第二章 オレンジ色の空

 クリスとセイラは、三〇分かけて月の門(ムーンゲート)の警備を抜けた。それから月の地下都市を繋ぐチューブを使い、最寄りのターミナルでタクシーに乗り換えた。

 行き先の住所を携帯端末から読み取った無人(オート)タクシーは、安全速度で冬枯れた色の街に侵入していく。と同時に、軽かった重力が急に戻った。地下都市内は重力制御下にある。クリスは故郷を出て以来の一Gをなんともいえない息苦しさに感じた。

 公園や背の低い建物の連なる街路をしばらく走った後、タクシーは一軒の家の前で止まった。後部座席の前に取り付けられたモニターに映る地図は、それが入力された住所であることを示していた。

 ――が。

 一足先に車から降りたクリスの目の前にあるのは〈お化け屋敷〉としか呼びようのない、大きくて不気味な建物だった。

 門扉は開け放たれているというよりはむしろ、逃げた誰かが閉め忘れていったかのようだ。柵は錆の赤さが目立ち、庭の内側から伸びた蔓草が茶色く乾いて絡まっている。

 見上げれば、二階建ての白壁にもミイラの毛細血管じみた枯れ蔦が張りつき、窓を外から封印のように塞いでいる箇所さえある。

 クリッパーはA級ライセンスを保持する二年間で、一般人の平均生涯賃金を稼ぐといわれているのではなかったか?

「ほんとにここ、人が住んでるの?」

 車から降りてきたセイラが、薄気味悪そうに呟いたクリスの肩を軽く叩いて促した。

「今、一四時三八分だから予定には少し早いけど、大丈夫よ。行きましょ」

 ポーチのあたりはそれなりに掃除がしてあった。玄関の外灯にもクモの巣はなく、近づく二人を追って威嚇するように動く防犯カメラも生きているようだ。セイラがチャイムを押す。

「どちらさまですか?」

 男の声が聞こえてきた。クリスにはよくわからなかったが、少なくとも年寄りではないように思えた。

「私、カト市役所福祉課子ども育成コーディネーターのセイラ・ツルと申します。ユージン・ブランディワインさんがご在宅でしょうか?」

 ドア横のスピーカーにセイラが顔を寄せると、

「身分証の認証を行ってください。携帯端末をインターホンのカメラに向けていただければ結構です」

 さっきの声が指示する。認証の電子音と同時に錠が開く音がして、内側から扉が開いた。

 そこに立っていたのは薄茶色の上着に深緑のマフラーを巻いた、想像していたよりも若く見える男だった。

「お父さん!」

 先手必勝。父と子の感動の出会いを演出すべく、クリスは駆けよってそのまま男に抱きついた。

「お父さん?」

 ツイードの布地が頬に触れた。とたんに慌てた声で引きはがされる。

「ちょ、ちょっと待ってください。僕は彼じゃありません」

「え?」

 肩を両手でつかみ離されたクリスが顔を上げると、生真面目そうなヘイゼルの瞳と目が合った。端正な顔立ちが驚いているように見えた。

 しまった。相手を間違ったか。

 クリスは心の中で舌打ちをする。

 後ろから近づいてきたセイラが、落ち着かせるようにクリスの肩に手を置いた。

「その人はちょっと若すぎるみたいね」

「……ごめんなさい」

 素直に謝って引き下がり、クリスは恥ずかしそうにうつむいてみせた。

「その子はユージン・ブランディワインの子ですか?」

「その可能性があるということで、今日は調査と鑑定のために伺いました。面会のお約束もいただいてます」

 てきぱきとセイラが答えると、青年はマフラーを外しながら二人を中に招き入れた。

 外の荒れた雰囲気とは違って、中は意外と掃除が行き届いていた。どうせロボット任せなのだろうが。

 玄関を入って正面の奥に大きな扉と上に行く階段が見える。その手前の廊下を右に行ってすぐの部屋に通された。

 応接間らしく、茶色の革張りソファーとテーブルが部屋の中央にある。窓際のサイドボードと壁ぎわの書棚には古い本が並べられていた。歴史関係のものが多いようだ。

 名前だけの自己紹介と握手を終えて、二人が勧められたソファーに腰を下ろすと、トーマス・カベンディッシュと名乗った青年も向かいの席に座った。落ち着いてきちんとした部屋の雰囲気はトーマスになじんで見えた。

「僕はユージンが代表を務めるB&C調査事務所の共同経営者です。といっても他に従業員がいるわけではありませんけどね。本人は在宅していますが、あいにくもうしばらく仕事から手が離せません。彼のプライバシーに関わることなら、仕事と違って僕が話をうかがうわけにはいきません。一五時までには仕事場から出てくると思いますので、それまでお待ちいただけますか?」

 流れるようにトーマスがそこまで言うと、

「ええ、約束より早く来てしまったこちらが悪いので、そうさせていただけるなら」

 いいわよねというようにセイラがこちらを見たので、クリスは頷いた。と、ジャケットのポケットを探っていたトーマスが何かに気づいたような顔をした。

「名刺を置いてきてしまいました。取ってきますので待っててください」

 マフラーを持って立ち上がった彼が、部屋の入り口で振り返った。

「ついでに何か飲み物でも持ってきましょう。温かいお茶はいかがですか?」

 二人がそれぞれにうなづくとトーマスは微笑んで出て行った。笑顔は意外なほど柔らかかった。


 湯を沸かしている間に、トーマスは二階にある自分の書斎に名刺入れを取りに行った。生まれたときから古い家に育ち、紙の本に馴染んでいたこともあり、名刺という古風な習慣を気に入っていた彼だったが、オフラインで仕事相手に会うことは少ない。パーティなどに行くこともほとんどないから、二年前に共同経営者になったときに作った名刺は、なかなか減らないままデスクの引き出しの中に残っていた。

 マフラーを置いてキッチンに戻ってくると、やかんからは湯気が吹き出し始めていた。

 久々に客用ティーセットを取り出して温める。もらいもののダージリンのティーバッグと沸きたての熱湯をポットに入れて、砂時計をセットする。

 その時、狭い穴から空気が勢いよく漏れるような音がして、キッチンの床の一部に四角い切れ目が入った。微かな機械音とともにじりじりと床はせり上がり、やがてぱかりと開いて口をあけた。

「つ、かれ、た……」

 穴から這い出てきた男は、そのまま床に突っ伏して伸びた。

「おにーさん、ビール一丁」

 右手だけひらひらと振る男の後ろで、盛り上がっていた床はさっきとは逆に徐々に下がっていき、切れ目も跡形もなく消えた。

「ここは飲み屋じゃありません。それからユージン、あなたにお客ですよ」

 きっかり一分蒸らした紅茶をカップに注ぎながら、トーマスが冷たく言い放つ。

「あー、知ってる。仕事中でもインターホンくらいはモニタしてるから」

「アポイントあるって言ってましたよ。どうせ秘書システム(コンシェルジュ)の設定お任せモードにして、知らない間に返事出してたんでしょう?」

「ご名答」

「ちゃんと設定するように、僕はいつも言ってますよね?」

「……めんどくさいんだもん。お任せモードでも、いつもなんとかなってるじゃないか。誰も死なないし」

 これ以上言っても無駄だと悟ったトーマスは、軽くため息をつき話題を変えた。

「僕、あなたに間違われて抱きつかれちゃいました」

「レポート送ってから、改めて録画映像見た。笑わせてもらったよ。あの時の君の顔ときたら」

 俯せに伸びたまま、ユージンは無責任そうに喉のあたりで笑った。トーマスは少々むっとした。

 七年もの間、ユージンと同居してきたトーマスだったが、一度もそんな話は聞いたことがない。隠すつもりはなかったのだろうが、知らなかったこちらとしては嫌みの一つも言ってやりたくなる。

「あなたに子どもがいたなんて知りませんでしたよ、『お父さん』」

「実は俺も知らなかったんだよね」

 あまりにもあっさりしたもの言いだったので、トーマスのほうが驚いた。てっきり子どもの存在くらいは知っているものと思っていたのに。

「でも似てましたよ、あなたに」

「うん。そうなんだよ」

 本人は他人事のような口調だが、ユージンとクリスは確かに似ていた。

「どうするんですか」

 聞かれてユージンはやっと起きあがる。

「とりあえず話を聞かないとなんとも。でもそれより先に俺」

「……と、お茶持って行かなきゃ」

 ユージンのセリフを遮って、トーマスはトレイを取り上げた。

「ぐずぐずしてないで早く行ってあげてください。それからパーさんが後から来るって言ってました」

 振り向きもせず、トーマスは開けっぱなしのドアを出て行った。

「おーい、トーマスくーん。俺、先に風呂に入りたいんだけどー。もう五日入ってないから我ながら臭くて」

 その訴えに返事はない

「『お父さん』か。めんどくせえな……」

 諦めて立ち上がったユージンはぽりぽりと頭を掻いた。


「遅かったですね」

 セイラに名刺を渡し、自分たちの仕事が一般公開されている情報を収集分析するもので合法的なものであることを力説していたトーマスが、ほっとしたように言った。

 いつの間にかドアを開けて入ってきた人物はそれには答えず、クリスとセイラの前に右手を差し出していた。

「お待たせしました。ユージン・ブランディワインです」

 濃いグレーのセーターにジーンズというラフな服装のその男は、驚くほど美しかった。

 直線的な視線や物腰、低い声や体格から判断すれば、なによりクリスの父親であることを考えれば男性なのだが、宗教画の天使のようにどこか優美で女性のようにも見えた。

 そして、セーターのえりにかかった艶のある黒髪も、輪郭や涼しげな目元といった顔の造作も、驚くほどクリスに似ていた。

 既視感のありすぎる顔をクリスはまじまじと見つめ、緊張でかすれた声で「初めまして」と握手の手を離した。

 自分に父親がいて、その相手が触れることのできる実在であることを、クリスは心のどこかで信じていなかった。そのことに気づいて思わず自分の手を見る。

 ユージンは温かい手をしていた。

 心の温かい人は冷たい手をしていて、また逆に心の冷たい人は手が温かいと言う。それならばやはりこの男の心は冷たいのだろうか。今まで自分を見捨て続けていたように。

 目をあげると、ユージンはリラックスした様子でソファーに落ち着いている。セイラの端末から書類(データ)を受け取りながら一度こちらを見たが、口元には曖昧な笑みが浮かんでるばかりで、何を考えているのかクリスには計りかねた。

「じゃ僕はこれで失礼します。後は関係者だけでごゆっくり」

 退出のタイミングを計っていたらしいトーマスが立ち上がった。ワイドサイズのディスプレイに目を落としたままのユージンは「ああ」と生返事をする。

「キッチンにいるので必要なときは呼んでくださいね。例えば、お茶のおかわりが欲しいときとか」

 クリスとセイラに向かってささやくと、トーマスは部屋から出て行った。

 後には、ユージンが書類を読み終わるのを真剣な顔で待ちかまえるセイラと、悠然とデータをめくるユージン、落ち着かずに、ひざの上の手を組み合わせたりほどいたりを繰り返すクリスが残された。

 続く沈黙の時間は、想像していたよりずっといたたまれなかった。復讐なんてどうでもいいから早くこの状況を終わらせてしまいたいとクリスが思い始めた頃、ユージンはディスプレイをテーブルにぽんと下ろした。

「概要はわかりました。で、ご用件は?」

「国際基準に則った親子鑑定です」

 待ってましたとばかりに前のめりになったセイラが答える。

「ところでブランディワインさん、プライベートな質問をしてもよろしいですか? ついでに記録も」

「ええ、構いませんよ」

 セイラは鞄の中から小型のビデオカメラを取り出して、テーブルの上に載せた。

「二度手間ですけど、さっきの質問をもう一度。プライベートな質問をしてもよろしいですか?」

「どうぞ」

「答えたくなければノーコメントでも構いませんので」

「わかりました」

 住所や氏名だけならともかく、立ち入ったことは本人の直接の承諾なしには公式の記録に残すことはできない。ビデオのRECマークが赤く光っていた。

「まずは、略歴をうかがってもよろしいですか?」

「はい。今の仕事を始めたのは二十三のときだから、九年前になります。それ以前は、船に乗ってました」

「船というと、宇宙船ですか?」

「そうです。詳細が必要な場合は、証明書を用意しますが」

「いえ、今のところはそれには及びません。では、同居してる方はいらっしゃいますか? 家族とか恋人とか」

「家族も恋人もいませんが、同居人はいます。さっきお会いになったカベンディッシュです」

「ああ、感じの良い方ですよね。ご結婚の経験は?」

「現在を含めてしたことはありません」

「他にお子さんは?」

「自分の知る限りではいないはずです」

「鑑定の結果、親子であることが認められた場合のクリスさんの養育と同居は可能ですか?」

「どちらも可能です」

「では、鑑定に同意されますか?」

「はい」

 すべて即答だった。

 話が早くて助かったとばかりに笑顔のセイラがカバンの中から遺伝子採集キットと承諾書を取り出そうとするのを、ユージンがきっぱりと遮る。

「ただし、鑑定はこちらで依頼します。料金ももちろんこちら持ちで。構いませんね?」

「え、ええ。それは構いませんが……指定の業者なら安いですし……」

 だんだんセイラの声が小さくなる。そして、申し訳なさそうにクリスの方をちらりと見た。

 話の主導権を握るのはこちらだといわんばかりのユージンの態度は、表面的には素直に話を聞くふりをして、もっともらしい理由をつけ、破談にする機会を狙っている――。

 そんな風にクリスには思えたが、最初から何も期待してなかったし、親子鑑定なんてもともとどうでもよかったのだ。

 むしろそういう相手なら何をやっても構わないだろう。

 クリスは犯罪者になる覚悟を決めた。

「すみません。トイレどこですか?」

「そこ出て右に行って最初のドア」

 簡潔というよりどこか投げやりな答えに、デイバッグを掴んだクリスは立ち上がった。

「荷物は置いていけば? 盗りゃしないから」

 荷物の中身を見透かしたようなユージンの声にいささか背筋をこわばらせながら、クリスは部屋の外に出た。

 教えられたドアを開けると、個室が二つと洗面所まである、かなり大きいトイレだった。

 普通の家じゃないだろこれ。トーマスさんはまともな仕事だって言ってたけど、本当なのかな。

 個室に鍵をかけて、自分の端末とゲーム機を繋いだ。外見はよくある携帯型のゲーム機だが、ゲームソフトに偽装したハッキングツールが仕込んである。家庭内で使っている電波の周波数をサーチする。一分もしないうちにアタリを引いた。

 ホーム・マネージメント用のサーバといえども完全に外からの侵入は難しいが、認識圏内からなら案外楽なものだ。後はパスワードを解析してサーバに侵入し、裏口(バックドア)を取りつけてしまえばいい。その後はリアルタイムで通信できる場所なら、どこからでもアクセスできる。

 ――不正アクセスってやつだけど。

 もし見つかれば、子どもでも法的処罰の対象となる。といっても、家庭用のコンピュータをいじられたくらいでは普通警察は出てこない。しつこく絡んできたクラスメイトの家のシステムを、腹いせにめちゃめちゃにしてやったことが何度かあるが、いずれもバレたことはない。

 もしバレたとしても、書類上は初犯であるし、公的機関や企業へのハッキングならともかく、家庭用サーバへの侵入程度なら処罰は知れている。強制ボランティアを何十時間かこなせば、記録も抹消される程度の軽いもので済むだろう。

 親子鑑定には二日かかるとセイラは言った。その間はクリスは月にいることになる。それだけの時間があれば、この家のサーバを浚って、ラブレターの中身から銀行取引の明細、ひょっとしたらもっとヤバイ情報まで、全部知ることができる。

 ――はずだった。

「あれ?」

 通常なら二分、遅くても四分で解析できるはずのパスワードはまだ特定できない。既に八分が経過していた。

 どんだけ長いパスワードを設定してるんだ?

 クリスはしぶしぶ便座から立ち上がった。もうちょっと時間があればと、悔しくて仕方がない。

 応接室に帰ると、戸惑ったような表情のセイラと笑顔のユージンが待っていた。

 バッグを隣に置いてさっきまでの席に座る。辺りに漂う微妙な空気に、まさかトイレでのハッキングがばれたはずはないがと思いつつ、こちらから探りを入れてみたくなった。

「どうかしたんですか?」

「シャトルの中でも話したけど、今日からホテルに泊まってもらう予定だったわよね?」

 セイラは確かにそんな話をした。クリスはうなずく。

「えと、実はね、鑑定は明日になったんだけど、どうせ明日もまた来るなら、今夜はこちらに泊まってはどうかって、ブランディワインさんが」

「ホテルの宿泊費って税金でしょ。税金を無駄に使う必要もありませんからねえ。トーマス君と二人の男所帯で至らぬところもあるとは思いますが、ご覧のとおり、うちは広いだけがとりえで、部屋なら余ってますから。なんならセイラさんも泊まっていきませんか?」

 セクハラな冗談をはっはっはと笑ってごまかすユージンに、クリスは少々めんくらった。

 が、これはチャンスだ。寝る場所なんてどこだっていい。一晩あればさっきの続きができる。

「うわあ。嬉しいな」

 我ながら白々しいと思いつつも、はしゃいだ声を上げてにこにこしてみせる。

 セイラは本当にこれでいいのかしらというように、ユージンとクリスの顔を交互に見ていたが、やがて決心したように立ち上がった。

「わかりました。それでは私はここで失礼しますが……クリスのこと、よろしくお願いします」

 ユージンに向かって頭を下げたあと、セイラはクリスの方を向き、手を握った。

「何か困ったことがあったら、どんなささいなことでもすぐ連絡するのよ。誰にも遠慮なんか絶対しなくていいからね」

 『すぐ』と『誰にも』と言うときにセイラの手に力がこもった。『誰にも』というのはセイラのことではない。ユージンに遠慮をするなと言いたいのだ。

「顔がキレイすぎて、なんだか信用できないのよ。あの人」

 思わず小声で漏れたセイラの本音はともかく、ユージンは妙に怪しかった。何を考えているのか、彼女にもよくわからないのだろう。

 なのにクリスを連れて帰らないのは、この男が本当に父親だった場合のことを考えてと、最初に対応してくれたトーマスが信頼できそうに見えたからだろう。

 セイラが自分のことを本気で心配していることがクリスにもわかった。

 もうずっと長い間、誰かに本気で心配なんかされたことなどなかった。いつでも「あんたなら大丈夫」と言われてきた。心細い夜も傍には誰もいなかったのだ。

 心配なんか今更、しかも他人に、と思ってしまう。

 それでも、クリスは胸の奥に微かな疼痛を感じていた。


 「何かあったらすぐ迎えに来るから、連絡してね」としつこいくらい何度も繰り返し、翌日の一四時の再訪問を約束して、セイラは帰って行った。

 タクシーが出発するとすぐに家の中に入ろうとユージンは背中を向けたが、デイバッグを肩にひっかけたクリスは手をふるわけでもなしに、車が小さくなるまで見送った。

 時刻はもう一六時を回って、空を模した発光パネルの光も弱まり、本物の夕方のようなオレンジ色の気配が漂っている。

 ふと玄関を見ると、ポーチの階段でジーンズのポケットに手をつっこんだユージンがこちらを見ていた。

 待っててくれたのかな。

 小走りで急いだため、ユージンにぶつかりそうになった。すると、彼は飛んできた泥を避けるように素早く身をかわした。

「……ごめん」

 転ばずにどうにか体勢を立て直したクリスの顔を見て、なぜかユージンは謝る。

 クリスには何のことだかわからなかった。わからないままに彼が差し出した手をとった。

 繋いだ彼の手は、やはり温かかった。


 セイラを見送ったあと案内されたのは、トイレの先の廊下を右に曲がった奥の部屋だった。

 その部屋はリビングらしく、L字に組まれた長短二つのソファとテーブルがある。その向こうは床から天井近くまでの大きな窓になっていて、左奥には四人掛けの食卓がある。

 長いソファーの真ん中で背筋を伸ばし、壁に備えつけられたモニターでニュース番組を見ていたトーマスが、ドアの開く音に振り向いた。

 ニュースはラグランジェ国際宇宙港に入港した超豪華客船の話題で、女性のアナウンサーの声が「エーオース号は一〇ヶ月ぶりに帰港し、これから約二か月のドッグに……」と告げている。

 それはちょうどクリスたちの乗ったシャトルといれかわりに入ってきた船だった。白く大きな美しい船体が画面に映し出されている。

「どうなりました?」

 声をかけてきたトーマスは、ユージンの後ろから現れたクリスを見て目を丸くした。

「この子、うちに泊めることになったから」

 ユージンはポケットの中から出した自分の端末でモニターのスイッチを切った。

「ちょっと、ひとが見てるのに……どうしたんです?」

 明らかに不機嫌そうなユージンの様子に気がついたトーマスは、問いただすような目で見上げる。

「そういうわけで、部屋の準備とかよろしく」

 ぶっきらぼうに言い捨て、ユージンはクリスを残して部屋を出て行こうとした。

「あ、ドア。ちゃんと閉めてくださいよ!」

「はいはい」

 投げやりな返事と同時にドアは音を立てて閉められた。残されたクリスは、どうしたらいいのかわからずにそのまま突っ立っていた。

 トーマスは立ち上がって、そんなクリスをソファーに連れて行き座らせた。

「君のせいじゃないです」

 隣に自分も腰を下ろしながら続ける。

「大したことはありません。あの人、気分屋なところがあるから、気にしないで」

 そして安心させるようにクリスの肩に軽く触れた。

 それで落ち着いたというわけでもないのだろうが、クリスはあたりを見回してみる気になった。

 ドア側の壁には食器や酒瓶などがしまわれた棚があり、左の奥の方にはカウンターが設えてある。その奥にもスペースがあるらしいが、ここからはよく見えない。

 クリスの視線が止まったのに気づいたのか、トーマスが説明する。

「あのカウンターの奥はキッチン。水を飲みたかったら冷蔵庫にミネラルウォーターのボトルがあるから自由にどうぞ。冷蔵庫の横にウォーターサーバーもあるからね。ああ、そうだ。君の携帯端末貸してくれるかな。登録しないと家の中では何もできないから」

 思い出したように言って手を差し出したトーマスに、クリスはポケットからブルーの端末を出して渡す。

「へえ、きれいな色だね。青が好きなの?」

「うん」

 元気そうなクリスの返事に微笑んでみせると、端末の登録を始めた。

 家庭や建物によって設定は異なるが、登録された端末がなければ灯りもつけられないし、電子レンジも使えない。

「それから君が疲れてなければ、部屋に案内しようと思うんだけど、どう? 後からにする?」

 トーマスは登録の終わったクリスの青い端末を手渡しながら尋ねた。

「大丈夫。元気だから案内して」

 クリスはバッグを掴んで立ち上がった。


 広いだけが取り柄とユージンが言っていただけあって、家は大きかった。

 リビングを出て廊下を曲がり、玄関に戻った。最初に入った応接室の奥にももう一つ部屋があり、そこで建物の右翼は終わっていた。

「こっちだよ」

 玄関から正面奥の扉の手前に二階に上がる階段がある。黒く塗られた鋳鉄がつる草のように絡んだ手すりがついている。

 きょろきょろしながら階段をあがっていたクリスは、躓きそうになった。

「大丈夫? 気をつけてね」

 即座に差し伸べられる手が何となく居心地悪い。でも悪い気分ではない。

 階段を上がりきったところに、木で作られた簡単な扉のようなものがついていた。扉といっても大きなものではなく、せいぜいクリスの胸くらいの高さで、大人でなくても乗り越えるのは難しくはない。

「これ、何ですか?」

 トーマスにはなんとなく質問もしやすかった。

「ああ、これは猫の脱走防止柵だよ。お客さんが来るから一階には出さないようにしてるんだ」

「猫、何匹いるの?」

「八匹」

「八匹!」

「ユージンのせいでね。おかげで知り合いには『猫屋敷』って呼ばれてるよ」

 ドアを開ける仕草で柵を動かして廊下に出たトーマスは、窓を背に立ち止まった。

「僕の部屋は一番奥のあそこ」

 右手を指さす。応接室の奥の部屋の、ちょうど真上あたりだ。

「あそこにいなければ手前の書斎で仕事をしてるよ。君の泊まる部屋はこっちにあるよ」

 今度は左手に向かって歩き出す。

「ここがトイレ」

 と歩きながら一つめのドアを軽く叩いた。

「ここは二階のバスルーム。バスルームは一階にもあるから、好きなほうを使ってね」

 次のドアを叩く。

「ここは空き部屋」

 そのまた隣のドアを叩く。それから廊下を右に折れ、最初のドアの前に立つと振り返って尋ねた。

「猫を見る?」

「見たい!」

 クリスが言うと、ドアを少し開いて右足だけを素早く突っ込んだ。そのまま、クリスを手招きをする。

「今、部屋に閉じこめてるから外に出したくないんだ」

 クリスがドアからのぞき込むとがらんとした部屋にボロボロのソファーが2つと、奥の壁際にいくつかの妙な棚のようなものがあった。棚といっても太い棒に板きれや小鳥の巣箱のようなものがくっついていて、何なのかわからない。

 猫たちはソファーや棚の上でそれぞれくつろぎながらも頭だけ上げて、警戒心と好奇心の入り交じった瞳でこちらを眺めている。

 トーマスはドアを静かに閉めて、先に進んだ。

「ここがユージンの部屋」

 またドアを叩いた。その先に左に曲がる短い廊下があって行き止まりになっていた。

「そしてここが君の部屋」

 行き止まりの手前にドアがある。

「実はまともなベッドがあるのはここだけなんだ。用意してあげるから、ちょっと中で待ってて」

 言われたクリスが部屋に入ると、ベッドとナイトテーブルと作りつけのクローゼットのある殺風景な部屋だった。ひとけがなくて、寒々しかった。

 おまけに、むきだしのベッドマットは汚れている。ベッドに腰かけてよく見ると、茶色のがびがびしたものがこびりついていた。

 こんなベッドに寝るのはイヤだなあとクリスが眺めていると、パッドやシーツや毛布を山のように抱えてトーマスが入ってきた。そしてクリスの視線の先のガビガビを発見し、絶句した。

「猫のゲロが……。だからドアはちゃんと閉めるようにあれほどいつも言っているのにあの人はっ!」

 持ってきたものを乱暴に床に置くが、もともと柔らかいものなのでちっともそうは見えない。トーマスは上着を脱いで、シャツの腕をまくった。

「仕方ないな。今夜はユージンのベッドを使ってもらうことにして、と」

 それからクリスの背を押すようにして一緒に廊下に出る。

「僕はあの後始末をするから、君はリビングでテレビでも見ててくれるかな。それから、設定してないから番組の年齢制限は自分で守ってね」

 トイレのドアを開けながら念を押す。掃除道具が中にあるのだろう。

「わかったよ。トーマスさん、早くきてね」

 クリスはまんざら嘘でもなくそう言った。トーマスの近くの空気は暖かい気がしたのだ。

 パスワードが解析不能だったことといい、一人でいるとどうもこの家からは拒絶されているようで心細い気持ちになる。

 本当は自分が嫌いなのに相手こそが自分を嫌いなのだと思い込むというような、心理的防衛機制――つまり自分がこの家を拒絶しているから拒絶されているように感じる可能性も考えたものの、ここは自分の居場所じゃない、という強い違和感はぬぐえなかった。

 暗くなり始めた窓から見える空の色が、見慣れたものとは違いすぎるからだろうか。

 もっとネオンがきらきらしていなくては、夜は寂しすぎる。


 リビングに戻ったクリスは、登録したばかりの端末を使ってテレビをつけてみた。

 他にもいろいろいじってみたが、クリスの端末に施されたのはゲスト用の登録らしく、許可されているのは家電の操作だけのようだった。サーバにはアクセスできない。またしても拒絶されている気がした。

 デフォルト表示になっていたのはニュース・チャンネルで、視聴履歴を見てもやはりニュースやドキュメンタリーばかり。たまに人物のサムネイルを見つけても普通のドラマや映画だった。

 アタリはないだろうと思いながらも、映画とドラマの作品名、キャスト、スタッフリストまで目を通し、記憶しておく。そこからキーワードを拾い出し、組み合わせて後でパスワード解析のときに試してみるつもりだった。

 一万文字のパスワードが設定できても、端末の声紋や指紋認証に慣れている一般家庭なら、パスワードはせいぜい二十文字程度のことが多い。多くても五十文字以下だ。

 そしてそういった際、ソーシャル・ハッキングは、古典的だが有効な手段なのだ。長いパスワードのメモがデスクや冷蔵庫のドアに貼ってあるなんてこともざらにある。

 番組は、ニュースはローカルからワールドへと変わろうとしていた。

「トーマスさん、遅いな」

 なんとなく心細くなってきたクリスは、トーマスを探すことにした。

 ユージンもどこへ行ったのか、あれから姿を見ない。

 片っ端からドアを開けていくが、一階には誰もいなかった。

 二階にあがってすぐ、廊下に湯気が漂っているのに気がついた。窓ガラスの内側が白く曇っている。

 トーマスにバスルームだと教えられたドアが少しだけ開いているのが見えた。そっと覗いてみると、トーマスの後ろ姿が見えた。奥の浴室の手前、脱衣所に立っている。ガラスか強化プラスティックらしい折り戸が開いて、そこから湯気があふれていた。

「抵抗するなよ?」

 ユージンの声がした。

「しませんよ」

 あきらめたようにトーマスが答える。その向こうにぼんやりとした人影が見えた。

「……いい子だ」

 笑いを含んだ声と同時にトーマスのシャツが脱がされ、彼の裸の背中があらわになる。

 クリスの脳はそこで動きを止めた。

 気がつくと、クリスはリビングでニュースを眺めていた。いつの間にか芸能ニュースになっていて、映画スターらしい男女が笑顔で口づけと抱擁を交わしていた。

「……ええと」

 チャンネルを子ども向けアニメに変えてみた。魔法使いの少年と黒ウサギが画面の中で掛け合いをしているが、内容はまったく頭に入ってこない。

 同性婚が一般化しているとはいえ、子どもの親になるのは異性愛か女性同性愛のカップルが自然と多くなる。そして、クリスの住んでいたあたりでは女性同性愛カップルも少なく、異性愛こそが正当だという風潮が強かった。

 そういうこともあって先ほど二階で見た光景は、さすがのクリスにとってもそれなりにショッキングなものであった。


 ここで話は少し前に戻る。

 簡単にマットの掃除をし終えたトーマスは、ユージンを探していた。

 ドアを開けたまま放置して、結果、予備のベッドを猫のゲロまみれにしてしまったことに文句を言うためと、彼のベッドをクリスに使わせることを伝えるためだった。使わせていいかという確認や許可をとるためではない。それはトーマスによってすでに決定済みなのであった。

 それから今日の夕食をどうするかも聞いておいたほうがいいだろう。外食のつもりだったから、何も用意していない。というより、昨日からの夕食当番はユージンだったのだから、トーマスが考えるべきことでもないのだ、こんなことは。

 自室にはいなかったので、バスルームへ向かう。ユージンが風呂に入りたいと言っていたのを思い出したのだ。

 買ったときからほとんど手をつけてないという家の中で、大きなバスタブがほしいと言ってユージンが唯一手を入れたのが、二階のバスルームだった。

 案の定、バスルームの入り口には服が脱ぎ散らされている。

「ユージン!」

 折り戸をあけると湯気が一斉に迫ってきた。が、本人の姿は見あたらない。

「どこ行ったんだ、あの人……」

 苛立たしげに戸を閉めようとしたとき、バスタブの中からざばっという音と共に何かが現れた。いうまでもなく、トーマスが探していた人物である。

「びっくりした?」

 水泳用のゴーグルを外しながら、嬉しそうに笑う。わざわざ湯の中に潜って隠れ、彼が来るのを待ちかまえていたらしい。トーマスは激しい脱力感に襲われたが、言わなければならぬことがある。

「あなたの隣のあの部屋のベッドのマット、猫のゲロまみれでクリーニングに出さなきゃ使えません。だから、クリスはあなたの部屋に寝かせます」

「えー、やだよ。俺、昨夜は寝てないんだからさー。ベッドで寝たいよー」

「誰のせいで予備のベッドが使えなくなったと思ってるんですか。そもそもあなたがドアをいつもちゃんと閉めないから、猫が入り込んで悪さするんでしょう?」

「だって猫たちが入りたがるんだもん」

 半分湯に沈みながらブクブクと反論する。

「言い訳になってない」

 びしっと言い捨てて背を向けようとしたトーマスは、もう一つ聞くことがあったことを思い出した。

「ところで、今日の夕食はどうするんです? クリスもいるし、パーさんももうすぐ来ますよ」

「みんなで食べに行けばいいじゃない。子ども連れでも大丈夫なとこ、あるだろ?」

「店側の問題じゃなくて」

 トーマスはどことなく心細そうだったクリスのことを思い出す。

「あの子、母親を亡くしたばかりでしょう? できるだけ静かな環境で、ストレスは与えないようにしたほうがいいんじゃないですか?」

「それもそうだね。んじゃ、誰かが作るってのは?」

 いかにも名案を思いついたように人差し指を立てたユージンを、トーマスは睨む。

「昨日から向こう四日間の食事当番は誰になっていたか、覚えてますか?」

「……俺がなんか適当に作るよ。ところで」

 階下に戻ろうと背を向けたトーマスは呼び止められた。

「お願いなんだけど、タオル持ってきてくれない? 補給するのうっかり忘れててー」

「お断りします。用意しなかった自分が悪いんでしょう。そもそも二階の管理担当はあなたじゃないですか」

「そんなこと冷たいこと言わないでさー」

「嫌です。自分で何とかしてください」

「あっ、そう」

 湯から上がったユージンが、水滴をしたたらせて近づいてくる。濡れた床をふかなければと一瞬気をとられた隙に肩をつかまれ、強引に対面させられる。

「抵抗するなよ?」

 言いながら、ユージンはトーマスのシャツを脱がし始めた。

「しませんよ」

 こうきたかとあきれながらも抵抗はしない。そんなことをしようものなら押さえ込まれて無理矢理脱がされるに決まっている。外見に似合わず彼は荒事が得意なのだ。無駄に痛い思いなどしたくない。

「……いい子だ」

 脱がせたトーマスのシャツで体を拭きながら、ユージンは揚々と素っ裸で出て行った。

「あっ、またお湯抜いてない!」

 バスルームでは残されたトーマスの叫び声が響いていた。


 母親が男を連れ込むこともあったから、行為そのものは見たことがないにしても、情事の気配には慣れているつもりでいた。

 しかし、リビングに戻ってきたトーマスの顔をクリスはまともに見ることができなかった。

「もう少ししたらユージンが食事を作る予定だけど、それまで保ちそう?」

「大丈夫です」

「お客さんも来るけど、いい?」

「問題ありません」

 ふとトーマスの襟元を見ると、ジャケットは同じだがシャツは変わっていた。さっきの光景を思い出し、思わず顔が赤くなる。

「……クリス、大丈夫? 熱とかある?」

「ありませんっ」

 だから近くに来ないでってば!

 心配そうにトーマスが寄ってくるのを、ずりずりとソファーの端に移動しながら避ける。

「それならいいんだけど……」

 トーマスは戸惑うように少し微笑んでもう一つのソファーに座った。側の小さなテーブルに積まれている本の中から一冊取って読み始める。

 窓の外は完全に日が暮れて、庭が黒く見える。敷地の外に街路灯がぽつんとともっている。

 その遠くで空に向かって何本も伸びる光の柱は、地下都市(ジオフロント)を支えるための大きな塔で、そのまま一つの小さな街にもなっているそうだ。

 そんなことをタクシーの車中で話してくれたセイラのことを、クリスは思い出した。

 何か連絡が来ているかもしれないと、端末をポケットから出して見てみるとはたして彼女からのメッセージが届いていた。

「ふうん……メシの内容を報告しろってか。そんなことするんだ」

 右耳のあたりで声がした。驚いて見ると、いつの間に部屋に入ってきたのか、ユージンがソファの後ろからクリスの手元を覗き込んでいる。慌てて端末をポケットにしまう。

「隠す必要ないのに」

 クリスの頭をくしゃっとかき混ぜて、ユージンは奥のキッチンに向かう。服が替わっていて、黒いハイネックのセーターと同色のズボンを身につけている。黒ずくめのその背中に「プライバシーの尊重は大事ですよ」というトーマスの言葉が当たって落ちる。

 確かに隠すような内容ではない。それなのに隠してしまいたくなるのは、自分に後ろ暗いところがあると言っているようなものではないだろうか。

 不安になって様子をうかがうと、ユージンはカウンターの奥、冷蔵庫や保管庫の前あたりで唸っている。

「ろくなものがないな」

「ええ。買い出しをさぼった人がいたので」

「……まあいいか。あるものでなんとか」

「くれぐれも『食べられるもの』にしてくださいね」

 ページから目もあげずにトーマスが突っ込む。

 そのやりとりに、クリスは微妙な違和感があった。恋人同士にしてはドライすぎるような気がしたのだ。やりとりの内容も肥のトーンにも、男女の間によくある湿り気のようなものがない。しかし、身近に男性同士のカップルはいなかったのでわからないか、こういうものなのかもしれないと思い直した。

 そのうちに何やらいい匂いがしてきた。油とニンニクの匂い。ナイフで刻む音が続く。時々止まって、鍋に何かが放り込まれる。炒めた玉ねぎの甘い匂いも漂ってきて、クリスの腹は小さくくうと鳴った。

「そういえばクリス、嫌いな食べものはある?」

 一段落ついたのか、キッチンから出てきたユージンに聞かれて、クリスは首を横に振った。

「そりゃ素晴らしい。嫌いなものが多いやつより三十倍は楽しい人生が送れるね」

 持っていたタンブラーを空けて、ユージンは満足そうにうなずいた。カウンターの上にはいつの間にか、中身の減った白ワインの瓶が乗っている。

「そろそろテーブルの用意してよ。トーマス君、それくらいはいいだろ?」

「それくらいなら」

 読んでいた本にしおりを挟み、トーマスは立ち上がった。サイドボードの引き出しから布をひっぱりだして、テーブルにふわりと被せる。

 そのとき、開きっぱなしになっていたドアをノックする音に、皆が気づいた。

 玄関の呼び鈴は鳴らなかったので、直接入ってきたのだろう。ということは、玄関のキーロック解除を許されているほど親しい人間ということになる。

「こんばんは、諸君」

 背の高い来客は片手を挙げて挨拶した。ユージンとトーマスもそれぞれ、やあとかこんばんはとか挨拶を返しているので、クリスも黙って会釈する。

「これ、トーマス君にお土産。食後のデザート」

 菓子店名の入った高級そうな紙袋をクリスの前のテーブルに置いた。

 それから客は手袋を取り、コートを脱いで、ドア近くのハンガーに自分で掛けた。

 そのままクリスの横を通りすぎて奥に行き、カウンターの上に用意されていたワイングラスを取る。カウンターの奥から突き出されたユージンのタンブラーと軽く合わせると、立ったまま一気に空ける。すかさずユージンが白ワインでグラスを満たす。

「返事した通り食事は外でなくても構わないけど、どうみても君の関係者っぽいあの子はどなたかな?」

「やっぱりそう見える? クリス、紹介するからちょっと来て」

 客の露骨な視線に、見せ物にされているような居心地の悪さを感じながらも、仕方なく立ち上がる。トーマスの方をちらりと見ると、クロスを整えていた彼は、大丈夫というように小さくうなずいた。

「クリス、これが俺の友だちのパーさん。パーさん、これが俺の子どもかもしれないクリス。ほら、握手、握手」

 また奥のキッチンに引っ込んでいたユージンが、寸胴の中に乾麺をぼりぼりと折り入れながら、雑な紹介をする。

 パトリックはユージンより少し年上に見えた。ポケットから鮮やかなオレンジ色のチーフがのぞいていて、着ているのはダークスーツなのに、どこかしら華やいだ印象がある。

「初めまして。パトリック・グリーンです」

「クリス・バーキンです」

 いつの間にか加わっていたトマトの匂いの中で、クリスは握手した。

「今日はガワなしのキッシュとミネストローネ。キッシュはツナとほうれん草の。足りなきゃピザでも焼くよ。冷凍でよければ」

 カウンターの奥から聞こえるユージンの声に、洗い物でもしているのか水音が混じる。

 学校のカフェテリアでも見るようなありふれたメニューだ。トーマスの『食べられるもの』にしてくれというリクエストを聞いて、少し警戒していたクリスはほっとした。

「サラダは出来てるから先に食ってて」

 カウンターの上に大きなサラダボウルがどんと乗せられた。クロスのかかったテーブルにトーマスはそれを運ぶ。

 続いてパトリックがボトルと自分のグラスをテーブルに移し、そこを自分の席と決めて落ち着いた。

 トーマスがその向かい席の椅子を引いて、クリスに座るように促す。椅子は少し高い。足が完全には床に着かず、頼りなく揺れた。

 取り皿やカトラリーを準備し終えたトーマスは、サラダを取り分け、やっとクリスの隣に座った。

「先にいただきますよ」

 カウンターの奥のユージンに声をかけて、トーマスはサラダに手をつけた。異常はないようなので、クリスも自分の皿に手を伸ばす。ブロッコリーとカリフラワーをドレッシングで和えたもので、砕いたナッツがまぶしてある。

「……面白い味」

「口に合わなかったら、無理しなくてもいいんだよ。他のものを用意しようか?」

 トーマスがフォークを置いて立ち上がろうとする。

「ううん、そうじゃなくて。美味しいんだけど、変わった味がする。ドレッシング?」

「面白い味か。子どもの言うことって面白いね」

 頬杖をついたパトリックが、残り少ないボトルの中身をグラスに注ぐ。

「できたよ」

 ユージンがボウルにたっぷり入ったミネストローネを盆に載せて運んできた。角切りの野菜の間に短いパスタが揺れている。

 続いて間の抜けた電子音が鳴った。いそいそと奥に戻ったユージンは、今度はグラタン皿を皆に配る。ほどよく焦げ目がついたキッシュは、熱とチーズの香りを発散していた。

 自分の席に座ろうとしたユージンの前で、催促するように空になったボトルが振られる。

「パーさん、今日はワインはおしまい」

 これでは足りないと主張するパトリックを無視して、ユージンはしつこいほど息を吹きかけて冷ましたミネストローネに口をつけた。美味いじゃないかと自画自賛する。

 クリスもつられるようにうす赤いスープを一口含んだ。確かに学校のカフェテリアのよりおいしい。続けてキッシュも少しだけ味見する。これも近所にあったデリカテッセンと同じくらい、いや、いつも冷め切っていたあれよりもずっとおいしい。

「いつもまともに作ってくれればいいんですけどね」

 言いながらどこか遠い目をするトーマス。

「あ、そうだ。セイラさんにメッセージしないと」

 クリスは端末を取り出した。文字だけの報告メッセージなら後でもよいのに、なぜか目の前の食卓を写したくなった。端末のカメラを使って、料理を一枚、静止画像で撮る。

「どうせならみんなで写れば? 僕が撮ってあげよう」

 手を出すパトリックに、クリスは軽い気持ちで端末を渡した。

「俺は写真嫌いだから……」

 キッチンに逃げ込もうとしたユージンの耳を掴んだトーマスは、引っ張ってきた彼を無理矢理自分の席に座らせた。鎖骨の上あたりをがっちりと掴み、逃げられないように固定する。

「クリス、もうちょっとこっちに寄って。パーさん、今!」

 はいチーズのかけ声がかかる。フラッシュが光った。

「トーマス君のバカ。写真撮られると寿命が三年縮むんだぞ」

「いつの時代の人間ですか、あなたは」

 文句を言いながら自分の席に戻るユージンに、トーマスがあきれている。それを見ていたパトリックは笑いながらクリスに端末を返した。

「よく撮れてるよ」

 礼を言ってデータをチェックする。端末の小さな画面には、仲の良い家族のように身を寄せた三人が写っていた。

 遺伝的な関係は正式の鑑定待ちなので、今の時点ではクリスとユージンとトーマスは他人同士でしかない。

 義父や義母と本当の親子のように仲の良いクラスメイトもいたから、家族というのは単純に血のつながりではないというのはわかる。反対に、血がつながっていても、憎み合う家族もいる。

 遺伝子だけでもなく、経済だけでもなく、愛情だけでもない。

 家族というのは、もっと複雑なものではないだろうか。

 死んだ母親を愛していたのかと問われると、クリスは頷くことはできない。彼女は鬱陶しい枷だった。しかし同時に、確かに彼女だけがクリスの家族だったのだ。

 こんなところで、何やってるんだろう、オレ。

 再び口した料理は、急に温度が下がっているような気がした。それでも美味しかったのだが。

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