二人だけの国3

 施政府の議会議員「公人」化計画。

 政治に携わる議員の中から私情を取り除くことで、私益のための汚職は無くなった。

 政治には目的の達成までに時間のかかる問題、一見すると寄り道や引き返しているように思われるような対応を取らざるをえない問題が間々ある。そうした問題を扱う時、かつては裏に議員の私情があるのではないかと疑われることもあったが、その疑いのもとが取り去られている今、国民は以前よりは施政府の回りくどい説明に耳を貸すようになった。

 汚職の発生を防ぎ、国民の疑念のもとを失くす。「公人」化計画は国という広い目で見れば充分な成果を上げている。



 本当に静かなところだった。閑静な、なんて文句で売り出される住宅街さえ、このあたりに比べたら賑やかなうちに入るだろう。

「このあたりでも自然区画で整備事業なんかがあると交通量が増えて、もう少し賑やかになるんですよ」

 香りの良いお茶を出してくれた夫人は、テーブルの向かいに着きながら言った。男性の方は買い物を片付けた後、夫人の頼みを受けて庭の手入れに出た。

「こうも暑いと少し出かけただけでも油断すると倒れてしまいそうです」

 買い物から帰ってきたばかりの彼に庭仕事をさせてしまって大丈夫なのかと、暗に男性を気遣ってみるが夫人はやんわりと笑う。

「そうね。今の時間、庭は木陰があるからまだ過ごしやすいとは思うけれど」

 庭木はこの小さな家を外界から守るように腕を伸ばし、強烈な真昼の日光を遮っている。私たちがいる居間の窓からは、その木陰に並ぶ鉢植えへと水をやる彼の姿が見えた。

「あの人、断らないのよ。少し休んでからでも良かったのに」

 そう言う彼女の顔は、ただ夫を気遣う妻のそれだ。ならば何故、帰ってきたばかりのあのタイミングで頼んだのか。夫人は窓から視線を私に移した。

「大丈夫よ。そんなに長くはかからない」

 それは彼に頼んだ水やりのことか、それとも私との会話のことか。

 彼女は自分のカップに手を伸ばして話を切り出す。

「彼ね、政治家だったの。施政府の議会議員」

 はい、と私が頷くと彼女は口を湿して話を続ける。

「私たちが出会ったのは、彼が議員になる前だったわ。まだ大学生の頃」

 政治と自然環境を学んでいた男性と、環境管理の授業で同じクラスになったらしい。課題の期限や試験の範囲といった、ありきたりな話題から二人は話をするようになった。

「なるべく人に近い距離で自然を守りたい、それが彼の夢だった」

 希少な自然は人の生活環境から隔離して保護するのが当たり前になっているけれど、それでは駄目なんだって。見て、聞いて、触れて、そこにそれが存在することを実感して初めて人は自然保護の意味を知ることができる。それが彼の持論。

「私は単に植物に囲まれて過ごすのが好きだっただけで、彼みたいな志もなかったし、植物の保護とか育成とか専門的に取り組みたかったわけでもなかった。目標を持って勉強していた彼に比べたら、ほとんど趣味みたいな軽い気持ちだったのよ、私」

 でも、それくらいで良いんだって彼は言ったわ。

 彼女は窓の外を見る。見える範囲に男性の姿は無かったけれど、散水用のホースらしきものが地面を這っていた。

「自然を疎かにし過ぎてもいけないけれど、保護のためと言って人間の生活を疎かにし過ぎても長くは続かない。程良い距離を保つのが大切って。何事もそうよね」

 少し唇を噛んで一度口を閉じ、再び夫人は話し始める。

「あの人、政治家になる前から優しい人だったわ。話が合って、親しくなって、付き合い始めて。いつも自分のことより人を、私を優先するから、その分も私は彼のことを考えようと思った」

 大学を卒業した後、彼は行政の自然管理関係の部署に勤めて、私は町の花屋で働いた。結婚を申し込まれたのは、交際が三年目に入った秋。同時に、施政府の議会議員になることが決まったと打ち明けられた。

「公人になることが決まったから、その前に結婚しようって」

 公人、という単語を苦い顔で口にした彼女は、その後味を流すかのように茶を飲んだ。

「あの人が施政府の議員を引退して私のところに帰ってきた時、もう私だけの彼ではなかった」

 当然よね、公人って皆のための人だもの。そう笑ってみせる彼女の様子はぎこちない。

「公人になった人って元に戻らないの」

 公人化処置を一度受けてしまうと、たとえ議員を辞めても取り除かれた私的感情を元に戻すことはできない。だから彼は処置を受ける前に彼女と結婚していった。帰ってきた後、家族という枠組みで少しでも彼女と他の大衆とが区別されるように。

 カップをテーブルに戻しながら夫人は目を伏せる。過去を振り返るように、何かを悼むように。私は乾いていた口の中を味のわからないお茶で潤して、話の先を促す。

「それからは?」

 俯いていた彼女はそっと目を開けて庭先を望む。彼の撒いた水を受けて光を散らす緑が美しかった。その光景の中に夫人は、かつて恋人であった彼の姿を探しているように思えた。

「自己を犠牲にして定年まで勤め上げた彼には、それはそれは手厚い補償が与えられた。この家も、その内の一つなの。住環境と言うべきかしら」

 ここまで自然区画に近い場所での居住は、本来なら許可を得るのは難しい。それでも、こうして夫妻が家を建てて暮らしているのは、単に議会議員となって私情を失う彼が強くそれを望んだから。二人が愛する自然に囲まれた土地で、他に出会う人もなく静かに暮らすことを。

「彼が処置を受ける前の、一番最後の私情が、ここでの私たち二人の生活」

 私たち二人だけの。

 大切に、噛みしめるように繰り返された言葉に、私は自分の行動を振り返って気まずく思う。

「私は余計なことをしてしまいましたか」

 他者の介在しない世界を作ることで、彼が彼女のみに愛を向けられるようにと願ったならば、気遣いのつもりが二人だけの世界へと踏み込んでしまった私は邪魔者なのではないだろうか。

 夢から目を覚ますように振り返った夫人は、最初に挨拶を交わした時とは違う、柔らかな微笑みを浮かべて言った。

「いいえ。こんな良く晴れた日だもの、あの人が暑さで倒れてしまう前に送ってきてくれて助かったわ」

 それにね、苦笑まじりに彼女はつけ足す。

「たまには私以外の人とも関わらないと。刺激が無さ過ぎる毎日じゃ、あの人の脳も弱り切ってしまうでしょ」

 それもあって今日は彼に買い物を頼んだのだと彼女は笑った。

 ちょうど、そこへ水撒きを終えたらしい夫が帰ってきた。夫人は飲みかけだった自分のカップを彼に渡して労いの言葉を掛ける。気づいてみればテーブルにイスは二脚しかない。きっと他の食器も家具も二人分しか揃えていないのだろう。本当に、ただ二人きりのための空間なのだ。

 分かってしまったら自然と言葉が出てきた。

「そろそろお暇します」

 受け取ったカップを手にした彼と、汗を拭うためのタオルを取り出していた彼女が振り返る。まだ何のお礼もできていないのに、と慌てる彼に首を横に振って返す。

「奥さまに充分よくしていただきましたし、私も自分の買い物を片付けないと」

 元はと言えば私の欲を出した買い物が発端だった。彼の中から永遠に失われた、それ。

 草木に守られるようにして建つ家を出て、夫妻に見送られながら車を発進させる。がたごとと缶詰のぶつかる物音を聞きながら、目をやったバックミラーには小さくなっていく二人の姿、自然の緑。私は今日知り合った彼らの元を、いつか再び訪ねようとは思えなかった。ここは彼ら二人の、二人だけの国。

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