも小さいほうで、それがコンプレックスでないといえば嘘になる。
「なるほど」
うなずくトーマスの肩は笑いをこらえようとして震えていた。
「笑いたければ笑えばいいよ」
唇をとがらせるクリスに、トーマスは「そういう意味じゃなくて」と首を横に振った。
「君、食は細いほうでしょ? 食べないで牛乳だけ飲んでても、それじゃ大きくなれないよ」
大人たちに比べれば少なかった食事をクリスは残した。それでも、いつもよりたくさん食べているはずだったのだが。
「そうなの? 液体ならなんとか入るからいけるかと思ったんだけど……栄養学は疎くて」
「お菓子は? 甘いものは別腹って言うよね」
いつの間にかトーマスのタルトはほとんどなくなっている。
「ううん。今夜は止めとく」
「そう。わかった」
あっさり了承して、トーマスはタルトの最後の一口を幸せそうに頬張った。
やっぱりこの人、甘いお菓子が好きなんだ。
思わず笑ってしまいそうになる。
「ねえ、クリス、君のいたターナソルってどんなところ?」
「どんなって……」
満足そうに紅茶を飲み干したトーマスに聞かれて、クリスは口ごもる。
すぐに思い浮かぶのは、住んでいたアパートから見下ろすどぎついネオンやホログラフサインだった。
「海ばっかり、のところかな」
嘘ではない。そのネオンの向こうには惑星の表面の八〇パーセントを覆う広大な海が広がる。資源発掘をする男たちが海の底から二週間おきの休暇でやってくるのが、クリスの母親の働いていた品のない街だった。できればそんな話はしたくはない。少なくとも今は。
「つまんないところだよ。それより、トーマスさんは? ずっと月にいるの?」
暗くなりそうな声を無理矢理引きあげ、逆に話を振ってみる。
「いや。生まれてからずっと地球で、七年前からはここ」
「他の星は? 行ったことある?」
「うーん。一度火星に行ったくらいかな。ユージンなら仕事であちこち行ったことがあるみたいだけど」
クリッパーならそういうこともあるだろう。この場にいない人間の話より、目の前の相手のことを聞く方が楽しそうだ。
「トーマスさんの育ったところってどんなところ?」
「何にもない田舎だよ。牧草地ばかりで、人より牛と羊の数が多いようなところだった」
「海は?」
「海はあったよ、割と近くに。夏に何度か海水浴につれて行ってもらったことがあったな……」
トーマスの脳裏にはその風景が浮かんでいるのだろう。さっきまでのちゃんとした大人の顔ではなく、夢を見るような表情はどこか幼い。
「誰に連れていってもらったの?」
「祖父母にね。僕は彼らに育てられたから」
「元気なの? トーマスさんのおじいちゃんとおばあちゃん」
「もちろん。八十超えてるけど、二人ともぴんぴんしてるよ」
「そうなんだ。よかった」
と言ったところで、トーマスの父親の話が出ないことにクリスは気がついた。できるだけ何気なさそうに聞いてみる。
「お父さんは?」
「父も元気で〈庭〉にいるよ」
「庭?」
クリスにはぴんとこなかった。
「〈月の庭〉にね」
国際宇宙連盟(UUN)が直轄する四つの地下都市は〈月の庭(ガーデン))〉と呼ばれている。
ということは、おそらくトーマスの父親は国連職員だろう。それなら、部署によっては、本人だけでなく家族もテロの対象になることもある。
「そうなんだ……」
それ以上詳しいことを聞いてもよいものかどうか迷って、また黙り込んでいると、
「今度は僕から質問していい?」
トーマスはカップをテーブルに置く。軽い気持ちで「どうぞ」と答えたクリスは、
「君はお父さん――ユージンのこと、どう思う?」
という直球の質問に見舞われた。
「どうって言われても……」
ユージンの印象は良くはない。
正確にいえば、第一印象はそこまで悪くはなかった。だが、その後の経緯を経て、もともと高くもなかった好感度グラフはどんどん下がりつつある。ゼロ地点を突破するのももうじきかもしれない。そんな気がした。
トーマスは、にこやかにクリスの答えを待ち受けている。
そんなことをそのままこの人には……言えないよな。
こちらが指導権は握ると言わんばかりに鑑定会社を変えさせたくせに、ホテルに泊まる予定だったクリスをわざわざ自分の家に泊まらせたこと。
セイラを見送ったとき、転びそうになったクリスを避けるようにかわした仕草と、その後に差し出された手。
リビングを出て行ったときの不機嫌そうな態度と、夕食のときの屈託のない様子。
言動に矛盾がありすぎて、ユージンが何を考えているのか、クリスにはさっぱりわからない。
悩んだ末に、質問で返すことにした。
「ブランディワインさんて、どんな人なんですか?」
今度はトーマスが悩む番だった。腕を組み、さんざん考えたであろう挙げ句に彼から出た言葉は、
「いい人ですよ」
という妙に朗らかな一言だった。
……いくらなんでも嘘くさいよ。答えるまで時間かかりすぎだし。
クリスの心の声が聞こえたかのように、トーマスは組んでいた腕をほどき、
「本当に」
と真面目な顔で念を押すが、ますます嘘っぽい。
妙に白けた気分で残っていた紅茶を飲み干すと、冷たくて、甘さと渋さが喉に絡む。
そんなクリスを見ていたトーマスは、ティーポットに魔法瓶から湯を差しながら言う。
「ちょっと屈折してるからわかりにくいかもしれないけど、根は単純な人だから見てればわかるんだよ」
「何のこと?」
これ以上そんなのろけ話みたいなフォローを聞かされてもと、言い方が少し素っ気なくなってしまったのは仕方あるまい。
しかし、トーマスは構わず続けた。
「君のことを気に入ってること」
「誰が?」
聞き返す声が思わず大きくなる。
「勿論、ユージンだよ。ところでクリス、お茶のおかわりは?」
首を横に振るクリスを見て、トーマスは自分のカップだけに茶を注ぐ。
「あの人、自分の感情に対して鈍いところがあるから自覚があるかわからないけど、君のことはかなり気に入ってるはずだよ。そうでなければ自分の子どもであろうがなかろうが、この家に泊まれなんて言わない」
嫌われてるんじゃないかと思っていた。むしろそのほうがいい。
どうせ復讐がうまくいけばそうなるんだし、一日や二日ならどんな扱いを受けても平気だと思っていた。
だから、嫌われてるという事実を確認するために口に出してしまった。
「でもポーチで転びそうになったとき、避けられたよ、汚いものみたいに。そんなに嫌ならオレを引き取るなんて口約束でも言わなきゃいいのに」
「それはいつ?」
トーマスが眉をひそめて、カップを置いた。
「コーディネイターのセイラさんが帰るとき」
しばらく宙を見上げて真剣に考えていた彼は、ああ、と思い当たったような声を出した。
「それはきっと、お風呂に入ってなかったからでしょう」
「え?」
意外というより、突拍子もない答えにクリスは固まる。
「ここ数日仕事が忙しかったので、彼はお風呂に入ってなかったんだ。三日くらい入ってないと、僕も避けられるよ」
「……」
「あれ、感じ悪いから止めてくださいって言ってるんだけど、なかなか直らなくてね」
感じが悪いなんてもんじゃない。
「そういえば、君との面会直前にも『風呂に入らせろー!』って言ってたかな。あの人のお風呂は長いから当然無視したけど。僕が思うに、初めて会ったわが子に臭いって思われるの嫌で、つい避けてしまったんじゃないかな。妙に繊細なところもあるから、彼」
「そんな理由って……」
馬鹿馬鹿しさに言葉が続かない。でも、それならその後に手を貸してくれたことは説明がつく。
「そういえば、今回は五日目だった。そのくらいなるとさすがにこちらが避けたくなるよね」
トーマスは笑った。
「……臭くはなかったよ、別に」
言い訳するように呟いて、クリスは自分の手を見た。あのときの手の温かさを思い出していた。
「クリス?」
と名前を呼ばれて顔を上げると、心配そうにこちらを見ていたトーマスの口元が一瞬緊張し、次に安堵するような微笑みが浮かんだ。
「よかった。泣いてるのかと思った」
「どうして? 泣くようなこと、何もないじゃない」
「……そうかな」
独りごとのようにトーマスは言う。
小さなあくびが出た。疲れもあって、クリスはさすがにそろそろ眠くなってきた。
「それだけ? 話は終わり?」
ハッキングを仕掛ける気力は既にない。明日、セイラが来るまでにその時間はとれるだろう。それで問題はないはずだ。
「もう一つだけ、確認しておきたいことがあるんだけど」
「なんですか?」
クリスは返事をしつつ、また出そうになったあくびをかみ殺した。
「鑑定が終わって親子だと証明されたら、君はずっとここにいるんだよね?」
眠気が急に覚めた気がした。
反射的に否定しようとして、書類上ではそれを希望していることになっていることをクリスは思い出した。否定の言葉を飲み込む。
そんなことは考えてはいなかった。全く考えなかったわけではないが、その可能性があったとしても、クリスの復讐が達成されれば成立しない。それはありえない仮定の話でしかなかったのだ。それに――。
「あの……本当は、嫌なんじゃないの?」
「何が?」
トーマスがわずかに首を傾げる。
「……オレのこと」
「どうして? どういう意味?」
本当にわからないらしく、トーマスはクリスを怪訝そうに見つめる。
「気分悪くないの? 恋人が自分の知らないところで子ども作ってたなんて」
「恋人? 僕は君のお母さんとはお会いしたことはないはずだけど?」
「そうじゃなくて、トーマスさん。ユージンさんと付き合ってるんでしょ? 隠さなくてもいいよ」
「それは断じてない!」
即座に断言するとトーマスは軽く呻き、疲れたようにソファーに倒れ込んだ。
「男二人で住んでるとよくそういう誤解されるんだけど、僕たちはそういう関係じゃないよ。見ればわかるでしょう?」
じゃあ、お風呂のあれは何?
あの雰囲気のどこがデキてないと?
恋人同士でもない大人の男が二人で一緒にお風呂に入ったとでも?
そっちのほうが気持ち悪いじゃないか!
クリスの心中を突っ込みの嵐が吹き荒れたが、口には出せなかった。
「じゃあ、どういう関係なんですか?」
訳のわからなさのあまり、無表情になったクリスが尋ねると
「仕事のパートナー、同居人、大家と店子」
トーマスは指をひとつふたつと数えるように立てていった。四本目の指で
「……友人」
とつけ足したあと、少し苦しそうな顔になった。一瞬何か言い出しそうになったが、すぐに思い直したように立てていた指を握り潰して拳を作り、左の方を見た。サイドボードの上に置かれたアナログ時計の針は、一〇時前を指していた。
「こんな時間だね。眠いでしょう。そろそろ寝室に案内するよ」
そう言って立ち上がったトーマスの笑顔は、微かな影を帯びているように、クリスには見えた。
トーマスが寝室に連れて行くと言うと、ソファーの端に置いていたバッグを持って、クリスはおとなしくついてきた。
夕方に部屋を案内したときに比べると、足取りは重いようだ。話をしているときも多少眠そうにしていたが、長距離を移動してきてさすがに疲れたのだろう。
階段を上って右に。そのまま廊下をまた右に折れて、突き当たりの右側がユージンの部屋――今夜のクリスの寝室だ。
ユージンの部屋なら、ひょっとしたらハッキングの手がかりが転がってるかもしれない、などとクリスが考えていることを、トーマスは想像もしていない。
しかし、ドアを開け、明かりをつけた瞬間に目撃した光景は多少は想像しないでもなかった。七年のつきあいともなれば。
「ちゃんとやっておくという、彼の言葉を信じた僕が馬鹿だったんだな」
入ると右の壁際に、中途半端な高さのチェストとそれより少し大きい戸棚が並び、左の壁には作りつけのクローゼットがある。そこは特に問題ない。
問題は、部屋の真ん中のダブルサイズのベッドだった。そこには脱皮の後の抜け殻のように、人の形にふくらんだりよじれたりしたシーツが残されていた。
「やっぱりあの人はダメだ……」
後ろから部屋に入ってきたクリスはトーマスのひとりごとから事情を察したらしく、くすくすと笑い声を立てた。振り向くと、笑みの残った顔で「手伝おうか?」と言う。
「大丈夫だから、その間にシャワーでも浴びておいで。寝巻きはある?」
「パジャマがあるから。シャワーは一階のほうに行けばいいの?」
「近いから二階のを使ってもいいけど」
「ううん。一階がいい」
クリスはなぜか一階にこだわる。
「タオルは棚の中にあるのを使ってね」
「わかった。ありがとう」
クリスはバッグを抱えて出ていった。
トーマスは上着を脱いで近くにあった椅子に掛け、作業に取りかかった。
もっと大きければベッドメイクも一苦労だったろう。以前、八匹の猫と一緒寝るにためにキングサイズのベッドを買うとユージンが言い出した。そのとき必死に止めておいてよかったと、トーマスは自分の先見性に改めて自信を持った。
戸棚から出したシーツを広げると、洗剤の香りがほのかに漂う。
ベッドを整え終え、改めて部屋を見回すと、思ったより散らかってはいない。ナイトテーブルの上に、コーヒーが底で黒く干からびているカップと、あとは数冊の本、音楽と映像のディスクが載っていたくらいのものだ。
服以外は私物らしい私物もなく、写真一つ飾られていないユージンの部屋は無個性で、ホテルというよりは兵舎のようだった。
「相変わらず殺風景だな、この部屋は」
苦笑しながらも、トーマスは少し切なくなる。
家族も帰るべき場所もないのだと、何かの折に語ったユージンの口調は、なんでもないことのように軽かった。
八年近く住んだ今も、ここは彼にとって家(ハウス)であっても家(ホーム)ではないのだろう。そんな気がした。
三年前、ある事件で重傷を負ったユージンを、トーマスは見舞うことすらできなかった。友人でしかないトーマスは、家族でも恋人でもないという理由で病室に入ることを許されなかったのだ。
閉ざされた扉の向こうで何が起こっていたのか――。
それを知ってしまった今も、結局、トーマスは扉のこちら側に留まったままだった。後悔と罪悪感を隠しながら。
エアコンは効いているはずなのに肌寒さを感じて、トーマスは上着をはおった。そのまま窓際に寄る。
カーテンのない窓はスクリーンになっていて、マジックミラーのように外からと内からの見え方を別々に調整することができた。例えば、朝と昼はレースのカーテンをかけたような、夜は厚いカーテンを閉じたような透過効果を演出できた。
防犯上の理由で在宅しているように見せかけたいときには、時折横切る人影を付け加えることもできる。逆に、在宅しているのを外部に知らせたくないときには、部屋の燈火を漏らさないようにもできる。
普通の布のカーテンを使っている家も多くあったが、合理主義で面倒くさがりのユージンは、洗う必要がないという理由から、こちらの方を使っていた。
トーマスは、半遮光になっていたユージンの部屋の窓の設定を端末で変えた。
内側からの視界を完全に透明にすると、二階の右奥の自分の部屋の窓が黒く見えた。端末を操作して、明かりをつける。
間もなく、青いストライプのパジャマにジャンパーをひっかけたクリスが戻ってきた。ドア近くのチェストの上にバッグを置く。
「クリス、ちょっと来て」
「何ですか?」
近寄ってきたクリスは、前髪が少し湿っていて、眠そうな目をしていた。
「ほら、あそこ」
トーマスは明かりのついている、一番奥の部屋を指さす。
「あそこは僕の部屋だから、何かあったらおいで。内線で呼んでもいいし」
「ん。わかった。ありがとう」
ジャンパーを脱がせて椅子に掛けると、クリスはおとなしくベッドに潜り込んだ。
「じゃあ、おやすみ」
ナイトテーブルのカップを取って、トーマスはクリスに背中を向ける。外の暗さで鏡面のようになった窓に、一瞬、ベッドから伸びた右手がトーマスを引き留めようとするように動いたように見えた。
「クリス……?」
「なに?」
振り返ると、ベッドに横たわったままのクリスは、はっきりした声で聞き返してきた。見上げる表情は平静で、さっきのは見間違いだったのかとトーマスは思った。しかし、シーツの間に収まっていたはずのクリスの右手は胸のあたりに置かれているのを見て、出がけにユージンが言ったことを思い出す。
――クリスからは目を離さないでいてくれないか。それから悪いけど、寝つくまで側にいてあげてよ。
あれはこういうことだったのか。
傍若無人のようで、ユージンの観察眼は意外に鋭い。年の割にしっかりしているクリスも、内心は心細いことを見て取ったのかもしれない。
トーマスはテーブルにカップを戻し、椅子をベッドに引き寄せて座った。
「やっぱり、もう少しここにいるよ。君が眠るまで」
小さな右手を夜具の中に入れてやると、クリスは安心するように目を閉じた。
「そういえば、さっきの質問に答えてなかったね。僕は君のことを歓迎こそすれ、嫌う理由なんてないよ。君と彼はこんなにも似てるんだから。見た目だけじゃなくて、一人でいたくないときも『側にいて』なんて、冗談でも言えないあたりがね。もっと素直になってくれたらいいのに」
感傷的になりすぎているような気がしたが、トーマスは続けた。
「さっきは言えなかったけど、彼は優しい人だよ。愛情深いのに、それを注ぐ対象がなくて持て余しているようなところがある。だから君が彼の子どもなら、君も彼も幸せになれると思うよ」
その言葉は、寝息を立てるクリスには聞こえていないことにトーマスは気づいた。それがよかったような残念だったような、どっちつかずの気持ちで、ナイトテーブルのカップを持って立ち上がる。
初めて会ったときから、クリスは硬い表情をなかなか崩そうとしなかった。しっかりしているようにも、無理に気を張っているようにも見えた。
しかし、たまに泣き出しそうな顔をする、そのタイミングが妙に気にかかった。
「泣かせるようなことを言った覚えはないんだけどな……」
カップを弄びながら、クリスの寝顔を覗きこむ。安らかに眠る顔は子どもらしく、かわいらしかった。
「おやすみ、クリス」
部屋の隅にまとめておいたシーツを回収して、トーマスはあかりを消した。暗い窓の向こうには自分の部屋が明るく光っていた。
懐かしい酒の匂いがした。
闇の中に漂っていたのは、金が入ったときだけ母親が飲んでいたジンの匂いだった。
「……か………さん?」
左隣に滑り込んでくる気配に、今夜はずいぶん早いなと、寝ぼけながらも場所を空ける。
そこで気がついた。
母さんは、もういない。
だったら、これは、誰?
「うわあああっ」
悲鳴を上げ、飛び起きた。エアコンのタイマーは切れてしばらく経っているらしい。恐怖と冷気に身震いしつつ、後ずさる。パジャマの背中にベッドの頭板が当たった。
「誰?」
「うるさいな。もう遅いんだから早く寝ろよ」
クリスの誰何に、聞き覚えのある声が返ってくる。
「ブランディワイン……さん?」
「……うん?」
部屋の暗さに目が慣れて、目を閉じたまま生返事をするユージンの顔が左下に見えた。酒臭さの元凶はこれだ。
「なんでここに?」
「だってこれは俺のベッドだから」
「でも、今夜はオレがここで寝るんです。他のところで寝てください」
「ケチくさいこと言うなよ。どうせスペースに余裕はあるんだから」
面倒くさそうに寝返りをうち、ユージンはクリスに背を向けた。
「イヤです。出て行ってください」
「そんな冷たいこと言わないでさあ」
きっぱり拒絶するクリスを無視して、ユージンはそのままシーツの中に頭まで潜り込む。彼のような大人の男をベッドから蹴り出したり引きずり出したりするのは、クリスには不可能だ。
途方にくれて窓を見ると、向こうに明かりがついている部屋があるのに気がついた。
「トーマスさんを呼んできましょうか?」
「呼んでくれば? 俺は全然構わないよ。その間に寝ちゃうし。そしたら絶対起きないからね」
シーツの中からくぐもった開き直りの返答があった。どうあってもここから動く気はないらしい。脅しのつもりのひと言も全く効かない。
「じゃあ、どこに寝ればいいんですかオレは!」
「一緒に寝りゃいいじゃない」
こともなげに言う。ふわあと盛大なあくびが夜具の下からくぐもって聞こえた。
「冗談じゃない!」
大声を出すと、暗い中でユージンが半身を起こしこちらを向いた。その肩が動いて、殴られるのかとクリスは身をすくめた。
するとなぜか引き寄せられ、頭を彼の胸のあたりに強く押しつけられる。視界を封じられ、わけのわからないうちに抱きかかえられ、ベッドに引きずり込まれた。
「身体が冷えてるじゃないか。風邪ひくから、早く寝なさい」
頭のすぐ上で聞こえる声がシーツの中で籠もっていた。
冷たくなっていた背中にも腕が回されて、ベッドの中で抱き固められているとしかいえない状況だった。温かくなってきた身体とは逆に、クリスの頭は危機感と怒りで冷たくなっていく。
「何すんだよ、離せ! 性的虐待で訴えるてやる!」
叫ぶクリスの声もシーツの中で籠もっている。必死に身をよじって逃げようとすると、
「性的? 虐待? そういう趣味はないから安心しろって」
冗談と勘違いしているのか、ユージンは酒臭い息で笑いながらあっさり力を抜いた。
すぐにベッドから飛び出したクリスは、椅子に掛けておいたジャンパーのポケットの中から端末を取りだした。ユージンは片肘をついてその様子を眺めている。闇の中で起動したモニターが明るく光った。
「警察に通報されたいの? 本気だからね。出て行けよ」
「ごめんごめん。わかったよ。猫部屋で猫と一緒に寝るから」
ユージンは肩をすくめてベッドから出てきた。出かけたときと同じ、黒いハイネックのセーターと同色のズボンのままだ。そのままドアに向かって数歩進んだところで、彼は何かを思い出したように足を止めて振り返った。
「ところでクリス、幽霊って信じる?」
「……は?」
ベッドの横にパジャマのままで立ちつくすクリスは、怒りと寒さだけではない別の嫌な予感に身体が震えるのを感じた。
「ここ、近所でも有名な幽霊屋敷だったんだよね。実際出たことあるし。ほら、子どもとか動物ってそういうの見えるっていうじゃない。一人で大丈夫?」
昼間はまだ耐えられる。夜になっても、そういうことを考えたり思い出したりしさえしなければ大丈夫なのだが――。実は、クリスはその手の話が大の苦手だった。
そんなものは出ないと経験的に知っているなじみのある場所ならともかく、勝手もわからない家の暗い部屋でこんな話を、しかも真夜中に聞かされて、一人きりでいられるわけなどない。
実際出たことあるし、というユージンの科白が、頭の中でエコーしている。
「そういうわけだから、気をつけてね。おやすみ、クリス」
何にどう気をつけろというのか。
部屋から出て行こうとする薄情な黒いセーターの裾を、クリスは掴まずにはいられなかった。
「なに?」
ユージンがのんきそうな口ぶりで、振り返りもせずに言う。
「……あの」
開いたドアから、返事を急かすように冷たい空気が流れ込んでくる。
「だから、なに?」
「………………行かないで」
ようやく絞り出した返答から数秒ほど間があって、ユージンがこちらを向く。表情は暗くてよく見えない。ドアは後手に閉じられた。
「条件が二つある」
「条件?」
後に回した手の中の青い携帯端末を、クリスは握り締めた。
「一つは、俺をベッドで寝かせろ。君も寝たけりゃ寝てもいいが、通報とかそういうのは無し。こっちも変なことはしないからさ」
意外とまともな条件に、クリスは一人になりたくない一心で頷いた。ユージンが笑ったような気がした。
「じゃあ、ベッドに入って」
端末を離さずに、クリスはベッドに滑り込んだ。続いてユージンも入ってくる。マットレスが重みで沈み、クリスはベッドの端で身体をこわばらせた。
クリスに背を向けてごろりと転がったユージンは、それきり身動きもせず、何も言わない。
「ねえ、もう一つの条件って何?」
「あ? もう一つ? は……俺、昨夜寝てないわけよ。早く眠ら…せ……」
オルゴールのネジが切れるように、ユージンの言葉は途中で途切れた。
「ねえ」
呼びかけても返事はない。やがてゆるやかな寝息が聞こえてきた。
横を向くと、後ろ向きのユージンの後頭部が見えた。クリスと同じ、まっすぐな黒髪が枕に落ちている。
断りもなく抱きすくめられて、驚きもしたし腹も立ったが、不思議と生理的嫌悪感はなかった。
ふわふわしたセーターの布越しに、母親とは違う、硬い感触の胸がクリスの頬に押しつけられた。女用ではない香水に、かすかにタバコの匂いが交じっていた。
窓の向こうには、トーマスの部屋の明かりが光って見える。
気がつくと、冷たくなっていたベッドは二人分の体温で温まり始めている。
クリスは横になったまま、今日端末に登録したばかりの連絡先を表示させた。
――トーマス
――セイラ
結局どちらも呼び出さないまま、温かさとともに忍び寄ってきた眠気に負け、クリスは再び目を閉じた。
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