第3話 女性防衛大臣・・・野毛大塚古墳の主
襲撃された集落
世田谷のある多摩川左岸には、国分寺崖線沿いに、上流から喜多見、大蔵、鎌田、岡本、瀬田、野毛、等々力、奥沢などに原始古代の遺跡があり、特に世田谷区瀬田1丁目及び2丁目に跨る瀬田遺跡や鎌ヶ谷遺跡は、先土器時代から縄文時代、弥生時代、そして古墳時代、奈良時代、平安時代、さらに中世を経て江戸時代に至るまでの遺構や遺物が連続して発見され、世田谷区内では珍しい遺跡地帯として知られています。
そのうち瀬田遺跡からは、東西約120メートル、南北約100メートルに及ぶ弥生時代の環濠集落が発見されています。隣接地には複数の方形周溝墓が発見されていることから、多摩川流域にある墓域も含めた集落としては最大規模のものとされています。
興味深いことに、この環濠集落が襲撃された痕跡があります。濠に住民が使用していた多数の弥生式土器が投棄されていました。そして北側の新しい集落跡から出土した土器は、古墳時代前期に愛知県で製造されたことが明らかとなっています。すなわち、東海地方から来た集団が環濠集落を襲った際に、その生活用具類を破却したものであることがわかっています。
ちょうど2世紀末に起こったとされる狗奴国勢力の戦乱と関係する痕跡です。
狗奴国勢力の戦乱を収束させた邪馬台国女王の卑弥呼は、纏向を首都として、西暦239年には魏へ朝貢の使者を送り、見返りとして親魏倭王となり初代の倭国の女王となりました。魏の後ろ盾を基に各首長との間に緩やかな連合政治体を組んで倭国を形成し、247年頃には没しています。巨大な前方後円墳である箸墓古墳に葬られました。以後、各地にこの前方後円墳を模した古墳が造られ、墳墓の規模や副葬品、特に卑弥呼が魏から贈られた三角縁神獣鏡の配布を受けた各地の首長の新たな身分秩序が築き上げ築き上げられました。
これが古墳時代の幕開けです。
アジアは躍動していました。3世紀から4世紀の中国大陸では、三国の魏の王朝を受け継いだ晋が西暦280年に呉を滅ぼして中国全土を統一しますが、匈奴を中心とする北方民族の侵入により中国北部は騎馬民族による支配を受けて分裂状態となります。いわゆる南北朝時代を迎えるわけです。
中国北東部に勢力を持っていた高句麗は、中国の混乱に乗じて楽浪郡、帯方郡を滅ぼし、さらに南部の百済、新羅、伽耶へ圧力を加え、朝鮮半島の情勢を極めて不安定にさせます。倭は百済との通交を進め軍事同盟を結び、伽耶への派兵を行い高句麗との直接交戦が想定され緊張が高まっていきました。4世紀末において高句麗と倭との交戦があったことを好太王碑は伝えています。日本もアジアのうねりに巻き込まれていったのです。
瀬田遺跡は武蔵における古墳時代の幕開けを示す痕跡を我々に伝えているのです。
初代野毛大塚古墳の主
古墳と言えば、古墳女子が前方後円墳のくびれをみて「セクシーやわ(^^♪~」と叫んで楽しんでいるようです。それはそれでいいのですが、ともかく古墳というと男性の首長、豪族の墓といういうイメージがありませんか。でも意外に女性を葬った古墳も多くあります。
アジアが大きくざわめき、倭の国内は、中国の混乱を受けて大きな政治的変化が生じていました。
4世紀末から5世紀初頭にかけての畿内では、奈良市東南部にあった纏向古墳群が衰退し、南部の佐紀古墳群が形成されるとともに、有力な古墳がなかった河内や和泉の地に突如として巨大な前方後円墳が出現します。津堂山古墳を初めとする「古市・百舌鳥古墳群」で、卑弥呼に代わる新たな政権が河内の地に誕生したことを物語っています。
同じ時期、南武蔵の古墳群では、多摩川左岸にある田園調布・野毛古墳群の宝莱山古墳、亀甲山古墳、右岸の日吉・加瀬古墳群の白山古墳や観音松古墳といった大型前方後円墳が衰退し、前者では野毛大塚古墳をはじめとする帆立貝形の古墳が、後者は円墳が造られるようになります。これは前方後円墳の規制を受けた新政権における身分秩序がこの地方まで及んでいたことを裏付けているといわれています。
さて、高句麗の進出は、倭の友好国である伽耶と百済、特に伽耶との貿易によって鉄製品を得ていたヤマト王権にとって、鉄の安定的供給を脅かすいがいのなにものでもありませんでした。倭は百済の要請を受けて軍事同盟を結び、伽耶へは直接派兵を行います。また、高句麗との直接交戦が避けられない状況において、ヤマト王権は中国の南朝に使者を送り、朝鮮半島における軍事、外交を有利に進める工作を行っています。
「宋書」の夷蛮伝倭国条に、5世紀のおよそ百年間にわたり、讃、珍、済、興、武の5人の倭王が宋へ使者を送ったことが記録されています。倭の5王がどの大王に比定されるかについては並立も含めて諸説があり確定を見ていませんが、讃は応神、珍は仁徳、済は允恭、興が安康、武が雄略とひとまず比定しておきます。
5世紀の初め、いわゆる倭の五王の初代と考えられる讃、すなわち応神天皇のころ、世田谷区上野毛に野毛大塚古墳が築造されました。この古墳の被葬者は、南武蔵地方における豪族または首長であるといわれてきましたが、近年の発掘調査によって、応神天皇の政権下における国防大臣クラスの地位にあったことが明らかになってきています。えっ、こんな鄙な世田谷で。うそでしょうという声が聴こえてきそうです。
野毛大塚古墳は、全長82メートル、高さ10メートル、周囲には最大幅13メートルの濠がめぐらされており、同時期、同形式を持つ古墳としては国内最大級の規模を有しています。一見すると前方後円墳であるかに見間違えますが、方形部分が極端に短縮され、帆立貝に似ているために帆立貝形と呼ばれる特殊な形式を持つ古墳です。
平成元年から同4年にかけて行われた発掘調査では、円頂部から4人の埋葬施設が確認され、初代と初代を補佐したと思われる埋葬施設から予想し得なかった、甲冑を初めとする大量の鉄製武器、武具などが発見されました。特に、初めに埋葬された棺からは直刀、鉄剣、鉄鏃の武器57点、甲冑などの武具6点が、また補佐していたと思われる被葬者の棺からは、同じく武器236点、武具1点が見つかっており、鉄製品の種類は豊富で、ことに鉄鏃は当寺使われていた全種類が揃い、最先端の技術で製作されたと考えられています。武具も揃いのもので大変珍しい副葬品です。数量は群を超え全国に前例がありません。大量かつ豊富な武器と武具は畿内で鍛錬されたものであり、ヤマト王権から被葬者らに対して直接に下賜されたことは濃厚です。なお、あとの二つの棺が発掘され、一つの古墳から3代にわたって埋葬されたのは極めて珍しいケースです。
初代の人は防衛大臣クラスの人であることは確かのようです。ではどんな人物だったのか知りたいところですね。
女性防衛大臣、、、とは言うもののあの人ではありません
野毛大塚古墳に葬られた初代の方は、女性であった可能性が強いと考えられます。
圧倒する武器、武具から男性を想定してしまいますが、遺体の頭部付近から完形品で40以上、破損品も含めるとおそらく100前後の大量の櫛が発見されているからです。最も大事な頭部や上半身付近には朝廷から下賜されたと考えられる鏡など重要な副葬品が飾られます。埋葬された方はヘアースタイルを初め、身だしなみに繊細な女性だったのではないかと思うのです。ちなみに他の古墳で副葬品として櫛が発見されるケースがありますが、いずれも女性であった可能性が指摘されています。このことから野毛大塚古墳の主は女性で、男性の補佐官が従っていたことが想像されます。大量のしかも当時として最先端の武器、武具が揃っており防衛大臣だった可能性が高いのです。
ヤマト王権は、前述したように、伽耶と百済の要請により朝鮮半島へ軍を派遣し、高句麗の騎馬軍団と交戦しており、野毛大塚古墳の被葬者も国防大臣クラスとして兵を率いて軍事行動、外交交渉に直接臨んだことは十二分に考えられます。また、高句麗騎馬軍団との交戦は、それまで歩兵中心だったヤマト政権の軍備に猛省を促したといわれ、以降、伽耶から馬具を手に入れ、さらに技術者を招いて馬具の製造、馬匹生産に力を入れて騎馬軍団を編成するようになったといわれています。
応神天皇と野毛大塚古墳の被葬者との氏族的関係については必ずしもはっきりしませんが、応神天皇は妃である弟媛(息長真若中比売)との間に稚野毛二派皇子を得ており、野毛の地名と皇子の諱が同じということは、全くの偶然として看過してよいのでしょうか。それから埼玉県行田市で発見された稲荷山古墳の鉄剣の銘文も併せて検討することが必要だと思います。いずれ、誰だったか明らかになると思います。
「応神さん、お元気?」
「これは防衛大臣、いつもおきれいな緑髪ですな~」
「あら、お上手だこと」
なんて会話があったかも。
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