第4話「仇討ち」
マリーとシモラーシャは森の奥の、沼のそばまでやってきた。
そこで少し休憩する傍ら、マリーは先ほども彼女に向かって聞いたことを再び切り出す。
「それで、どうなんです? 話していただけますか? これからしばらく一緒に旅をするのですから、ぜひとも事情を聞いておきたいです。あ、別に好奇心からというわけじゃあないですよ。何かあった時に僕だけ蚊帳の外なんて嫌なだけなんですからね」
多少どころか、かなりいい訳がましい言い方だった。
「…………」
だが、シモラーシャは少し表情を曇らせて黙ったままだ。マリーの言葉も耳に入っていたかどうか。
薄暗い森の中、うっそうと生い茂る樹木に囲まれて沼はひっそりと静まり返っている。沼の上だけが多少なりとも開けていて、のぞく青空から水面に向かって光が差し込んでいた。それが何とも幻想的な景観を彼らに見せていた。
とはいえ、少なくともシモラーシャだけには、美しい景色など見えている様子はなかった。
「あたしは魔族が憎い」
ポツリと呟くシモラーシャ。
彼女の視線は目の前の、沼の水面に向けられたままだ。
「…………」
二人は並んで座っていた。
マリーは、左隣に座るシモラーシャの横顔を見つめた。
彼女は語り出す。
「あたしの父さんも母さんも魔族に殺された。あたしが十歳の時だった。あの日、父さんと母さんは隣の村に用事があって、幼馴染のドーラの父さんであるおじさんと三人で出かけたの。そしたら、その道中に魔族が現れたのよ。しかも上級魔族が……」
シモラーシャは言葉を詰まらせた。心なしか声も震えている。
「…………」
マリーは黙ったまま先を促す。
「あたしの村の近くには……といっても、けっこう離れてるんだけど……魔法の塔があってね。そういうこともあって、魔族はあまり近寄って来ない土地柄だったんだ。特に上級魔族なんて滅多に出会うこともなかった。それなのに、その時に限って上級魔族が現れたの」
シモラーシャは相変わらず視線を沼に向けたまま話を続ける。
「そいつは、さすがに上級魔族だけあって、異様なほど美しい姿をしていたっていうことだわ。でも、背筋がゾッとするほどの、なんていうか淫らがましいというか、とにかく尋常じゃないほど嫌な感じだったって」
「なぜ、それほど詳しく?」
マリーが何気なく質問すると、彼女はチラリと視線をマリーに向け、
「たった一人……といっても三人しかいなかったんだけどね……たった一人生き残ったおじさんが後で教えてくれたの」
そういうと彼女は再び沼に視線を戻した。
マリーは「なるほど」と呟く。
「よく助かりましたね」
「もちろん、おじさんもかなりの深手を負ってたわ。一時は危ないとまで言われて、助かったのも奇跡みたいなもんだったんだもの」
シモラーシャは思い出したのか、辛そうに言う。
「だいぶ経っておじさんがあたしに謝ってきたけれど……すまない、まるで見殺しにするように自分だけ助かってしまったって。でも、あたしはおじさんに怒る気はまったくなかった。だってね、こう考えられるでしょ」
彼女はパッとマリーに顔を向け、同意を求めるように熱心な口調で言った。
「おじさんが帰ってきてくれたおかげで、あたしは父さんと母さんの仇が誰かわかったんだもん。もし、これが三人ともやられてしまって、誰一人帰ってこなかったら、いったいどいつを探せばいいのかわかんないじゃん」
そう一気に喋ってから、彼女は少し頬を膨らませて再び沼に目を向けた。
「シモラーシャ……」
マリーは、じっと沼面を見つめる金色の髪の娘を、まるで初めて見るもののように見つめた。
そのまま黄金の装飾品を思わせる金の髪は、その意思の強さを強調するかのごとく輝いている。本来、光を当てなければ輝かないはずなのに、彼女の髪は、それ自体が発光しているかのように光っているのだ。
マリーは、眩しそうに見つめると、感嘆の思いを抱く。
(もしかしたら本当に……)
この少女は真性のバカではないなと、ふと思う。
甘ったれた正義感など持ち合わせていない人。それも、意図してそうするのではなく、無意識のうちに何が真実で何が嘘かを見抜く能力がある。
(何とも好ましい)
知らず笑みがこぼれるマリー。
普通の人間のほとんどが、愚かな感情から相手を非難し、罵倒し、どうあることが正しいことかを見失うものである。
一見すると、彼女は他人に対して物分りのいいようであり、だがしかし、己の父母に対して非情であると取られかねないような態度にも見える。だが、実に公平な物の考えをしているということが、見る能力のある者にはわかるはずだ。
(確かに、これだけを見ていると、彼女がやはりシモンの転生体であるという確固たる証拠でもあるな)
彼は爪を噛みつつ思った。
すべての人間がこのような考えを持っていないというわけではない。
確かに人間にも、多くの賢い者はいよう。
だが、愚かな者たちがほとんどであるのも確かである。
(だが、僕は愚かな人間──神もだが──嫌いじゃない。うっとおしいと思うことはあるけれど、完璧なものなど胸糞が悪くなる)
強暴な思いがマリーの心を満たした。
(彼女が裏切った時……)
シモンが、闇の神を裏切ったと知った時、正直言って憎しみだけの気持ちしか持っていなかったというのは嘘だったかもしれない、とマリーは思う。
それまで太陽の女神として、誰よりも美しく、そして誰よりも公平で、一点の曇りもない完璧な御姿を我らの上に見せていた。その女神が、本当は完璧とはいえない傷を心に持ちつづけていたと知った時───
仲間の神々はすべて彼女を非難した。
敬愛する主を愚弄する存在であると、すべての者たちが彼女と、そして彼女を主から奪った者に対してつきつけた。
「……………」
マリーはシモラーシャにならい、自分も沼面をじっと見つめた。
(僕が許せなかったのは……)
主を裏切ったことではない。
そんなことは大したことじゃなかった。
裏切りとは、時として正当化されるべきものである。
確かに、かつて転生体のシモンが言ったように、己の心に嘘をつきつつ闇の神に嫁ぐことこそ真の裏切りだったともいえる。
だから、決して許すことのできないこととは───
彼女が逃げ出したことなのだ。
己の罪を直視せずに、神という身分を捨てて人間に身を落としたことがどうしても許せなかった。
かつて、愚かな人間に身を落とすことによって、未来永劫罪を償い続けると彼女は言った。
(どこがっ…!)
マリーは、その時のことを苦々しく思い出した。
どこが、神を捨て人間になることが罪の償いであるというのだ!!
人間ほど安楽で、何も知らず、すべての因果や義務から解放された幸福な存在はいないというのに。
そんな人間になることが、どんなに卑怯なことか、なぜわからないんだ。
(僕は……彼女が己の立場を捨てずに、ちゃんと罪を償ってほしかったんだ)
そう───まるで己を見ているようで辛かった。
自分の二の舞を踏んでいこうとする彼女に憤りさえ覚えた。
彼女を───彼女を少しでも愛しいと思うからこそ、憎さは百倍となって───
──おまえ…シモンを愛していたのだな──
(……やつの…ギルガディオン・ガロスの言ったセリフを思い出す……認めたくなかった。絶対に認めたくなかった……)
だが、今でも思う。
ほんの少し愛しいと思ったことはあったかもしれない。
しかし、やはり心から愛していたとは言えない───そう思う、そう信じている。
永く永く───永遠とも言える時の流れに身をまかせて生きてきた。
数えきれない者たちが、己の上を通り過ぎていった。
人間もいた、神もいた、そしてそのどちらにも属さない者たちも───
「絶対許さない───」
「!」
マリーは飛びあがりそうになった。
すっかり自分だけの思いにとらわれていて、傍らの女剣士のことを忘れていたのだ。
「右手の甲に青く輝く痣がある魔族……」
「右手の甲……ですか?」
マリーは、シモラーシャのその言葉を復唱した。
「そうよ。おじさんが言ってた。父さんたちを殺したヤツは、右手の甲に上級魔族の証である炎の痣があったって。しかも、ヤツはその痣を青く不気味に輝かせて、魔力を使ってたんだって……」
それから、彼女は抑えきれない嗚咽とともに声を絞り出した。
「く…食ってたって……そ、そいつ…父さんと、か…母さんを……生きたままうまそうに食ってたって……う…ぐ…そんな…そんな魔族……って…あたし、下級魔族のコープスだって…食べるのは死肉なのに……なん…でそんな…」
絶句したまま、それ以上もう何も言えなくなってしまったシモラーシャ。
震えてはいたが、涙は見せていなかった。もっとも、そのブルーアイは潤みきっていて、泣いているも同然であったのだが。
「…………」
マリーは黙ったまま懐からあるものを取りだし、腰を上げて沼に近づいた。
シモラーシャは相変わらず身体を震わせ、必死になって涙をこらえている。
いつのまにか、沼の上に見えていたはずの青空が赤く染まって、もうすぐで夕刻が訪れようとしているのを教えていた。心なしかあたりもグッと暗くなってきたようである。
「あ……」
その時、シモラーシャの目の前にあるものがかざされた。
「え…? コップ?」
そう。
彼女の目の前にあるのは、よく磨かれ透明さが引き立ったグラスであった。それにはマリーが沼から汲んできた水が入っている。
だがこれは───
「きれい……」
シモラーシャがそう言うのも無理なかった。
そのグラスは、品の良い彫り物がされたもので、一点の曇りも見当たらないものだったからだ。しかも、あまりいい水ではないだろう沼の水を、これでもかといわんばかりに透明さを際立たせていた。
まるで、川の上流のせせらぎから汲んできたかと思うほどの清浄さを、見る者に感じさせる。
「飲んでも大丈夫ですよ」
マリーは優しくそう言った。
「このグラスは特殊なものでしてね。どんなに汚い水でも、どんなに煮えたぎった水でも、たちどころに清浄でよく冷えた水に変えてしまう魔法のようなグラスなんです」
「へぇぇ~」
シモラーシャはびっくりまなこになって、マリーの手に持たれたグラスに見入った。
それから、恐る恐る手を伸ばし、マリーからそのグラスを受け取った。
「あ、冷たい」
彼女が感嘆の声を上げた。
「一気にグイッとお飲みなさい。気持ちがスッキリしますよ」
「…………」
シモラーシャは、マリーのにこにこ顔をしばらく見ていたが、自分もにっこりして見せてからグイッとグラスの水をあおった。
「おいしいっ!」
彼女は興奮したように叫んだ。
「ねぇ、もっと飲んでいい?」
「ええ、どうぞ、いくらでも」
マリーは満面に笑みをたたえて頷いた。
彼女が沼に近づき、何杯も何杯も汲んでは飲み汲んでは飲みしているのを、苦笑しつつマリーは見つめていたが、いい加減なところで止めておくことも忘れはしなかった。
そのまま放っておいたら、際限無く飲んでしまったかもしれない。シモラーシャならやりかねないところがあるからだ。
「ふぅ~、おいしかった!」
シモラーシャは再びマリーの横に座りこみ、お腹をスリスリとさすった。
「おいしいはいいですけど、あまり無茶な飲み方はやめてくださいよ。暴飲暴食は万病の元ですからねぇ」
だが、シモラーシャは言い返す。
「あらぁ~。あたしの元気の源はこの食欲よ。あたしから食欲取ったら何も残らないわ」
「…………」
マリーは思いきり顔をしかめて見せた。
食欲取ったら何も残らないなんて───どういう神経してるんだと思った彼だったが、さすがに言いたいのをグッと我慢して何も言わずにおいた。
「それにしても、そのコップ、すごいわねぇ」
すると、彼女はマリーに返したグラスに視線を向け褒めちぎった。
マリーはまだ手に持っていたそのグラスを持ち上げて見せる。
「ええ。これはですね、“冷華のグラス”と言って、なんとあの氷神バイスの持ち物だったという謂れのある一品なんですよ」
「邪神の?」
「ええ、そうです」
マリーは頷いた。
「かつて、まだ邪神が邪神と言われていなかった昔。神々はそれぞれ神器と呼ばれるものを持っていたといわれます。ほとんどの神器はまあ己の力で作り出したものですが、中でも大地の神であるラスカルは、ことのほかそういう神器を作るのが好きでして、この“冷華のグラス”も大地の神が外観を作ったものと言われているんですよ。もちろん、水を冷やしたり清浄にさせる働きはバイスの力によるのですけどね。ですがね、さすが大地の神が作り上げただけあって……」
マリーはそこまで言うと立ち上がり、辺りを見回してから近くにあった岩に歩いていった。それから、手に持ったグラスをいきなり岩に落としてみせたのだ。
「ああっ!」
驚いたシモラーシャが思わず目をつむる。
次の瞬間、パリンという音が聞こえてくるかと思いきや、カランという音がするばかり。
「大丈夫ですよ、シモラーシャ。ほら、見てごらんなさい」
目を開けた彼女が見たものは、草むらに転がっているグラス。
マリーは、不思議な顔をしている彼女の目の前でグラスを拾って見せると、またしてもそれを今度は岩に叩きつけてみせた。
「あ!」
だが、グラスは壊れなかった。
カーンという涼やかな音を響かせるだけで、びくともしない。
マリーは微笑みながらシモラーシャのもとに来ると、横に座った。
そして、グラスを彼女によく見えるようにかざして見せ、どこにも傷がないことを確認させた。
「大地の神ラスカルは、そりゃあ物作りの天才だったんですよ。強度もさることながら、彼の作る神器には何よりもユーモアのセンスが満ち溢れていた」
心なしか得意げに喋るマリーであった。
「ふーん、まるでそのラスカルをよく知ってるみたいな言い方ね」
「え?」
しまった───と、思ったマリー。慌てて取り繕う。
「でっ…ですからですね……僕は何でも知ってる……」
「吟遊詩人だからでしょ。もう耳にタコだわよ、それ」
またしてもプーッと頬を膨らませるシモラーシャ。
「そっ…そうですね……」
焦りまくるマリー。
「とっところで……先ほどもお話ししてましたその上級魔族のことですが……ええと、右手の甲に青く光る炎の痣があるとのことでしたよね」
「何か知ってるのっ?」
とたんに、シモラーシャがマリーにかぶりつく。
「えっ…ええ、まあ……」
マリーは、自分の腕にしがみつくシモラーシャにどぎまぎしつつ、しどろもどろに答えた。
「そ…その魔族は、たぶん、“美食のザール”という異名を持つ上級魔族だと思います」
「美食のザール?」
「ええ。顔は非常に美しく一見そんな感じではないんですが、人間を生きたままじゃないと食べられないというやつでして、それ以外は何も口にしないんだそうですよ。確かにそのザールは右手の甲に痣がありました……が…」
マリーは思い出した。
そういえば、あの飯屋で会ったあの包帯の男。
やつは右手に包帯をしていなかったか?
だが───
(僕は、あの胸糞の悪くなるザールの顔を知っている)
そう。
美食のザールと言われた魔族は、かつて我らとともに過ごしていたことがあった。
しかし、確かに彼は生きたままの人間を食べるという悪癖はあったものの、あの頃はそういうことはほとんどしなかったはず。なぜなら───
「ちょっと待って」
「!」
突然シモラーシャが鋭く声を上げ、マリーの物思いを遮った。
「ねえ、マリー。あの飯屋にいたあの男」
「…………」
やはり気づいたか───と、彼は思う。
「あの男って右手に包帯巻いてたわよね?」
「シモラーシャ……」
マリーはいきり立つ女剣士をなだめようとした───が。
──ザザッ!
突然、近くの草むらから音がしたかと思うと、誰かがこの場に現れた。
「あっ!」
「あなたは……」
シモラーシャとマリーは驚いて叫んだ。
そこには、飯屋で出会ったあの包帯の男が立っていた。
辺りはだいぶ暗くなってきていたが、それでもまだ男の表情は見えるくらいの明るさだ。
相変わらず無表情な顔をしている。
マリーたちがいることも、まったく意に介していないようである。
「このぉ……」
だが、シモラーシャは別だ。
彼女は傍らに置いていた大剣を素早く掴むと、いきなり男に切りかかっていった。
「まっ…待ってくださいっ! シモラーシャ!」
マリーがそう叫んだが遅かった。
「…………」
しかし、男の表情はまったく変わらず、シモラーシャが剣を黄金色に輝かせながら近づいてくるのを静かに待っていた。
「うぉぉぉぉ───! 父さんと母さんのかたきぃぃぃ───!」
シモラーシャの怒号だけが轟く。
だが、森はそれ以外何も音はせず、静かにこの顛末を見つめているばかりであった。
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