第8話「ゴーラのハサン」
そこは小さくて平凡な村だった。
見た感じは裕福さとは無縁なごく平凡な村だったが、近くには清水が流れ、おそらくは新鮮な魚がとれることだろう。
村の外れには、その清水のおかげで畑では作物が実っていた。その畑の向こう側には森が広がり、男たちが猟などで動物を狩ってくるということもされているようだ。今まさに何人かの若い男たちが仕留めた動物を抱えて、森から帰って来るところであった。
ゴーラの村───
そう、ここはあの美食のザールによって食べられてしまった、あの憐れな商人の故郷だった。
「おかえりなさーい!!」
大きな声を上げて男の子が駆け寄ってきた。
くるくるっとした大きな目が印象的な、わんぱくそうな少年だ。
年のころは10歳くらいといったところか。
「おお、ハサンか」
立派な角の生えた鹿を担ぎ上げている屈強な男が、破顔して少年に声をかけた。
「母さんは元気になったか?」
「うん、今日はずいぶんといいみたいだよ」
「そうか」
すると、ウサギを何匹か抱えていた男が、
「バルは遅いよな。もう町から帰ってきてもいい頃なのに」
「シッ!」
ハサンの怯えたような目に、男たちは表情を曇らせた。
「父さん……ぼくにいいもの買ってきてくれるって言ってた……」
「…………」
「きっと、弓矢だと思う。だって、父さん、ぼくがおじさんたちみたいな猟師になってくれたらいいって言ってたから……でもぼく…」
ハサンは言いにくそうにしていたが、決心したように言った。
「ぼく……剣士になりたいんだ。いつか魔法の塔に行って、魔法剣士の修行して、この村を魔族から守りたい」
「何をバカなことを言ってるのっ」
「母さんっ!!」
ハサンが振りかえると、そこには一人の女が立っていた。ほっそりとした肢体、落ち窪んだ目、村女にしては品の漂う女だ。顔形も整っていて、息子のハサンはどうやら父親よりこの母親に似たらしい。大きな目がそっくりだ。
「リリア、寝てなくていいのか?」
「大丈夫よ、今日はだいぶ具合がいいの」
リリア───ハサンの母である。
彼女は自分の息子を悲しげな目で見つめ、
「ハサン、あなたはお父さんが言うように猟師になればいいの。お願いだから剣士になるなどというバカなことは言わないで」
「…………」
だが、ハサンは不服そうな表情で黙っていた。
「ハサン?」
「母さんにはぼく気持ちなんかわかんないんだっ!」
彼はそう叫ぶと、だっとその場を駆け出した。
「ハサン!!」
背中に母の声が響く。
しかし、彼は足を止めることなく森の中へと走っていった。
「で、この近くにあるのね」
「そうだ。しばらく前に泊めてもらった」
そのゴーラの村近くまでやってきたシモラーシャたち一行。
そんな彼らが、もうしわけ程度に草が刈られた細い道を一列に歩いていたところ、先頭を歩いていたシモラーシャにドシンとぶつかってきたものがあった。
「あいたたたっ!」
シモラーシャはそう叫ぶと、ぶつかってきた小さなものを両手で掴んだ。
それはハサンだった。
母親の元から駆け出して、しばらく走っていたところを、その村に向かってきた彼らと遭遇したのだった。
「ご、ごめんなさい…」
ハサンの目は涙に濡れていた。
シモラーシャはそれを見て何か思ったらしいのだが、それについては何も言わず、「どうしたのかなー。誰かとケンカでもした?」 と声をかける。
それに対してハサンは力なく首を振る。すると、彼はシモラーシャの肩に背負われた大剣を見つけ目を丸くした。
「お姉さん、もしかして剣士なの?」
「ああ…」
シモラーシャは得意げな表情になった。
「そうよ。あたしはこの世で一番強い剣士なの」
「………」
ハサンの目が尊敬の眼差しに変わる。見詰め合う二人。男女ではあるが、そこに恋愛感情はない。当たり前だ。だが、その二人に割って入ったのはマリーである。大人気ない。
「はいはい、坊や。ところで君はもしかしたらゴーラの村の住人なのかなあ?」
そのマリーをむすーっとした目で見やるシモラーシャ。マリーはそんなことにはおかまいなしに話を続ける。
「できれば僕たちをその村まで連れて行ってくれるといいんだけど」
と、そのとき。
「む…」
少し離れた所に立っていたサイードの表情が険しくなった。それにすぐに気付いたマリーは「シモラーシャ」と声をかける。
「ん、わかってる…」
そんな彼らを不安そうな目で見上げるハサン。それに気付いた彼女が言った。
「大丈夫よ。ねえ、君ってなんて名前?」
「ハサン」
「そっか、ハサンか。じゃあ、ハサン、ちょっとあっちの木の陰に隠れててくれない?」
「う、うん…」
ハサンが隠れるのを確認するとシモラーシャはすっくと立ち上がる。
それだけで周りの空気がピンと張り詰めた。
先程までの腑抜けた感じの彼女ではない。
その表情を見て、マリーは矢張りシモンの転生体だなと思った。吐き気がするほどにシモンらしい表情。正義は我にありというその表情が、マリーはとてつもなく嫌いだったのだ。
次の瞬間、音もなく空中から現れたのはあの人食い上級魔族のザールだった。
空間がゆらりと揺れたかと思ったとたん、滲み出るように現れた彼は「おや?」という表情を見せた。その様子はとても凶悪な魔族には見えない。とりあえずいい男でもあるので、一瞬シモラーシャの顔がにへらとなる。その顔を見たマリーはむすっとした顔をする。
「おやおや、人の匂いがするから飛んできてみたら……」
ザールはサイードに目を留めた。おもしろそうなものを見つけたと言いたげに目を大きく見開いた。
「驚いたな、兄さんじゃないか」
「ザール……」
「どんな顔に化けてもすぐわかるよ。匂いでね」
彼はそう言うと目を閉じて匂いをかぐようにくんくんしてみせた。
サイードはゆっくりとザールに近づいていく。それをじっと見つめるマリー。だが、シモラーシャは黙ってはいられなかった。
「ちょっと、あんたでしょ」
ずずいとザールに向かって身を乗り出して叫ぶ。
怒りに頬を染めた彼女を、思わず美しいとマリーは思ってしまった。だが、それほど彼女の怒りに燃える表情は美しかった。さすが太陽の女神とまで言われた人物である。もっとも、それは過去の彼女のことであり、しかも、それはシモラーシャ自身のことではなかったのだが。
すると、ザールは彼女に目を向ける。その目がさらに大きくなり「太陽の……」と言いかけた。
「!」
思わずマリーの顔が険しくなる。だが、それらを打ち消す彼女の声が響き渡る。
「あんたでしょ、あたしの両親を食べちゃった上級魔族って!」
「え…?」
ザールは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに得心がいったという表情に戻った。
「なるほど、君は彼女の……そうか、そうだったのか……」
そう呟く彼は激しく怒る彼女に向かってこう答えた。
「君の今の名前は?」
「シモラーシャ! それがどうした?」
「……名前に覚えがある。そうか、僕は彼女の両親を食してしまったのか。だがまあそれはしょうがない。ただの人間なのだからな。僕の食料には違いないのだから」
「なんですってぇぇぇ?」
ザールの呟きを聞きつけて、さらに怒りに火がつく。
「魔族だろうが神だろうが人間だろうが同じだってことあんたらにはわからないの? バッカじゃないの? なんであんたらはそんなにバカぞろいなのよ!」
猛獣のように吠えまくるシモラーシャをザールは面白そうな表情で見つめる。
「そうだよ。君の言うとおりだ。僕らと君らは同じ。だから、僕は君らが食事をするように僕も食事をするわけだ。その食材が僕は人間だったってだけ。だって僕は人間以外は食べられない身体なんだもの。別に好きで人間を食べてるわけじゃない」
「ならば何故だ?」
黙って聞いていたサイードが言い放つ。
「何故だ。何故、俺の元から離れた」
「………」
ザールは黙ったままだ。
その様子をシモラーシャとマリーはじっと見詰める。
「お前は人間を食べたいわけではない。それはわかっていた。だからこそ、人間を食べるしかないお前を憐れに思って下さったラスカル様が、お前にも他の者と同じ食事ができるようにと神器を作って下さったではないか。だが、それをお前のために調理できるのは俺だけだった。それなのにお前は俺のもとから離れてしまった。それは何故だ?」
「わからなければそれでいい。僕は何も言うつもりはない。僕は人が食べたいんだよ。ただそれだけなんだよ」
「ザール…」
「兄さん…どうして僕らはこんな生物なんだろうね。人は動物や植物など自分たちの種族じゃないものを食べて生きてるのに、どうして僕らは自分たちと違う種族を食べてるだけで迫害されるのか。どうして人間を食べてはいけないのか。僕には理解できなかった。神に禁じられたことは、自分の存在意義を否定されたと同じことだった。僕はね、どうしても納得できなかったんだよ。どうして人間を食べてはいけないのかが。だから、僕は自分の存在意義として人を食べていこうと決めたんだ」
「そんな勝手な…」
彼の言葉に思わず呟くシモラーシャ。すると、ザールは彼女の言葉をさえぎった。
「勝手だなんて言われたくない!」
彼女を見つめる瞳には憎しみの色が濃く出ている。
「僕はこんなふうでありたくはなかったよ。人間たちとまったく変わらぬ容姿を持っているのに、ただ不死身で人を食すというだけで迫害を受けるだなんて。僕は絶望したんだよ、すべてに。だから好きに食べて食べて……誰かに…」
言葉は続かなかった。彼は言い過ぎたとでも思っただろうか。唇を噛んで黙り込んでしまった。
「…………」
そのザールの口上を黙って聞いていたマリーはまるで自分の気持ちを代弁したかのような彼の言葉に複雑な思いを抱いた。
(そうだ。僕だってこうでありたくなかった。そんなことはいつも感じていたことだ。どうしてちょっと他人と違うというだけで迫害されなければならないのか。そういつも感じていたことだった。だが…)
何故だろう。マリーは正直に己の気持ちを話すザールに嫌悪感を抱いていた。自分がそう思い込んでいた時は、自分のその気持ちが真っ当で、誰かの諌める言葉が不当だと感じたものだったが、こんなふうに他人がまったく自分と同じ気持ちを吐露しているのを聞くと、吐きそうなくらいに嫌悪してしまう。
「あんた、ほんとーにバカだよ」
「!」
シモラーシャの言葉に、ザールのみならず、マリーまで驚きのまなざしを向けた。だが、マリーは黙っていたが、ザールは黙ってはいなかった。
「僕のどこが馬鹿だって?」
「バカにバカって言っただけよ。ほんとあんたってばバカ」
ザールは怒りに顔を赤くしている。そんな彼に向かってシモラーシャは続ける。
「絶望? それって何? どうして絶望なんてするの? あたしにはわからないわよ、そんなもの。たかが他人に拒絶されただけですべてに絶望だなんて。しかも、すべての他人に拒絶されたわけでもないくせに」
「黙れ! 誰も受け入れてはくれなかったじゃないか!」
「いたじゃん。一人。あんたの兄ちゃん」
「う………」
ザールは言葉に詰まってしまった。
「どんなに誰からも拒絶されたとしても、たった一人でも自分を受け入れてくれるとしたら、その人は幸せなのよ。そんなこともわからないバカだって、あたしは言ってんの。確かに、世界のどこかにはまったく誰一人自分を受け入れてくれない存在もいるのかもしれない。けど、あたしはそんな奴一度だって会ったことないよ。教えてほしいくらいだわ。そんな希少価値のある存在。どんな存在でもね、いるはずなのよ、その人をどんな存在だろうとも受け入れてくれるっていう人が。そんなこともわかんないようじゃ、あんた、ほんっとーに大バカ野郎だ」
(たった一人でも…?)
シモラーシャの言葉にマリーは過去の自分のそばに寄り添う人を思い出していた。
たった一人だけ、自分の存在を受け入れてくれた人がいたことを。どうしてそれに気づかなかったんだろう。世界はすべてが自分を否定していたと思い込んでいた。だが、違っていた。
(サーラだけは僕を受けて入れてくれたんだ)
あの世界でたった一人、自分の存在を否定しなかった彼女。
二人でよく崖から見える海原を見つめたものだった。
彼女は母であり、姉であり、友達であり、自分のすべてだった。
そんな彼女に恋をしていた。
だが、その関係も長くは続かなかった。
彼女はその世界を追われ、長い間戻ってくることはなかったのだ。
後に何万年も経って戻ってきたが、彼女は世界を追われてまでも己の気持ちを貫こうとした、その愛する相手に裏切られてしまったのだ。
それ以来、彼はすべてに絶望し、世界を見限った。
そんな自分を当の本人の彼女は諌めた。だが、彼女が許せても自分は許せなかった。相手の男も、そして世界も。彼女を悲しませたすべてを許せなかった。
(あれからどれくらいの時が過ぎたのだろう…)
もう二度と戻ることはない世界だ。自分にとってはもう関わりのない世界。そして、彼女は今どうしてるのかもわからない。
「たとえそうだとしても……」
マリーが自分の物思いにふけっていた矢先、ザールは苦々しく言葉を発した。
「僕は己の思うままに人間を食べていく。それは誰にも止められない」
「あっ!」
シモラーシャの声が上がる。
だが、ザールは一瞬そこから姿を消すと、そこから近くに隠れていたハサンの傍らに出現し、その小さな身体を抱えこんだ。
「………」
ハサンはいきなりのことで言葉も発することもできず、ザールの腕の中で固まったまま動けなくなってしまった。
「何をするの! その子を離しなさいよ!」
シモラーシャは叫んだ。
「動くな。動くとこの子を殺すぞ!」
「…………」
シモラーシャは唇を噛んでザールをにらみつける。
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