第5話「美食のザール」

 シモラーシャが今まさに包帯の男へと切りかかっている真っ最中。そこからあまり離れていない場所で、旅人が魔族に襲われていた。

「あ…あわ…あわわ……じょ、上級…魔族が……」

 旅人は人の良さそうな中年の男だった。

 商品を売り歩く商人らしい。大きな荷物を抱えていて、どうやらもうそろそろ目的地に着くはずだったようだ。

 確か、そこから近くに、シモラーシャたちが食事をした村があったはずである。

「ひ……ひぃぃぃ───!」

 彼は荷物を放り出し逃げようとした。

 だが、恐怖からか腰を抜かしてしまいその場から動けないようだった。

 その彼に、ゆっくり近づいてこようとしている人物。

 まだ日は完全に落ちてはいなかった。空はだいぶ暗くなってきてはいたが、足元も定かであるし、近づく人物の姿も表情も容易に見て取れる。

 優雅に歩くその姿。

 とても狂暴そうな者には見えない。

 明るい茶色、赤に近いほどに明るい髪が軽くウェーブを見せて卵型の均整の取れた顔に彩りを添えていた。長くはないが短く刈ってあるわけではない。

 優しげで大きな目が印象的である。その目ギリギリのところまで前髪は垂れていて、毛先にウェーブがかかっていた。

 肌は白く、一見して端正な顔立ちをした普通の青年といった感じである。

 だが、どうしてもそうと断言できないものが、腰を抜かした男の目には映っていた。

 それは、ゆっくり近づいてくる青年の右手の甲に刻まれた痣。

 まがまがしいまでに青く不気味にぼうっと輝くその刻印。

 いうまでもなく上級魔族の証である炎の痣だ。

 微笑を浮かべて一歩一歩ゆっくりと近づいてくる。

「ひぃぃぃぃ───!」

 男は頭を抱えてうずくまった。

「……すいた……」

 微かな声が魔族の口からこぼれた。

 男は訝しげに顔を上げた。

「なっ…!」

 魔族の表情が明らかに変化している。

 舌なめずりをし、茶色の大きな目がさらに広げられ、獲物を捕らえようとする獣のようにギラギラとぎらついていた。

「お腹すいた……」

 今度はハッキリとそう言った。

「…………」

 男は麻痺したかのように声も出ず、逃げようにもまるで呪縛されたかのごとく身体が動かなくなったことを知った。

「死人の肉はおいしくない。生きてる肉がおいしい。血が流れ、肉塊はピクピクと動き、内臓も動きをとめることなく……ああ、なんて甘美な食物だろう……」

 まるで歌うように囁かれる恐ろしい言葉。

 商人の目はこれでもかと見開かれ、全身から汗が滝のように流れた。

「ひ……」

 魔族が膝をつき、男の真正面にその美しい顔を向けた。

 にっこり微笑む。

 先ほどまで見せていた狂気めいた表情ではない。

「大丈夫。僕は非情じゃないからね。痛みは完全に消してあげる」

 魔族はそう言うと、右手で商人の頬をさすった。

 心なしか痣の青い輝きが増したようだった。

「僕は美食のザール。僕の供物となることを光栄に思うがいい!」

「うわっ!」

 いきなり魔族ザールは男の腕を素手で引き千切った。

 意外と血はほとばしり出はしなかった。

 千切られた根元からタラリとたれてはいたが、明らかに不自然な血の流れだ。

「…………」

 男は放心したようにぼーっとした表情をしていた。そして、千切られた腕と、さっきまでそれがついていたはずの腕の付け根を交互に見つめた。

 ピチャ……

 上級魔族である美食のザールは、男の腕を右手に持ち、そこからしたたる血を舐め、肉に口をつけた。

「動かしてごらんよ」

 目を細め、くくくと笑いながら、彼は男に言った。

 無意識のうちからか、男は微かに頷く。

 とたんに、ザールが掴んでいる腕の指先がピクリピクリと動いたのだ。

「ふふふふ……」

 その様子を楽しげに見やりながら、彼はさらに肉に口をつけ、おいしそうに食べ始めた。


 それから、そう時が経たぬうちに、美食のザールは男の身体のほとんどを食いつくし、きれいに骨と心臓と頭部だけを残していた。

「摂生につとめていたらしいね、あなたは。まあ、僕はそういう人しか食べないんだけど。さあ、後は一番おいしい心臓を残すのみ」

 そこまで言って、頭部だけになった男が何か言いたげな顔をしているのに気づいた彼はにっこりと笑った。血のついた口元が壮絶だ。

「頭は?───とでも言いたげだね。心臓食べる前に食べちゃうよ。僕は絶対お残しはしないんだ。兄に叱られるからね。ただね、最後に聞いておこうと思って───あなたには家族がいる?」

「…………」

「ああ、心配しないでよ。僕はね、こう見えても一日一人しか食べない主義なんだ。やたらと食い散らかすコープスとは違うからね。あいつらは外道だよ。散々人間をいたぶって殺してから食べ散らかすんだからさ。しかも、大量に」

 ザールは口を拭うと、さも嫌そうな表情を見せた。

「あんなのと一緒にしてもらっちゃ嫌だよ。あいつらと違って、僕はこうしなければ生きていけないんだ。確かに人間を食べることは楽しいし、おいしくてやめられないけれど、それなりに気を遣ってるんだよ。だから、決して痛みを感じさせないようにしているし、それにね」

 彼は男の頭を両手で持ち上げた。

 それを、まるで口付けでもしそうなほどに己の顔に近づけ、優しそうに囁く。

「こうやって、僕のために食べられてくれた人間をむしろ尊敬しているくらいだよ。まあ、望んでそうなってくれたわけじゃないけれど。中には自ら僕の供物になってくれる人たちもいるし……そこで、僕は食べられてくれる人に対して感謝の意を表すことにしてるんだ。あなたにね、家族の人がいればその人たちだけは食べないであげようと思っているんだけど」

「……え?」

 くぐもった声を男は出した。

「それは……どう…いう…?」

「あなたには家族がいる? 妻とか子供とか。もしあなたにそういう人がいるなら妻と子供だけはこれからずっと彼らが死ぬまで食べないでおいてあげる。他の人はダメだよ。あくまであなたの妻と子供だけ」

「ほんと…うに…?」

「僕は嘘はつかない」

 安心させるようにザールは頷く。

 男は涙を流しつつ、ぽつりぽつりと呟く。

「ここより……もっと南にゴーラという小さな村がある……そこに私の妻リリアと息子のハサンがいる。どう…か、彼らだけは食べないでほしい、お願い…だ」

「わかった」

 ザールは一層深い微笑みを見せた。

「リリアとハサンだね。忘れないよ。ねえ、嘆かないでね。死ぬことは人間にとって怖いことらしいけれど、こんなふうにまったく痛みを感じずに死ねることは、むしろ幸せだと思うといい。死はね、終わりじゃないんだよ。人間であるあなたにはわからないことだろうけれど、きっとまたあなたたち家族は未来に出会うことになるから」


「…………」

 男は魅せられたように、優しげに喋る魔族を見つめた。

「現世で関係あった人たちは、何らかの形でまた関係を持つことになる。巡り巡ってまた出会い、そして別れ、その絆が強ければ強いほどそれは決して切れることはない。過去、妻だった者が、来世では母になり、あるいは娘になり、あるいは妹か姉になることもある。そうやって人間の魂は永久の生を生き続けるんだ……」

 ザールは、再び男の目をヒタと見つめ、

「おやすみ……しばしの間あなたは眠る。今度目覚めた時は新しい生を生きていることだろう。もっともその頃は、今の記憶は残ってはいないんだけどね」

 優しく囁く。

 その声を聞きながら、男は目を閉じた。

 彼の脳裏には、おそらく愛しい家族の顔が映っていることだろう。

 ひなびた小さな村落。

 森の外れの、それほど裕福ではない村。

 だが、その代わりにそれほど魔族も出没しない、平凡で平和な場所。

 子供たちは笑いさざめき、母親たちは家の仕事にいそしみ、男たちは一家を養うために畑仕事や猟師、あるいはこの男のように商人となって村々を渡り歩いたりする。

 それこそ永遠に続く穏やかな光景───

 彼は、そこへ還っていくのだ。

「人間は幸せだよ」

 薄れゆく意識の中で、ザールの声が囁かれ続ける。

 それを男は、まるで子守唄を聞いているかのように穏やかな気持ちで聞き続けていた。

「あなたたち人間は短い生を生きるし、それに、こんなにもろくて儚くて弱い存在で、狂暴な者共から己を守る術を持たない。だけど、あなたたちの魂は祝福されているんだ。僕たち魔族とは違う。あなたたちはそれに気づいていないんだけど……今死にゆくあなたは、もうすぐでそれに……世界の秘密に触れることになる……」

 もう、ほとんど男には聞こえていなかったかもしれない。

 だが、ザールは囁き続けている。

「僕はまだ良心的な魔族だけど、他のヤツらはそうじゃない。でも、確かに殺されるって痛いだろうし、死にたくないって思うかもしれないけど、人だって生きるために他の生き物の命を奪うだろう? 少なくとも、僕はあなたたちがいなければ餓えて死ぬしかないんだ。僕は死にたくない。だって、僕はあなたたちと違って魂が永遠に続くわけじゃないからね」

 彼は悲しげな表情で、辛そうに言葉を続ける。

「記憶がなくなるとはいうけれど、それは魂に蓄積されているはず。魂さえ消滅しなければ、あるいはいつの日か、その封印された記憶が蘇るかもしれない。僕はこの僕という存在を忘れたくない。でも、僕は死んだら魂が消滅してしまうんだ。それが怖い。だからずっと永遠に生き続けたい。生きたいと思うから、僕の食料であるあなたたちを狩る。それを誰にも否定はさせないよ。あなたたち人間の食料たちは、あなたたちのように自分たちの主張はしない。だから、あなたたちは幸せだよ。誰からも非難されずに食べていけるんだからね。僕は……僕だけ、どうして非難されなくちゃならないのか……ただ、僕の食べ物であるあなたたちが言葉を持ち、己を主張するというだけで、僕を非難する……非難などすることなどできはしないのに………」

 彼の声は、いつしか震えていた。

 彼の両手にはさまれた、憐れな男のまぶたはしっかりと閉じられ、すでに生気は感じられない。

 ザールは、その安らかな死に顔の男に頬擦りをした。

「……僕は、無駄にしないよ。こうやって僕を生かしてくれるために死んでくれた人間たちを、僕は尊敬さえしているんだ。僕は……なぜ、こんな存在なんだろうと、そう思ったこともあった。他の者たちは何も考えずに主たちと過ごしていたけど、僕は誰かに支えてもらわないと生きていけない存在だった。兄に、そしてあなたたち人間に。こんなの……こんな存在って、いったい世界に何の意味があるっていうんだ? ただ、殺して食べて生き続けているだけ。神は、その存在に意義がある。世界をより良く保つために。人間だって、意味のある存在だ。彼らは生きているときは、それほど意味はないかもしれないが、死んでからちゃんと彼らの役割がある。だけど、僕たちは? 僕はいったい何のためにここに存在している? わからない。何もわからない。その答えを神でさえも教えてはくれない……」

 ザールは長い間ずっとそのままの姿で立ちつくしていた。

 だが、ほどなくして、哀しみをたたえた茶色の瞳を無表情のベールで曇らせた。いよいよ最後の食事へと取りかかるのだ。頭部と、そして、未だに脈打つ心臓の───


 一方、シモラーシャたちといえば。

 大剣が包帯の男に振り下ろされたが、それは男の包丁で食いとめられていた。

「なにっ?」

 シモラーシャが吠えた。

 包丁が赤く輝いている。

「やっぱり、魔法包丁??」

 魔法剣の威力は赤や緑や青といったごく一般的なものから、銀色や金色といった輝きがあるのだが、その銀色や金色は一番霊力が強いとされていた。そして、銀に輝かせる者は少ないとはいえ、それでもまったくいないというわけではない。

 だが、黄金色に輝かせることができるのは、シモラーシャ以外にまだ確認されてはいなかった。

 それは、魔法の塔を設立した伝説の魔法剣士シモン・ドルチェだけが輝かせることのできるものであった。そして、彼女が没した後、この千年の間にただの一人も黄金に剣を輝かすことができる者が現れなかったのである。

 もし、この男の持っている包丁が、魔法剣と同じものでできているとしたら、輝きは赤色。黄金の魔法剣にかなうべくもない。

「どうして…?」

 だが、彼女の魔法剣は食いとめられていた。

 赤く輝く魔法剣にはそんなことなどできるはずもないのに。

「あ……?」

 しかし、シモラーシャは何か違和感を抱いた。

 それは、包帯の男の右手である。

 今、包丁は彼の右手に持たれていた。包帯を巻いている手だ。

 その包帯の右手が包丁と同じに赤く輝いていたのだ。

 包帯を通してぼぉっと仄かに輝いている。

「あんた……やっぱり魔族でしょ?」

「…………」

 彼女の問いかけに無表情と沈黙で答える包帯の男。

 だが、その男の瞳が彼女の瞳を捉えた時───

「シ……ラ…スティ……」

「やめろぉぉぉぉぉ───!」

 突然、その間に割って入った者あり。

 マリーであった。

 彼は、シモラーシャが包帯の男に切りかかってから、しばらく様子を見ていたのだが、男が何かに気づき、そして、何かを言いかけた時に慌ててそれを遮ったのだ。

「マッ、マリー?」

「…………」

 びっくり仰天で目を丸くしているシモラーシャ。

 そして、再び口を閉ざした男。

 だが、今度は明らかに無表情とはいえない目つきをマリーに向け、さらに、いつのまにか剣を引いてしまっていたシモラーシャにも視線を向けた。

「あー、えーと…こほん」

 マリーは著しく大声を上げてしまったことを少し恥じているようだった。というか、不機嫌極まりない顔付きだった。

 実際、心では思わず舌打ちをしていたのだ。

(まったく……この男……やはり上級魔族。しかも、彼女の真の名前を知っているということは……)

 マリーは用心深く男の顔を見つめながら、

「あなたは、もしかしたらサイードというお名前じゃないですか?」

「なぜ、その名を……」

 マリーの言葉に、男は少なからず驚いているようだった。

「お前はいったい……?」

「ああ、ええと……僕はマリーと言います。吟遊詩人のマリーです。あなたのことは唄にも歌われているのですよ。伝説の料理人──炎の料理人のお名前をね」

「炎の料理人?」

 シモラーシャが不思議そうに首を傾げた。

「ええ、そうですよ。炎の料理人。飯屋で話して差し上げたでしょう。包丁を赤く輝かせる料理人のことを。その伝説の料理人は、上級魔族でもあり、そして超一級の料理人でもあったんです」

「……………」

 男はまるで値踏みをするような目でマリーをジロジロと見つめた。

「彼の名はサイード。右手の甲に炎の痣があり、それを真っ赤に輝かせて魔力を使うのですが、このサイードという魔族は他の者たちと違い、一切人間に害を及ぼすということはありませんでした。他の魔族たちは邪神に従い悪行の限りを尽くしたんですが、彼はそれに従わず、邪神の元を離れたのです」

「えー、それって……」

 シモラーシャが不服そうな声を上げたのに対し、

「そうですよ、シモラーシャ。ですから、彼はあなたのご両親を殺した魔族ではないということです」

「え───、そんな……」

 と、彼女が不満そうに何か言いかけた時。

「む!」

 包帯の男───サイードの顔付きが変わった。

 何かを探すように空中へ視線を泳がせている。

 そして、それはマリーも同じだった。

 彼も何かを感じているような厳しい顔つきをしている。

(これは……血の匂い……しかも、かなり近い……)

 そう彼が思った瞬間。

 サイードがさっと動いた。

「あっ!」

 シモラーシャが叫んだが、彼は素早く森の奥へと消えていった。

「シモラーシャ。僕たちも行きましょう」

「うん」

 マリーの言葉に頷くシモラーシャ。

 森は、いよいよもって夜へと変貌を遂げようとしていた。

 サイードを追っていく彼らを、まるでその暗闇に取り込むかのように、だんだんと闇は濃くなっていく───

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る