3. LA FILLE SE REVOIR
晴美が『また今度』と言って逃げようとした次の日、千智は『また明日』という予告通りに晴美の元へとやってきた。
この日の晴美の休み時間は千智からの質問攻めで潰れる事となった。
もっとも、晴美としては普段からノートと睨めっこしていただけの時間だったが為に、どっちもどっちというか、時間が潰れるという点ではあまり変わりはなかった。
しかし、千智の疑問を解決しようにも、晴美が『音楽魔法』を知ったのは、ここ数日……それも松木にその事をちゃんと教わったのも昨日が初めてであり、自分は詳しくは知らないから詳しくは松木先生に聞いて、と答えてはいるのだが、千智には何かを隠しているかのように思われているようだった。
そして給食の時間を終えた後の昼休み。
晴美はまたしても千智に問い詰められ、昨日出合った音楽室へと連れて来られていた。
「だからわたしは詳しくは知らなくて……」
無理矢理連れてこられ、鍵をかけられた音楽室で晴美は千智に納得してもらえるよう言い訳を続けていた。
音楽室の鍵は千智が許可を取って借りているものだそうで、昨日のピアノの演奏もそうして音楽室の利用の許可を取った上で鍵を閉めて演奏していたそうだ。
そこに晴美が突如として現れたが為に、本当の幽霊だと思ったらしい。
「嘘ね。貴方は教室だと大勢の人が居たから本当の事を喋る事ができなかった。そうね?」
「そんな、大昔の宇宙人とかじゃないんだから……」
千智は晴美が何か秘密を握っていると思っていた。
それ位に千智が経験した『音楽魔法』は衝撃的だったのだ。
確かに秘密と言えば秘密なのかもしれないが、それは今の晴美にはうまく説明できないが為にそうなっているというだけだ。
しかし、千智はそれが晴美の言い訳であり、何かしらの理由があるものだと踏んでいた。
「貴方はあれが魔法だと言った。だけど私が調べた限りそんな情報は存在していなかった」
晴美自身も何も見つける事ができず、松木からようやく教えてもらった事である以上、さらに何も知らない千智が見つけられるはずはなかった。
「けれども貴方は私にその魔法があると言った。そしてそれを私に一度見せてくれた。ねえ鈴野さん、もう一度やってみせてくれない? 貴方が魔法について説明出来ないと言うなら、私はアレを見れば信じられるかもしれない。だから私はここに貴方を連れてきたの」
「いや、あれは、その……」
千智の強引な押しに晴美は圧倒されてばかりだった。
昨日は勢いでやってしまったものの、晴美にはもう一度この千智の前で『音楽魔法』を見せられる自信は無かった。
「あ……そうだ、ノート」
ふと晴美は昨日部活で勉強に使ったノートの事を思い出した。
「……ノート?」
その言葉を聞き、今にも晴美を押し倒しでもしそうな勢いの千智が静まった。
「そう、ノート。わたしが音研で教えてもらった事を書いたノート」
そう言って、特に意味は無いが人差し指だけを立てるジェスチャーをする晴美。
「それはどこにあるの?」
「教室のわたしの鞄の中……」
晴美はちらりと音楽室の出入り口を見て、とにかくここを出たいと密かに誇示をする。
「本当?」
「うん、本当」
だから教室に帰ろうと言うと、千智は音楽室の閉じ込めからは開放してくれた。
もっとも、教室に帰るまでの間も袖を捕まれて鵜飼いの鵜のような状態ではあった。
そして昼休みが終わりかけた頃、晴美はノートを千智に手渡した。
晴美もあのノートで信じてもらえるとも思ってはいなかったが、とりあえずの付き纏いから逃げるにはあの方法しか思い浮かばなかったのだ。
「ふぃ……」
放課後。晴美はどうにか千智に付き纏われてばかりの一日を追え、安息に浸っていた。
お昼休みにノートを渡して以来……とはいっても休み時間は一回しか無いのだが、教室に千智がやってくるような事は無く、開放感にあふれていた。
本日は諸事情により部活が休みとの事だったが、活動内容からして毎日やるような事でもないし、一番の原因は多分松木先生の溜まっている仕事のせいなんだろうな、と晴美は邪推していた。どちらにしても、晴美は昨日の今日で続けて疲れたくはなかった。
とっくに疲れてはいるのだが、これ以上疲労を重ねたく無いという意味でだ。
「ん……と」
ほんの僅かだけ軽くなった鞄を持って晴美は立ち上がった。
今のところ千智の姿が見えない事もあり、開放感から晴美の気分も幾分軽く感じていた。
念の為と晴美が教室の出入り口から廊下を見渡しても千智の姿は無い。
晴美自身は奇異の目で見られたかもしれないが、一息つけて安心をした。
もう一度だけ周りを見渡してから晴美は教室を出て、そのまま昇降口へ向かった。
廊下を渡り、階段を登り、回れ右をしようとしたところで突然の衝撃が晴美を襲った。
「あてっ……!」
おでこからの痛み。晴美にはゴツンと音が聞こえたような気がした。
「あいたたた……」
赤くなった額を押さえる晴美。
つい昨日も転んでぶつけたばかりだと言うのに、嫌な偶然も続く物だった。
「あたた……ごめんごめん、大丈夫?」
「あ、はい……なんとか」
声をする方に返事をし、改めて晴美がその方を見ると、申し訳なさそうな顔をした二つ結い――俗に言うツインテールの少女が居た。髪型のせいか、小柄な身体がより小さく見えた。
「いやあ、階段の先しか見てなくてさ」
晴美の目の前の少女の言う事は多分本当なのだろう。そこに悪びれた様子は無い。
「じゃあ、わたしはこれで」
「ああ、ごめん、んじゃ……ん?」
晴美が少女の横を通り抜けて階段を登りかけたところで、ふと少女が何かに気付いた。
「ねえ、ちょっと?」
少女は振り向いて、晴美を呼び止めた。
「……はい?」
「キミ、もしかしてハミちゃん?」
晴美が足を止めると、少女は不意に晴美の名前を呼びかけてきた。
「え? はい、そうですけど」
「あ、やっぱり。もしかしてって思ったんだけど、やっぱそうなんだ」
「……あの?」
一人何かを納得している少女を見て、晴美は首を傾げる。
「あー、なんて言えばいいかな。ほら、幼稚園の時にさ……」
そう言って、少女は両手の人差し指だけを前へ平行に突き出し、交互に上下へと動かし始めた。何かを叩いている真似か何かのように見えた。
「幼稚園……? えっと……」
出された手がかりを元に、晴美は記憶を辿ってみた。
晴美が幼稚園の頃の二つのモノ……棒? を上下に動かす……。
いや、叩いている何かというと……。
「……太鼓?」
晴美の頭の中に太鼓が思い浮かぶ。
それに幼稚園の頃の思い出と照らし合わせていくうちに、一人の子どもの姿が浮かんできた。
「あ……もしかして」
どこか引っ込み思案な晴美とは違って明るくて、積極的で、何気ない事にも笑い合ったくらいに晴美と仲がよく、太鼓が得意で、よく棒を持っては叩く真似をしていた友達……。
「……ユーちゃん?」
少女が晴美をそのまま呼んだように、晴美もそのまま呼んでいた友達の名前だ。
「そうそう、思い出した? そ、ユーちゃんこと鼓由卯ここにあり、ってね」
「わぁ、ほんと久しぶり」
思いがけない再会に晴美の表情は珍しくも明るくなった。
「だよね。ボクもまさかハミちゃんと会えるなんてさ」
腕を頭の後ろに組みながら由卯はおどけて言った。
「でも、それなら名前言ってくれればよかったのに」
「だってさ、ただ名前言っても忘れてるかもしれないし、つまらないじゃん」
「また適当なこと言って……」
由卯のいい加減な言い訳に呆れつつも、久しぶりのやり取りに晴美は懐かしさを覚えていた。
ユーちゃん……由卯はこんな感じの子だったなあ、と。
「……ところで、なんか急いでいたんじゃないの?」
晴美は踊り場からちらりと下の階を見て、由卯に訊く。
「いや? 急いでないけど、カバン忘れちゃったからさ」
肩をすくめる由卯。さらに手をひらつかせて、何も持っていないと顕示する。
「あわてんぼうな所、変わってないんだね」
「あは、まぁね」
晴美の言葉に由卯は笑って答える。
そして階段を降りていこうとした所で止まり、また晴美の方を振り向いて、こう訊いてきた。
「あ、ねえ、久しぶりに会ったのもなんだし、一緒に帰らない?」
「うん、わたしはいいけど」
由卯の何気ないお願いを素直に受け入れる晴美。
断る理由もなく、むしろ晴美の方から歓迎したい程だった。
「じゃあちょっと鞄取ってくるからどっかで待ってて」
そう言うと、由卯は階段を滑っていくように降りていった。
「あ……。どっか、って……もう」
大雑把な由卯の言葉に、晴美は思わずため息をついた。
だけども、それが晴美にはない由卯らしさでもあるのかなと思った。
結局、晴美は階段を登ったところで由卯を待った。
そして、スポーツバッグを持って駆け上ってきた由卯と一緒に昇降口を出た。
校門を抜け、他の下校する生徒らに混じり歩く二人には再会までの間を埋めるかのように取り留めのない話題が花開いていた。
卒園して、住んでる場所の関係から小学校が別々になり、由卯は幼稚園での太鼓を叩く面白さが忘れられずにドラマーの真似事みたいな事を始め、今でもそれっぽいことをしながら適当に生きているそうだ。
「それでハミちゃんはどうしてたん?」
「……あ、わたしは、うん、色々あって……今も色々あるけど……」
歯切れの悪い晴美の返事。
運がよかったのか、どうにか今の今まで生きてはいるが、色々と言い辛い出来事が色々あったのは事実だ。
それ以上に今は、紆余曲折を経て千智に付き纏われそうな日々の方が晴美には重要だった。
「ふーん。色々大変なんだ」
晴美の気持ちを察してか、由卯はその一言で納得する。
「うん、ほんと色々、ね……」
まだ日も経っていないというのに、いや日が経っていないからこそ晴美は気が重たかった。
あえて表現するなら苦手だろうか。あの千智の見た目からの印象と実際の強引さの印象の食い違いが晴美にそんな事を思わせているのかもしれない。
昼休み以降、千智の姿をまったく見ておらず、そのまま二度と顔を合わせてはいない。
たとえ合わせる事があってもあくまで同じ学年の他人という事であればいいのだが、残念ながら晴美と千智は後最低でも一回は顔を合わせなければならなかった。
その理由は、晴美が渡したノートを返してもらう為にだ。
もし晴美が部活に使っていたのが電子ノートであれば、そのままデータをコピーしてそれっきり、となったのだが、晴美は自分の好みから紙のノートを使っていた。
それでいて、データとしてバックアップするような事もしていなかった。
つまり、千智に渡したノートを返してもらわないと晴美が勉強した事が無駄になってしまうのだ。いや、一応頭の中である程度は覚えていて、もしもの時は松木に言えばそれらしいデータをコピーしたりもしてくれるだろうが、やはり晴美が自分で書いて覚えようとしたモノをそう簡単になかった事にはしなくなった。それに、あの千智の性格を考える限りは、たとえ返さなくてもいいと言ったところで無理矢理にでも返そうとして追いかけてきそうな気がしていた。とにかく、晴美の気分は沈んでばかりだった。
この事をどうしようかと内心考えながらも、晴美は久しぶりの友との会話を楽しんでいた。
「……あ、そういえば由卯ちゃん、何組なの? わたしは一組だけど」
何気ない話の中、晴美はふとした事を優に訊いた。
「あれ、言ってなかったっけ? 二組。一年二組だよ」
「え……」
沈んでは浮かび上がって、また明るくなっては暗くなって、どうにか笑顔を取り戻した晴美の顔が思わず引きつった瞬間だった。まさかあの千智と同じクラスとは思いもしなかった。
「……あ、ボクの家こっちだから今日は……」
とある交差点に差し掛かったところで、由卯は横断歩道に向けて足を速めた。
「え? あ……待って!」
去ろうとした由卯を見て、晴美は思わず由卯の手を掴んだ。
「へ?」
急に手を掴まれ、驚き振り向く由卯。
「ねっ、ねえ由卯ちゃん! よかったらウチに来ない? ちょっとだけでいいから」
晴美の口からつい勢いで出た言葉。
自分でも何でこんな事を言ったりしたのかわからないが、おそらくは久しぶりに会った由卯との別れが惜しいという気持ちと、千智への不安が重なり合って晴美にこんな行動をさせたのだろう。
「ん……ボクは別にかまわないけど、ハミちゃんこそいいの?」
由卯は身に着けていた端末でちらりと時刻を確認すると、晴美に確認を取った。
実際に由卯はどんなに遅くなろうと平気ではあったが、晴美の突然の申し出を不思議に思ったのだ。
「うん! 平気だから!」
「ふぅん……」
若干裏返った声で慌てて返事をする晴美。
そんな晴美の姿は由卯には別の意味で平気ではないように見えた。
「……ま、いいけどね。じゃあ、いこっか晴美ちゃん」
「う、うん」
由卯の承諾の言葉を聞き、晴美は由卯の手を取って先へと歩き出した。
「……変わってないねハミちゃんは」
そんな晴美の姿を見て何かを思い出したのか、由卯はぼそりと呟いた。
「ん、なんか言った?」
「ううん、なんでも。じゃ、いこっ」
「うん」
そうして晴美は複雑な気持ちを抱いたまま由卯と共に帰路につくことになった。
電車通学等で通うような学校であればどこかに寄り道するという手もあるだろうが、歩きで通う地元の学校の途中の住宅街に寄り道をするような場所もなければ、寄り道をする理由も思い浮かばない。とにかく二人は何でもない話をしながらテクテクと歩き、晴美の家へと着いた。
「ただいまぁ」
鍵のかかってなかった玄関の扉を開け、おそらく中に居るであろう母に対して晴美は帰ってきた事を伝えた。
「おじゃましまーす」
続いて由卯が挨拶をする。
「おかえりなさい」
二人が中に入ったところで、その声を聞いてか、晴美の母が玄関の方に姿を見せた。
「あ、どうもこんにちは」
晴美の母の姿を見て、由卯は頭を下げる。
「晴美のお友達?」
「うん」
晴美の返事に合わせて、由卯はもう一度ペコリと頭を下げた。
「もう、三人で一緒に来ればよかったのに。すれ違っちゃったのかしら」
「……何のこと?」
突然妙な事を言う母に、晴美は首をかしげた。由卯と一緒に帰ってきたのも突然の事だったというのに、『三人』などと言われても思い当たる節がなかった。
それを聞いていた由卯も晴美と同じように頭の上に疑問符を浮かべていた。
「何って、晴美の友達。部屋で待ってるわよ」
「……え?」
母が指差した所に視線を追うと、そこには晴美や由卯が履いているのと同じ靴……学校指定の靴が一足脱ぎそろえてあった。自分の靴かとも思ったが、サイズは晴美の履いているものよりも一つか二つ上だった。
「後でお菓子でも持っていくから」
「あ、おかーさ……」
晴美が止める間も無く、母はそのままリビングの方へと姿を消した。
「ハミちゃん、友達って?」
「さあ……」
由卯の問いに生返事の晴美。
見当がつかない以上、晴美はそう答えるしかなかった。
母の言葉を聞き、そのままずっと玄関に突っ立ってもいられないので、二人は靴を脱ぎ、廊下を渡り、階段を登って晴美の部屋へと向かった。
自分の部屋の前に着き、揃えて脱いであるスリッパを見て、やはり誰かが来ていると確定したが、それでも一体誰が来ているのかが晴美には不思議だった。
晴美にとって中学での自分の『友達』と言えるのは、いま隣にいる由卯くらいであり、他には思い浮かばなかった。小学校の時の『友達』かとも思ったが、それなら母があんな事を言うはずも無いだろう。
晴美はおそるおそるドアノブに手をかけ、ゆっくりと回した。
「……よし」
ドアノブを回し切ると、晴美は思い切って扉を開けた。
「……あら、おかえりなさい鈴野さん」
そして即座に扉を閉めた。
「……どうしたのハミちゃん?」
「あ、ううん、なんでもない」
開けた扉を急に閉めた晴美の行動に小首をかしげる由卯。
そんな由卯に対し、作り笑いをする晴美。そして今一瞬見たものと聞いた声を自分の記憶の中から正確に照らし合わせ、部屋の中に居る誰かの正体を割り出した。
「……あれは琴坂さん?」
自分で確認するように晴美は小さく呟く。
見たのは一瞬ではあったが、部屋に居たのは確かに千智であった。
しかし、何かの見間違いと聞き違いと思い、晴美はもう一度扉を開けた。
「おかえりなさい鈴野さん」
晴美はもう一度扉を閉めた。
「……なんで?」
晴美が見たのはやっぱり千智の姿だった。
二度も同じものを見て、同じ事を聞いては間違いだとは否定できなかった。
「ねえハミちゃん、やっぱりなんかあるんじゃ……」
「遠慮する必要はないでしょう鈴野さん、貴方の部屋なんだから」
心配そうに由卯が声をかけたところで、部屋の中から千智が扉を開けて声をかけてきた。
「……やっぱり」
千智の姿を間近で見て思わずうなだれる晴美。まさか千智が晴美の『友達』と称した上に自宅にまでやってきてるとは思いもしなかったからだ。
「あれ、チサ?」
「……由卯? 何で貴方ここに?」
気落ちしている晴美を横目に、千智と由卯は互いに目を見開いていた。
「ん……ふたりとも知り合いなの?」
驚いている二人に尋ねる晴美。見る限り聞く限りでも互いを知っているらしい事は伺えた。
「んー、まあね……。それに同じクラスだし」
歯切れの悪い由卯の言葉。
互いの呼び方のわりに微妙な視線のそらし方がその微妙な距離を感じさせた。
「ええ、同じクラスだから」
続く千智の抑揚の無いトーンの喋りからも微妙なものを感じさせた。
「え、えーと……とりあえず、部屋入ろ、ね」
この場の妙な空気に耐えかね、とりあえず部屋に入る事を提案する晴美。このままずっと立ってるわけにもいかないというのもそんな事を言い出した理由だ。
「……うん、そうだね」
「ええ、そうね」
二人もそう思っていたのか、晴美の言う事に素直に従い、晴美の部屋へと入る事になった。
どちらかと言えば男の子の部屋のような幾分雑多な晴美の部屋の真ん中で、三人は無言のままテーブルを囲んで座っていた。
「えーと……」
晴美は沈黙に耐えかね、何か話をとは思ったが、中々いい言葉が出てこない。
「……じゃあ、私からいいかしら」
そんな晴美を察してかはわからないが、千智が話を切り出した。
「あ、はい……」
「まず、鈴野さん。このノート返しておくわ」
テーブルの上に晴美が貸したノートを差し出す千智。
「どうも……」
ノートを受け取り、晴美は念のためにと中を確認した。妙な落書きなどが描かれてるわけもなく、確かに晴美が貸した音楽魔法について書いてあるノートそのものだった。
「……それで、次は貴方の番かしら。私に聞きたい事があるんじゃなくて?」
晴美がノートを受け取ったのを確認すると、千智は挑発でもするかのように由卯に言った。
「……ハミちゃんとの関係は何となくわかった。で、なんでチサはこんな所に居るのさ」
そう言うと、由卯は千智を睨むように見つめた。言葉にもしているが、何でここに居るんだという意味合いも込めての視線だ。
「ノート、返しに来たのだけど? 学校だと鈴野さんが警戒してたから直接」
「それは見ればわかる」
平然と言う千智に苦々しいトーンで言い返す由卯。
「私は鈴野さんに借りたノートを返しに来た。だから私はここに居るのよ」
千智は繰り返し居る理由を述べる。
「そういう意味で聞いてるんじゃないよ。何でハミちゃんちを知ってるのかって聞いてんの」
まるで自分の事のようにムキになって千智を問いただす由卯。
「知らなければ返しに来られないでしょう?」
そんな由卯に対して千智はさらりと答える。確かに千智の言う通りではある。
「だから……どこで知ったのかってボクは聞いてんの」
「知ってるから鈴野さんに返しに来られた、それで充分じゃない」
「……あー、もういいよ。ボクもちょっとムキになりすぎた」
頑として晴美の家を知っていた理由を言わない千智に由卯が折れる事になった。というより、キリがなさそうなので聞くのを諦めたと言うべきだろう。
「えと……それで、ノート見てわかってくれたんですか」
とりあえず話題を変えるべく、晴美は千智に問いかけた。
晴美がノートを貸したのは昼休みであり、それから放課後までの時間を考えると、あまりにも短い時間だったが為に本当に千智が『音楽魔法』について理解しているのかが疑問だった。
「音楽魔法について?」
晴美の聞きたい事を察してか、千智もそれに答える。
「はい」
「ええ、とても読みやすい字だったわ」
千智はそう言うと、晴美が手に持っているノートを指差した。
「……わたしの字は関係ないです」
少し眉をしかめる晴美。
「……ゲームかなんかの話かな」
その横で、二人の話が飲み込めず首をかしげている由卯の姿もあった。
そんな由卯を見て、晴美はノートを渡して、これの事だと小声で説明した。
「結論から言うと私は魔法を信じる。アレだけの裏付けがあるなら嘘とも言い辛いものね」
千智の言い方からすると随分な心変わりだった。
どうやら千智は感性で理解させるより理論で理解させた方がよかったようだ。
「はぁ……」
ほんの数時間前までは疑いかかっていた千智の態度と比較すると、晴美の方はどうにも千智を受け入れがたかった。
「でも、私はそれだけを伝えに来たわけじゃないの」
「……へ?」
千智はそう言うと、突然晴美の手を握ってきた。
「ふわっ……」
「鈴野さん、貴方は私にとって必要な人よ」
いきなり愛の告白のような事を言い出す千智。その顔は真剣そのものだった。
「え、あ……その、えっと……」
千智の言葉に理解が追いつかず、晴美は慌てふためくしかなかった。、
「ちょっ! ハミちゃんに何すんのさ!」
傍観してた由卯もそのままではいられなかったのか、二人の間に割り込んだ。
だが、千智は晴美の手を離さずに由卯の方をちらりと見ると、聞く耳持たずと言わんばかりにまた晴美の顔を見つめた。
「あっ、ちょっと!」
本当に由卯を無視して、千智は言葉を続けた。
「だから鈴野さん、まず私を音研に誘ってちょうだい」
「……はい?」
千智の妙な頼みに、晴美はまたしても理解ができなかった。
「私を誘って。音研に」
言った事が晴美に通じなかったと見て、倒置法で言い直す千智。
たとえ言い方を変えても晴美は意味がよくわからなかった。
「別にそういうことしなくても……」
「いいから。私を誘って、お願いだから」
千智は身を乗り出し、元々近かった晴美との距離をさらに縮めた。
「ふぇ、あ、わっ……」
「そうしたら私は一度断るから、それでも私を誘ってちょうだい」
急な事に恥らう晴美に向かって、千智は意味のわからない事を頼んできた。
「……は?」
千智の頼みは本当にわけがわからなかった。『誘って』と遠まわしなお願いをしたと思ったら、今度は断るからもう一度と言うのだ。わけがわからなくて当然だ。
「はいはいはい、そーこーまーで」
妙な世界を作り出している二人の顔の間に、由卯は晴美のノートを割り込ませた。
目の前にノートの表紙が現れ、二人とも否応にも現実に引き戻された。
由卯の手出しに気付くと、千智は顔を上げ、由卯に向かってこう言い放った。
「あら、由卯居たの?」
「……当たり前だよ」
変な世界から戻ってきた千智の言葉に由卯はげんなりした。
「大体何なのその頼み。大昔流行った面倒臭いツンデレでもやりたいの……?」
続けて由卯は、先ほどの晴美への謎の注文に突っ込む。頼まれた晴美本人でもよくわからないのに、無関係の由卯からすれば余計にわけのわからない頼みに聞こえたからだ。
「貴方には関係ないでしょう」
千智の言うように、確かに由卯は関係無いと言えば関係無い。
「大有り。ボクはハミちゃんの友達だよ?」
しかし、友達が妙な物言いをされてるのを目の前で黙っていられる由卯ではない。
「……仕方ないわね」
由卯の言葉を聞いてか、千智は肩をすくめると、不意に鞄の中から何かを取り出した。
それは晴美にも見覚えある一枚の紙。いや、電子ペーパー……部活動の入部届だった。
「本当はちゃんと手順を踏んでおきたかったんだけど……」
千智は言い訳でもするかのように呟いてから、電子ペーパーを操作した。
保護者の了承が既になされていた届は実際にデータを送信……届けを出せばいい状態だった。
「……送信完了。これで私と鈴野さんは同じ部員同士よ」
入部の届けが終わったのを確認すると、千智は由卯に誇示するように言った。
「同じ部の部員同士の話に部外者が口出しして欲しくないわね」
「なっ……!」
手際よく晴美との関係を作り出した千智に、由卯は言葉が詰まった。驚愕と共に、なんとも言えない微妙な恐ろしさを千智に感じたのだ。
そんな時、扉の方からコンコンと音が鳴った。
晴美と由卯の二人が音の方向を向くと、扉が開き、晴美の母が飲み物とお菓子をお盆に乗せて持ってきている姿があった。
「遅くなってごめんなさい、これ良かったら」
そう言って晴美の母は部屋に入り、テーブルに飲み物の入ったコップを置こうとした。
「あ、いえ、お構いなく。私もう帰りますから」
千智は置いていた鞄を手に持ち、どこか気取るように言った。
「あら、じゃあ晴美送っていってあげないと」
「いえ。鈴野さんも鼓さんと積もる所もあるでしょうから」
そう言って千智は立ち上がり、テーブルの上の入部届を手に取るついでに晴美にぼそりと呟いた。
「たとえ鈴野さんが私を必要としなくても、私には鈴野さんが必要だから」
「え……」
どういう意味かと聞こうと思ったが、晴美はそれを言葉にできなかった。
「じゃあね鈴野さん、また部活で」
そう言い残して千智は晴美の部屋を後にした。
その後姿に晴美と由卯の二人はどこか不気味な感覚を覚えた。
「丁寧な子だったわね」
「……うん」
母が千智について思った事に対し、複雑な思いを抱えつつも晴美はそのまま相槌を返すしかなかった。
「魔法、かぁ……」
由卯は米粉クッキーを食べながら、ぼやくように言った。
千智が帰った後、晴美は今までの出来事を由卯に話した。
『音楽魔法』を知った時の事、それが部として学校にある事、千智と出会った時の事、それが元で今日半日は付きまとわれていたと言う事。
そして、ついさっきの事について出来るだけ簡略に、手早く説明した。
その結果が半信半疑な由卯のぼやきだ。
「えーと、色々言いたい事はあるけど、なんというか災難だったね」
「うん、まあね……」
まだ耳に残っている千智の呟きが晴美の気持ちを下の方向に引っ張ったままでいた。
由卯の言うように災難だったと表現するしかなく、それに相槌を返すだけで精一杯だった。
しかし、同じ部員となってしまった以上はその災難はまだ続く事を意味していた。
「チサ……あの娘も普段はおとなしい感じなのに、特定の事が絡むとあんな感じだから……」
思い出すように語る由卯。
どうやら晴美の前だけでなく、他にもあんな風になる事があるらしい。
「特定の事って?」
「いろいろあるけど、やっぱ一番は音楽かなぁ……」
「ああ……」
晴美は千智のあの態度の変わり様を思い出し、なんとなくだが納得した。幾分か自分にもそういう部分があるのを思うと、もしかしたら千智とはどこか似た部分が……通じる部分があるからこその態度だったのかもしれない、と。
あくまで晴美の憶測ではあるが、その通じる部分とは、晴美と千智を結びつけた音楽……いや、『音楽魔法』なのかもしれない。そう思った。
そう考えると、千智との出会いは運命ではあったのかもしれないが、それにしては随分と注文のうるさい相手ではあった。
「……よし!」
微妙な表情をしている晴美を尻目に、由卯は手元のみかんジュースを一気に飲み干すと、何かを決心したのか、コップを置くと同時に声を上げた。
「ハミちゃん、ボクも入るよ音研」
由卯の決めた事、それは自分も晴美の近くに居ることにして千智の好きにはさせないという事だった。
「……え? ほんと由卯ちゃん?」
「うん、ほんとのホント」
入部届持ってないから今すぐは無理だけど、と付け足して由卯は笑った。
「どうせボクもどの部に入るか迷ってたし、ベターな選択だと思うんだ」
「由卯ちゃん……」
ありがとう、との意味合いを込めて晴美は由卯の手を握った。
千智に握られた時の困惑みたいなものは無く、ごく自然な触れ合いだった。
「あは、いいっていいって、大したことじゃないんだから」
「うん、でもね」
「気にしない気にしない」
照れ隠しに笑う由卯に、素直に感謝する晴美。そこには千智のような妙な思惑は微塵にも感じられなかった。というよりも、あるはずは無かった。
「まー、ああいうのを放っておくと知らない所で変な噂とか立てられて、その上で妙な小説とか漫画とか描かれるんだから。ハミちゃんの心配もわかるけどさ」
「……そうなの?」
「そ。そういうものなの」
「そうなんだ……」
晴美には由卯の言った言葉の意味がよくわからなかったが、晴美を思って言ってくれている事には違いないはずだった。
それからまたしばらく、二人でなんでもないおしゃべりを続けた。さっきの発言から由卯が古い漫画等にも詳しいことを知り、その事で晴美が思っていた以上に話が盛り上がったのだ。
――調べればどんな情報もわかる時代ではあるが、それを誰かと一緒に共有して通じ合うという楽しみは当人同士でなければわからない。それはどんな時代でも同じはずだ――。
「……さってと、ボクもそろそろ帰ろうかな」
ふと話が途切れたところで、由卯はそう言ってスポーツバッグに手をかけた。
「え? もう?」
「うん、もうこんな時間だからね」
窓の方に視線を向け、由卯は結構な時間話していた事をそれとなく晴美へと伝えた。
「あ……」
まだ少しだけしか話してないつもりだったが、薄暗い外の景色を見て、晴美は随分話し込んでいた事を自覚した。
夢中になると本当に時間すら忘れるものだが、いざ過ぎてしまうと本当にあっという間だ。
晴美はまだ由卯と話していたいという気持ちもあったが、外が真っ暗になってまで引き止めるのもどうかと思い、今日はこれまでかな、と腰を上げた。
「じゃあ、わたし玄関まで送るよ」
「うん、ありがと」
二人は立ち上がると、部屋を出て玄関へと向かった。短い間ではあるが、晴美は友達が帰っていくという事への寂しさからくる微妙な空気を感じていた。
玄関に着き、由卯がスリッパを脱いで靴に履き替えたところで、晴美は一つ問いかけた。
「……ねえ、由卯ちゃん部活のことだけど」
由卯が入部するとは言ってくれたものの、やはり晴美には不安があった。
その事が由卯が帰るという事になって、また不安が吹き出たのかもしれない。
「だからいいっていいって」
身を翻し、おどけるように由卯は言った。
「それより今日は楽しかったよ。多分、明日からもね」
「由卯ちゃん……」
「だから、今日はバイバイ」
別れの言葉を言いながら由卯は手を振り、玄関の扉を開け、晴美の家を後にした。
「うん、バイバイ」
扉が閉まるその時まで晴美も手を振り続けた。
外から僅かに伝わる門扉の開閉音を聞きながら、晴美は迫りくる魍魎への不安と、幼き頃の友との再会の夜転びの思いに挟まれ、ただ立ち尽くしていた。
晴美のその気持ちは、空に浮かぶ半分の月が代弁してるかのようだった。
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