第2話  ニシンは歩いてきた🐾 

埼玉県黒浜貝塚


黒浜式土器は世田谷の三つの貝塚から発見されていますがいずれも終末期のものです。黒浜式土器とは約五千五百年前の縄文時代前期中葉から後期にかけて関東地方を中心に広く作られた土器で、埼玉県蓮田市の黒浜貝塚から出土した土器であることから名前が付きました。

このように土器に名前が使われた遺跡を標式遺跡と呼びます。ということで黒浜貝塚へ伺ってきました。ここに海があったとは思えないようなところですが、丘から南を見下ろすと確かに勾玉状の入り江に見えます。

黒浜貝塚は稲荷丸北貝塚から北へ四五キロメートルいった地点にあり、東西一五〇メートル、南北九五メートルの広い集落に三七軒の住居が造られ、そのうち五軒の住居址と五ヵ所に積み上げられた貝塚が見つかっています。最も大きい規模で東西二五メートル、南北二〇メートルにも及ぶ貝塚があります。

貝塚からはハイガイを中心に、マガキやハマグリ、ヤマトシジミなどが、またガザミ、スズキ、イルカ、そしてシカやイノシシの骨も見つかっています。黒浜貝塚周辺では多くの貝塚が見つかっていますが、新しい貝塚からはハマグリを中心にマガキ、アサリ、ヤマトシジミが中心となる傾向がわかっていて、マガキは養殖されていたことも判明しています。養殖ですよ、販売していたのでしょうか。各地を行商していたのかもしれませんね。稲荷丸北貝塚から見つかった黒浜式土器はちょうどこの時期に当たり、貝などの種類に類似性が見られ、また軽石製の浮子やメノウ、玦状耳飾りも双方から見つかっています。


福島県双葉町郡山貝塚


平成二三年三月二二日に発生した東日本大震災で地震と津波により被災した東北地方。

東北の貝塚を見に行った際に、大勢の小学生や市民が犠牲になった石巻市の大川小学校を慰霊訪問しました。

眼の前は旧北上川が流れています。ここを猛スピードで津波がグングン々と押し寄せて小学生を飲み込んでいきました。2階建ての校舎のはるか上を津波が襲ったといいます。旧北上川の堤防が壁になって、気が付いた時には津波が堤防を越え追われるように道を必死にかけったようですが、次々と飲み込まれ引きずり込まれていったと聴きました。

子どもたちを呑み込んだ旧北上川でシジミ漁をしている漁師に聴きました。そして、たまたま貝塚の話に及び「貝塚のあるところは津波の難を免れた」「この下流域にある貝塚もでぇー丈夫だったんだ」との証言を得ました。

帰京後に確認すると東北の太平洋沿岸にある四八〇ヵ所の貝塚は津波の被害を受けていないことがほぼわかりました。海辺に近いはずの貝塚が不思議なのですが、縄文人は「想定外」の津波を想定して安全な所に住居を作っていたとしか考えられません。警戒していたはずの津波は職住近接の人々を襲いました。あるレポートでは、縄文人は海から2キロメートル以上離れた丘に集落を設け、そこから毎日、海や山に出かけて働いていた。この遠距離通勤が被害を少なくしたのではないかと指摘しています。


福島第一原子力発電所の爆発により、ほぼ町の全域が帰還困難区域に指定されている双葉町にある郡山貝塚も津波による被害を受けませんでした。郡山貝塚は世田谷からおよそ直線で二五〇キロメートル北上した太平洋に接する地点に位置します。ここへは立ち入ることができません。

この双葉町で罹災した方々が蓮田で避難生活をしていると聴きました。そうした縁は古くからあったといいます。郡山貝塚から先に触れた埼玉蓮田の黒浜式土器や同じく関山式土器が出土しており互いに交流があったと蓮田市文化財展示館では指摘しています。そして先に触れましたがニシン🐡の骨が発見されているのです。福島で獲れたニシン🐡が蓮田を含むいくつかのルートを経て、世田谷の稲荷丸さん家族にわたった可能性はないのでしょうか。


神奈川県三浦市諸磯貝塚


諸磯式土器は縄文時代前期を席巻した土器といっても過言ではないほど各地から出土しています。特に関東地方を中心に東北、信越、東海、北陸などにも及んでいます。諸磯式土器が稲荷丸北貝塚から見つかった当時、都内では集落から発見された初めての例として注目されました。

神奈川県三浦市三崎町諸磯字新堀に諸磯貝塚はあります。諸磯丘陵と新堀丘陵の間にある谷間で発見され、複数の住居址とともに貝塚が見つかり、岩礁に生息するサザエ、アワビ、カキ、魚類ではマダイ、クロダイ、スズキなどの骨が発見されています。そして夥しい縄文土器が発掘により出土し「諸磯式土器」と命名されました。のちに研究が進み土器の模様や形態の変化により諸磯式のaからcまで分類区分けされています。諸磯式土器は砂粒が多く含まれ幅が七ミリ程度と薄く、また内面を磨きあげ漆を塗ったものや用途に応じて深鉢以外に浅鉢なども作られバラエティーに富んでいます。縄文時代の社会を考えるとき土器を中心とした文化形成が考えられます。

稲荷丸北貝塚の土器は最終末期の黒浜式から最新式の諸磯a式へ移行した瞬間を物語っています。そこにゆるやかな文化の発展と生活様式の変化が見て取れるのです。稲荷丸さん家族は流行の最先端を吸収していたのでしょう。


交易を担った稲荷丸さん家族


稲荷丸北貝塚を初め黒浜貝塚、郡山貝塚、そして諸磯貝塚を概観してきました。

例えば同じ形式の土器類は相互の交流、文化の影響を物語っています。そして稲荷丸北貝塚の第四住居址と第五住居址から発見された生活用具の相違からは、分業化が想定されると同時に盛んな交易を物語っていることがわかりました。単なる共通性や偶然性ではなく、そこには陸の道、川の道、海の道により村々を結ぶルートがあり、山の民と海の民の行き来があったのです。


稲荷丸さん家族は、この間に立って交易を成立させる運搬や交渉を行っていたのではないかと思うのです。多量の出土品がそれを語っています。海の民からは塩や貝を受け取り山の民へ運搬し、逆に山の民からは海では得られない動物の肉やメノウなどの貴石を交換物として受け取り、海の民へ渡す物々交換という原始的な経済の中継役=商人として社会的な役割を担っていたのではないかと思うのです。そして双方から貝やニシン🐡の干物、干し肉のプレゼントを受けたのでしょう。交易を通じて稲荷丸さん家族は生活をしていたのです。


縄文時代は、豊かな自然の中で山と海の幸を受けた食生活を行い多様な生産と加工によって分業が進んでいました。一方で逃れようのない災害にも立ち向かい、縄文人は想定外を想定し、できる限り安心できる集落を築いてきたのです。その基盤となったのは、交通、交渉、交易の三つの「交」を繋ぐ人と道でした。貝塚を作った稲荷丸さん家族は、マクロ経済の「三つの交」の一翼を担い人々の生活を支えていたのではないでしょうか。もっともシジミ習慣は付かなかったようですが。


稲荷丸さん家族の果たした役割が世田谷人の原点であり出発地点だったと思うのです。


ニシン🐡はぼくにそっと教えてくれました。

「わたしは稲荷丸さんに連れられて歩いてきたのよ」


参考文献

「稲荷丸北遺跡」稲荷丸北遺跡調査団編(団長江坂輝弥・昭和五八年五月一日ニューサイエンス社福田静江発行

「東京の貝塚を考える」坂詰秀一監修品川区立品川歴史館編平成二〇年一一月二〇日雄山閣発行

「縄文時代前期後半の型式間交渉の諸問題」谷藤保彦・関根愼二編 平成二七年二月五日縄文セミナーの会発行

「貝が語る縄文海進 南関東、+2℃の世界」松島義章著 平成二七年二月一五日有隣堂発行

「子母口貝塚資料・大口坂貝塚資料 山内清男考古資料5」平成四年三月三一日奈良国立文化財研究所発行

「川崎市子母口貝塚調査報告」増子章二、浜田晋介著『川崎市市民ミュージアム紀要第一集』所載平成元年三月三一日川崎市市民ミュージアム発行 

「蓮田市史通史編Ⅰ」 平成一四年一二月二五日蓮田市教育委員会発行

「企画展災害と蓮田」平成二六年一〇月蓮田市文化財展示館発行

「特別展示外洋の貝塚 双葉町郡山貝塚出土品」平成二八年蓮田市文化財展示館発行

「安全性認識か 貝塚、津波直撃免れる 東松島」平成二三年五月一四日付河北新報朝刊記事

「宮戸島の縄文文化に学び震災復興を考える」岡村道雄著『季刊東北学第二九号』(平成二三年一〇月二五日東北芸術工科大学発行)所載

「捨て場から探る縄文時代の漁撈活動」太田原潤著(前掲同)

「貝塚と大津波-縄文に学ぶ未来の景観-」内山純蔵著平平成二三年一二月五日海洋政策研究所


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