1. CONVINCE MUGIC
静寂な空間に電子音が鳴り響く。
黒く四角いスクリーンに幾多の光点――ドットが並び、ひとつの世界を構築する。
スクリーンの淵を囲むような白い壁と天井。その壁から突き出ている二段の飛び台。画面の下には点線の床。点線の上には、シーソーを動かす棒人間のピエロと、そのシーソーの反動で宙を飛んでいる同じく棒人間のピエロの姿がある。
天井近くを、上から青、緑、黄の色に染められた風船が埋め尽くすように三列に舞っている。
それをピエロが割っては落ち、落ちてはもう一人が動かすシーソーを利用し、反動で宙を飛ぶ。その繰り返しだ。
ここはサーカス。
二人のピエロが織り成す命がけのゲーム、『サーカス』の会場だ。
幾多の電子音が鳴る最中、突如画面が一転した。
風船やシーソーが消え、<継続してプレイするには人をジャンプボードの空いている側へ移動させ、ボーナスジャンプの為に青い風船を全部割ってください>という内容の文章が英語で表示された。ごく簡単なゲームの説明だ。その下には、CREDITの文字と、数字の一、そして両手を挙げたピエロが映っていた。
やがて英文とCREDITの表示が消え、たどたどしいジングル――短いメロディが奏でられた。これからゲームが始まるという証だ。
スクリーン上に改めて三色の風船が舞い、シーソーに乗ったピエロも現れた。
左の一段目の飛び台にもピエロの姿が現れる。そして、助走をつけてピエロは飛んだ。
体勢を崩さず弧を描くジャンプをしたピエロ。それを見たもう一人のピエロが、落ち行くピエロを受け止めるべく落下地点へとシーソーを移動させる。
うまくシーソーへとピエロが着地し、バネが跳ねるような感じの音と共に、反対側に居たもう一人のピエロが飛んだ。同じく体勢を崩さないまま、高く宙を舞ったが、肝心の風船には届かず、そのまま落下していった。
その落ち行くピエロを移動させたシーソーの空いた側で受ける。
反動でもう片側のピエロが飛ぶ。より高くからの着地の反動により、風船に届くまでの勢いが付き、ついにピエロの体が風船に触れる。
パンという音と共に、ピエロに体当たりをされた風船は弾け、割れた。
弾けた風船に叩き返されたピエロをシーソーが移動して受け、もう一人のピエロがまた宙を飛ぶ。飛んだピエロが風船にぶつかり、風船が割れ、ピエロが弾き返される。
このルーチンを四度ほど繰り返したところで飛んでいたピエロが風船を割り損ね、あらぬ方向へと弾き飛ばされた。もう一人のピエロは状況を察し、急いで落ちるピエロを追いかけたが、シーソーの移動は間に合わず、ピエロはそのまま床に叩きつけられた。
断末魔と共に体が潰れ、横たわるピエロ。
彼を弔うかのように、ショパンの葬送行進曲が電子音で奏でられる。黒い画面と白の光点で構成された無情な世界に悲壮感を漂わせた。
音楽が鳴り終え、死んだピエロの姿が消えると、飛び台に変わりのピエロが姿を現した。
ピエロは何事も無かったかのように助走をつけ、ジャンプをした。
落ちるピエロをシーソーが受け、反動でもう一人のピエロが飛び、その飛んだピエロをまたシーソーが受ける。
ピエロが替わろうとも、やる事は何も変わらなかった。
偶然、飛んだピエロは漂う風船の列の間に入り込み、体が複数の風船にぶつかり、二個、四個と、一度に風船をまとめて割る事が出来た。風船の弾けた反動で、さらに他の風船にぶつかって弾けて反動が付き、ピエロの飛ぶ速さは増していった。
ピエロが落下したと思った瞬間に、もう一方のピエロがシーソーで受け止めた反動で、その勢いのままに風船の舞う高さまで飛んでいた。
またしてもピエロは風船と風船の隙間に入り、風船にぶつかっては弾かれ、ぶつかっては弾かれを繰り返し、一瞬の間に何個もの風船が姿を消した。
とある列の風船が全て消えた瞬間、ピエロの動きが止まり、BGMが鳴り響いた。
画面にはBONUSの文字と、数字が表示された。
BGMが終わると、風船が消えた列に新たな風船が出現し、ピエロたちもまた動きだした。
落ちるピエロ、受けるシーソー、飛ぶピエロ、割れる風船。時折、壁や風船にぶつかった慣性で体を回転させつつも、ピエロたちはまた同じルーチンを繰り返す。
そしてまたシーソーの受け止めが間に合わず、地面へとピエロは落ちた。
流れる葬送行進曲。
新たにピエロが現れ、飛ぶ。シーソーが動き、ピエロが飛び、風船が割れ、そしてまたピエロが落ちる。
変わらない、変わる事の無い、繰り返しの曲芸ショー。
規則正しい一定の間隔での行動はリズムであり、人に快感を与える。電車の音などが人に催眠効果を与えるように、ピエロたちの行為も一つの律動であり、心地よさを感じさせる。
飛ぶピエロに割れ行く風船、それらが映る画面に火花が見え始める。
風船が割れる度に激しく散る火花。
入り混じる効果音と音楽。
全てをまとめる単純な繰り返しのリズム。
何もかもが一つになっていく、一つの音楽になっていく。
風船の割れる音をかき消すかのように激しさを増す火花。
ピエロたち姿はまともに見られない。
火花の音と光が全てを包み、世界を埋め尽くしたその瞬間だった。
「……ふぇ?」
心ここにあらずと言った感じの寝ぼけ声を出し、ヘンテコな姿勢で晴美は目覚めた。
ベッドからずり落ちたらしく、足だけに布団がかぶさっており、着ていたパジャマも若干の乱れが見えた。そして、枕元には携帯ゲーム機があり、棒人間のピエロの二人がシーソーで風船を割るゲーム『サーカス』が画面に映っていた。
「ん……んぅ」
身体を起こし、晴美は背筋を伸ばした。
一息をつけ、寝ぼけ眼をこすりながら周りを見回す。
カーテンの隙間から太陽の光が差す、薄暗い部屋。ベッドの横のサイドテーブルの上で、目覚まし時計がどこか電話の着信音に似たアラーム音を鳴らしながら点滅していた。
「……ん、んっ」
晴美は手を伸ばし、時計の上部にあるスイッチを押し、アラームと点滅を止めた。
ぼんやりした頭で今の状況を理解する。
今居る所は自分――鈴野晴美の部屋。顔を見上げても天井に風船が飛んでおらず、床には動くシーソーがあったり、ピエロが居たりもしない。火花が散っていたり、何かが焦げたような後も無い。少し雰囲気は古臭いが、ごく普通の部屋だ。
どうやら先ほどまでの出来事は晴美の夢の中での体験だったようだ。
「……ヘンなユメを見ちゃったな」
そこに自分が居らず、ただ無機質な世界が映し出され、それが火花に埋もれ消えていく。そんな風に取れる直前の夢のオチを思い返し、晴美はぼそりと呟いた。
「あ……」
ふと枕元の携帯ゲーム機の電源が入りっぱなしだった事に晴美は気が付く。
おそらくは夜に布団の中で『サーカス』を繰り返し遊んでいたのが、そのうち眠気に負けて熟睡してしまい、目覚ましの音で起こされた……という所だろう。先ほどの夢のシナリオにはコレが深く関わっていたようだ。
「んと……」
携帯ゲーム機の電源を切ってから、晴美は窓の前に立ち、カーテンを開いた。
カシャッと心地よい音と共に、窓越しの太陽の光が晴美を眩しさで包んだ。
「んっ……」
西暦二○七八年のある日の朝。空は快晴、季節は春。
柔らかな日差しで照らされた風景が晴美の目に映る。と言っても、隣の家や道路が見えるだけだ。出歩いている人も、殆どが古来からの普通のスーツや洋服を着て歩いており、何か妙な全身スーツを着た人間が歩いていたり、UFOが飛んでいたりするのはあまり見かけない。
昭和から平成に移って数十年経っても、町並みが変わらない所は大きく変わらないように、昭和の終わりから百年程の未来と言えど、人の生活や町並みの印象はそう変わってはいない。もし変わっていたとしても、それは比較されないと変化には気が付かない。変わらない街は無いが、人も街も少しずつ変わっていく。その少しずつの最中に生きていれば、変わっている事に気が付く事は難しいだろう。
特にこの春日谷は首都圏とはいえ、あくまで四十七都道府県の内の一県の一市であり、晴美の家のように駅から大分離れた住宅街では、目に見えた変化には乏しい。それか変わっている部分を理解出来ず、気が付かないだけだ。
「ふぁ……」
あくびをしつつ、晴美は寝ぼけ眼のまま部屋を出た。そして部屋の外に並び揃えてあったスリッパを履き、パタパタと音を鳴らして洗面所へと向かった。
洗面所に着いた晴美は、まず顔を洗うことにした。
「んー……」
シンクに水を溜め、手ですくって、パシャパシャと音を立てて顔を洗う。
春先といえど水道の水はまだ冷たく感じる。しかし、その冷たさが晴美の眠気を飛ばす。
「ん……ん……ふぅ」
積み重ねてあるタオルの一枚を手に取り、顔を拭く晴美。
目の前の鏡を見ると、若干すっきりしたものの、乱れたボブカットの髪が、まだ寝床からの起き抜けですと自己紹介してるように思えた。
「……」
まだ少し眠たそうな自分の顔を鏡で見ながら、晴美は棚からブラシを取り出し、髪をとかすことにした。
いつものようにブラシを当て、髪をとかしていく。
わずかに跳ね上がっていたりしてぼさぼさだった髪が素直にまっすぐになっていくと、眠気まで消えていくかのように晴美は思えた。
納得できる程度に整った髪の自分の顔を見て、晴美は思わず笑みを浮かべた。使ったブラシを棚にしまうと、晴美はまたスリッパを鳴らしながら部屋へ戻っていった。
部屋に戻ると、パジャマを脱ぎ、学校の制服へと着替えた。
晴美が部屋の隅にある姿見を見ると、真新しいセーラー服を着た自分が居た。
張りのある制服をまとった姿は、まだしっくり来ている感じはなく、制服に着せられていると言う表現が似合っていた。晴美はそんな自分が映る姿見から目をそらし、脱ぎ捨てたパジャマと下着を手に持ち、部屋を後にした。
パタパタと廊下を歩き、窓からのやわらかい日差しを浴びながら晴美は階段へと向かった。
階段にたどり着くと、手すりを頼りにぱたんぱたんとスリッパの音を鳴らしながらリズミカルに一階へと降りていく。階段の上にある天窓からみえる空も、部屋から見た空と同じく、青かった。
一階に降り、またパタパタと音を立てて晴美は歩いていく。途中、脱衣洗面所へ洗濯物を置き、リビングへと向かう。廊下からリビングへの扉を開けると、テレビの音声が晴美の耳に入ってきた。
『……昨晩、火星に向け航行中だった宇宙船チャンピオン号の消息が突如として途絶え――』
ちらりと音声の聞こえた方――テレビを見ると、ニュースキャスターが手元の電子ペーパーを見ながら淡々と読み上げていた。
また宇宙でなんかあったんだ、と晴美は軽く思いつつリビングに入った。
世界中で紛争が起こっていても当事国ではない国で毎日を暮らしていく分には直接的には関係が無いように、たとえ二○七八年においても宇宙で起きた出来事は、地球で暮らす晴美には無関係の出来事に近かった。それでもニュースである以上はどこかで耳に入り、誰かしらが話題にすることもあるだろう。それに、わざわざ耳を塞いでまで聞かないという程でもなく、余程の事でなければ聞き流す、それだけのことだ。
「ふぁ……おはよ……」
不意のあくびに口元をおさえながら、晴美は朝の挨拶をした。
「ん? ああ、おはよう晴美」
リビングから繋がるダイニングのテーブルで、コーヒーをすすりながらテレビのニュースを見ていた晴美の父が声に気付き、挨拶を返した。
「ん……おかーさんは?」
「台所じゃないかな」
晴美がリビングとダイニングを見回しても居るのは父だけで、母の姿は無かった。
先ほどの洗面所にも居なかったようなので、父の言うように台所の方へ行ってみることにした。
「……おかーさん?」
掛かっているのれんを手でのけ、声をかけながら晴美は台所に入った。そこには、コーヒーカップを持ち、コーヒーを入れようとしていた母の姿があった。どこかに出かける予定でもあるのか、その顔にはうっすらと化粧が乗っていた。
「あ、おかーさん、おはよ」
「あら、晴美おはよう」
互いに姿を確認し、挨拶を返しあう母子。
化粧をしているといっても母は年齢的にもまだ若く、二人の背の高さが近い事もあって、親子というよりも姉妹のように見えなくもないが、晴美にとってどんな姿であっても母は母だ。
「おかーさん、朝ごはんは?」
母に今日の朝食について聞く晴美。というより朝食の催促だ。
わざわざ母親を探していたのも挨拶をする為よりも朝食の為だ。自分で作ったりしないのは、面倒だと思う気持ちもあるのだが、習慣や親への甘えの気持ちもあってのことだ。
「いつものでいい?」
カップを置き、晴美に尋ねながら冷蔵庫を開ける母。
「うん」
「じゃあ座って待ってなさい」
そう言いながら、母は冷蔵庫から卵とウインナーソーセージを出し、キッチンの上に置いた。
横に置かれた卵は転がることなく、キッチンに貼りついたように微動だにせずそこにあった。よくよく見ると、卵が触れている部分がわずかに発光している。キッチンに付属している落下防止機能が働いている証拠だ。いつからか当たり前になったが、誰もが原理も存在自体をも気にしていない、ごく当たり前のほんの小さな機能だ。
「はーい」
晴美は母の言葉に返事をして身をひるがえし、ダイニングへ戻っていった。
『また、宇宙時間十一日に発生した火星砂嵐における被害について当局は――』
ニュースをちら見しながら朝食が出来上がるのを待つ晴美。
テーブルの向かい側では、テレビのニュースを聞き流しつつ新聞を読んでいる父の姿がある。
新聞といっても、紙に刷られた古来の新聞ではなく、電子ペーパーによる新聞だ。
――この新聞に使われている電子ペーパーは、かつての新聞のように広げたり折り畳んだりする事が出来る為、見た目だけは昔の新聞そのままだ。しかし、デジタルな為に縮小や拡大、移動や回転、記事自体の表示切替も可能で、検索をするのも自由自在だ。ペーパー自体への表示だけでなく、空中に投影する事もできなくはないのだが、晴美の父にとっては電子ペーパー自体を持ちながら直接読むのが好みのようだ――。
ほどなくして、何かを炒める音が台所の方から聞こえてきた。それと共にウインナーの焼けた匂いも微かに漂ってきた。晴美の母が調理してくれているのだろう。
その匂いを嗅ぎ、晴美は思わず口元を少し緩ませた。胃も刺激されたのか、聞こえない程度に腹の虫も鳴いた。そんな晴美を見ながら、父は何かの錠剤を口にしていた。
人が生きていく為の栄養摂取の方法とはいえ、食事は人にとって楽しみな行為である事には違いない。それはどんな時代になっても変わらず、晴美にとっても同じだった。いま晴美の父が『食べている』ような超小型の完全総合栄養食も存在しているが、地球に住んでいる以上は、味や見栄えの面でも、やはり従来の食品が一番なようだ。
「……おとーさん、今日は朝たべないの?」
コーヒーしか飲んでないように見えた父に対し、晴美は問いかけた。
晴美も父が『そういうモノ』を食べているというのはわかってはいるのだが、やはりちゃんとした『食べる行為』とは認識し辛いようだ。
「いま食べたじゃないか」
「そうじゃなくて……」
空になった錠剤の包装を見せる父と、そう答えた父に対して少し顔をしかめる晴美。
「……ああ、ちょっと胃の調子が悪くてな」
歯切れの悪い晴美の言葉を察したように、もっともらしい相槌を返す父。
「だったらコーヒー止めればいいのに」
「飲まないとお父さんの朝が始まらないんだよ」
「もう……」
娘の声に返される父の曖昧な答え。
特に中身という中身の無い、ゆるやかな父と娘のやり取りだ。
「はい、おまたせ」
不意に晴美の横から母の声が聞こえた。同時に、コトリと音を立てて何かがテーブルに置かれた。どうやら晴美の母が朝食を持って来てくれたようだ。
晴美がテーブルの上を見ると、炒めたウインナーソーセージと卵焼き、そして炒めて味をつけたと思われる若干色付いたキャベツが盛られた皿があった。続いて、ほどほどの大きさの茶碗に盛られたご飯と箸が一膳、そしてチューブ状の容器に詰められたトマトケチャップが置かれた。
晴美は顔を上げ、母に一言ありがとうと礼を告げた。その際、母の手にある盆の上に先ほどのコーヒーの他にクラッカーと何かの小鉢が見えたが、多分それは母の朝食なんだろうと思った。父の『朝食』に比べると、まだ食としての体を成してはいるが、それでも分量としては軽めの朝食だ。
お父さんもあれくらいでいいから食べればいいのに、と思いながらも晴美は自らの空腹に耐えかね、用意された朝食に手をつける事にした。
まず、ケチャップを皿の上へと満遍なくかけた。量の程度で言えば、卵の上が一番多く、次いでウインナー、キャベツといったところだろうか。ケチャップをかけ終えると、蓋をして皿の脇に置き、右手の方に置かれていた茶碗を左手の方に持ってきてから箸を取り、いただきますと口にし、そのまま箸でウインナーを取って食べ始めた。
適度にもぐもぐと噛み、ご飯とおかずの味を程よく味わう晴美。食べる事が好きだからこそ、父にもちゃんとした食事を取るよう薦めたのでもあるだろう。
「ごちそうさま」
かけ過ぎたケチャップ以外の箸でつかめるものを全てを平らげると、晴美は箸を茶碗の上に揃えてから立ち上がった。そして、茶碗と皿を持って台所へと向かった。
流し場に持っていた箸と食器を置くと、またダイニングへと戻り、リビングの方へ足を進める。洗面所へ行き、歯を磨く為だ。
歯を磨くのなら起き抜けに顔を洗う時に一緒に洗えばよかったのかもしれないが、朝食後の口の中をスッキリさせたいという晴美の気持ち故にと、歯を磨いてすぐ汚れるくらいなら汚れた後に磨いた方がいいだろうとの横着さがあってのことだ。
「お皿洗ったの?」
晴美がリビングに向かおうとした所で母が呼び止めた。
「んーん」
立ち止まり、首を振って『やっていない』と晴美は答えた。
晴美の家には食器洗い機は無く、食器はスポンジと洗剤による手洗いで洗われている。
別に昭和の半ばから存在している食器洗い機が今の時代に売られていないというわけではないのだが、置き場所や使用頻度の関係で、多少手が荒れたりしようとも母は食器洗い機を買おうとは言い出さず、結局買わずに手洗いを続けている。
晴美自身は流石に食器すら洗えないほど家事が出来ないわけではなく、洗剤を使うと手が荒れるから嫌だとか、制服の袖が濡れたりしたら嫌だとか、思ったりもしない方ではあるのだが、『やってない』と答えたのは、ただ単に食器を洗う事自体が気が向かずにやらなかったというだけだ。つまり気まぐれである。
「もう中学生なんだから、たまには自分で洗うくらいしなさいよ」
「はーい」
毎度の事なのか、母は呆れたように言った。それに対して晴美は生返事をしただけで、パタパタと洗面所へと向かっていった。
洗面所と一言にいっても、鈴野家には二つの洗面所がある。晴美の部屋がある二階の廊下の端っこにある洗面台と、風呂場と繋がっている一階の脱衣洗面所だ。
二階の洗面所はトイレと近接して備え付けられている為、主に手を洗う時や、晴美が顔を洗ったように二階での洗顔に使われている。両方の洗面台は特別な機能があったりするわけではない、ごく普通の洗面台だ。自動的に洗顔をしてくれるような機能のついた洗面台なども在るにはあるのだが、洗顔自体にかかる時間やら、メンテやら、値段やら、その他もろもろの理由もあって、全ての家庭に有るようなものではない。
晴美が朝食前に洗濯物を置いてきた脱衣洗面所に着くと、まっすぐに洗面台へと向かった。
洗面台の前に立つと、当たり前だが鏡には制服姿の少女――自分が居た。自分の姿を確認すると、棚の方へ視線を向ける。棚の扉を開け、中から自分の歯ブラシを取り出した。
蛇口を捻り、水を出して、歯ブラシの毛の部分をぬらす。
適当なところで水を止め、ピッピッと歯ブラシを振って水を切り、別の段の棚から一つの缶を取り出した。晴美がその缶の蓋をあけると、中にはみっしりと粉が詰まっていた。『歯磨き粉』だ。
――大抵の場合、歯磨き粉と言えばチューブ状の容器に入れられたペーストの練り歯磨きを指すが、『歯磨き粉』の名前の通り、元々磨き粉は粉だったのだ。昭和三十年代半ば、西暦で言えば一九六○年ごろまではメジャーだった存在ではあるが、その辺りからチューブ式練り歯磨きに取って代わられ、名前だけが残った存在となった。しかし、商品である以上は製造されていれば存在が完全に消える事にはならない。二○七八年においても、ごく細々とながら製造されており、その証拠として晴美の手元にも存在している。望む者がいるからこそ物は存在するのであり、『歯磨き粉』についても少なからず望む者がいたからこそ、その声に製造会社が答えて、未だに製造が続いており、そこに現物として存在しているのだ。
懐古――レトロ趣味のある晴美にとって、この歯磨き粉を使う事は楽しみの一つであった。
古い漫画等でちらりと登場する事のある洗面所にある粉の入った缶。様々な情報やデバイスで氾濫する時代で、それが歯磨き粉だと言う答えを知るのは簡単だった。
つい先日、その事を調べているうちに、今でも製造されていて販売もされているのを知った時には、思わず親に購入を頼み込んだ程だ。値段自体は、安価な練り歯磨きとあまり変わらなかった為に、快く購入を認めてもらい、いま晴美の目の前にある缶がその注文して届いた歯磨き粉である――。
晴美は水を切り適度に水分が含まれた歯ブラシの毛先を缶の中の粉に付けた。
手首を返し、毛の水分により粉がくっついているのを確認すると、そのまま歯ブラシを口の中に入れ、歯磨きを開始した。
晴美自身、初めて粉の歯磨き粉を使う時は戸惑ったものだが、磨く事自体は練り歯磨きでやる事と何も変わらなかったので、今では当たり前のルーチンとなっている。
粉の状態から泡立たせるには、ほんの最初だけでもそれなりに意識して磨く必要があるので、口の中からシャカシャカと音が聞こえそうな程には満遍なく小刻みに磨いている。
晴美がこの歯磨き粉を使うまでは、歯磨きは適当に済ます事が多かったが、使って磨いているうちに、粉を付けて磨いて泡立たせる行為自体に心地よさを感じたのだ。その影響かはわからないが、今の所、晴美に虫歯は無い。
歯ブラシや歯磨き粉自体も、従来の電動式のものや、改良された液状のモノがあったり、自動的に磨くような機械もあったりはするのだが、歯医者や歯磨き粉のメーカー自体が『自分で磨く事で自分の歯の状態を理解できるので必要不可欠な行為である』等と言っており、コレにもその他もろもろの理由があって従来の歯ブラシを使う歯磨きが一般的な歯磨きの方法だ。
晴美は棚から自分のコップを取り、水を注いで口をすすいだ。
鏡を見て、口元に残る白い泡をふき取り、改めて鏡で自分の顔を見た。
「……うん」
白い跡の無い己の顔に納得し、晴美は頷いた。そして、歯ブラシ等の後始末をすると、洗面所を後にした。
そのまま学校に行こうと玄関に向かおうとしたところで、晴美は何かが足りない事に気がついた。
「あ、カバン……」
視線を落とし、空いた右手を見て晴美は呟いた。
起きて着替えたのはいいが、鞄の方はすっかり頭から抜けていたのだ。
多分、というよりは、きっと鞄は晴美の部屋に置かれたままだろう。
「ん……」
晴美は顔を上げ、少しだけ自らに対して気恥ずかしさを感じつつ、自分の部屋へと戻っていった。
「えーと、教科書と……ノートと……よし」
机の上に置いてあった学生鞄の中身を指を指して確認する晴美。
と言っても入っているのは、教科書用の電子ブック端末と電子ノート、それと普通の紙のノートと筆記用具ぐらいだ。
――教科書に使われている電子ブック端末は、定められたページ数だけ電子ペーパーを束ねた形で構成されていて、従来の紙の本の読み心地と電子ペーパーの利便性を兼ねているものだ。教科書を電子化していく過程で、従来の教科書との違いを感じさせない為の折り合いとして採用されたものが、そのまま使われ続け、今に至っている。この電子ブック端末には最初からデータが入ったまま渡されるわけではなく、入学後、端末を渡され、その時に通信してデータをダウンロードし、教科書として使えるようになる仕組みになっていた。学校に来る度に、どこかしらで生徒は学校側と通信する事になる為、もし何かしらの事情で教科書の内容が書き換わる事になっても即座に修正する事が可能だ。使い方としても、メニューから教科を選択して切り替える事が出来、授業中には強制的に教師側から表示する教科を選択する機能もあり、これによって特定の教科書を忘れるような事も少なくなり、読む教科書を間違って赤恥をかく児童や生徒も減っていた。バッテリーは無充電でも一年間は使えると言われていて、通信される度に充電される仕様となっているので、学校で使う分には余程の事でもなければそのまま使い続けられるようになっている――。
――ちなみに、晴美の小学校時代は、一教科ごとに一つの電子ブック端末が用意されていて、一つの端末で教科の切り替えをするような使い方は児童には許可されていなかった。何故そんな電子化の有用性を否定するような事が行われているのかと言うと、ランドセルメーカーが「電子化で今までのランドセルが売れなくなるからどうにかしてくれ」と訴えた為だとか、頭の固いお偉いさんが「児童にそれを許可すれば授業中に漫画でも読み始めかねない」と強制教科表示機能があるにも関わらずに言ったからだとか、諸説は多々あるが、理由はともかくとして未だに小学生が教科ごとに電子ブックを用意させられているのは事実だ。電子ブック端末自体も、技術の革新によって従来の紙の教科書とそう重さは変わらないのだが、複数の教科書を持たされる小学生の身には、その苦労もずっと変わっていない事になる。それと、小学校と中学校における電子ブック端末の仕様が違うように、小学校時代の端末を中学校でも使うような流用も出来ないようになっているのも現実だ。規定数のページで構成されているとはいえ、小中において教科書に割かれるページ数の差があるのも理由の一つであり、電子ペーパーを束ねる形式だからこそ故の物理的な問題でもある。
電子ノートも同様に、電子ペーパーを束ねたものが使われていて、教科ごとや用途ごとにデータを切り替えて使用できるのだが、小学生には教科ごとに用意させられる羽目になっていた。勿論、薄い端末一枚で作られていてページごとにデータを切り替えられる形式の電子端末や電子ノートも存在はしているのだが、それらが学校で使われていない理由も前述した教科書の事と同じく、つまらない慣例から来ているものだ――。
中学生になって、ようやく複数の電子ブックとノートを背負わされる苦労から開放された晴美だったが、セーラー服に着せられている状態のように、いざ軽くなった鞄には未だに慣れていなかった。だからというわけではないが、晴美の鞄の中には普通の紙のノート――俗に大学ノートと言われているものと筆記用具があった。
電子ペーパーが普及しているとはいえ、紙の媒体がすべて消えているわけではないように、紙の教科書やノートも未だに存在していて、購入する事も併用する事も可能だ。しかし、一般的に学校から配布される教科書は専用の電子ブック端末であり、紙の教科書は一般的に自費購入という形になっている。電子ノートも、データの通信や保存性、その他の利便性から学校側から使用する事を推奨されている。
その為、晴美の鞄のノートは授業や何かで使うわけではなく、あくまで晴美個人の趣味用としての大学ノートであり、中身もたいしたことは書かれていない。筆記用具も晴美が自分の手で削った鉛筆が筆箱に数本入れられており、少しでも昔からのものに触れていたいという気持ちからであった。
中身の確認を終え、鞄を閉める晴美。この鞄も昔ながらの皮製の学生鞄だ。
皆が皆必ずしもこの鞄を使わなくてはいけないという決まりも無く、様々な鞄を使う中で、晴美はあえてこの学生鞄を選んだ。あれこれと探す面倒臭さも多少はあったのだが、最大の理由はやはり個人的な好みと学生鞄への憧れからだ。少しでも遠い昔の事を追体験できる物を使っていたい。そんな思いがあっての選択だった。
そんな風にして選んだ鞄を手に持ち、晴美は部屋を後にした。
階段を降り、晴美はまっすぐ玄関へと向かった。
玄関に着くと、下駄箱の戸を開けて靴を取り出した。そして、スリッパから靴へと履き替えた。トントンと鳴らして足を馴染ませると、鞄を手に持ち玄関の扉のドアノブに手をかけた。
「あら、もう行くの?」
後ろからの声に晴美が振り向くと、母の姿があった。
「あ、うん、いってくるね」
「はい、いってらっしゃい」
返事をし、母の笑顔を背にして、晴美は玄関を出た。
外に出た瞬間、心地よい風が頬をなでた。
空を見上げても爽やかな青い空。季節は確かに春なんだ、と実感した。
門扉を開け、家の車庫にあるコンパクトで丸っこいデザインの軽自動車を横目に、コンクリートで舗装された道を、軽く肌触る上風に当たりつつ、てとてとと歩き出した。
――道路舗装にも幾多の方法が存在しているが、見栄えやコスト、耐久性等を考えた上でコンクリートで舗装されている事が多い。晴美が住んでいる周りでは、殆どがコンクリートで舗装されている。一応、大昔のSFで描写されたような、空に浮く車や、空中パイプ、空を飛んで移動する方法等の技術は実現されているが、それが普及するかとなると話はまた別だ。一から造るのならともかく、街は人が生活している中で少しずつ変わっていくものだ。既存の町並みが一瞬で変わるのはゲームの中ぐらいで、どんな街も変わらないようで変わっていて、変わっているようで変わらない部分もある。その他、工事予算やらコストやらの問題で、見た目的にはタイヤを付けた車両が主な交通手段として使われ続けてるのが、この二○七八年の現実だ――。
晴美の家からそれなりの時間を歩くと、目的の学校へたどり着く。
春日谷市立織登坂中学校。地名がそのまま付いた、ごく普通の共学校だ。
別に坂の上にあるのではないのだが、織登坂と言われている。この地名の由来は、その昔、織戸と登坂という地名があり、それが合併した時に合わさって出来た名前だと言う。晴美が小学生の時に、社会科の授業の時に調べた限りでは、図書館にある本やデータ、ネットでの検索結果でも大体がそんな由来だと記述されていた。一部のデータ――とある歴史学者は、紀元前からの由来を持つ名前という説を発表していたが、それは流石にトンデモ説だろうと大方否定されていた。
校門を抜け、ちらほらと登校する生徒らに混じりながら、晴美も昇降口へと向かった。
登校時間としては少し早かったが、周りにも同じように登校している生徒がいる限りは、問題はないだろうと晴美は自分で自分を納得させた。部活動で早くから登校している生徒がいるのだから、少しくらい早くても別に問題もないのだが、いざ周りに誰もいないと不安になるものだ。
昇降口に入り、一年生の下駄箱の方へと晴美は行く。
靴を脱ぎ、それを手に持ち、自分の名前がある棚を探す。
「えっと……」
晴美自身も一応覚えているつもりだが、やはり中々慣れないのもあって、つい忘れてしまう。
「……あ、あった」
自分の名前、『鈴野晴美』が書かれた名札が見つけ、その段の戸を開ける。中には何かしらの手紙だとか変なモノが入っていたりはせず、上履きが一足入っているだけだ。
手に持った靴と上履きを入れ替え、その上履きに履き替えると、晴美はそのまま教室へと向かった。
昇降玄関のある二階から階段を降り、一階へ行くと、右手の方に一年生の教室が並んでいる。それらのうち、もっとも階段に近い教室、一年一組が晴美の教室だ。
静かに教室の扉を開け、中に入ると、先に来ていた何人かが自習をしていたり、談笑している姿があった。特に挨拶などはせずに、晴美は自分の席へと向かった。
晴美が自分の机にたどり着くと、まず鞄から電子ブックの教科書と電子ノート、専用のペンを取り出し、椅子を引いて、机の中へとしまった。続いて、机の上に大学ノートとえび茶色に近い色をした軸の鉛筆の入った筆箱を机の上に並べた。
これで今日の一日の授業の準備は終わりだ。
中身を出した鞄を机の横に掛け、着席すると、晴美は大学ノートを広げた。中には、極端にデフォルメされた漫画的なイラスト、直線だけで構成された独特の字形の英数字、意味不明な言葉の羅列等、いわゆる落書きばかりが描かれていた。
ノートをめくり、何も書かれてないページまで行くと、晴美は鉛筆を一本取り出して構えるようにして手に持ち、ノートの罫線とにらめっこを開始した。
頭に浮かんだ事を空いている時間で適当にノートに描く事が日課みたいになっている晴美だが、その頭に何かが浮かぶまでには結構な時間がかかる事が多い。
晴美には、いつか漫画家になりたいという夢があった。その為にというわけではないが、ノートにあれこれ描いて描き溜めているわけだ。しかし、描かれているものに少しも統一性はなく、まさにガラクタ箱であり、よく言っても子供のおもちゃ箱という感じのバラエティに富んだ内容ではあった。
――人が楽しむ為の行為である娯楽は、どんな時代であっても形や品を変えては存在し続けている。漫画も同様だ。娯楽の媒体や形式も星の数ほど存在し、コンピュータによる分析などもあって、既に全てのパターンが使い尽くされたと言われる時代ではあるが、創作者と言われる人間はまだ消えていない。漫画家も同様だ。既にコンピュータによる自動的に作られた創作物が出回り、世界が回っているのも事実ではあるが、それでも創作物を評価するのが人間であるという最低限の条件がある限り、創作者としての人間も途絶えない。選ぶのは結局は人間であり、多くの人間が好む創作物を作れるのも人間の力があってこそだ。故に、漫画家という職業も二○七八年にも存在し続けている――。
そんな中での晴美の漫画家への夢は確かに夢ではあるが、とても淡く、漠然としたものだ。
自分のしたい事を表現する方法、いつか自分の思いつく事を何かの形で表現してみたい、それが今の晴美にとっての絵という表現方法であり、漫画という媒体であった。
だが、その方向性はまだハッキリとしていない。
描かれている絵からしても、最初のページの方にあった強いデフォルメの利いた絵もあれば、写実風に描かれたものもあり、記号と記号を組み合わせて絵らしく見せているだけのものもある。どれもこれも、晴美が自分の目から見る限りでは、そこそこ描けていたが、あくまでそこそこのレベルだ。沢山描いてはいるのだが、とある壁を越えられない。そんな悩みに気付き始めているのだが、晴美はそれを考えたくはなかった。だから今日も晴美は悩みを忘れる為に落書きを描くことに没頭する。
教室の中を見渡すと、ケータイや端末を弄ってネットを見たり、ゲームをする者や、電子書籍を読んだりしている者はいるが、わざわざ紙のノートに落書きをしているのは晴美ぐらいである。何かを書くにしても自前の電子ノートを使う事が多い中で、実にアナログな事だ。その為、晴美が時折奇異の目で見られることがあるのも確かだ。
だが、晴美自身はそんな視線は気にしない。気にならないよう世界を想像し、そこに入り込む。たとえ白と黒だけであっても、そこには壮大な世界がある。夢の『サーカス』のように。
長々と続いたノートとのにらめっこの末、ようやく鉛筆を持った晴美の手が動き始めた。
灰色の罫線が横並ぶ白の世界に黒い線が枠を作っていく。いわゆるコマ割りだ。世界の全体に枠が出来上がると、その中に何個もの丸が描かれていった。丸の中の十字、楕円の雲、大体の風景、丸の中の表情、輪郭、身体、世界は曖昧にながら少しずつ少しずつ形づいていく。しかし、途中でその構築は止まる。他の世界――ページのような、ちゃんとした形――イラストにはならず、あやふやで、ぼんやりとした世界。どうしても形にならなかった。
「……鈴野さん何してんの?」
「え? あ、わっ」
不意の問いかけに晴美は現実に呼び戻された。余計な声を気にしないよう、想像に入り込んでいたつもりだったが、いざ間近で声をかけられ、声をあげるほど驚いた。
振り向くと、クラスメイトの一人が机の方を興味深そうに見つめていた。あまり聞きなれぬ音を立てて机に向かって何かをしている姿が気になって仕方なかったのだろう。
「ね、何してたの?」
「あ、なんでもないの」
気安く声をかけてきたクラスメイトの視線を追うと、机の上のノートを見てる事に違いはなかった。晴美は思わずノートを手で隠したが、逆にそれが言葉とは裏腹に何かがある証明になっていた。
「ん、これ、漫画?」
晴美の手のひらでは隠し切れぬノートのページをジッと見て聞いてきた。
「……みたいなものかな」
照れくさく答える晴美。実際は漫画にもなっていない、ネームのようなものでしかないからこそ余計に恥ずかしかった。
「へえ、ちょっと見せて」
言うが間もなくサッとノートを取り上げ、パラパラとページをめくるクラスメイト。
「あ、ちょっと、あっ……」
「へー……ふ、ふーん……え……うん……ん……」
ページを進めるごとに、そのクラスメイトはどんどん複雑な表情になっていった。本当の落書きばかりであり、イラストの一つ一つならともかく、全体で見れば無作為に選んだ写真や画像を合わせてコラージュしたような感覚に陥る程の統一性の無さの為、反応に困って当然とも言えた。言葉で例えるなら何もかもが混沌の宇宙の融合といった所だ。
先ほどの描きかけのネームのページまで戻ってくると、パタンとノートを閉じ、机の上に静かに置いた。
「えーっと、その、私にはよくわからないけど、鈴野さんがんばって、じゃあ」
あまりのごっちゃな内容に対する言葉に困ったのか、歯切れの悪い言葉を残してクラスメイトはバツが悪そうに去っていった。
「あ……」
待って、と声をかけようとした所で丁度チャイムが鳴り始めた。もうそろそろ先生が来て、授業が始まる頃合だ。
「……また、やっちゃった」
スピーカーから鳴り響くチャイムの音に紛れ、晴美はぽつりと呟いた。
鈴野晴美、中学生となってまだ数日。中学校で出来た友達はまだ一人もいなかった。
それから晴美は何事もなく午前中の授業を受け、給食を食べ、午後の授業もこなし、ようやくSHR――ショートホームルーム、いわゆる帰りの会の時間となった。
「で……入るも入らないも自由だが、出来るだけ入ったほうが学校生活としても……」
担任の教師の声を聞きながら、晴美は配られた電子ペーパーのプリントに目を通していた。
紙の新聞が殆ど電子ペーパーに取って代わられた今日、学校においても古くは印刷から転じてプリントと言われていた紙への印刷物は少なくなっていた。
晴美が持つ電子ペーパーも慣例的にプリントと呼ばれており、見た目も一見しただけでは紙の用紙に印刷物である。だがよくよく見ると、端の縁の部分が透明になっており、紙との区別が容易となっていた。
ペーパーのプリントに表示されている内容は、部活動についてだ。
晴美が概要の部分を指で触ると、詳細が表示された。もっともその内容は、いま黒板の前で先生が話している内容とほぼ一緒だ。
その黒板も電子黒板となっており、何かしらの端末を利用する事により、席順による視認性の差もカバーされるようになっている。
一見すると何十年も変わっていないように見える教室ではあるが、その実質は別物だ。
「……というわけで、期日までにはちゃんと提出するように。……と、じゃあ日直」
話を切り終え、日直に号令を振る先生。
「はい。起立!」
日直の生徒の力強い声が教室中に響き渡る。その声に合わせ、立ち上がる生徒たち。もちろん晴美も合わせて立ち上がった。
「礼! ……先生さようなら!」
一同に頭を下げ、教壇に向かって挨拶をした。これで学校における儀式は終わりだ。
「んじゃ、みんなさよなら」
軽く挨拶を返して、先生は教室を去っていった。
「……ふぅ」
息をついて、晴美は一旦席に着いた。
そして、電子ペーパーのメニューを操作し、改めて配布されたデータの内容について確認した。
先生の話とペーパーの内容を要約すると、試しに部を体験できる仮入部期間の間に既にある部の中から入りたい部を選んで必要事項を書いて提出しろ、ということだ。一応の事は言え、それなりにかしこまった文章で書かれている。
「なあ、もうどっかに決めた?」
「オレはサッカー部。そっちは?」
「そうだなあ……」
教室内では、こんな会話がなされていたり、晴美のようにペーパーを片手に悩む者、既に必要事項を記入しオンラインで保護者の同意を得てデータを送信提出して電子ペーパーをゴミ箱に丸め捨てている者の姿もあった。
――電子ペーパーと一言に言っても、ただ入力・受信したデータを表示するだけではなく、今の教科書やノートで使われているように高機能で半永久的な使用を目的としたものもあれば、使い捨てを前提にした機能が限定されたものもある。学校のプリント配布として使われているのは、主に後者の方だ。見た目的にも紙のプリントと変わらなければ、処分方法も紙と変わりはない。リサイクル活動もされてはいるのだが、そんな事を気にせずに用が済めばゴミとしてそのまま捨てる人間も少なからず存在している――。
「んー……」
晴美は小さな声で唸りつつ、電子ペーパーを操作して部の一覧を見ていた。
運動系の部はどこも似たり寄ったりで、特に目立った成績を残したりはしていないようだ。写真や動画を添えたりして楽しそうな雰囲気を見せてアピールはしていた。
文科系の部はそれぞれ志向を凝らした紹介がされていて、生徒や卒業生の作品が公開されている部や、部活動に関連する有名人や歴史上の偉人について紹介している部もあった。
程度で言えば双方とも同じようなものではあるが、晴美にとっては文科系の方が気になっていた。
「んー……」
大体の部について詳細を見たものの、特にと言うほど入りたいと思えるような所は無かった。漫画部があれば晴美はそこに決めていたのだろうが、織登坂中学にそういう部は存在していなかった。一応、美術部はあるのだが、まず漫画を描くような事はしないだろう。だからこそ、晴美はどうするか迷いに迷っていた。
「んー……あれ?」
空中投影された部の一覧を指でスライドして上下に行ったり来たりしているうちに、晴美は妙なことに気がついた。一番下の欄に妙な空白があると思いきや、よくよく見ると何かのテキスト、文字らしきものが書かれているようだった。それこそ、かなり拡大しないと気がつかない程に小さなサイズでだ。一見するとただのコンマ、ドットか何かのようだが、それは確かに小さな文字だった。
「これって……」
晴美は、その部分を拡大する操作をして、その文字らしき部分を拡大表示させた。
何とか文字である事はわかるサイズにはなったが、それでもまだ文字が潰れていて何が書かれているかはわからない。さらにその部分の拡大を繰り返した。
何度か拡大をし、ようやく何が書かれているのがわかるようになったが、ロクな活動内容の説明もなく、ただ『音研』という字と、教室の名前が書かれていただけだった。
「……おんけん?」
素っ気無いどころか、逆に存在自体を隠そうとしているような部らしきもの。普通ならそのまま無視してしまうかもしれないが、それが晴美の興味を引いた。
「えーと……」
表示を拡大したままの電子ペーパーを片手に、晴美は謎の『音研』について校内を捜し歩いていた。
もしかしたら誰かのハッキングによるイタズラではないかとも思ったが、わざわざセキュリティの強固な学校の、それも部活動入部についての届のデータを弄るほど暇な人間もいないだろう。それに、データの間違いだったとしても、即座に修正されるであろうし、電子化によって即時性が出来たからこそ公共機関におけるチェックの目は厳しくなっている為、何かしらのミスという事もありえないはずだ。
教室を後にして、いわゆる理科室や音楽室等の特別教室が並ぶ校舎までやってきていた晴美だが、目的である教室はまだ見つからなかった
「コンピューター室……」
ペーパーに書かれていた教室の名前を呟きながら歩き回る晴美。他の部の場合はちゃんと部室の場所への行き方や、部活動見学の場所等も地図を含めて書かれていたというのに、『音研』の場合は、『第二校舎 コンピューター室』としか書かれていなかった。その校舎にまでやってきたものの、何階の何処にあるかが分からず。、校舎のどこかにあると信じて教室を探し回っていた。
――そもそも、コンピューター室という特別教室自体が、二○七八年における児童や生徒たちには、殆ど縁の無い教室であった。様々な情報端末が存在し、既にコンピュータ自体が当たり前になっている時代だ。従来のプログラミングの授業等も、普通の教室で使い捨ての電子ペーパーを使い、電子ペーパー自体をキーボードに見立て、必要な情報は投影表示してデータを打ち込むような方式で行われていたりしている。授業を終えたらデータを学校側に保存し終えたらそのままペーパー回収する事が多いが、そのままペーパーを捨てて終わり、という事も可能だ。そういう意味では紙の蔵書が山ほどある図書室以上に無用の長物と言っても過言ではなかった。晴美が通っていた小学校のように、最初から『コンピューター室』が無い学校も存在しているのだが、結構古くから在る織登坂中学の場合は、学校に残り続けていたようだ――。
「んー……」
中学校の校舎はそんなにも広いものでないのだが、当ての無い探し物をしている晴美には限りなく広い迷宮のように感じていた。流石に妖怪や幽霊が出たりはしてないが、自分ひとりで歩いていると、大昔のロールプレイングゲームやアドベンチャーゲームを思い出して仕方が無かった。もっとも、今の晴美に逃げる為のゲームオーバーもなければヒントすらも無かった。
――階段を登って一つの階に出ると、晴美はそこをひととおり眺めまわした。
しかしそこに目当ての教室は見つからない。見つかれば楽なのだが、見つからない。
それらしい教室を見つけたら、実際に確認しなければわからない。
で、見つからなかったら廊下を歩いていく。
まだ何も知らない校内という暗雲を突き破って行くと、そこにはまた新たな階が拡がる。その迷宮は晴美には見るもの何もが新しく、少し言いすぎではあるかもしれないが、新鮮で刺激に溢れ、情感を揺り動かされ、学校ってこんな所だったんだと驚かされた。
そして、ひとわたり眺めると、細部にわたってくまなく教室があるか探した。
しかしそこに目当ての教室は見つからない。見つければ楽なのだが、見つからないのだ。
で、見つからなかったら廊下を歩いていく。
それでまた暗雲を突き破って行くと、そこにまた新たな未知の迷宮が拡がる。
繰り返し、晴美はその迷宮への階段を登ってゆく――。
「……あ、あった」
校舎の一階から教室を順々に探し、ようやく最後となる四階の廊下の一番奥に、その教室はあった。教室の入り口上部に掲げられている表示札に書かれた『コンピューター室』の文字が確かにそこが晴美が探していた教室である事を証明していた。
思えば、地図のデータを何かで手に入れるか、先生か誰かに行き方を聞けばよかったのかもしれないが、晴美にはそこまで頭は回らなかった。妙に気にかかって、それを確かめたいという気持ちが先走ってしまったからだ。
何とか目的地である教室に着いたものの、本当にここでいいのかと晴美は思った。確かに電子ペーパーを見ると、コンピューター室とは書かれているが、大雑把な場所が書かれていただけだ。一緒に書かれている以上は何かしら関係はあるのだろうが、もしかしたら何の関係も無い可能性だってある。あまりの静けさが晴美にそんな不安を募らせた。
「えっと、失礼します……」
晴美は思い切って教室に入ることにした。思い切ったつもりだったが、小さな声でゆっくりと扉を開けた。引き戸である為にカラカラと小さく音が鳴った。
「わ……」
教室の中を見た晴美は、小さいながらも思わず感嘆の声をあげた。
そこには、今となってはあまり見られなくなった形式のPC――パーソナルコンピュータが所狭しと並んでいたのだ。かつてはマイコンと言われていたような代物を含め、博物館でしか見られないような物の実物がそこにあったのだ。
――情報端末が進化して、コンピューター室が無用になってはいるが、いわゆるパーソナルコンピューター自体が消えたわけではない。あくまで学校の授業では使われなくなったというだけだ。そんな風になったのは、子供たちの授業の怠け、いわゆるサボる事への抑制だと言われている。授業でコンピュータを使う際に、全ての児童や生徒がちゃんと授業を受けるとは限らず、授業中にネットやゲームで遊んでいる者がいる為に使用を中止したいが、電子化による有用性はなくしたくはない、という折り合いの流れで電子ペーパー利用による情報授業が行われるようになったと言われている。流れとは一つの出来事だけで決まるわけではなく、幾多の理由があっての事だろうが、原因の一つであることには違いないはずだ――。
とにかく、二○七八年にもPCはあるのだが、データの互換はともかく、PCの構成自体は何十年も前とは別物だ。
それらのPCとも思えないPCと違い、まだ自作PCなどと言ってパーツを買ってきてはパズルのように組み合わせてシステムを物理ドライブにインストールして起動していた頃のPCの山が今、晴美の目の前にあった。
ネットの中で、そういうPCを所持していると思われる人達の写真やデータを何度となく閲覧したことはあったが、それらの実物を見るのは初めてであった。
引き寄せられるように晴美は教室に足を踏み入れた。
「ふわ……」
中に入り、いざ教室を見回すと、古いPCが並んでいたのは入り口付近、教室の後ろの方だけで、教室の前の方はどちらかといえば音楽室みたいな雰囲気があった。奇妙ではあったが、どこかしら調和が取れているように思えた。
そして、晴美にはどこかでこんな風な雰囲気を感じた覚えがあった。
「あ……」
ふと、教室の奥の方に誰かが居るのが見えた。
何か知っているかもしれないと思い、晴美は、その誰かの居るところへ足を進ませた。
「あの……。ここって『音研』の……」
PCの影からひょっこりと顔を出し、尋ねかけた所で、晴美の言葉が止まった。
「ん?」
「……あ、先生」
そこには、晴美の担任。一年一組の担任教師、松木の姿があった。
「ん? ああ。たしか鈴野、だったな……」
晴美に気がつくと、頭を軽くかきながら松木は訊いてきた。
やる気のなさそうに見える表情は、確かに晴美が教室で見ている松木のものと同じであった。
「あ、はい」
「どうした? 部活の届用紙でも無くしたのか?」
不思議そうに聞いてくる松木。
電子ペーパーが当たり前になってはいるが、実際にも慣例的にプリントや用紙などと言われている事も多く、松木の発言もそんな慣例からだ。
「いえ、そうじゃなくて……」
松木の問いかけを否定するように、手に持っていた電子ペーパーを松木に見せる晴美。
「この『音研』って、ここでいいんですか?」
拡大されている文字の部分を指して晴美は尋ねた。
「ああ、そうだよ」
少しの間を空け、松木は答えた。そして晴美に微笑み、こう言った。
「ようこそ、音楽魔法研究コンピューター部へ」
「え、おんがく……まほう?」
松木の唐突な言葉に、晴美は自分の耳を疑った。
魔法。常人には不可能な物事を実現する神秘的な力を示す言葉だ。フィクションの物語や、ゲーム等では馴染み深い言葉ではあるが、現実ではまず言われる事の少ない言葉。それを友達との会話等ではなく、学校の先生から聞く事になるとは晴美も思いもしなかった。
「そう、音楽魔法研究コンピューター部。略して音研だ」
唖然としている晴美に、言葉を繰り返す松木。
どうやら晴美の聞き間違いではなく、本当にそういう名前の部らしかった。
『音研』が、このコンピューター室を部室にしているらしい事はわかったが、まだ晴美にはわからない事があった。だから晴美は心の中の疑問を素直に尋ねる事にした。
「……あの、いくつか質問していいですか?」
「ああ、どうぞ」
何でも答えるよ、と言わんばかりの調子の松木。
先ほどまでのやる気の無さそうな表情がどこかに消えたかのようだった。
「……なんでそんな名前なんですか?」
「名前?」
「はい、何でそんな部の名前なんですか」
一つ目の疑問。部の名前についてだ。
音楽魔法という突拍子も無い名前の上に、何故コンピューターなんて単語がくっついているのか。もし晴美でなくとも気になる事だろう。略された名前でも謎であったが、正式名称を聞いた今、謎はより深まっていた。
「ああ、この名前はいろいろあってね……」
懐かしむように、松木は遠くを見ながら語りだした。
「元々は理科研究とかの科学部を兼ねたコンピューター部だったんだ。それで、ある日この学校の先生の一人が音楽魔法の部を作りたいと言ってね、まず同好会から作ろうって話にはなったんだけど、許可はされなかった。そもそも、うちの学校は私立じゃなくて公立だからね、面倒が増えるのは御免だったんだろう。それで、当時の学校で既にある部でやれという話になってね、活動内容が最も近い部がコンピューター部で、当時から活動も乏しかったからというのもあって、そこに同居させてもらう形で出来たのがこの音研なんだ。だからメインはあくまでコンピュータ関係の部ってわけだ」
「はぁ……詳しいんですね、先生」
事細かな説明に感心したように晴美は言った。
「そりゃ母校の事だからね」
「え?」
「と言っても、先生も又聞きなんだけどね。先生の先生、昔の音研の顧問の先生から聞いた話だけど、間違いは無いはずだ」
「へ、じゃあ先生は……」
「そ。織登坂中学卒業生で、音研OB。今はこの音研顧問。あ、OBってわかるか?」
「あ、それは大丈夫です」
「そうかそうか」
楽しそうに話し、にこやかに笑う松木の表情とは裏腹に、晴美の内心は気持ちの整理が追いつかなかった。部の成り立ちもそうだが、先生が先輩でもあったという意外な事に妙な気分になっていた。
「それで、もう一つ聞いてもいいですか?」
「ん、なんだ?」
「その『音楽魔法』って何なんですか?」
二つ目の疑問。
文字通り『音楽』と『魔法』の二つの単語を合わせた言葉である事は分かるのだが、その言葉自体は晴美にとって初めて聞く言葉だった。
「それは……ちょっと長くなるけど、鈴野はいいか?」
時計をちらりと見て、松木は返事を聞いてきた。
「はい、かまわないです」
まだどこかの部に入ると決めているわけでもなく、帰ってもやる事と言えば宿題とゲームくらいで、晴美としては別に時間は関係なかった。
「どこから話せばいいのかな……。えーと、鈴野は『YMO』ってバンド知ってるかな?」
「え……」
晴美はまたしても自分の耳を疑った。
知らないはずはなかった。
YMO。かつて一世を風靡し、直接・間接的なゲーム音楽への関与を含め、多くのアーティストに影響を与えた伝説。
流石に過大評価かもしれないが、晴美の中のYMOの認識はそうなっていた。
「正式名称はイエロー・マ……」
「は、はい! もちろん知ってます! わかります!」
松木の声を遮るように、上ずった声で答える晴美。いや、叫んだと言ってもいい。
急な表情の変化に、松木からすれば変なスイッチでも入ったかのように見えただろう。
「あ、いや、知ってるならいいんだ、知ってるなら」
突然興奮した晴美を、両手を前に出してなだめる松木。
「……あ、すみません」
どうにか落ち着き、松木に思わず謝る晴美。流石に自分でも興奮しすぎだとは思った。
「いやいや。それだけ思い入れあるなら分かりやすいかもしれないからな」
咳払いをし、松木は話を再開した。
「えっと、鈴野はYMOを知っているなら『イエローマジック』のコンセプトも知っているかな?」
「あ、はい。今から百年くらい前に言われた、白魔術でも黒魔術でもない、黄色人種……つまり、日本人独自の音楽を作ろうとした考えですよね。『ティン・パン・アレー』でも使われてて、『教授』のアルバムでも触れられている……」
自分が知っている範囲で答える晴美。
その知識の大半はネット検索で出てきたWebページを見たものだが、ティン・パン・アレーの曲、『イエロー・マジック・カーニバル』も聴き、『教授』のアルバムである『千のナイフ』もYMOでのカバーの原曲として抑えていた。
「そう、正解だ。だけど、それは当時の時代背景での日本人的なコンプレックスもあってのコンセプトだ。でも、本当に良いものは国も人種も関係なく世界を変える。多かれ少なかれ、そうして世界は互いに影響されて変わってきたんだ。古くはビートルズみたいに……って、鈴野わかるか?」
「はい、わかります」
YMOを知っている晴美ならビートルズも知らないはずは無かった。
ビートルズ。言葉どおりに音楽と世界を変え、歴史に名を残すイギリスのバンドだ。晴美の学校の音楽の教科書データにも曲が載っている程に音楽自体は人々に刷り込まれてはいるが、その名前自体を覚えているものは数少ない。もしビートルズがいなければ歴史はどうなっていただろう、と言う位には、ジャンルを超えた幾千幾万の人間に影響を与えた存在だ。YMOも何曲かビートルズの曲をカバーしており、晴美はその流れでビートルズを知った口だ。
「……で、今や音楽は国どころか星すらも超越できるかもしれない。それはメッセージであり、魔法なんだ。人種を超える、白魔術でも黒魔術でもない魔法、それが黄色魔術――イエローマジックの概念であり、どちらかに偏る事がありつつも、どちらでもないからこそ両方の概念を持ち合わせているのが黄色魔術と言われる魔法であり、音楽である。つまり、『イエローマジック』のコンセプトを元に生まれた考えが音楽魔法……MUGICなんだ」
「……えっと、つまり音楽自体が魔法だってことですか?」
松木の長い説明を掻い摘むと、晴美の言った通りになる。晴美が何とか話を理解できたのは、小説や漫画を読んでは空想し、不思議な何かを想像する事に長けていたからかもしれない。
「そう、その通りだ。ただ、それに気付いている人は少ないし、気付こうする人も少ない。むしろ今の時代だと否定する人間の方が多いかもしれない」
「そう言われてみれば……」
松木の言葉に、晴美は考えさせられた。
言われてみればそうなのだが、話を聞くまで音楽は音楽であり、魔法だなんて事は微塵にも思いもしなかった。そして、松木の言ったイエローマジックの流れにある『音楽魔法』の考えを聞いた事によって、頭の中で何かが浮かび、思い出されるような気がした。
「……やっぱり一度見せた方がよさそうだね」
松木はそう言うと、椅子から立ち上がり、右手でサッと横一文字に空を切った。
「へ?」
目の前で突然妙な事をした松木を見て、何事かと晴美は思った。
だが、その疑問はすぐさま新たな驚きで上書きされる事になった。
「わ……」
松木が手を動かした所に光点が浮かんだかと思うと、その光点が増えて光の線となり、その光線がさらに伸びては分岐していき、光の箱……一つの長方形が作られた。
空中に浮かぶ細長い光の箱に松木の手が触れると、太古のCG――コンピュータグラフィックスの描写の過程の如く、箱の表面に光点や光線が複雑に浮かんでは、形を構築していった。
晴美が見た限りで言うならば、ワイヤーフレームのキーボードが目の前に現れた、と言うべきだろうか。まるで古いSF映画か何かを見ているかのように晴美は思えた。
「せ、先生これは……」
理解の追いつかない晴美に対し、松木は微笑みながら一言ささやいた。
「魔法だよ」
「魔法……」
目を丸くしている晴美を前にして、松木はキーボードのスイッチらしきものに触れると、手馴れたような手つきで光のキーボードをいじり、操作を始めた。
松木の操作に合わせ、機械のランプのように光るキーボードの一部。
見た目だけでは、ただの投影映像のように思えただろうが、確かにキーボードは宙に浮かびながらもそこに存在していた。
「……ん」
ふと晴美は妙な感覚を覚えた。肌を何かに撫でられたような、何とも言えない感覚。
「風……?」
それは確かに風が吹いている時と同じ感覚だった。
室内の……それも、窓の閉まった部屋の中で、風が吹くなどありえない事だ。
しかし、晴美の耳に聞こえるか細い声のような音は風の音に違いなかった。
不可思議な風の音に混じり、どこからともなく地響きのような音の連なり……旋律が晴美の耳に伝わってきた。そのメロディに晴美は聞き覚えがあった。
いや、知らないはずはなかった。
東風――TONG POO。別名、YELLOW MAGIC。
『教授』が作曲した曲であり、晴美がYMOのファンになる切っ掛けになった曲だ。
『東風』のメロディが奏でられていくと共に、そこに世界が構築されていくかの如く、晴美にとっては見た事も無い情景が、教室と入れ替わるように映し出されていった。
目に映る風景は、初めて見る所だったが、晴美には何故かそれが何処の風景だかが理解できた。感じられた、といった方が正しいかもしれない。
その風景はユーラシア大陸の東の果ての国、中国の遠い昔の風景だった。
もしかしたら、本当の中国ではないのかもしれないが、晴美には見えている風景はかつての中国だと確かに思えた。
広大かつ神秘的な情緒を漂わせる大地。
それらに少しずつ入り乱れるのは、光点で創られた世界――コンピューターゲームの画面。
晴美にも見覚えのある『サーカス』や『インベーダー』に混じり、大道芸人のジャグリングや飛び交う宇宙船などの様々な世界が脈絡も無く、そこに映り出ては消え、奇妙に絡み合っていた。相反するとも思える物同士だが、その絡みは不思議な和を生み出していた。
旋律と共に移り変わる風景に、晴美は気持ちを処理するのが追いつけず、呆然と立ちすくんでいた。それと同時に、脳裏にかつての思い出が浮かび上がってきた。
祖父母の家でなんとなく聴きはじめたCD。
おどおどしい曲調と共に、暗がりの中に居る自分に気付いた。
沢山の人が集まった時の熱気、匂い、声援、そして、YMOの音楽。
何もかもが初めてだった。
CDの再生が終わると、大観衆の武道館ではなく、祖父の家の部屋の中に戻っていた。
とても不思議な事だと思った。
だけど、その時はそれ以上うまく表現する言葉が思い浮かばなかった。
残ったのは、遠い過去でありながら未来を感じさせたYMOへの憧れだった。
この憧れを追いかけていれば、また見られるかもしれない、そう思った。
しかし、そんな体験をしたのはそれっきりだった。
だからぼんやりと忘れていってしまったのかもしれない。
あれから暫く経った。
そして今、晴美はようやくかつての不思議な体験の正体を見つけた。
東の風、YELLOW MAGIC――TONG POO。
風が運ぶ匂いが晴美の埋もれかけていた記憶を蘇らせてくれた。
そう、あの時自分はこれと同じことを体験したんだ、と。
「……どうだ、わかったかい鈴野。これが音楽魔法だ」
演奏を終え、キーボードから手を離した松木は少し自信ありげに晴美に問いかける。
既に周りの風景は元の学校の教室に戻っており、先ほどまでの様子は跡形も無い。
「……」
だが、当の晴美は上の空で、遠くを見つめていた。
「おい鈴野?」
「……え、あ、先生……」
松木が目の前で手を振って、ようやく晴美は気が付き、現実へと戻ってきた。
「まったく……。ま、これでどういうものか解ってくれたみたいだな」
「はい……」
どことなく上機嫌な松木とは対照的に、晴美は沈んだような顔をしていた。
晴美の心の中で不安と葛藤が生まれていたからだ。
今、自分は音楽魔法を知り、それを今体験した。
そして、かつての自分はそれと同じ事を経験していた。
だけど、それは本当に同じ事なのだろうか、と。
もしかしたら、二つの繋がりは晴美による勝手な思い込みなのかもしれないからだ。
自分が昔に経験した事はCDを聴いて見たモノだ。
しかし、今さっき経験した事は、松木によるキーボードの演奏による結果だった。
同じ音楽を通して見たモノではあるが、そこに演奏者である本人が居るか居ないかの違いがある。
もし、音楽魔法が演奏する人間が居なければ駄目なものであれば、昔見たものは本当にただの幻のだったのだろうか、と。
もし幻なら、何故あんなものを見る事ができたのか、と。
そして、それらの事を今、松木に聞いてみるべきなのか、と晴美は思い悩んでいた。
晴美は顔を上げ、じっと松木の顔を見た。もし聞くにしても、どう切り出せばいいのか、うまく言葉が考え付かなかった。
「……ん、どうした鈴野」
視線に気が付き、晴美に問う松木。
「え、あ、えっと、あの……」
松木の問いかけに中々言葉が出てこず、晴美は思わずしどろもどろになる。
「ん」
そんな晴美を見ながら、松木は微笑んでいた。
落ち着くまで待っていると言わんばかりに、じっと晴美の顔を見つめていた。
「……あ」
動揺する中で、不意に晴美は松木と目が合い、言葉の無い言葉に落ち着かされた気分になった。そして同時に決心した。思い切ってこの教室に入ったから音楽魔法の事を知る事が出来たんだ、だからまた思い切って、先生に聞こう、と。
「……先生!」
「うわっ!」
晴美は勇気を出して大声を上げた。
流石にぼそぼそと喋っていた少女が急に大きな声を上げては松木も驚くしかなかった。
「先生、音楽魔法ってCDからでも使えるんですか!」
キーボードに手を置き、身を乗り出すようにして松木に尋ねる……というより迫る晴美。
「え、いや、鈴野?」
突然の事に松木も戸惑うばかりだ。
「先生! 教えてください!」
ぐいっと顔を近づける晴美。伝わっているか否かも考えずに、ただ勢いで聞く事に意識が先走っていた。
「あ、ああ、わかったから、まずは落ち着いてくれ鈴野」
「あ……す、すいません」
「いや、別にいいけどね」
松木の言葉に晴美は冷静になり、身を引いた。
つい勢いで触ってしまったワイヤーフレームのキーボードだが、それはちゃんとそこに存在し、プラスチックか何かのような感触もあった。これも魔法だと松木は言ったが、どこまでが魔法なのか、それを晴美は今から聞こうとしているのだ。
「じゃあ改めて、教えてください先生」
「ん、なんだい?」
落ち着いて質問をする晴美。
それに答える松木も落ち着いていて、なんだかんだで教師としての風格が感じられる。
「先生は音楽魔法を見せてくれました。だけど、それはこのキーボードを使わないと見せられないんですか?」
ちらりとキーボードを見て、晴美はそれを指した。
「いや、そんな事はないよ。言っただろう、音楽自体が魔法なんだって」
そう言うと、松木が最初にキーボードを出した時のように右手を横に切ると、蒸発でもするかのように、キーボードは跡形も無くスッと姿を消した。
「あっ……」
「魔法とは言ったけど、このキーボード自体はコレで出していただけだよ」
晴美の驚きの間もなく、松木は袖をまくって右手首を見せるように突き出した。そこには、腕時計のようなものがあった。
「え……と、それ、時計ですか?」
思った事をそのままに言う晴美。
見た目からしても、晴美が知る限りでは時計としか思えなかった。
「半分正解ってとこかな。これはFRウォッチと言って……ま、スイッチの切り替えでデータを投影するオモチャってところだよ」
松木は右腕を胸元に寄せ、その腕時計――FRウォッチを操作した。かすかに電子音が鳴ると共に、空中に先ほどまでのキーボードが小さく……縮小されて現れた。
「勿論データといっても、さっきのようにちゃんと鳴らす事も可能だ」
空中のキーボードに松木が触ると、確かに音が鳴った。
「で、こんな風に消す事も出来る」
松木が手を高く上げ、指をパチンと鳴らすと、今さっき空中に投影されていたキーボードは姿を消した。
「原理はともかくとして、これが今の魔法の種明かしさ」
「はぁ……」
生返事を返す晴美。FR――融合現実技術の事は知らない事もなかったのだが、街中などで見るような実物と全く変わりないようなものがパッと現れたのではなく、少し時間をかけてワイヤーフレームで形が構成されていった古臭い描写過程から、ついつい雰囲気に飲まれてしまい、魔法か何かのような不思議な事だと思ってしまったのだろう。
どうやら、あのキーボードは特に関係ないらしかった。しかし、それだけではまだ聞き足りない。まだわからない事がある。
「それじゃ、その……音楽魔法は生演奏じゃなくても見られるんですか?」
「……見られる?」
晴美の新たな質問に、疑問符を浮かべる松木。
言い方が悪かったのか、言葉が足らなかったのか、うまく意味が伝わらなかったようだ。
「はい。たとえばCD……データ化された音楽でも、ああいう風景を見られるんでしょうか」
もう少し具体的に聞く晴美。
晴美はどうしても知りたかった。たとえ無関係であったとしても、今ここであの時の真実への架け橋になる言葉が聞きたかったのだ。
「だから言っただろう、音楽自体がそうだって。音楽魔法は送り手もそうだけど、受け手の魔法でもある。つまり、誰しもが持っている力なんだ。そうでなければさっきのようにキーボードやコンピュータを使った音楽で音楽魔法を名乗ったりはしていない。たとえ全てが機械仕掛けであっても、聞く側に、人間にその力があれば魔法となる。音楽に込められたテーマ、情景を見させる力。それを目覚めさせるのが、その音楽魔法という概念なんだ」
晴美の疑問に答える松木。何も知らなければ適当な事を言っているようにも思えるが、先ほどの体験と照らし合わせると嘘を言ってるようには思えなかった。
確かに晴美があの時見たのは音楽魔法だったのだ。
松木の言葉で自信を持ったのか、晴美はこう切り出した。
「……わたし、見たんです」
手を胸に置き、少し俯いている晴美の姿はどこか神妙だった。
「見た?」
「はい。わたし、小学生の頃にYMOの散開ライブを見たんです。動画とか、そこから作られた3Dデータでなく、自分の目で見て、自分の体で感じました」
「夢とかそういうのじゃなくてかい?」
「間違いありません。あの時は信じられなかったけど、先生の話を聞いて確信しました。わたしはCDを通して本当にYMOのライブを体験したんです」
かつて見た情景を思い出しながら、さっきの『東風』を聴いていた時に重なった思いを元に、晴美は語った。
淡い夢を見ている中で探していたものをようやく見つけられそうなのだ。
「そのことは他の誰かにも?」
「小学校に入ったばかりの頃の事だったんで……。祖父母も両親もそういう遊びか何かかと思ったんじゃないかと思います」
「んー、つまり鈴野には音楽魔法と出会う運命だったわけだ」
晴美の今までの言葉を聞き、冗談のように松木は言った。
「運命……」
だが、晴美にとっては冗談でもなく、本気に思えていた。
殆ど忘れかけていた記憶を今日思い出したのも、ただの偶然じゃないはずだ。
たとえ、偶然だとしても、この重なった偶然は必要なものであり、何かの導きに違いない。今の晴美にはそう感じられたのだ。
「……音楽、魔法」
晴美はぼそりと呟いた。
その呟きはとても小さく、聞こえるかどうかというほどの小さな点のような声だった。
だが、小さな点も点同士が結びついていけば一つの世界が構築される。光点が組み合わさって生まれた世界――コンピューターゲームのように。
「先生……」
小さな点であっても、それらが重なっていけば一つの繋がりが生まれる。
そんな風に今、ここに新たな繋がりが生まれようとしていた。
「ん……?」
神妙そうな晴美の様子に気が付き、また何かあるのかと松木は身構える。
「……松木先生、お願いがあります」
俯いていた顔を上げ、晴美は松木に目を合わせるようにして言った。
「わたしを……音研に入部させて下さい」
晴美は自分が言うべきだと思った事を松木にぶつけた。
今、自分がやらなければいけないと思った事をそのまま言葉にし、松木に伝えようとした。
「そうか、じゃあ用紙に名前を記入して……」
しかし、それに対する松木の反応は淡々としたものだ。
「あ、いえ、それは後でちゃんとやりますけど……」
松木の反応に、少し出鼻を挫かれた気分になる晴美。
もう少し劇的な返答を期待していたのだが、流されたような返事に勢いをそがれてしまった。
だが、晴美は何とか言葉を続けた。
「その、わたしは顧問である松木先生にちゃんと承知してもらいたくてお願いしてるんです。……わたしは音楽の事は何もわかりません。学校の授業で習ったくらいしかわかりません。だけど、音楽魔法をやってみたいんです。やってみたいと思ったんです。先生が見せてくれた音楽魔法、あれが昔からわたしがずっと探していたものかもしれないんです。それを自分で知りたいんです。だから、わたしを入部させて下さい!」
全てを言い切ると、晴美はペコリと松木に対して頭を下げた。
晴美の言った事は、晴美が今思っている事、晴美の体のうちにある思いの全てだった。
何もない、それでも想いだけは、意気込みだけはそこにあった。
そんな晴美を見て、松木はあっさりと答えた。
「ああ、いいよ。もちろん大歓迎だ」
微笑みながらも淡々と言った松木のその言葉は、晴美にはとても重々しいものだった。
「……あ、ありがとうございます!」
松木の返事を聞き、腰を戻した晴美だったが、またしても頭を下げた。
「そもそも先生が断れるわけじゃないんだけどね、ちゃんと届出さないとダメだし」
「いえ、それでもありがとうございます」
またしても晴美はペコリと頭を下げた。礼儀正しいというよりは、気弱な故の条件反射みたいなものだろうが、感謝している事は本当だった。
「いやいや。じゃあ、早いうちに済まそうか、入部手続き」
「あ、はい」
松木の言うがままに、晴美は机の上に置かれていた電子ペーパーを手に取り、慣れた手付きで操作を開始した。
入りたい部を選択し、それを指定の枠の中へドラッグ――タップしたままスライドする。部の名前をペンで記入してもいいのだが、晴美には『音研』と略して書いていいのか、それとも正式名称をちゃんと書かなければ分からなかった為、楽で確実な方法を選択したのだ。
枠内に部の名前が表示され、認証が確認された証明であるチェックマークが表示された。ちなみに、『音研(音楽魔法研究コンピューター部)』と表示されており、どう書いても問題は無いようだった。
「えっと……」
持ってきていた鞄の中から晴美は電子ペーパー用のペンを取り出した。
そして迷い無く、名前、住所、連絡先、と必要事項をサラサラと記入していく。
必要事項の際も、生体認証などで簡単に一括入力するような方法もあることにはあるのだが、学校の、それも部活動の入部届に使われてる電子ペーパーのグレードには、そんな機能は存在していない。記入部分の大半は児童や生徒たちに任されている。それでも、古来の学校での手続きに比べれば楽になった方だ。
「あとは、と……」
晴美が自分で書く必要のある部分は全て書き終え、後は保護者の同意を得るだけだ。
晴美と同じクラスの中で既に届けを終えた生徒がいたように、わざわざ自宅に持ち帰らずとも、ネットを通じてオンラインで即座に承認できるようになっている。もちろん、セキュリティについても今のところ問題は起きていない。
「……いるかな」
確かにオンラインで即座に相手と連絡はできても、その相手が仕事や作業をしていれば出られなかったりするのは昔からの電話等と同じだ。
どれだけ科学や技術が発展しようともプライバシーの侵害までは許されるものではない。
そんな理由もあって、人と人との繋がりの垣根を埋めてはいるが、人が人であるが故に生まれるすれ違いを完全に埋める手段は未だに存在していない。
「あれ……」
電子ペーパーにうっすらと表示された『応答なし』の文字を見て晴美は小さく落胆の声をあげた。そういえば母は外出していたかもしれない事を思い出し、仕事中であろう父の事を想っても仕方ないかなと思った。
「……あの先生」
「いいっていいって」
申し訳なさそうな顔をする晴美を見て、気にしてないと松木は答えた。
「今日中に済ませれば楽だったってだけで、別にかまわないよ」
松木は急がせたのが悪かったと思い、晴美を宥めるかのように言った。
「すいません」
その言葉に対し、軽く詫びる晴美。どうにも性格上言わずにはいられないようだ。
「じゃあコレ持って帰って見てもらうことにします」
晴美は、最後の項目以外埋まっている電子ペーパーを松木に見せるように持つと、ペーパーを折り畳んでから鞄の中に仕舞った。
「ああ、楽しみは先延ばしにした方がいいからね」
松木は微笑んで言う。この松木の言葉も晴美の性格を考えた上での言葉なのかもしれない。
「あ……」
ふと晴美が壁にかかっていた時計を見ると、思っていたよりも時間が過ぎていた。
帰宅する頃には空はうっすらと紅く染まっているであろう時間だ。
「えっと、それじゃわたしはこの辺で……」
鞄を手に持ち、松木に向かって晴美は帰宅の意図を告げる。
「ん。ああ、長々と引き止めて悪かったね」
その言葉と共に、松木はまた少しやる気のなさそうな顔に戻っていた。
「あ、いえ。それでは失礼します」
晴美は特にその事は気にならず、そのままお辞儀をしてから教室を後にした。
「……ふぅ」
戸の閉まる音を聞いて、松木は一息をついた。
「今日のあの演奏はあんなにも……。……まさか本当に運命なのかもしれないな」
そして、自ら言った一言と、その言った相手に対して思いを馳せていた。
呟く松木の視線は遠くを見ながらも、その口元は笑みが浮かんでいた。
「鈴野晴美、か……」
携帯ゲーム機のスピーカーからゲーム開始のジングルが流れる。
画面の中では二人のピエロがシーソーの反動で空を飛んでは上空に流れる風船を割ろうと躍起になっているマッドな状況が映し出されている。
転落死したピエロの断末魔が流れ、続いて奏でられる葬送行進曲。尚も続く狂気のアクロバットを演じさせているのは、一人の少女の指先だ。
「んっ……ん、んっ……!」
ベッドの上で横になり、無意識に声を出して晴美は携帯ゲーム機を弄くっている。必死になって指先を動かすが、加速の付いたピエロの落下にシーソーが間に合わない。そしてまたスピーカーから断末魔と葬送行進曲が流れた。
「んー……」
プレイを続けながら晴美は顔をしかめる。晴美は所謂レトロゲームが好きではあるが、腕前の方はあまり上手ではない。いわゆるシューティングゲームでは慣れの問題もあって、そこそこ良いパイロットではいられるのだが、あくまでそこそこ程度だ。
もっとも、今遊んでいる『サーカス』はコンピューターゲームとしてもかなり難しい部類に入るのだが、プレイ時間が続かないのは自分自身の腕前の問題だと晴美は思っていた。
だからこそ暇があれば携帯ゲーム機で遊んでいるのだが、未だ腕前は上達していない。
だが今日は運がいいのか、ようやく慣れてきたのか、二人のピエロが死んだ今のところはミスは無い。もう一人のピエロが死ねばゲームオーバーという背水の陣だからこその集中力故にだろうか、ピエロたちのリレーは未だに途切れない。
「……あー」
突然、晴美が妙な声を上げる。携帯ゲーム機の画面はまたしてもピエロが転落死した状況が映し出されていた。うっかり操作を誤り、またしてもピエロが断末魔を上げたのだ。
最後の葬送行進曲が流れると、画面が切り替わり、ゲームオーバーの文字が表示された。
「あーあ……」
落胆の声と共に晴美はベッドから身体を起こした。
手に持っていた携帯ゲーム機を枕元に置くと、自分の机に向かって椅子に座り、机の上に設置してあるPCのスイッチを押した。
スイッチを入れた瞬間にディスプレイが投影表示され、少しごちゃついたデスクトップが映し出された。
晴美は机の隅によけてあったマウスとキーボードを目の前に置くと、慣れた手付きでマウスを操作していった。PCという存在自体もそうではあるが、この二つの入力装置も幾分時代遅れの代物だ。しかし、晴美の好みもあって、売っている場所を見つけ、購入して実用に至っているわけだ。
検索エンジンのサイトを開き、検索単語をキーボードで入力する。
『音楽魔法』。
一瞬で星の数もある検索結果が表示された。しかし、晴美が求める情報が載ったサイトはどこにも見つからなかった。
「ふぅ……」
ため息をついて、晴美は机の横に置いてあった鞄の中から電子ペーパーを取り出した。手に持って流し見ると、部活入部の保護者……父の同意の印と、『音楽魔法研究コンピューター部』の文字が目に入った。
そして誰かにぼやくかのように呟いた。
「音楽魔法、かぁ……」
あの後、学校から帰宅した晴美は、家族が皆揃ったところで電子ペーパーを見せて部活動の事を伝え、入部の同意を貰った。部活自体については特に何も言われなかった。『晴美が入ると決めたのならそれでいいじゃないか』という父の言葉に全てなのかもしれなかった。母も同意してくれた以上は晴美も何も言う事は無かった。
だが、入ると決めた部についての情報を事前に知っておきたいと思い、ネットで探してみたものの、何処にも松木先生が説明してくれたような事が載っていないというのが現在の状況だ。
どれだけ科学が発展しようともネットが情報の全てじゃない事は晴美も一応はわかっている。それでも、ネットの宇宙でなら何かしらの事が載っていると思っていたが、世の中やはり甘くはなかったようだ。
「……ふぁ」
不意に口を大きく開き、あくびをする晴美。
そういえば今何時かと思って晴美が時計を見ると、普段寝床に入っている時間はとっくに過ぎていた。それなら眠くもなって当然だ。
「んー……寝よ」
晴美は自分に言い聞かせるように呟いてから、PCの電源を落とした。
起動時と同じように一瞬でPCの電源は切れた。
それを確認すると、マウスとキーボードを元あったように机の端によけて、つい先ほど取り出した電子ペーパーを鞄にちゃんと仕舞ってからベッドへと潜り込んだ。
「音楽……魔法……」
ブツブツと呟きながら晴美はベッドの中で考えられる限り『音楽魔法』の事について考えた。とはいっても、眠さで頭の回らない中で思いつく事はあまり無く、せいぜい『魔法だからどこにも情報が無いのかな』という推測くらいだった。
そうして晴美は眠りへと落ちていった。
窓の外の空に浮かぶ三日月は何も言わず、ただ夜闇を照らすだけだった。
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