第一章 バイバイ、ブラックバード
クリスの母のエレンが十二年前に出会ったのは、クリッパーを自称する若い男だった。
光速で運航可能な宇宙船を操縦するためのA級ライセンスは、取得と維持が非常に難しい資格である。試験の合格者は二十代の若者がほとんどで、彼らは知力と体力が充実しているうちにその技術を使って莫大な報酬を得るという。
故にA級ライセンスの保持者は、尊敬を込めてクリッパーと呼ばれている。
その年はターナソルの大学の施設を使ってA級ライセンスの二次試験が行われ、歓楽街では大量の自称クリッパーが発生した。
もちろんそのほとんどがナンパ目的のニセモノで、エレンは自分が一夜を共にした男も当然そうだと思っていたし、それでもかまわなかった。
ひょっとしたら彼が本物のクリッパーだったのかもしれないと彼女が思い始めたのは、三歳になったクリスを夜間保育所に預けて働きはじめた頃のことだ。
酒場への出勤前、クリスを預けるために保育所に立ち寄ったとき、人のよさそうな女性所長に知能テストを受けさせる気はないか尋ねられたからだ。そのときにはもう、一夜きりの男がコースターの裏に残した連絡先のメモなど、どこかに無くしてしまった後だった。
結局、エレンは太陽系から比較的近いデラメア星系の惑星ターナソルから一度も出ることないまま、ひと月前に死んだ。
その夜、母親の携帯端末の急な信号断絶を受けて、寝室が一つしかないクリスの家ではホームセキュリティーのアラームが鳴り響いた。
どうせまた男と揉めて折られるとか踏み潰されるとかで端末を壊してしまったのだろうと気にもせず、クリスはアラームをリセットするとそのまま眠ってしまった。
いつもは明け方に酔った母親がベッドにもぐりこんでくるのと入れ替わりに起きていたのに、常になく寝過ぎてしまったクリスは、誰もいない明るい朝の寝室で少し不安を覚えた。
どうせどこかの連れ込み宿にでもしけ込んでるのだろうと思いつつも、一応、自分の端末を手にとった。昨夜母親の端末の信号が途切れた時間と場所を確認し、警察のサイトで該当する事件や事故がないか検索をかける。
無機質な文字が、大規模な交通死亡事故があったことを告げていた。歓楽街から帰ってくる女たちを満載した深夜のバスに、酔っ払いの運転する車が突っ込んで双方とも炎上したのだと。
愛情よりも、生まれたときからくっついている枷のような疎ましさを母親に感じていた子どもにとって、それは特に悲しむべきことではなかった。
通常七歳から始まり十五歳で修了する基礎教育学校(ベーシック・スクール)のカリキュラムを、クリスは既に昨年終えていた。にもかかわらず、どんなに懇願しても、「友だちの一人もいないんじゃ、いくら頭が良くたってダメなのよ」とエレンは繰り返すばかりで、上級学校(ハイスクール)への進学を許可しようとはしなかった。
わかりきった内容の授業がおもしろいわけもない。明らかに授業を無視して違うテキストを読みふけるクリスを、教師は無視した。クラスメイトたちも無視した。
白いハトの群にまぎれこんだ黒い小鳥のように集団から浮き上がった人間は、時として悪質なからかいや嫌がらせの的になる。クリスも例外ではなかった。しかしそんなとき、にらみ返すだけでクリスは黙っていた。無駄な抵抗をしないことで、加えられる暴力に一時的にはずみがつくことがあったとしても、結果的に総体的な被害は少なくなることを信じていたからだ。本で得た知識からの推測ではあったが、それは当たっていた。
泣かない人間を揶揄したり殴ったりしても、普通の人間は楽しめない。いずれは飽きてしまうものなのだ。
殴られても泣かなかったのは、子どもが相手のときだけではない。
「本当にかわいげのない子だわ!」
手の平を赤く腫らした母親に何度も言われた。母親の男たちからも。
「あんたさえいなければ」
そう言われたことも何度かある。
だから母親が死んで、クリスはむしろ自由になれた気がした。
でもひょっとしたら枷は自分のほうだったのかもしれないと、損傷が激しく子どもにはとても見せられないからと、一度も開けられないまま土に埋まっていく棺を眺めながらクリスは思った。
身よりのなかった母親に代わって新しい保護者となった政府は、国内限定ではあったものの進学の自由と衣食住を保証してくれた。新学期からはハイスクールへの進学も認めてくれている。
何一つ不満はなかったはずのクリスが、父親を捜してみようと思い立ったのは、葬儀を終え、児童保護施設への転居も済み、母親と住んでいた部屋の整理をしていたときだった。
顔見知りのリサイクルショップの老人を呼んで、捨てるものと売れそうなものをより分ける。その途中で出てきたのが模造宝石で作られたきらきらした安っぽいティアラだった。赤いビロード貼りの紙箱に一緒に入っていた写真(プリントアウト)には、同じティアラを頭に載せた笑顔の少女が写っていた。背景にはどこかのハイスクール主催のダンスパーティの横断幕。写真の少女はクリスに似ていた。
「これ、売れる?」
「ああ。写真のほうは売れないがね」
故買品も扱っているという噂がある、ひげ面の老人は愛想がない。
取り出した写真を、少し考えた後にゴミ箱に入れようとして、裏に何か書かれていることにクリスは気がついた。
薄い鉛筆書きの、憶えのある丸っこい文字で、〈月〉〈クリッパー〉〈酔っぱらいそうな?〉とある。
大抵の自治政府では、子どもが生まれる前後の数年間、出産育児手当が支給される。クリスの住むターナソルも然りで、妊娠中を含めて最長三年間、どうにか暮らしていける程度の手当が出る。それもあってか、この街の女は子どもを産んでもあまり結婚はしないし、結婚してもすぐ別れる。父親の名前さえ知らない子どもも多い。
だから、クリスもそのときまで自分の父親も世界のどこかにいるはずだということを忘れていた。父親は月に住む、通称クリッパーと呼ばれる光速船のパイロットであると、五歳の自分に一度だけ母親が語ったことも。
「ねえ、おじさん。月に住んでて、十二年前にA級ライセンスを持っていた、または取得した、現在の年齢が三十歳から四十歳の男のリストって、手に入るかな?」
「たやすくはないが、難しくもない。いくら出せる?」
「この品物全部でどう?」
クリスは部屋に積み上げられた段ボールと家財道具を示した。
「このガラクタでなんとかしろと? 相変わらず食えないガキだ」
とってつけたような苦い顔であごひげを撫でていた老人は、思い直したように言った。
「お前さんとこにはずいぶんひいきにしてもらったからな。餞別代わりにその条件でやってやるよ」
「ありがとう、おじさん。でも、別に急ぐわけじゃないからその分安くしてよ」
老人は今度こそ渋い顔になって、本当に食えないガキだと忌々しげに吐き捨てた。
そう言ってはみたものの、現実的な十一歳の子どもは父親が見つかるかもしれないという期待は全く抱いてなかった。
十二年も前の話だし、当時クリッパーだった男が月に何人いるか想像もつかない。そもそも老人が当てになるのかもわからない。
ただ、うまくいっていたとはいえない母親の人生を精算した金は、その原因の一つである自分を作った男のために使い切るのが一番ふさわしい気がしたのだ。
だから、老人からのメッセージにリストが添付されていたのには驚いた。しかも、その中にまさに〈酔っぱらいそうな〉名前を発見したときには、一瞬どうしたらいいのかわからなくなった。
その男は今も月に住んでいた。当時は二十歳。計算は合う。
母親の字に似せて偽造したメモを「遺品の中から発見した」と嘘をつき、父親らしき人間の氏名が書かれているので調査をしてほしいと、一時入居している施設の職員を通じて政府に願い出たのが三週間前。
先日届いた調査結果は、〈血縁者の可能性あり(ビンゴ)〉だった。
市民登録用の限られた遺伝情報のみのチェックでは厳密とはいえないものの、確率的には百万分の一と言われている。
「君はどうしたいのかな?」
素っ気ない施設の面談室で、政府の福祉担当者に聞かれて初めて、父親を見つけたその先があることに気がついた。
月の開発の歴史は意外に新しい。
恒星間航行法が確立し、惑星開発が進んで、いくつかの太陽系国家が誕生した。それを機に成立した国際宇宙連盟(UUN)が運営資金捻出のために開発、各国に外交府として転売したのが月の地下都市(ジオフロント)群である。
地球や火星のようにオープンエアーの惑星の都市では侵入が容易なため、どうしても警備・管理は難しい。事実、要人の誘拐や暗殺も多い。
しかし月は月の門(ムーンゲート)を唯一の関門として、武器や麻薬や犯罪者の流入をとどめ、世界で一番安全な街を具現化していた。いきおい金で買える安全を求める人間も多くなり、都市は富み栄えることになる。
その月に住む、かつてクリッパーだった男なら――。
きっと幸せに暮らしているに違いない。
――何も知らずに。
母親が死んでしばらくして、わけもなくいらだちを感じることがあった。思い当たる原因や起因も特になく、単純に環境が変わって緊張しているせいだろうとクリスは考えていた。
もやもや浮かんでは消えていくだけだった心の中のそれが今、台風の目に向かって吸い寄せられる雨雲のように、互いにまとわりついてまとまっていくようだった。
――どうしてオレだけが。
そのいらだちは、ついに核を持った。腹の底で冷気が沸騰したような気がした。
クリッパーだった男なら、それなりの財産もあるはずだ。
正式な親子鑑定を受け、親子と認められたなら、養育費の請求ができる。教育は国が保証してくれるといっても限界はある。養育費があれば、人生の可能性も広がる。彼が死亡したときにはいくらかの遺産を受け取れるかもしれない。
といっても、クリスがやりたいのはそんなことではなかった。
父親が幸せなら、それをぶち壊してやりたい。
今まで何も知らずにいた、その無責任さのツケを払わせてやりたい。
もし、奥さんや恋人がいたら、突然現れた別の女の子どもに対していい感情を持てるはずがない。子どもがいても面白そうだ。
――きっとごたごたが起きる。いや、起こしてみせる。
それが八つ当たりだったとしても、オレにはその権利があるはずだ。だってオレはずっとほったらかしにされていたんだから。
何ができるかわからないけど、行ってみたら何か嫌がらせの一つくらいはできるはずだ。
「それで、君はどうしたいのかな?」
待つことに慣れているらしい担当者は、淡々と同じ口調で繰り返した。
「お父さんに会ってみたいです。それから、できたらちゃんとした親子鑑定を受けたい」
「そうか。じゃ、手続きを進めてみるよ。先方が面会を承諾するかどうかはわからないけど、少なくとも君にはその権利がある」
そのとおりだ、とクリスは思った。自分には復讐する権利がある。
お願いしますとはっきりした声で答えると、担当者は微笑んで書類の作成にとりかかり始めた。
セキュリティ・チェックを終え、ラグランジェ国際宇宙港から月へ向かうシャトルへの搭乗が開始されるまでの間、クリスは空中に大きく映し出された地球の立体映像を眺めていた。
画像を見たことはあってもライブ映像を見るのは初めてだ。黒い空間にぽっかりと浮かぶ白と青のビー玉の下には「地球にいらっしゃいませ」という文句が旅行会社のロゴとともにきらめいている。
「おまたせ」
戻ってきたセイラは持っていたカップをクリスに差し出した。礼を言って受け取ると、温かい湯気とココアの甘い香りが漂った。
「きれいでしょう、あれ。私もここにくるといつもぼーっと眺めちゃう」
隣の席に腰を下ろしたセイラもカップを持っている。しばらくの間、二人は無言で映像を眺めていた。手前側の地球は昼間で、太陽に明るく照らされている。
「最初に、言っておきたいことがあるの」
ためらうような声が聞こえた。
「あなたの第一希望は父親との同居ということになってるわね」
ようやく冷めてきたココアに口をつけ、クリスは頷いた。
本当はそんなことを望んでいるわけではないし、受け入れられるとも思っていない。嫌がらせのための要求だ。
「残念だけどクリス、あなたみたいなケースでは父親が子どもを引き取ることはほとんどないの。認知と養育費の支払いはしてくれることが多いけど」
「養育費なんかいらない。オレはただ、『お父さん』に会ってみたかっただけなんです」
言いなれないせいで、お父さんという言葉の発音が微妙におかしくなった。
こう言っておけばセイラは自分に同情し、親身になって動いてくれるだろう。
「あなたのお父様ではないかと考えられる男性は面会は承諾してるけど、中には面会はおろか親子鑑定も拒否する男性もいるわ。拒否しても強制執行で鑑定はできるし、正式鑑定で親子と認められれば認知させられる。そうなったら養育費も亡くなったときの遺産請求もできるけど、結局嫌な思いをすることも多いの。そして傷つくのはいつも子どもなのよ」
「大丈夫です」
そんなことは予想済みだ。最初から期待しなければ傷つくこともない。今までもそうだったのだから。
それならいいけどというセイラの小さな声は、着いてからの行動予定を脳内シミュレートするクリスの耳には届いていなかった。
グリニッジ標準時一四時一八分、カト市の外れの通称・猫屋敷で電話が鳴った。
「はい。カベンディッシュです」
一仕事終えたあとのお茶の手を止めて、トーマスは携帯端末を取り上げた。
「もしもし」
共用回線が自動的に切り替わり、なじみの声が聞こえてきた。家主の、そして自分の同業者の友人だ。
「ああ、パーさんでしたか」
「トーマス君、その呼び方、どうにかならない?」
「失礼しました、グリーンさん」
「そういう他人行儀な言い方もちょっと」
不服そうだったが、端末の小さな画面に表示された声の主の映像はにこやかに静止している。
「ところで、何のご用です?」
「ユージンいる? 今日、飲みに行く約束してたんだ。仕事の調子はどうかな」
「昨日の朝、見たきりですね。仕事場(あなぐら)に引きこもり中です」
「どうりで個人回線にもメッセージにも応答がないわけだね。いつ終わるの?」
トーマスと呼ばれた青年は、壁に掛けられたアナログ時計をちらりと見上げた。
「一五時が締め切りなので、あと二〇分くらいでしょうね。今頃はレポートの最終チェックの最中じゃないでしょうか」
「まあいいか。『後で迎えに行く』って伝言しておいて」
「了解」
「一応メッセージも送っておいたけど、仕事が詰まってくると彼は秘書システム(コンシェルジュ)に全部丸投げだから、まともに見てるとは思えない」
ため息混じりのぼやきが聞こえた。会話が長くなりそうな予感に、トーマスは電話をスピーカーに切り替えた。お茶は冷めないうちに飲むべきである。
「仕方ないですよ。他に取り柄もないあの人から仕事とったら何が残るんです?」
「そうだね。猫くらいは残るかな」
「猫は資産ですか? 負債ですか?」
「雑種の猫なんて負債に決まってるじゃないか」
シビアな返答だった。家主が聞けば嘆くことだろう。
「だとすると彼には借金しかないことになりますね」
「しっかり働いてもらわないと、その家のローンも払えなくなるよ」
「そうなったとしても、僕には関係ありませんが」
「おや、冷たいことを言うね。一緒に住んでるのに」
「家賃は払ってますし、彼とは仕事のパートナーというだけですから。彼が結婚でもするなら僕はいつでも出て行きますよ」
「そうなんだ」
だったらなぜと揶揄するような言外の響きに、トーマスはついむきになる。
「だって、一人で生きていけませんよ、あんなぐうたらな人。ここだって一週間でゴミ屋敷になります。それに僕がいなかったら八匹の猫たちだってどうなることか」
「……君もすっかり愛猫家として洗脳されてしまったんだね」
どこかしら気の毒そうなパトリックのトーンにトーマスは我に返った。
「はっきり言っておきますが、家賃が安いというのが僕がここにいる唯一の理由です」
「そういうことにしておこうか」
電話の向こうで微かに笑った気配がした。
「そういうわけで、今夜僕たちは出かける予定だけど、君も一緒に行くでしょう?」
「食事だけなら」
「酒は?」
「僕は飲みません。それにあなた方につきあったら死にます」
「それは残念だよ。じゃあ、またあとで」
伝言よろしくと言い残して、通話は切れた。
トーマスはポットに湯をつぎ足した。
あと一杯お茶を飲み終えたら、散歩に最適の時間になる。
地下都市といっても昼夜の変化もあれば、ゆるやかながら四季もある。酸素補給と景観保全も兼ねて作られている公園や緑地の数も多く、この時期は葉を落とした木々のフォルムが美しい。もう少し時間が遅くなると人が少なくなって寂しすぎるから、今くらいのほうがいい。
帰ってきた頃には腹も減り、食事に出るにはちょうどいい時間になっているだろう。
生きていくためだけなら、そこまで必死に働かなくてもよいはずだ。
独り立ちして二年目のトーマスでさえ、働くのは平均で週四日といったところか。なのに彼の相方のユージン・ブランディワインときたら、たまにまとまったオフをとるものの、毎日のように何か仕事をいれている。本人は仕事が好きなだけだと主張するが、あれは病気レベルである。
もし、結婚して、子どもができたらまともな家庭人としてやっていけるんだろうか?
試しに考えてみたけれど、家庭をおざなりにして仕事に打ち込み、離婚されるという未来予想図しか浮かばなかった。
やっぱりダメだな、あの人は。
トーマスは苦笑した。
かくいう彼自身も女っ気はなく、このままでは確実にやもめ路線まっしぐらだったのだけれども、まだ二〇代ということもあってなんとかなるんじゃないかと漠然と思っていた。
実際になんとかなるまでには十四年の経過を待つことになるが、それは別の話なのでここでは語られない。
とにかく、十二月の午後の猫屋敷は平和だったのだ。
玄関のベルが鳴るまでは。
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