5. MAD PRACTICE

「しっかし、一週間かぁ……」

 三人でコンピューター室を後にし、皆で下校している途中で由卯は声を上げた。

 一週間後の約束もあってか部活動は早めに終わるという事になり、見方によっては追い出されるような形で教室を出てきたのだ。

「あまり気乗りしないけど、なんとかなるよねきっと」

 不安を紛らわすように笑う由卯。

「ほんと貴方はいつも能天気ね、問題は山積みなのよ?」

「……あの琴坂さん、問題って?」

 千智の指摘に晴美は首をかしげる。晴美も確かにそのままで何とかなるとは思ってはいないが、何をどうすればいいかまでは思いつかなかった。

「そうね、まず……パート、誰がどこを演るかどうかね」

 ちらりと二人の姿を見てから千智は言った。

「楽譜はご丁寧にメロディとベースとドラムの三つにパートが分けてあった。まるで不要なパートは選ぶなと言わんばかりにね」

「え、つまり三人で割り当てろと?」

 晴美は自分と二人を指差し、千智に訊いた。

「ええ、松木先生はそうして欲しいんでしょうね」

 そうでなければ……と小さな声で続ける千智。

「だったらマッキせんせも口で言えばいいのに」

「きっと先生にも先生の考えがあるんだと思う……」

 由卯の言葉ももっともだが、晴美は何かがあると思う事にした。

「そりゃなんか考えてるのはわかるけどね……」

「何にしても今はパート選びのが先よ。どう由卯、貴方は演りたいパートはある?」

 千智が由卯に問いかけた。千智自身にも色々思う所はあるようだが、晴美が居る前での由卯への態度の緩和ともいい、今は部活動として提示された事をやる方が大事なようだ。

「んー、じゃあボクはドラムかな」

 答える由卯。その由卯の口調からにも妙な空気を産むような壁はあまり見えない。

 やはり互い互いに思う所はあっても、一度入った部の活動への想いがあっての事だろう。

 ――実際、部に入ったところで入れ込む必要も無いのだが、千智と由卯の二人ともが妙に気になっているのも晴美という存在があるからなのかもしれない。

 もしくはこれこそが人のイメージを伝えるという『音楽魔法』の力なのだろう。由卯自身はそれを経験してはいないのだが。まあ理由は何にしても二人を通じ、三人は今繋がろうとしていた――。

「で、私がメロディ……キーボードね」

 由卯に続いて答える千智。

「……それで、残るわたしがベース?」

 自分を指差して首をかしげる晴美。

「ってことだね」

 これで決まりだと言うように由卯は相槌を打つ。

「あ、でもわたし、ギターとか弾けないし、ベースとかも持っては……ないんだよね」

 沈むように晴美は言う。

「……由卯もそうだけど、やっぱり鈴野さんも相当ね」

「それどういう意味」

 晴美の言葉に顔をしかめる千智。その千智の言葉に由卯はふくれっ面になる。

「よければ詳しく説明したいのだけど、その鈴野さん……」

「……はい?」

 物凄い遠まわしによかったら晴美の家で説明したいと言う千智。昨日今日で行くのもどうかと思っていての言葉なのだが、その意味は少しも通じなかった。というより通じるはずはない。

「……ねえ、どうせだしウチよってかない?」

 言葉の詰まる千智の意図を汲み取ってか、ふと由卯がそんな提案をした。

「由卯ちゃんち?」

「そ、ボクんち」


 まだ話したり無い事もあり、由卯の好意に甘え、皆で由卯の家に行く事になった。

 晴美からすれば、まだ千智の全てを受け入れられるわけではないが、同じ部員になった事や同じ好みがある事、友達である由卯の家に遊びにいけると言う事等から断る理由は無かった。

 千智の方も複雑な思いはあったが、それでも断るほどでもなかった。

「でもよかったの?」

「ああ、いまウチ誰もいないから、何してもへーきだよ、へーき」

 迷惑じゃないかと心配そうな晴美に対し、由卯はあっけらかんに答えた。

「……ん、じゃあちょっと家に電話してもいいかな?」

 ふと晴美はそんな事を由卯に尋ねた。

「別にいいけど、なんで?」

「あ、遅くなったらおかーさん心配するかなって」

 由卯の言葉に、恥ずかしそうに晴美は答える。

「部活してんだし遅くなるくらいわかってるんじゃ?」

「うん、でもね」

 確かに由卯の言うとおりではあるが、晴美は一応でも連絡を入れておきたいと思ったのだ。

「……ま、ハミちゃんらしいとは思うけどね。別にいーよ」

 仕方ないなあという顔で由卯は答えた。

「じゃあちょっと、ごめんね」

 軽く謝ってから晴美は立ち止まり、黄色の本体の携帯電話を取り出した。折りたたみ式の、かつて『ガラケー』とも呼ばれていたタイプのデザインをしたものだ。

 ――二○七八年においては、電話にしてもわざわざ電話の……受話器の形をしていなくとも、融合現実技術のおかげで元になる何かしらのデバイスがあれば電話をかける事は可能になっている。やろうとすれば適当な電子ペーパー一枚ででも電話をかける機能やメールを送受信するような機能を付けて使う事もできるのだが、それが全ての人間に好まれるものとは限らず、古来よりのデバイスの形や存在、システムなどを好む人も少なからず存在している。

 『ガラケー』――フィーチャーフォンも、そういう人々が居るために存在し、利用する事も可能となっている。晴美が持っている携帯電話もそんな人々の思いの結晶のひとつだ。

 晴美の好みもあり、可能な限り古いタイプの携帯電話が欲しいと思い、機能的な問題や使われているシステムへの対応の関係、デザイン等あれこれ調べた結果、今の携帯電話に落ち着いたのだ――。

 晴美が電話をかける姿を見ながら、二人はジッと待つ事にした。

「……ところでチサはいいの?」

「ええ、そこまで気にするような親でもないから」

 待っている間、由卯は千智にも連絡しなくていいのかと尋ねた。

 その返答はさらっとしたものであり、まあ千智が言うからにはその必要はないのだろう。

「それに気にするようならGPSで追いかけてるでしょう」

 そう言って千智は手で首輪を表しているつもりのジェスチャーをした。

「……まー、そうか」、

 千智のジェスチャーが通じたかはわからないが、由卯は納得したように相槌を打った。

 二人がそんな事を話してるうちに晴美が開いていた携帯電話を閉じた。

「待たせてごめんね」

 どうやら晴美の電話は終わったらしい。

「ううん、別に」

「じゃあ行きましょうか」

 晴美が携帯をしまい終えると同時に、三人はまた歩き始めた。


 それからしばらくして由卯の家へとたどり着いた。

 まるで古いSF映画にでも出てきそうな、どこか海外的な匂いを感じさせる幾何学的なデザインをした建物。それが由卯の家を見た時の晴美の感想だ。

「じゃあ入って入って」

 由卯が扉に手をかけた瞬間、かかっていたと思わしき鍵が外れる音がかすかに聞こえた。何らかの認証鍵なのだろうが、その仕組みは考えられるだけでも幾多の原理があり、三人には知った事ではない。

「おじゃましま……す」

「ただいま、っと」

 人の気配がしない家の中に声をかけながら入る晴美、それに続いて帰宅の挨拶をする由卯。残る千智は特に何も言わず黙ったままだ。いや、小声で失礼とくらいは言ったかもしれないが。

「ふわ……」

 玄関を上がり、リビングまで行くと、晴美は思わず声をあげた。

 家の外見を見た時にも思ったことだが、晴美は家の中を見てSFか何かみたいだと感じた。

 一々説明するほどの事でもないが、とにかくここはSFの世界だと晴美は今思った。

 ――晴美が想像するようなSFの設定年代からはとっくの未来の時代である今の時代で、古い時代を懐かしんで暮らしているうちに、現在に気付いて未来を感じるという非常に滑稽な話だ。気付かなければそれが過去のモノともわからないし、どれが未来なのかもわからない。目の前にあるものが現実であり、現在の全てだ――。

「どうする? ここでいい? それともボクの部屋にする?」

 どこで話そうかと由卯は二人に尋ねた。

「……あ、わたしはどっちでもいいけど」

「ここで結構よ。あくまで寄っただけなんだから」

 少しボーっとしてた晴美は由卯の声でわれに返り、千智の方はとっとと帰りたいという意味にも取れる言葉を返した。

「……じゃあここで話そうか」

 毒気のある千智の言葉を流すように、由卯はソファーに腰掛けた。

「ええ、そうしましょう。……早く座りなさい鈴野さん」

「は、はい……」

 千智も続いて着席し、晴美も言われるがままに座った。

 果物などの食べ物は無いが、ようやく本格的な三人集会となったわけだ。


「……それじゃあ話を再開しましょう」

 早速の千智の発言から由卯の家での話し合いが始まった。

「まず、担当パートはさっき決めたとおり。残る問題は楽器、それと練習場所よ」

「……ねー、いっそデータ打ち込みでいいんじゃないかな」

 由卯はあれこれ考えるのが面倒だと思い、そんな事を言った。

 確かに、成果を見せてくれと言われただけで、演奏しろとは言われない以上、それも答えの出し方としては間違ってはいない。

「それは……」

「それはダメ」

 千智が返事を言おうとした所で晴美がハッキリとした声で由卯の意見を否定した。

「嫌でも三人でやらなきゃダメだよ由卯ちゃん」

「あ、う、うん……」

 思わずたじろぐ由卯。

「……ハミちゃんがそこまで言うとは思わなかったよ」

「うん。わたしも一週間は無茶だと思う。だけど、わたしはやってみたいと思うの、この三人んでの音楽魔法を」

「ハミちゃん……」

「……あ、その、わたしが思ってるだけだけどね」

 自分自身で言った事ながら、無謀な発言に晴美は思わず言い訳をした。

 だが、小さくとも晴美が抱いている思いには違いなかった。

「いやいや、そんなアニメの主人公みたいな事言われちゃ乗るしかないでしょ」

 そう言うと、由卯は晴美の手を握った。

「がんばろう、ハミちゃん」

「うん、ありがとう由卯ちゃん」

「……はい、そこまで」

 先日の仕返しか何かのように、千智は勝手に妙な世界を作り出していた二人の間に手を割り込ませた。

「鈴野さんの熱意はわかったわ、けどそれも楽器が無ければどうしようもないでしょう?」

 さらに千智は冷や水を浴びせるような言葉を続けた。

 しかし、楽器が無ければ音楽魔法をやるにも意味が無いのは本当だ。

「今の鈴野さんにほんとのベースを弾けとは言わない。必要なのはベースの……とにかく低い音が出せる楽器、シンセサイザーとかキーボードが必要なの」

 知識が偏っていると思わしき晴美に説明する千智。時間が全く無い事や、楽器へのとっつき易さから鍵盤楽器を選ぶのが一番の得策だと言うわけだ。

「リコーダーだと学校の授業と変わんないもんね。やっぱ他に楽器は必要だと思う」

「パソコンのキーボードなら持ってるんだけどね……」

 冗談にもなってない冗談を晴美は言う。

 まあ要は晴美は楽器らしい楽器は殆ど持ってないということだ。


 それからもあれこれ話し合ってみたが、中々良い楽器の調達方法が出なかった。

 今すぐ買うにしても、今の晴美の小遣いは携帯ゲーム機を買った際の関係で無いに等しく、価格の関係でも無理な話だった。

「……あ、ハミちゃんもボクのドラムみたいにアプリ使えばイケるよ!」

 皆で迷いに迷っていると、不意に由卯がそんな事を言った。

「アプリ?」

 アプリ。アプリケーションの略称であり、コンピュータ上で作業を実行するソフトウェアの事を示す単語だ。しかし、大抵は情報端末等におけるソフトウェアの呼称として使われている。

「あれ、言わなかったっけ? ドラムの真似事してるって」

「だから由卯ちゃんはドラムやるって言ったんだよね?」

「そ、でもホンモノの楽器買うなんて大変だしさ……っと」

 由卯はそう言うと、ソファーから立ち上がった。

「えっと……ここら辺でいいか」

 そして、由卯は何も置いてない開けた場所の方へ行き、手を動かして何かの確認をすると、電話型の多機能情端末――まあスマートフォンと思っていい、それを操作した。

 次に端末を手に持って動かすと、突然空中で何かが光ったかと思うと、そこから何かの形が浮き出る……いや、創られていくようにその場所にドラムセットが出てきたのだ。

 晴美には、その光景に見覚えが……既視感があった。

「あ、これって……」

 あの日、松木が晴美に見せた魔法の一つ……融合現実技術だ。あの腕時計型端末を松木はオモチャだと言ったが、そういう技術が情報端末のアプリの一つとして実現されていてもおかしくはない。

 ――多くの技術が様々な場所で活用されていても、知らなければそれは無いも同じだ。知った瞬間にそれはそこにある現実として認識される。たとえ認識しても、それらの技術を表現する術が無い場合、こう呼ばれる事がある。『魔法』と――。

 場合によってはSF……フィクションのようだとも言えるだろうが、晴美が今見た事を表現するには『魔法』と言う言葉が一番しっくり来た。

「これがボクの音楽魔法さ。……なんてね」

 由卯は格好をつけてそんな台詞を吐くと、照れ隠しにその現れたドラムセットに触れた。

「これ見た目だけでなくちゃんと音もなるんだよ。ほら」

 軽くポンポンと叩く由卯。晴美も本物のドラムを知っているわけじゃないが、その力加減で叩かれて鳴った音は本物と遜色が無いように思えた。

「ハミちゃんもケータイでコレみたくアプリ入れれば万事解決だよ」

「うん、でも……ごめん、由卯ちゃん」

 せっかくだけどと言いながら、晴美は先ほど電話をかけるのに使った携帯電話を差し出した。

「わたしの奴、そういうのできないんだ……」

 晴美の携帯電話はワザと機能を制限しているタイプであり、融合現実のような、いわゆるホログラフィ的な機能なんて載ってるわけがなく、そんなアプリなど使えなかった。

「……あちゃー」

 額を押さえながら由卯は肩を落とした。

「いい考えだと思ったのになー……」

「……あ、一つだけならキーボード用意できるかも」

 何かを思い出したように晴美は呟いた。

「え、ハミちゃんマジ?」

 晴美の言った事に驚く由卯。話し合ってもいい案が出てこなかったというのに、そんな事を言われれば驚く他はなかった。

「うん。忘れてたけど、松木先生が持ってたのあるから、それ借りればいいかなって」

 松木の時計型端末――FRウォッチの事を晴美は説明した。

 どこまで機能があるかはわからないが、たとえオモチャでも立派な楽器のはずだ。

「よっし! 明日になったら借りに行こう!」

 由卯は拳を握り、にわかに歓喜の気持ちをあらわにした。

「これで楽器の事は解決ね」

 千智もほっとしたのか、その表情は幾分穏やかそうだった。

「ところでチサは楽器どうするの? キーボード持ってたっけ?」

「私? 音楽室のピアノを使わせてもらうつもりだったけど? 練習も場合によってはそこでやるつもりよ」

「……あのさ、チサ」

 自信満々な千智の発言を聞き、由卯はジト目で見ながら言った。

「色々言いたい事はあるけど、ボクらコンピュータ室で演るんだけど、どうやってそのピアノで演るつもりなの?」

 由卯のその発言で、一瞬空気が凍りついたような感じがあった。

「……鈴野さん、その先生から借りるつもりのキーボード、私に譲ってくれない?」

 由卯の言葉を聞き、千智は今までに見せた事のない青ざめた顔で晴美に頼んだ。

「え、わたしは別にいい、ですけど……」

「……なにこのひどいコント」

 とんだ茶番とはよく言うが、それが目の前で展開されれば由卯も率直にそう言うしかなかった。


 結局、松木から借りるつもりのキーボードは千智が使う事になり、晴美が使う楽器を確保する方法は思いつかないままでいた。

「……しっかし、今更だけどホント、マッキせんせは無茶振りがすぎるよ、楽器の事は何も言わないんだもの」

「松木先生の事だから多分本当に言い忘れてたんじゃないかな」

「やな大人だなあ……」

 色々な意味で責任感の無い松木に不満を表す由卯。晴美の方は、松木がそういう人間だと身にしみさせられた覚えはあるのだが、それが複数回ともなれば、やはりたまったものじゃない。

「チサもチサだよ。なんでそういうとこが抜けてるのさ」

「仕方ないでしょう。私が『音楽魔法』を知ったのはピアノのあった音楽室なんだから……」

「はいはい、言い訳にもなってない言い訳ありがと」

「ピアノ、かあ……ピアノ……。……あ」

 グダグダとしてきた三人の会話の中で、ピアノと連呼しているうちに晴美は一つ、当てになりそうなモノが頭に浮かんできた。

「ねえ、もしかしたらピアノ……かはわからないけど、もう一つ楽器用意できるかも」

「……え、ほんと?」

 また突然の晴美の発言に目を見開く由卯。

「あ、まだ、わかんないけどね」

 苦笑いするしかない晴美。あくまで可能性であり、実際に見るまではわからない事だからだ。

「この後わたし、その楽器ありそうなとこ行って見るつもりだから」

「んー、じゃあ今日はこれまでにする?」

 窓から外の様子を見て、由卯はお開きにするかと尋ねた。

「……そうね、言葉を重ねても何も解決はしないもの」

 今日はもう何も進展が無いだろうとの思いからの千智の言葉。

「それじゃ、すぐ行ってみるつもりだから……。今日はありがとうね、由卯ちゃん」

 置いていた鞄を持ち、晴美は重くなっていた腰を上げた。

「じゃあ私も失礼させてもらうわね」

 続く千智。

「そんじゃ玄関まで送ってくよ」

 どうせだからと由卯も立ち上がり、晴美の方を向く由卯。

「あ、いいからいいから」

 手を振り、そこまでしなくていいと晴美は答えた。別れが惜しいから故なのだろうが、晴美の家の時と違って送るというほどの距離でもない為、断ったまでだ。、

「じゃあバイバイ、由卯ちゃん、また明日」

 晴美は再度軽く手を振り、別れの挨拶をして玄関へと向かった。

「うん、バイバイ、ハミちゃん」

「本当にお邪魔したわね由卯、それじゃあ」

「……ああ、バイバイ、チサ」

 対する千智のどこまで本気かはわからないぶしつけな言い方に、由卯も相応の態度で返す。

 まあこれが二人の仲を表しているとも言えるだろう。


 そうして晴美と千智の二人は、由卯の家を後にした。

 どちらとも扉の鍵の事は別に意識はしてなかったが、妙なロックがかかったりはしなかったからには何も問題は無かったのだろう。

 途中までの道を二人で歩き、千智の家の方向に差し掛かったところで分かれる事となった。

「……じゃあ私こっちだから」

 体の向きを変え、帰りは別の方向だと千智は誇示する。

「あ……そうなんだ」

 晴美はその方向を見たが、ほぼ真っ暗であり、先は殆ど見えなかった。

「ん、じゃあね琴坂さん、また……」

 この後に寄る場所もあるので、晴美は千智に別れの言葉を告げ、そそくさと別の道を進もうとした。

「……ねえ、鈴野、さん」

 晴美が背を向けたところで、千智が呼び止めてきた。

「はい……?」

 振り返り、千智の方を向く晴美。

「貴方が私を苦手だと思っているのはわかってる。でも……」

 二人きりになったからだろうか、それとも一度抜けている面を見せたからだろうか。気丈に思えた千智は不意ににそんな事を晴美に言ってきた。

 それとも夕方の暗がりの魔力が人の心を素直にさせたのか、とにかく晴美からすると、今までの千智のイメージからすれば意外なものだった。やはり互いに色々と誤解があったからこそなんだろう。ある意味、千智の言葉に全てが集束されていた。

「……それ以上は何も言わないで」

「鈴野さん……」

 晴美の方も、おそらくはイメージされている姿とは別の雰囲気であろう答え方をした。

「わたしも琴坂さんに思うことは色々あるけど、今はあの楽譜に向かいたいの、だから今だけは何も言わないで」

 うまく伝わったかはわからないが、今は前だけを……『音楽魔法』の事だけを見よう、と晴美は言ったつもりだった。たとえ伝わらずとも、それが今の自分に言える精一杯の言葉だった。

「だから琴坂さん、また明日……」

 逃げるように、いやどちらかといえば照れ隠しの面もあるのかもしれないが、晴美は別れの挨拶と共に駆け出してその場を離れた。

「……ええ、また明日」

 互い互いにその言葉は聞こえていたかはわからない。

 だが、互いに挨拶をし、そして分かれたという結果だけはそこにあった。

 影に身体を少し隠しているような月の姿は、そんな二人の気持ちの現れかもしれなかった。



 翌日の学校。晴美は朝登校すると、持ってきた荷物を手に持って即座に教室を出て、他の教室……二組へと向かった。入り口の方から教室内を見渡すと、見慣れた顔を発見した。その相手の元へと向かうべく、勇気を出して教室へ足を踏み入れた。

 晴美が自分の教室以外の同じ学年の教室に入るような事は初めてだった。そう言う事はタブー――禁忌だと思っていたからだ。そのいけない事を千智や由卯はさらっと破っていたのだが、今こうして晴美は自分でもダメだと思っていた行為に手を染めてまでも、早くに伝えたい事があったのだ。

「由卯ちゃん」

 晴美は目的の席に着くと、そこに居た相手に声をかけ、軽く肩を叩いた。

「ん? あ、ハミちゃんじゃん」

 感触に気付き、晴美の方を向くと、由卯は明るい声をあげた。

「どしたの? こんな朝から」

「うん、実はコレをね」

 晴美はそう言ってから由卯の机の前の方に周り、持っていた袋を開け、中身を取り出した。

 そして、それを由卯の机の上に見せるようにして置いた。

「……あ、コレって」

「そう、キーボード」

 晴美が言うように、机の上におかれたのは小さな長方形をした箱……三十二鍵のミニキーボードだった。

「ほんとどうしたのコレ? まさか一晩で作ったとか? それとも拾ったとか?」

「そんなわけないよ」

 驚きながら突飛な事を言う由卯に笑って答える晴美。

「……実はね、これわたしが昔使ってた『ピアノ』なんだ」

 その晴美が別の意味で突飛な事を由卯に言った。

「へ? ピアノ?」

 流石の由卯も、その言葉には目を丸くした。

「うん、ピアノ」

 それからキーボードをピアノと言う理由を晴美は説明し始めた。

 昨日、千智と別れてから、晴美はもう一度電話で自宅に『もうちょっとだけ遅くなる』と連絡を入れてから、とある場所へと向かった。

 夕方暗くなってからとはいえ、その場所は晴美がよく行っている場所でもあり、自宅からもそう離れていないので、行く事も許されたのだ。

 その場所とは、晴美の祖父と祖母の家であり、『ピアノ』がある場所だ。

 小さい頃の記憶は曖昧ではあるが、晴美にピアノで遊んだという記憶は無い。いや、あるはずはないのだ。何故なら音楽の……『電子楽器のキーボードをピアノと呼んでいた』からだ。

 その理由は定かじゃないが、おそらくは鍵盤楽器である事からの呼称の混同なのだろう。そう呼んでいた晴美を見てか、祖母も『ピアノ』と呼び、それを思い出話として話していた。そのうち晴美も間違った呼称の使い方なども忘れ、そこに食い違いが生まれたわけだ。

 祖母に頼んで『ピアノ』を探してもらうと、意外にもあっさりと見つかった。そして、大きさも思っていた以上に小さくはなく、今の晴美には手ごろな大きさのように思えた。普通のピアノからすれば充分に小さいサイズでもあるので、祖母の言葉もそんなとこからなのだろう。

 そして、その『ピアノ』を譲り受け、今に至っているとのことだった。

「音が何とか鳴るってくらいのものだけど、とりあえず練習はできると思うんだ」

 晴美はキーボードに軽く手をかける。こういうのを持ってくるのもタブー、というか微妙なところでもあるだろうが、部活に使うものとなれば問題は無いだろう。

「へーぇ……」

 まじまじとキーボードを見る由卯。

 そう言われると、どこか古びた感じのするキーボードだった。

「それが言ってた楽器?」

 不意に声をかけられ、晴美が振り向くとそこには千智の姿があった。

「あ……琴坂さん」

「……楽器とは言うけど、オモチャね」

「あは、まあ、ね……」

 昨日の別れ際の気弱そうな雰囲気は消え、毒気のある発言をする千智がそこに居た。晴美は苦々しく笑って答えるしかなかった。

「でも無いよりはマシだよ、背に腹はかえられないものね」

「ところで琴坂さん、練習は……」

「……無理よ。というより全部諦めた方がいいかもね」

「えっ?」

 晴美が尋ねたところ、悲観的な事を千智は言った。

「今、音楽室の利用の許可を貰いに行ったんだけど、空きが無いと断られたわ」

 目を細める千智。ウソなどを言う理由もないだろうが、どうやらウソだとかで言っているわけではなさそうだ。

「じゃあ、コンピュータ室で……」

 晴美が他の案を出すと、千智は黙って首を振り、腕時計型の端末を手に乗せて二人に見せた。

「松木先生にキーボードを借りるついでに頼んだわ。でも教室利用だけは断られたの」

「……なんで?」

「さあ……。何か理由があるとは思うけど、これじゃまるで……」

 千智は借りてきたと思わしき腕時計端末を手に持ち、わなわなと震えた。

「ほんとやな大人だなあ、マッキせんせ……」

「で、でも、それは貸してくれたんだよね? キーボード」

「ええ……。まだ試してないけど」

「なら、やろうよ琴坂さん」

「鈴野、さん……」

「別に先生を見返すみたいな事は言わないけど、わたしはやれるだけやってみたいと思うから、だからやろうよ、今だけは」

「……うん、やろうハミちゃん」

 唐突な晴美の前向きな発言だったが、それに釣られて由卯も言葉を続けた。

「鈴……」

 昨日の事からともいい、こういう感じになる晴美に、千智は驚いていた。

 丁度その時、チャイムが鳴った。

「……あ、戻らないと。じゃあ二人とも、また」

 そう言って晴美は自分の教室に戻ろうと、『ピアノ』を袋に仕舞い、身を翻した。

「ねえ」

 そんな晴美を、千智は昨日のように呼び止めた。

「……鈴野さん、貴方、少し変わった?」

「……もしかしたらそうかもね」

 晴美は少し笑って、そう答えた。


 それから三人は普段の学業の傍らで渡された楽譜を演奏する練習に入った。

 と言っても、時間は殆ど無いに等しく、合わせられるのは最大でも二日だけで、残るは各自練習ができるかできないかという狂気のスケジュールだ。まあその辺りの事は松木から楽譜を渡された時点で皆わかっていた事だ。由卯がわざわざ無茶振りだと言ったのも道理だろう。

 たとえ狂気であっても、晴美はその狂気に乗っていた。いや、乗るしかなかった。今自分が夢中になれる事。夢中になっている事が『音楽魔法』だからだ。

 そして最初の合わせ練習の日。誰もいないということで、また由卯の家で集まる事になった。

 先生から借りたキーボードは見た目の割には使い勝手が良く、千智の気分は上々だった。

 一方でベース担当である晴美の『ピアノ』……ミニキーボードは想像していた通り、どちらかといえばチープな音を出す『いかにもなオモチャ』であった。だが、演奏が出来る事には違いなく、晴美自身にも妙な愛着すら感じられていた。

 由卯のドラムも見た目そのままな音であり、慣れている事で特に弄らず、そのままで行く事人なった。

 演奏については、千智は普段から言うだけあって中々の腕であり、晴美からすれば奏でる音は楽譜そのままという感じに思えた。由卯のドラムも同様に、まるで機械か何かのようだった。

 残る晴美はというと、やる気だけはあるのだが腕が追いついてないという有様だ。以前の晴美だったらこの時点で諦めていたかもしれないが、今は諦められない、逃げることが出来ない状況だ。だからこそ集まって練習をしているのだ。

 それから二日の間の合同練習をし、千智の教えに従った個人での練習を続け、残るはぶっつけ本番の日となった。

 何度となく指摘はされているが、無茶なスケジュールの中での練習は付け焼刃もいいところだろう。しかし、晴美はやれると信じる事にした。たとえどんな結果が待っていてたとしてもだ。

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