第3章 かくしごと
かくしごと<1>
貸切のようなダンスホールで踊りつかれた二人だったが、しかしユカリコ姫と、王子が自国より連れてきた使用人以外に関係を秘密にしている以上、行ける場所は限られていた。王子にあてがわれた客間ぐらいのもの。といっても、不自由のないよう広々とした空間で、さらに、必要なものは王子が連れてきたメイドに伝えれば世話してくれるのだが。
「チェックメイト」
「あーっ。また僕の負けか」
チェス盤を挟んだ向こうで王子が叫び、ソファにゆったりとかけていた腰を上げた。二人分のトロピカルジュースを運んできた青の国からのメイドからは、驚きの声が上がる。
「あら、秀才と謳われる王子様が、お嬢様にチェスでですか?」
「うん。僕の城では、誰にも負けたことはなかったけどね」
番子はトレイに載ったグラスを受け取った。両手で持たなくては支えきれないほどの重量感。美しい海のように青々と透き通るジュースに浮いているのは、大胆に大きくカットした名前のわからない黄色い果実、飾り付けのための見たこともない赤い花、そして甘酸っぱい香りのするオレンジの皮を曲げて重ねてそれを三段ほど楊枝で貫いた、帆の張った船を模した飾りだ。
「あっ、それとも――」
そんな豪勢なドリンクを、王子は特段驚くこともなくメイドから受け取る。王子だからというより、トロピカルジュースと言えば青き国の名物。慣れているのだろう。
「――〝王子〟に勝たせるように、手加減をしていたと思うかい?」
「いいえ、そんなこと全く思いませんよ」
「今だけは、気遣いは無用だよ? 本当のところを教えてほしいのだが」
「はい。まあ、負け惜しみで〝あれは接待したんだ!〟とおっしゃる方なら何度もお見かけしましたが」
「ははは。それ右大臣だろ? あいつもなかなかの腕前だったしな。腕に自信があるのも感じていた。だからこそ、勝利の美酒がうまかったものだ」
王子とメイドのやりとりに番子は微笑み、王子と、チン☆ と、グラスを合わせて乾杯。すると、中の船がゆらりと出港した。王子は輪のようにカーブを描いた吸いさしをくわえ、涼しげに吸い上げる。そういえば、王子の片眼鏡には遮光の加工がしてあるようで、普通の眼鏡よりレンズに黒く色がついている。どこか、眼帯をした海賊を思わせる雰囲気があって、王子の中のやんちゃさが顔をのぞかせているようで番子は好きだった。
「つまりはなちゃんはね、すごく頭が良いんだよ……」
こぼしてドレスを汚さないよう、番子が黄色い実をそうっと引き抜こうとして苦戦していると、「貸して」と言って王子がぽんっと取ってくれた。汚れるといけないから、と、手ずから食べさせてくれる。番子は嬉しくなって、ぱくりと口に入れたが、どうも繊維が強く、なかなか噛み切れない。「ね?」と、王子は楽しげに笑っているし……。頭が良いなんて口では言いながら、これではまるで犬か子ども扱いをされているようだ――ちらっとメイドを見ると、今度は彼女の方が微笑ましそうな顔でこっちを見ている。うーん、ちゃんと仲睦まじい恋人に見えているだろうか。
「……でも、ここでのことは他言無用だよ。いいね」
ひとしきり番子に餌をやるようにして遊んだ王子は、口元の笑みはそのままに、ふと、有無を言わせない調子でメイドにそう忠告する。
「はいはい。お忍びデートですね」
「そう。特に、光の国の者にはもらしてはならない。僕と同じようにはなちゃんにも、……立場がある。そうだろう」
遊びの時間とそうでない場のけじめをつけるように、王子は番子の方を向く。番子は慣れない果汁がしみて腫れてきた唇をハンカチでぬぐいながら、うしろめたさと、申し訳なさを感じて弱々しく、しかしはっきりと頷いた。
「大丈夫だ。今日、この棟は、僕の青き国から連れてきた従者だけに貸し切ってもらったからね。立ち入り禁止、って」
番子の秘密を守るため。
「ごめんなさい……」
「いいんだ、はなちゃん。僕は……」
すべて隠さない、という意志を感じさせられる、まっすぐな瞳。
「君を困らせるようなことはしたくない」
ハル王子は優しい。
前に、何度も繰り返した押し問答。
――君は、どこの家の人なの。
――どうして僕に、隠しているの。
それを、
「今は、君を抱きしめられるだけで、もういい」
そんな言葉に変えて立ち上がり、チェス盤を脇にどけると、決して離さないと伝えるかのように強く、抱きしめてくれた。もっと近づきたいと叫ぶように。
何よりも大切なハルくん。それなのに、
「ごめんなさい……自分のこと、いつも、なんにも言えなくて」
でも、言えないのだ。
自分はメイドだ、平メイドだと。――まだ言えていないのだ。もう何年もこうしてデートをしているのにもかかわらず。
「いつか、見てみたいよ」
「……ごめんね」
隠し事があっては、付き合うことなどできない。ただでさえ相手は王子なのに、こんなことじゃ正式な恋人なんて、夢のまた夢。なれるはずがない。
「でも、いいんだ」
このままじゃ、ずっと、これ以上先には、進めない。
「本当にいいんだ。僕は、このままでも幸せだから。君の近くにいて、君を少しでも支えられたら、それでいいんだ。そんな顔をさせているほうが、つらいから。言いたくないことはなにも、言わなくていいよ。はなちゃん」
言う勇気がないなら、さっさと離れなくちゃいけないのかもしれない。
でも、離れる勇気もない。そんなものがあったら、とっくに本当のことも言えているだろう。
番子は、自分の身分が平のメイドであるということを、この期に及んでまだ王子に明言していない。ユカリコ姫の近しい友達とだけしか伝えていない。出会ってからこれまで、ユカリコ姫に協力してもらいながら、王子に「何も聞かないで」と頼みながら、うまくはぐらかしてきた。
メイド――それも平メイドと知ったらもう手紙が来なくなるかもしれない、会ってなんてくれなくなるかもしれないと思うと、今さら身分を明かすのはとてもとても怖いのだった。向こうとしても立場上、お忍びデートの方が都合がいいからなんとか許してもらっている現状だ。
彼は、ユカリコ姫の友達ならばある程度の家柄があるはずだ、ということを前提に番子と付き合っている。平メイドの自分よりずっと広い世界で生き、ただでさえ何万人もの人から愛を向けられる王子だ。こんなどこにでもいるようなメイドなんかより、ずっと魅力にあふれ、もっと夢のように素敵な人生を歩む人と、いつか巡り合う運命を持っている。いや、それは王子である彼の責任ですらある。そう。住む世界が違う。わかっていることだった。
ユカリコ姫の〝遊び〟を通して、番子には救われたことと絶望したことがあった。
その「救い」とは、身分差さえなくしてしまえば、あとは本当に本人の魅力次第なのだということに気づいたこと。
そして「絶望」とは、この世界には常に身分が付きまとうという現実。
王子と会っているときはなんだか自分までお姫様になったような気分だった。
ユカリコ姫に貸してもらったドレスを着て。
王子付きのメイドに食事を運ばせて。
でも、
似合っていると褒めてくれるドレスもティアラも、自分のものじゃないこと。
使用人に好きなこと命じられるような立場なんかじゃ全然、ないこと。むしろ自分は、使用人の立場だ。
言えない。
たとえ私と王子の関係が、永遠にこのまま進まないとしても。
ユカリコ姫や、ハル王子には想像できないだろう。ハルくんの頭の中のわたしが、綺麗な私の輪郭が、崩れ去ってしまう現実を突きつけられる恐怖を。姫や王子と、いろんな偶然が重なりあって対等に話していたとしても、思い知る。あなたとわたしでは、住む世界があまりに違う。仕方のない、悲しい現実。
昼の上役メイドの茶会を思い出す。
――王子様、うちの国の誰かと恋仲なんだって。
――もしかしたら、貴族様じゃないかもしれないんだって!
――うちらと同じか、ひょっとして平民かもしれないの?
――そんなこと、向こうの国が許すと思う?
――それなりに名がないと、こちらとしても申し訳ないわよね……
王子様からいまだに手紙をもらえる。こっそりなら会うことができる。そう。わたしにはそんな奇跡だけで十分。いや、なくすのが、なによりも怖い。
頑なに出自や身分を言わない番子に、王子はなにも聞かないでくれる。番子はそれに、甘えているのだ。
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