2. YELLOW MASIC
翌日、晴美は入部届けを提出し、正式に音研の部員となった。
わざわざ用紙自体を出さなくても良かったのだが、晴美がそうしたいと思ったので、あえて直接提出した。
思えば、正式に入部する前に仮入部をしてからどうするか考えるという手段もあったのだが、コンピューター室を探すにも地図を探さず、わざわざ校舎を歩き回ったように、あの時の晴美にはそこまで頭が回らず、気持ちだけが先走ってしまい、今のようになったわけだ。
しかし、晴美は後悔はしていない。
幾分かの不安もあるが、音研……音楽魔法は、晴美にとって先の見難い暗がりの学校生活の中で邂逅した光だ。この光が晴美の未来をどこまで照らしてくれるかはわからないが、今はその光を信じて前に進むだけだ。
さらに翌日の昼下がり、晴美は中学生になった事の報告を兼ねて祖父母の家へ遊びに来ていた。昔から度々遊びに来ていたこともあって、晴美の趣味や嗜好にもかなりの影響があった。偶然があったかもしれないとはいえ、事実、祖父の音楽趣味がなければ今の晴美も無かっただろう。
「……うん、それで来週からなんだ」
茶の間の掘りゴタツに腰掛け、今までの事を明るい顔で語る晴美。
「そう、よかったわ」
それをニコニコとした顔で嬉しそうに聞く、中年くらいに見える女性……晴美の祖母だ。
コタツの上に乗っている果物かごからミカンを手に取り、晴美に食べなさいと薦める姿は、いかにもな日本のおばちゃんと言った感じだ。
祖母からの薦めを素直に受け取り、晴美は早速そのミカンの皮を剥きはじめた。中の果肉が全部見えるまで皮を剥くと、一房ずつ取っては口の中に入れていく。その甘酸っぱい味は昔晴美が味わったものと何も変わらない。
「小さい頃の晴美ちゃんはピアノが好きだったからねえ」
「そうだったっけ?」
「ほら、あの小さなピアノ」
「……んー、わかんないや」
「あら、でもほんとに小さい頃だったからねえ」
こんな風な祖母との何気ない会話も昔から変わっていない。変わる事はない。変わったとしてもよほどの違いでもない限りは晴美は気付く事はないだろう。それは祖母にとっても同じはずだ。
「あ……そういえば、ハル達は?」
晴美がミカンを半分ほど食べたところで、不意に祖母に問いかけた。
「ああ、ハルなら……ああ、来た来た」
言葉を言いかけたところで、何かを見つけたのか祖母は手招きをする。
すると、祖母の声に返事をするかのようにニャアと鳴き声をあげ、眠たそうな目をした灰色の毛色の猫が晴美の視界に姿を現した。ハルとはこの猫の名前だ。
「ほーらハル、晴美ちゃんが来たわよ」
そう言って、茶の間に歩いてきたハルを抱き上げると、祖母は晴美にハルを見せる。
「ハル、久しぶり」
晴美が指で軽く頭を撫でると、ハルははにかんだような顔をした、気がした。
そんなハルを見て、思わず晴美の方も笑みが浮かぶ。
そんな事をしていると、横の方から別の猫の鳴き声がした。
「ん……?」
晴美が鳴き声が聞こえた方を向くと、白と黒のツートンカラーの猫が晴美の方へと歩いてきた。口元の部分に黒い模様があり、ちょびひげを生やしているように見えるこの猫はユキと名付けられていた。
「あ、ユキ。ほらユキもおいで」
晴美の声を聞いたからなのか、途端にユキは晴美の元へと駆け寄り、じゃれつきはじめた。
「ん。ユキも久しぶりだね」
そう言いつつユキの身体を撫でる晴美。犬のようにバタバタと動き回りながらも晴美の元を離れないユキのその姿は本当に嬉しそうだ。
「ユキはほんと晴美ちゃんが好きなんだから」
晴美とじゃれつくユキを見て笑う祖母。ハルの方は祖母の腕の中でおとなしくしたままだ。
「うん。……あれ?」
ふと何かが足りないと言わんばかりに晴美はキョロキョロと周りを見渡した。
「……あ、いたいた」
そう言った晴美の視線の先には隠れるようにして二匹の猫の方を見つめている茶トラ猫の姿があった。この猫が晴美の探していた、この家に居る三匹の猫の最後の一匹であり、名前はリュウと言った。
晴美は見つけたリュウに対し、手招きをしてみたが、ピクリとも動く様子はない。
「ん、リュウは相変わらずだね……」
苦笑いする晴美。リュウは昔からこういう猫ではあったが、他の二匹がそうであるように、少しも変わるところはないようだ。
どちらかといえば物静かなハル。対照的に何時だって元気な姿のユキ。そして、自分から輪に入るのは苦手らしいが寂しがりやなリュウ。晴美は、そんな三匹と一緒に育ってきたようなものだった。だからこそ三匹に会いたいと思った事もあり、今日は遊びに来ていたのだ。
それでもリュウの態度には、晴美は引きつった顔をするしかなかった。
その後、晴美が『漫画部屋』と呼んでいる部屋で漫画を読んでいるうちに時刻は夕方となっていた。祖父が集めた漫画が揃えてあるこの部屋も、晴美の趣味嗜好に影響を与えた原因の一つだ。
ずっと漫画を読んでいたい気持ちもあったが、夕焼けに気付いたのも良い頃合だと思い、晴美はそろそろおいとまをする――家に帰ることにした。
「じゃあおばーちゃん、わたしそろそろ帰るから」
漫画部屋を出て、台所に居た祖母へと晴美は声をかけた。
「……あら、夕飯食べていかないの?」
「うん、いつも食べてくのも悪いし」
祖母の誘いを断り、晴美は玄関の方へと向かった。
玄関で靴を履いていると、ハルとユキの二匹が別れの挨拶をするかのように、晴美の元へとやってきた。
「ん、ふたりもまたね」
晴美が二匹を軽く撫で、視線を上げると、またしても遠巻きから見つめているリュウの姿があった。撫でる代わりに小さく手を振る。リュウに気持ちが通じたかはわからないが、ほんの少し笑ったように見えた。
「じゃあ、また」
そう言うと、晴美は引き戸の扉を開け、外に出た。
外の風景は、やはり空が紅く染まっている夕焼けで、晴美の心に妙な感傷を覚えさせた。あの時の『音楽魔法』で見た何かのような感覚だ。心に訴える何かを魔法の一言だけで済ませられるわけじゃないだろうが、何かしらの魔法が関係しているかのように晴美は思えた。
そんな事を考えつつ、留めてあった自転車に乗り、晴美は祖母の家を後にした。
それから部活が始まるという日までの間、晴美は自分で調べられる範囲で音楽魔法について探してみたものの、あの日の夜と同じように晴美の求めている情報は見つからなかった。
いざ晴美が松木に尋ねてみても、教室では相変わらずやる気のなさそうな顔でのらりくらりと流されて、最後には『部活でな』の一点張りだった。
これから新しい一歩を踏み出すという期待と、その道先がまだ何も見えていないに等しい事からの不安な気持ち、あと気晴らしのつもりで見た古いSF映画のシリーズの世界がごちゃ混ぜになって、晴美は頭の中で砂嵐でも渦巻いているような気分だった。
晴美が祖母の家に遊びに行ったのは、この不安を少しでも払拭したいからという気持ちもあったのだが、いざ家に帰ってみるとまた同じ気分に戻っただけだった。
晴美がモヤモヤした気分で過ごして数日、ようやく学校で部活動の始まる日がやってきた。
この日の晴美は、目覚ましが鳴る前に起床し、適当に身支度を整えて元気よく両親に挨拶をしたかと思えば、盛大に転んで額を赤くしたり、朝食を食べ終えた後に珍しく自ら食器を洗ったかと思えば、その後の歯磨きをせずにそのまま登校しようとし、鞄を忘れている事を母に注意され、さらには学校に着いたら着いたで上履きに履き替えるのも忘れて土足で校舎に入ろうとし、教室の中では鞄の中味をばら撒いてしまったり……と、前日まで気持ちが沈んでいた反動なのかなんなのか、普段しないような事ばかりしてしまった。
そんな事が続いた事もあり、まだ少し痛みを覚える気がする額を軽く押さえながら、晴美は顔も赤くして机に覆いかぶさるようにうな垂れていた。
「あぅ……」
傍から見れば、普段から俯いて大学ノートとにらめっこをしている晴美の姿とそうそう変わらないのだが、本人からすれば大違いだ。
「んー……」
晴美はそんな恥ずかしさを紛らわそうと、やはり普段のように大学ノートと筆記用具を取り出し、ノートを開いて鉛筆を片手に世界の構築へと逃避する。
とりあえず晴美は大きく『音楽魔法』と文字を書いてみた。そしてそれを小声で読んでみた。
「音楽……魔法……」
だが、口にしたところで何かが思い浮かぶわけでもなく、何かが変わるわけでもなかった。
「んー……」
沈んでいく気分から晴美の首の角度がより下がっていく。
「んんー……」
ごちゃごちゃした気分を払拭しようと、晴美はなんとなく今まで描いたノートのページをパラリパラリと一枚ずつめくってみた。
その中で一つのページが目に留まった。
雑然とした落書きの中にあった一つのイラスト。
女の子が鍔の広い黒のとんがり帽子を被り、フリルをひらつかせたエプロンドレスのような服を着て、マントを羽織り、箒を手に持ってポーズを決めている。晴美が抱いている『魔法』についての……『魔法使い』についてのイメージを形したものの一つだ。
その他、晴美が持っている『魔法使い』のイメージというと、アイドルが着ていたようなファンシーな服装をして玩具的なデザインをしたステッキを手に持って奇妙な生き物を連れているもの、得体の知れない化け物を相手に人知れず剣や銃を持って戦う職業、PCのアプリのインストールの手助けをしてくれる熟練した存在、素っ裸の老婆や中年男性の事……など、千差万別だ。
そんな多くのイメージの中で、晴美の頭の中に新たに魔法使いとして浮かんできていたのはYMOのメンバーの姿だった。
『赤い人民服』を着たメンバーの姿は今までの中の『魔法使い』のイメージとはかけ離れてはいたが、彼らは『魔法使い』だ。少なくとも、『音楽魔法』を知った晴美にとっては、紛れも無くYMOの音楽は『魔法』であり、それらを作曲、演奏したメンバーも『魔法使い』だと信じるようになっていた。
「魔法……」
顔を上げ、遠くを見ながら晴美は呟いた。
数ある魔法の中の一つである『音楽魔法』。その殆どを晴美は未だに知らない。
人間がこの世の理の全てを知らないように、おそらく先生である松木も全ての事は知らないかもしれない。それでも先生である以上は晴美よりは何かを知っているはずだ。その事をついて思うと、晴美は部活動の時間が待ち遠しかった。ようやく音楽魔法について聞けるのだと。
「はぁ……まだかなぁ……」
ため息をつきつつ、晴美は時計を見てぼそりと呟いた。
まだまだチャイムの鳴らない時刻を見る限りは、晴美の退屈が解消されるのはもう少し先のようだった。
その後、晴美はいつもよりも長い体感時間での授業を受け、普段より味が感じられない給食を食べ、内容がちっとも頭に入らない授業も終え、どうにか放課後の時間を迎えた。
そして今やっている帰りの会が終わればようやく部活へ行けるのだ。
「えー……それで……」
SHRの内容も特に大した事ではないのだが、やる気のなさそうな松木の声が今の晴美にとってはやたらと間延びしているように聞こえていた。
「その事は……後日に……」
あと少しだと思っているからこそ、変に気になって実際の時間より何倍も長く感じているのだろうが、理屈はともかくとして、わざわざ『退屈』だと思う程には晴美は退屈だった。
「……とまあ、そういうことだ。じゃあ、日直」
晴美には長ったらしく思えたSHRも松木の言葉でようやく終わりを告げた。
「あ、はい。きりーつ。れーい」
日直の号令がかかり、皆が挨拶をし、本日の帰りの会は終わった。そして、松木はさっさと教室を後にしようとしていた。
「あ、せんせ……あれ?」
松木を呼び止めようとした晴美だが、その視線の先に松木の姿はもう無かった。
「……むー」
晴美は少し眉をしかめる。
待ちきれなかったという事もあり、部活の前に少しくらいは質問をしておきたかったのだが、やはり部室に行かないと駄目なようだった。
「んー……」
ごちゃごちゃとした釈然としない思いを抱きつつ、晴美は鞄を手に持ち、教室を後にした。
晴美が向かう場所は勿論、音研の部室……コンピューター室だ。
「失礼します」
小さく一声をかけ、晴美はコンピューター室に入った。
相も変わらず雑多に並ぶPCの脇を抜け、教室の奥へ向かうと、初めてこの教室に来た時と同じように松木の姿がそこにあった。
晴美もそれなりに急いで来たつもりだったのだが、松木の姿を見る限りは息を切らしているような様子すら無い。まるでワープか何かでもしたかのようだった。
とりあえず晴美としては、これも魔法なんだろうな、と思うことにした。
「松木先生」
「……ああ、鈴野か。早かったな」
晴美の声に気がつくと、松木は取り掛かっていた作業の手を止め、振り向いた。
「はい。先生も早いんですね」
さりげなく松木が来ているのも早いと言う晴美。勝手な理屈で納得していたつもりだが、やはり心のどこかで気になったのか、つい出た言葉がこれだ。
「ここで仕事するのが日課なもんでね」
そう言って松木は乱雑に積み重なった電子ペーパーの書類や電子ブック端末を指差す。
――電子化が進んでも小学生がランドセルの重さから中々開放されなかったように、人が人である限りは物量からは逃れられないようだ。それでも普通に仕事をこなしてさえいれば松木が指差した山のように溜まる事は無いはずだが、これは松木の怠慢故にというところだろう。これも人が人である限りはどうすることもできない事だ――。
「じゃあ鈴野も来た事だし、早速はじめようか部活動」
背伸びをして椅子を軽く鳴らす松木。ああは言ったものの、その言動から察するに、松木はあまり仕事に取り掛かりたくないようだ。
「え? わたしは構いませんけど……」
先ほど指差した書類の山を晴美は見る。関係無い晴美からしてもげんなりするほどの量だ。
「ああ、大丈夫大丈夫。これくらい何とかなるさ」
「はぁ」
明るく言う松木に対して、少し首を傾げて生返事をする晴美。
大丈夫と言ってるからには大丈夫なのかもしれないが、どうにも不安を覚えてならなかった。
「それにまだ、他の人……他の部員も来てませんし」
そう言いながら晴美はちらりと教室の出入り口を見る。
ほんの僅かの間ではあるが、今のところ晴美が入ってきてから扉が開いた様子は無い。
そう、今コンピューター室に居るのは晴美と松木の二人だけだ。
こっそり幽霊だとか妖怪が居る可能性も無くはないが、晴美が見る限りでは、人間は自分と松木先生しか居ない。バツが悪いと言うべきか、何か心細い感じがした。
そんな晴美に松木は平然とした顔でこう言い放った。
「いや、誰も来ないよ」
「……え?」
松木の突然の言葉が理解できず、困惑する晴美。
続けて松木はさらに衝撃的な事を述べる。
「だって今の音研の部員は鈴野だけだからね」
「…………え? ええっ?」
困惑を通り越し、晴美は驚愕した。ショックな一言だった。
「え、わたしだけって、部員はわたし一人なんですか?」
晴美は思わず松木に聞き返す。あまりにあっさりと言ったが為に信じられなかった。
「そうだよ。……あれ、言わなかったっけ?」
「聞いてません」
忘れてたと言わんばかりに頭をかく松木を、晴美は眉を寄せて見つめた。というより睨んだ。
「いや、ゴメンゴメン。先生も仕事とか忙しくてね」
「そんな風には見えませんけど」
先ほどの書類の山を横目に松木の言い訳に突っ込む晴美。
「まあ言い忘れたのは悪かった。でも、鈴野もその事を聞かなかっただろう?」
「それは……」
確かに晴美は部員の事については聞こうとは思わなかった。
だが、松木に質問をしようとしたら適当にあしらわれてばかりだったのも事実だ。
「だからそれでいいじゃないか」
「……よくないです」
無理矢理納得させようとする松木に、晴美は一応言い返しておく。
「とにかく始めようじゃないか、部活。どうせ誰も来ないだろうし、鈴野も聞きたいとかあるだろう? な?」
「…………はぁい」
晴美は釈然としないと思いながらも、とりあえず松木に従う事にした。
先生を相手に上手く言い返せないだろうと思ったからだ。
「あ……。でも、その前に一つだけいいですか?」
晴美にはもう一つだけ気になる事があった。始める前にその事を聞いておこうと思った。
「ん、なんだい?」
答えくれるかはわからないが、それはそれとして晴美は松木に質問をした。
「……なんでこの部、潰れなかったんですか?」
率直な質問だった。
普通、学校において部員が極端に少なかったり全く部員が居なかったりする場合は新入部員の募集を中止して休部、もしくは廃部になるものだが、この音楽魔法研究コンピューター部――音研は部員が全く居なかったというのに部として存続している、らしい。
もしかしたら前年には部員が居たかもしれないが、それでは次の年度、つまり本年度には新入部員がゼロ……いや、晴美が入部しなければゼロ、誰もいなかった事になる。
つまり、休部か廃部の条件は満たす事になる。
それなのに部があるというのは妙な話なのだ。
「ああ、この学校では潰す面倒より放置する楽を選んだ結果らしくてね。この部の創立理由みたいに学校ってのはそういうものでもあるんだよ。それで、先生一人の閑職だと思ってた所に来たのが鈴野ってわけだ」
「はぁ……」
松木の話した事に晴美は納得しかねるような返事を返す。
無茶苦茶な理由だったが、実際に部がある以上はそういうものだと納得するしかないのだと晴美は思う事にした。荒唐無稽な点で言えば、既に『魔法』という時点で突飛な事だ。
とりあえず、入部届で音研が隠されるように載っていたのはそんな理由からだったのかもしれない。どちらにしても、それを見つけてやって来て入部したのが晴美なのだ。
「それじゃあ始めようか鈴野」
必要な事は言い終えたと見て、松木はそう言った。
「……先生って長生きしますね」
どこか抜けている感じのする松木を見て、別の意味で抜けてる部分のある晴美がぼそりと呟いた。
そんな風にして晴美の中学における初めての部活動は始まった。
部活動と言っても、まだ仮入部期間の部が多いように、音研においてもまだ本格的な活動はやらないらしく、晴美が音楽魔法に事について詳しく知りたいという事もあり、松木による音楽魔法の講義が開始された。面倒なら会話が始まるまで飛ばしていいそうだ。
――まず、古来から音楽と魔法は非常に近い存在であったという。世界の神話や多くの逸話に音楽が関係するのもその為であり、それらの話の中に神が音楽を作ったという話も多く存在しているらしい。そんな繋がりからか、宗教としての『神』への『信仰』の橋渡し的な役割を使わされ、また逆にどんな人にも『神』の教えを伝える方法として教会音楽と言われている音楽も生まれたという。人間が常に音楽と共に歩んできたように、人と共に生まれた宗教もまた音楽と密接な関係を持ちつつ栄え、今日に至っても未だ世界各地で根強い信仰が存在しているとか。 また、タルティーニが作曲した『悪魔のトリル』と呼ばれる曲に伝わる『悪魔に魂を売って曲を伝授された』という伝説や、ビートルズの『イエスタディ』の『夢の中でメロディが浮かんだ』というエピソードも、ある意味で天の掲示とも言え、音楽が『神』や魔的なものへの橋渡しになっているものの証明になっているらしい。シャーマンと呼ばれる者がトランス状態という『神が体に降りた』状態が、大事とされる宗教があるように、有名なミュージシャンが麻薬などに手を出してあれこれ突き抜けたりするのも神や悪魔的な何かへ少しでも近づけると信じられてる面もあるからだそうな。この辺りは流石に眉唾ものかもしれない。
その他に音楽の魔的な力を裏付ける民話の一つが『ハーメルンの笛吹き男』らしい。遠い昔、ドイツのハーメルンという町はネズミの群れに悩まされていたが、ある時妙な服装をした男がやってきて、その町で暴れまわるネズミの群れを笛で川に呼び寄せて退治したという。男がネズミ退治の報酬を要求すると、町の人々は払うと言った約束を破り、報酬を出し渋った。怒った男は、笛を吹いて町中の子供たちを連れ去ってしまったという。この話の内容は諸説入り乱れており、男の正体は魔法使いだったという説もあるという。多くの説には細かな差はあるものの、笛を使うという点は一致しており、生物を魅了する魔力的な力の音楽が使われたという事が伝えられている民話だとか。
また、童話『ブレーメンの音楽隊』も、動物が音楽隊に入る事を目指して旅をした話であり、結果としてはブレーメンに着かなかったが、自分たちの音楽を楽しんで余生をおくるという結末になっている。全てが全てではないが、そういう話が存在するドイツで『クラフトワーク』が生まれ、YMOへの影響を与え、そのYMOのコンセプトである『イエローマジック』を元に、数十年前にこれらの音楽に内包された魔力的な力を解析、研究し、今の『音楽魔法』に至っているそうだ。
実際はもっと複雑なモノらしいが、先生が今持っている資料の内容では大体そんな感じらしい。太古の人類から引き継がれた遺伝子に存在する超感覚的知覚が魔力と作用してどうこうという件もあったが、その辺りは晴美にはよくわからなかった――。
こんな感じでそれなりの所以はあるものの、信憑性に少し難があるが為に、ちゃんと存在はしているのだが世間的にはマイナーな存在なのが『音楽魔法』らしい。
普通のネットで探しても関係資料の題名くらいしか見つからないだろう、というのが松木の言葉だ。そんな松木の見せてくれた資料の中には、率直に『音楽魔法』という題名の本もあったが、晴美がネットでは見かけた覚えすらない表紙だった。勿論、電子書籍ででも見かけていない。画像や動画に至っては撮る事が難しいらしく。つまり、人に作用する魔法の為に『記憶には残っても記録には残しづらい』という。だから世間的に知名度が無いのだそうだ。
「ふぇ……」
松木の講義に一区切りがついた所で、晴美は気の抜けた声をあげて机の上にもたれた。
講義とは言ったものの、一対一である為に実質は松木との対面授業であった。それも、密度の濃いものであり、普段の授業で疲れる事の無い晴美も疲れを覚える程であった。真新しいノートに細かく書かれた文字がその内容の複雑さを物語っていた。
たとえどんな時代であっても、人間が何かを覚えるには結局自ら学習して身に着けていくしかない。頭に直接知識をインプットするような方法も存在はするのだが、あくまで方法として存在するだけだ。倫理的な問題や、個人が利用する際の初期コストに対する対費用効果、その他諸々の問題もあり、一般的には行われていない。人が人である限りは自ら『学習する』行為からも逃れられない。
逃れられぬ運命にまっすぐに立ち向かった晴美は今その戦いを一旦終えたというところだ。
「大丈夫か鈴野ー?」
「はい、いきてます……。んっ……」
間延びした口調で問い掛けてきた松木に、晴美はどうにか返事をして身体を起こした。
「やっぱ実際の演奏から入った方が鈴野にはわかりやすかったんじゃないか」
松木にもそれなりに思う所があるのか、気遣うような事を言った。しかし晴美は小さく首を振り、こう答えた。
「いえ、わたし自身先生にいろいろ聞きたい事がありましたし、とても勉強になりました」
「ん、そうか。それならいいんだが」
晴美の言葉を聞くと、松木の喋りもまた普段のように戻った。
「それに前にも言ったように、わたし、音楽がわからないというか楽器できませんから……」
少し顔を俯けて晴美は言った。祖母に会いに行った時は小さい頃にピアノをやっていたみたいな事を言われたが、晴美は少しも覚えておらず、実際に自信がなかった。
先ほどまでの講義は、音楽魔法についての歴史を知識として学んだまでであり、楽曲の演奏とはあまり関係は無い。それでも勉強をしたら気持ちが変わるかと思ったが、つい怖気づいてしまう。
「誰だって最初は何もわからないよ。だけど、鈴野は学校の授業はちゃんと受けてたんだろう? 音楽の授業も」
「え、はい、そうでしたけど……」
晴美はさらに松木から視線をそらす。松木の見せてくれた音楽魔法を自分でもやってみたいという気持ちがあったからこそ晴美は今ここに居るわけだが、いざとなると躊躇してしまう。
「大丈夫だって」
口元に笑みを浮かべて松木は言った。
「鈴野がここに来た時の勢いさえ忘れなければなんだってできるさ、まだ若いんだからな」
自分は歳をとったと言わんばかりの松木の言葉だった。
晴美くらいの年齢から見れば確かに歳はとっているだろうが、松木自身もそこまで歳をとったとは思っていない。晴美を元気づける為に言ったまでの台詞だ。
「ま、今日のところはこれまでってところかな、もうこんな時間だしね」
「あ……」
晴美が時計を見ると、もうしばらくもすれば最終下校時間になる時刻だった。
外はもう薄暗くなっているだろう。
「えと、先生はまだ?」
「言っただろ。先生はここで仕事するのが日課って」
晴美の言葉に、松木は書類の山をポンと叩いて返事をする。
どちらにしても松木は先生である以上まだ帰らないという事らしい。
「……じゃあ、わたしはそろそろ」
机の上のノートや筆記用具を片付け終えると、晴美は鞄を手に持ち、松木に声をかけた。
「ああ、気をつけてな」
「今日はありがとうございました先生」
挨拶をしてペコリと頭を下げると晴美は教室を後にした。
そんな晴美を見ながら松木はまた何かの思いにふけながら口元に笑みを浮かべていた。
「わ……」
晴美がコンピューター室を出ると、廊下は窓から差し込む夕焼けの色に染まっていた。
家に帰る頃には真っ暗になっているかもしれない。
「早くかえろ……」
そう呟いて、晴美が昇降口に向かおうとしたその時だった。
「……あれ?」
不意に何かが晴美の頬を撫でた。
思わず頬を触ってみるが何もなく、妙な感触が残った。
周りには誰もおらず、ただ夕焼けで染まった校舎が見えるだけだ。
「え……?」
続く撫でられる感触。
とても微細で、気付かなかったかもしれない程の弱さ。
それは晴美だからこそ気がつけたかもしれない不思議な感覚。
「風……?」
それは風だった。
微弱で、繊細で、今にも消えてしまいそうで、どこか既視感を覚える風。
微かに感じる匂いは晴美の記憶にも無い匂いであったが、同じように既視感を覚え、奇妙な感覚に陥っていた。
「この音……」
風の流れと共に聞こえてきたのは柔らかい音。
とてもゆったりとした、どこか愁情的なピアノの音だった。
晴美は何の曲かはわからなかったが、その聞こえてきた曲はサティが作曲したピアノ曲『ジムノペディ』であった。
「あっちから……?」
ゆったりとした音に導かれるように、晴美は音の聴こえる方へ歩いていった。
誰もいないように思える夕焼けに染まった校舎の中を一歩一歩歩くごとに、その曲は確かなものに聴こえてきた。
とても不思議な感じだった。
ぼんやりとした曲の音がハッキリ聴こえていくごとに、晴美は自分が今居る所は夢なのか、それとも現実なのか、よくわからなくなっていった。
微かに香る甘美な匂いの漂う闇と、どこか冷たく土臭さの感じられる夕焼け色の現実。
その狭間を晴美は歩く。
ただ聴こえる曲を頼りに、その方へと。
ほんの一瞬のようでもあり永久のような時の間を歩いた晴美が辿り着いた場所は、分厚い扉を入り口に備え付けてある教室……音楽室であった。
「……ここって」
ピアノの音は教室の中から聴こえてきた。
仮にも音楽室である以上は、防音処理がなされているはずなのだが、そんなものなど存在しないのように音は晴美の耳に伝わっていた。
晴美が思わず扉に手をかけると、自ら意志を持って動くかのように扉は開いた。
「え……」
扉の開いた先……教室の中を覗くと、虚無と言うべき白く何もない空間に、黒いピアノがあり、そこで一人の少女がピアノを奏でていた。
晴美と同じ制服――セーラー服を着た、長い髪の少女だった。
その凛とした少女はモノトーンのような世界で、ただ一心にピアノを弾いていた。
まるで機械か何かのように正確に、かつ繊細に。
その音はモノで例えるなら、まるで宝石か何かのようだと晴美は思えた。
教室の中、その世界の中に晴美は足を踏み入れた。
何も無いが、そこには確かに世界があった。
一歩、また一歩と少女の元へと近づいていった。
そのうち演奏が終わり、響き渡っていた音は途絶え、世界は現実に戻ってきた。
窓から差し込む夕焼けが音楽室を照らし、少女の長い髪を輝かせた。
「あ……」
晴美はこの事と同じような出来事をここ最近にも経験していた。そして昔にも一度経験していた。まさかと思いつつも、その疑念は確信になっていった。
これは『音楽魔法』だ、と。
「何!」
長髪の少女は晴美の小さな声に気付き、立ち上がって晴美の方を向いた。
「あっ……」
「……貴方は?」
二人は顔を合わせると、互いに驚いた表情で見つめあった。
そして少しの間沈黙が訪れた。
「あ、ごめんなさい……えっと、その」
先に晴美がその沈黙を破った。
何をどうすればいいのかわからず、演奏の邪魔をしたと思い、とりあえず謝った。
しかし、目の前の少女は怒っている様子は無く、もっと別の感情を持ち合わせていた。
「貴方、どうやってここに入ってきたの?」
疑問。この少女にある一番強い気持ちだった。
晴美に問い掛けた少女のその顔は、まるでありえないものを見たかのような表情だった。
「え? どうやってって、そこの扉が開いて……」
少女の問いかけに対し、晴美は振り向いて教室に入ってきた扉の方向を指差した。
だが、そこには開いた様子の無い。閉まったままの扉があった。
「……え?」
先ほどの少女と同じような表情になる晴美。確かにありえない事だった。
「それに貴方……今言ったわよね。『扉を開けた』じゃなくて『扉が開いた』って」
「あ、はい」
少女の方に振り向きなおし、晴美はまた顔を合わせる。
「わたしが手をかけたら、こう……自動に開いて……」
晴美は手を動かして、扉が開いた時の様子を少女に伝えようとした。
対して、長髪の少女は手に持った鍵を見ながら考え込んでいた。
「……何の音も聞こえなかった。そして私も気がつかなかった」
少女は顔を上げ、晴美に訊いた。
「ねえ貴方、一体どういう魔法を使ったの? まさか貴方、幽霊とか言わないわよね?」
「え、あっ……」
思わず少女は晴美の肩を掴んだ。
少女にはちゃんと体を掴んだ感触があり、晴美の方にも勿論掴まれたという感触があった。
「魔法……。本当に魔法かもしれません」
不意に目の前の少女の言った単語を晴美は復唱した。そして、真顔で少女に言った。
「わたしはピアノの音とそれを運ぶ風に導かれてここに来たんです。もしかしたら、その音がわたしを通じて『音楽魔法』と言う魔法になって、その力で扉が開いたんだと思います」
荒唐無稽な結論だった。何も知らない人間からすれば、空想と現実の区別がついていない人間のたわ言にしか聞こえない言葉だった。
だが、『音楽魔法』を知っている晴美だからこその結論でもあった。
晴美が自分が幽霊などではなく人間である以上、それ以外には考えられなかった。
「おんがく……まほう?」
「はい、魔法です」
晴美は再度その単語を言った。
魔法。信じられない人は多くとも、確かに存在する力。
「……ピアノ。そうだ、ピアノ」
晴美は視界に入ったピアノを見て、ある事が頭に浮かんだ
人に物を信じさせるには百の論より一つの証拠であり、晴美が音楽魔法を信じたのも、それを松木が見せてくれたからだ。記録に残らずとも、人の記憶に残るその力は、確かに魔法なのだ。今、その魔法を信じてもらう手っ取り早い方法は一つしかなかった。
「すいません、どいてください」
少女の手を払いのけ、晴美はピアノの前へと向かった。
「え……。貴方、何をするつもり?」
「……やってみます」
今ここで晴美が音楽を、音楽魔法を奏でる事が全ての解決になるはずだ。
ピアノという楽器もあり、音楽魔法を見る事の出来る晴美自身もここにいる。
音楽魔法は誰もが持っている力であり、晴美でも信じれば見るだけでなく見せる事も出来るはずだ。やればできる。松木のその言葉を胸に晴美は今、鍵盤に手をかけた。
指は自然と動いた。晴美が動かそうと思わなくとも自然に、ある意味で不自然に、勝手に手が動き、鍵を押していった。それに合わせてピアノは鳴る。
その鳴り方はたどたどしく、とても拙いものだった。
しかし、晴美の手は鍵盤を押してピアノを奏で続けた。
今、晴美が出来る精一杯の思いをその指に乗せて、ただひたすらに。
少女が晴美の演奏に眉をしかめ、演奏を止めるよう声をかけようとした所で、突如として変な感覚に陥った。教室にいたはずなのに、どこか別の場所が少女の目には映っていた。
それは奇妙な情景だった。古い日本のようで、どこか西洋的なものも感じさせながら、アジア的でもあり、何処の国とも言い切れない、ヘンテコでデタラメな風景。
だが不思議に、それを当たり前のように受けている少女の心があった。
「これは……」
拙いながらも奏でられている音の連続から晴美が考え付くイメージを、さらに少女の持つイメージと組み合わさり、具現化したのが今見られている情景であり、この音楽魔法だった。
――音楽魔法が送り手の魔法だけでなく、受け手の魔法でもあり、そして中々記録に残せない理由はここにある。互いのイメージが組み合わさって見えるものである為に、全く同じものがお互いに見えるわけではなく、たとえ強烈なイメージだったとしても、どこかしらで微妙な差異が生まれる。ハーメルンの笛吹き男の伝説に多くの諸説があるのはこの為とも言われており、個人個人で見ているものに違いがあればデータとして残り辛いのも道理だろう。
晴美が松木に見せてもらった『東風』の音楽魔法も、中国の風景というイメージはあったものの、ゲーム画面が出てきていたのは晴美のイメージがあってこそだ――。
ごく単純であるが故に晴美の演奏とも言えない演奏は何時までも続くように思えた。
適当だからこそ、終わりがわからなかった。
晴美自身にも何処で終わればいいのかわからなかった。
そんな時だった。
『下校時間になりました、校内に残っている生徒はただちに下校してください……』
ふと校内放送が音楽室を含めた校内に流れた。どうやらもうそんな時間らしい。
「あ……」
放送を聞き、晴美の手が止まった。
それに合わせて、奇妙な世界の情景も消えていった。
「あの、色々とごめんなさい、まずはその、早く学校出ないと……」
晴美は慌てふためいて立ち上がり、ピアノの鍵盤蓋をしめてから置いていた鞄を手にとってから少女に声をかけた。
「……魔法」
「あの?」
だが、少女は心ここにあらずと言わんばかりに、どこかを見つめていた。
おそらくは先ほどの情景がまだ瞼に焼き付いているのかもしれなかった。
「あのー……えーと」
「……貴方、名前は?」
少女は唐突に晴美に問いただしてきた。
まだ互いに名前を知らなかったのもあるが、少女がボーっとしていたところに突然だった。
「え?」
「貴方の名前を聞いているの。名前は?」
少女のどこか張り詰めたような冷たさを覚える雰囲気に押され、晴美は恐る恐る答えた。
「え、あ、鈴野晴美です……」
「学年と組は?」
「一年一組、ですけど……」
「そう。やっぱりと思ったけど同じ一年なのね」
「……え?」
落ち着いたように見える雰囲気から少女は上級生かと思っていた晴美は驚きを隠せなかった。
「私は琴坂千智、一年二組」
「……あ、はい」
少女……千智に対し晴美は思わず返事を返した。
ただの自己紹介ではあるのだが、妙な威圧感を覚え、つい言わなくてはいけないと思った。
「互いの自己紹介は済んだわね、じゃあ出ましょう」
そう言って、いつの間にか鞄を手に持った千智は晴美の手を引いた。
「え?」
「早く。もう下校時間過ぎてるでしょう」
「は、はい」
千智に言われるがままに晴美は昇降口へと急ぐことにした。
外はもう暗く、晴美が家に着く頃には本当に真っ暗になっているだろうと思われた。
「……ふへ」
廊下を走らず急いで昇降口に向かい、辿り着いたら急いで靴を履き替えて、ようやく校門を出たところで晴美は息をついた。外は思っていたように、かなり暗くなっていた。
「鈴野さん」
「はい……?」
呼ぶ声に晴美が振り向くと、千智は晴美の制服の袖を強く掴んできた。
「え、えっと、琴坂……さん?」
晴美が腕を引っ張って手を離そうとはしたが、その力は腕を動かす事すら許してくれない。
「鈴野さん、あの『音楽魔法』って何?」
「え、それは……」
「あの時見えたアレは一体何処の景色なの?」
「いや、あの……」
「音楽を全く知らないみたいなのにあんな事が出来る貴方は一体何なの? 教えて」
グイグイと問い詰めてくる千智に、晴美は何も言えなかった。
自分でもまだよくわかってない部分もあるのだが、千智の探究心から来ると思われる勢いには怖気づくしかなかった。
「こ、琴坂さん、ほら今日はもう暗いし……また今度、ね?」
晴美は空を指差し、注意をそらそうとした。
実際に空は真っ暗であり、晴美もとっとと家に帰りたいという気持ちもあっての台詞だ。
「……仕方ないわね」
いかにも残念そうな顔をしながら千智は掴んでいた晴美の袖を離した。
「じゃあね鈴野さん、また明日」
身を翻し、千智は暗がりの中へと消えていった。
「さ、さよなら……」
一応とはいえ千智の背に手を振る晴美。
そのついでに掴まれていた袖の部分をちらりと見る。
「あーあ……」
晴美が見る限りでは、制服の袖口の部分が少し伸びたようになっていた。
これくらいなら別に構わないと晴美は思っているが、問題は別の事だ。
「また、明日……か」
千智の最後に言い残した言葉が晴美に耳に残っていた。
初めての部活動の日。
頭に知識を詰め込むだけ詰め込んで疲れに疲れたその帰りに、不可思議な導きと共に出会った一人の少女、琴坂千智。その少女に関わってしまったが故になんだか面倒な事になってしまった気がしてならなかった。けれども、『音楽魔法』を自覚して見る事が出来、拙いながらも誰かに見せる事が出来た日でもあった。
「これも、運命なのかな……」
松木の言葉を思い出して晴美は呟いた。
だが、そう呟きながらも、晴美はこんな数奇な運命は勘弁して欲しいとも思っていた。
「……早く、かえろ」
色々と複雑な思いを抱きつつ晴美は帰路についた。
沈んだ太陽もまた次の日には必ず昇りゆくと空の半月が言っているようだった。
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