第4話 禁忌
「あ……?」
一瞬の間。そしてそれは遅れてやってきた。
「――ッ! あがああああぁぁああ!」
――イタイイタイイタイイタイイタイイタイッ!
右眼にほとばしる激痛。今まで感じたことも想像すらしたことのない痛みと恐怖が襲う。
「ギャハハハハハハ! いいねえいいねえ、その顔最高だぜぇ! ギャハハハハハ!」
狂ったように嗤い続ける男は、痛みに悶える俺を待つはずもなく、ナイフの刃先を向けながら歩を進める。
「ああ、ああああ……! う、うわあああああ!」
今までどこか遠くにあるように感じていたはずなのに、突然目の前に現れた死。
死はすぐそばにあるということを身に染みて感じた俺にとって、その目の痛みは恐怖を助長させ、発狂させるのに充分すぎた。
逃げる。地べたに這い蹲り、土を抉り、草をむしり、涙と唾液と血液をその土に喰わせながら必死に逃げる。痛い、熱い、助けてくれと喚き散らしながら縋り付くように逃げる。縋っても縋っても、助けてくれるものは存在しないことに気づきもしないまま。
ある時、何かが頭にぶつかった。うつ伏せだった俺は、衝撃で顔が地面と衝突する。口の中いっぱいに土の味が拡がった。
硬いものがすぐ横に転がる。アタッシュケースだった。男が面白がって俺に投げつけたのだ。
再び逃げようと伸ばした手に何かが触れた。硬い木の幹が、行く手を塞いでいたのだ。
「ざあんねんでした〜! そこは通行止め。お客様専用の入り口へはこちらからで〜す!」
と、自分が手に持ったナイフを舐め、親指で首を切る男。俺は顔を青ざめさせ、少しずつ木に向かって後ずさる。そして――
「死ねぇ!」
その一突きは、躊躇いなく俺の首筋へ伸びていく——。
右眼がとんでもなく熱い。
俺は今まで骨折ぐらいしか大怪我といえることをしたことがなかった。当時は幼稚園児だったっけ。同い年の子とぶつかっただけで左鎖骨が折れた。めちゃくちゃ痛くて大泣きした記憶がある。
小学生ぐらいの記憶から先が受験勉強時にほとんど歴史人物に変わってしまったが、あの時のことだけはいまだに覚えている。
だが、今感じている痛みはその記憶を凌駕する。
頭が真っ白になり、ただ痛みに耐えることしかできない。
右側が欠けた視界にナイフを持った男が近づいてくるのが見えた。
(死ぬのか……俺)
迫り来る死。俺は覚悟を決めた。
だが人間は、自分が危険な状況に陥った時、本性が現れる。
――死んでいいのか、俺は? まだ、親孝行してないぞ。俺自身まだやりたいこと、やり残したことがある。というか、そもそもなんで俺は死にそうなんだ?
腹の奥底からドス黒いナニカが湧き上がってくる。
脳内を、黒い靄のかかった記憶が駆け巡った。人のような影が俺の目の前に立っている。その人が俺を包み込んで——すぐに消えてしまった。
――なぜオレが死ぬ? オレが何をしたと?
疑問。死ということに対する様々な疑問が、脳内を埋め尽くす。
――死んでたまるか。こんなところで死ねないのだ。そうだ、オレの眼を殺ったコイツを殺そう。殺さなければ殺されるのだから。
脳が弾けた。牢屋を縛る鎖が一本千切れ、ゴトリと床に落ちた。
迫り来る死の刃。オレはすぐ横に落ちていたアタッシュケースを盾にしてガードする。横に受け流し、空いた男の腹を蹴りつつ起き上がり、そのまま森へ消える。想像以上に男が後方に吹っ飛んだ気がするが、そんなことを気にしている余裕は無い。
「——ッチ!」
後ろからザクザクと地面を踏みしめる音が聞こえてくる。ちゃんと追ってきているな。
オレは逃げ続けた。いつもより体が軽い。今度は気のせいでは無く、ハッキリと自覚した。先ほどの蹴りもそうだが、よく力が入るのだ。
(今なら何でも出来る気がする)
普段なら気味が悪くなるような傲慢な考えも、不思議と今は受け入れることができた。
幸いなことにここは森だ。隠れる場所は沢山ある。
ある瞬間を選び、オレは手に持ったアタッシュケースとナップサックをそれぞれ別の方向へぶん投げ、同時にオレも隠れた。ミスディレクションという奴だ。
男は一度に2箇所から物音が聞こえたので困惑している様子だ。それはそうだろう。今、男の心中には最低でも2人の敵が潜んでいるのだから。ちなみに、オレが隠れている場所は男からそう遠くない。木と茂みの隙間に身を潜めている。精神が乱れているときは自分の近くに意識が向きにくいとかそんなことを聞いた覚えがあった。灯台下暗しという奴だな。
男はようやく目標を定め、そちらに体を向けた。
「クソッ、手間かけさせやがって」
しかし、残念なことにそっちはオレのアタッシュケース君である。さらに言えば、オレが隠れている場所と逆位置だ。つまり、オレに背を向けたのだ。
(今だっ!)
オレは茂みの陰から飛び出して、銃を構えた。突然の背後からの物音に敏感に反応した男は、驚愕の表情で振り返った。だが、もう遅い。
(頼むぜM92!)
「——ッ!?」
練習通りにトリガーを引き、死の弾丸が銃身から放たれた。それは男に掠りもせず、明後日の方向へと消えた。見事に外したのだ。
——まあいい。元より当たればラッキー程度の射撃だ。本命はこれじゃない。
男は突如迫った死に対して、ビビったのかは定かでないが呆けた面を晒した。人間は死の直前は頭が空っぽになるらしい。
隙ができた。ここで決める。
手は先程の射撃の反動で、痺れて動かなくなった。でも、別に決めるのは手じゃなくてもいい。オレにはまだ足が残っている。
「ラアアアアッ!」
一気に距離を詰め、オレは男に全力で前蹴りを放った。
「ガハッ……アァ」
反応が遅れた男は、その蹴りをモロに食らって吐血する。男の胸に深々と突き刺さった足を引き抜けば、そこから血が溢れてきた。足先にはベットリと血液が付着している。内臓を守る肋骨の間隙を抜けたナイフは、噴き出た鮮血でその刃を濡らし、赤く輝いた。
先程の茂みに隠れているときに、足先に包帯でナイフを括り付けておいたのだ。応急セットの中に包帯が入っていてよかった。
地に倒れ伏した男を見下ろしながら、大きく息を吐いた。緊張が解けて、今にも倒れそうになってしまう。
「終わっ……た……?」
『報告。二人目の脱落者がでたよ。残り八人だ。まだまだ頑張ってねー』
俺は初めて、自分の意思で人殺しという禁忌を犯した。
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