33-2話 対局
◆
シンドラが唸る。すぐ後ろで、レイモンドが盤を覗き込んでいる。
「こいつは反則だ」
「反則じゃないですよ、ルール違反はしてませんし」
「それはわかるよ。しかしなぁ、強すぎるだろう」
私の読みが正しければ、次の次の私の手番でチェックメイトだ。
唸りながら、駒に触れようとし、手を離すシンドラに「さっさと指せよ」とレイモンドが急かす。
彼はすでに私に負けていた。私の圧勝だった。
結局、シンドラは無難な手を指して、私の予想の範囲を超えてこない。すでに状況は速さ比べだ。
私は堂々と、最速の寄せの手を指す。
しばらく盤を睨んでいたシンドラが、肩を落とす。
「投了する、俺の負けだ」
「ありがとうございました」
頭を下げる私に、パチパチとレイザとアレアが拍手してくれる。
「二人とも知らないと思うが」アレアが愉快そうに言う。「彼女は特別な方の弟子なのだよ。生半可は指し手じゃない」
「特別な方って?」
「聞いても君たちは知らないよ」
ムッとしたレイモンドがアレアの方を疑り深そうに見る。
「アレアさんは勝てるんですか?」
「俺か?」
彼はグラスを振って見せる。
「ちょっと酔っ払っているから、負けるだろう」
「つまり逃げるってことですね」
「言葉がよくないぞ、スペシャリスト」
そう言いながらも、立ち上がったアレアが私の向かいにいるシンドラをどかし、自分が座る。彼の手がリセットボタンを押し、盤上の駒が最初の状態に戻った。
「酔っ払っている状態で悪いが、お相手願おうか」
アレアと三次元チェスを指したことはなかった。どの程度のレベルだろう?
油断は禁物だ。
「よろしくお願いします」
お互いに頭を下げ、コンピュータがアレアの先手番とした。
二人で駒を動かしていく。
序盤はなんのこともない平凡な展開。定跡のままだ。
だが、中盤で思わぬ手がきた。
ビショップを捨ててくる。頭の中にツイン・サクリファイスが浮かぶ。だが、この局面ではそれはありえないとわかる。
まさか酔っ払って座標を間違えたのか?
「そこであってますか?」
思わず尋ねると、アレアが意外そうな顔になり、目を細める。
「酔っ払ってはいても、耄碌はしていないよ」
「失礼しました」
なら、何か目的があるんだ。
考えた。久しぶりに考えた。どれくらい時間を使ったか、私は一手、指した。ビショップを取ったのだ。
正直、まったく次に来る手が読めていなかった。混乱から立ち直れない。
罠のはずだが、破れる事を願うしかない。
次のアレアの手は、平凡だ。やはりビショップを捨てたのは、ミスだった?
自分のミスを認めたくなくて、強がりを言ったのか?
先へ進んでいき、彼のビショップを取った私のナイト、前進。
駒を置いた瞬間、ぞっとした。
嫌な感覚、直感が危険を告げている。
数手進んで、私の危惧は現実になった。
迂回してきたアレアのルークがビショップと協力して、一点突破を狙っている。そこを防ごうとすると、激しい切り合いになって、駒が減ってしまうのは明らかだ。その空いたスペースに、即座にアレアのポーンが飛び込んできて、それはクイーンに変わる。
唐突に天秤が傾いた形だった。
あのビショップをタダで捨てたのは、こちらのナイトの効きを弱める布石だった。
私はそれから数手を指して、投了した。
「なんてこった、大事だぞ」
レイモンドが額を押さえている。シンドラはしげしげと盤を見ている。
「アレアさん、相当、使いますね」
「子どもの時に本気で打ち込んでいてね。こういうのを、昔取った杵柄、と言うんだろう」
ウイスキーのグラスを取る彼の手前にある盤を、私はじっと見ていた。
あの人とはまるで違うが、素晴らしい指し手だ。
私のミスがなければ、もっと良い対局になった。
「感想戦を良いですか?」
「うん?」アレアが腕時計を確認した。「十五分ならね」
私たちは十五分でありとあらゆる変化を素早く確認した。
やはり問題はビショップを捨ててくる局面に、どう対処するかだったが、アレアの中には答えがあるようで、それを教えてくれた。
あのビショップは取らないままで、質駒にしておけ、というのがアレアの考えだった。
「さて、これくらいにしよう。寝る時間を決めているんだ、レイザくんも早く寝たほうがいいよ」
今までずっと、レイザも、シンドラもレイモンドも、ここに残っていたのだ。
「っていうか、アレアさん、俺たちが何を賭けていたか、知ってます?」
「いや、忘れた。聞いていなかった。なんだったの?」
「彼女とデートできる権利ですよ」
アレアがこちらをぼんやり見てから、ふーん、と呟き、ぐっとウイスキーを全部飲み干した。
「ちょっと酔っ払いすぎたかな。また後日、話すことにしよう」
立ち上がったアレアは「では諸君、おやすみ」と静かに口にして、店を出て行ってしまった。
「ミライちゃんとデートしたくて三次元チェスをやったんじゃないのか? あのおっさんは」
「ただ三次元チェスがやりたかったんだろうさ。奇特な人だよ」
シンドラとレイモンドがそんなことを言いつつ、酒を飲み始める。私は三次元チェスの装置から棋譜のデータを携帯端末にコピーした。
それから私たち四人はしばらく雑談し、次に会う約束をして別れた。結構、気のいい人たちだったな。
部屋に戻り、レイの入っている小型の筐体に棋譜のデータを流し込む。
と、レイの立体映像が起動する。
『何、そのデータ?』
「今日、私が負けた時の棋譜。あなたにも分析して欲しくて」
『男? 女?』
思わず苦笑してしまう。この人工知能はこういう変な茶目っ気を発揮しつつある。
「男だよ。さあ、意見を聞かせて」
私に促されて、レイが話し始める。話の内容は、やはりアレアとの感想戦と同じような形になる。
『ここは攻め合う手もあるね』
例のビショップの場面だった。
アレアとは違う意見だった。アレアは、あの駒を質駒にしておいて、別の手を指したが、レイが示している手は、もっと激しい。
駒を強引にぶつけて行って、押し潰せるというのだ。
「でもさぁ……」私は盤上で駒が動いていくのを眺めつつ、唸っていた。「そんな複雑で細い攻めを、人間が即座に読んで、指していくのは無理だよ」
『勝つことを目指しているんだから、リスクはつきもの』
「ハイリスク・ハイリターンは無理なのよ。精神的にね」
それでもレイが示す駒の流れを何度かチェックした。少しは参考になるだろう。
気づくと深夜になっていて、私はレイを休眠状態にして、ベッドに横になり、明かりを消した。
アレアさん、強かったなぁ。
久しぶりに、感動した。そう、負けると感動するのだ。自分より強い人間がいるのは、どこか救いに似ている。
先があると教えてくれるから。
脳裏に浮かぶあの人の残像から意識を引き剥がす。まだ、考えちゃいけない。まだ早い……。
整理が全然、できていないから。
暗闇の中でじっとしながら、また三次元チェスについて考えていた。
もう戦いや騒動に巻き込まれることはなくなった。三次元チェスも、戦う人たちの休息のために研究するんじゃなくて、純粋な自分の趣味になった。
それがどこか後ろめたくて、でも三次元チェスを捨てることもできずに、ここまで来た。
やっぱり、好きなんだ。
もう少し頑張ってみよう、と心に誓った。
(続く)
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