世田谷とは何か‐世田谷人と交易の歴史‐
@wada2263
第1話 ニシンは歩いてきた(^^♪
世田谷の貝塚
世田谷区内からは、先土器時代の遺跡と、それに続く数多くの縄文時代の遺跡が見つかっています。確かに全国的に知られた大蔵遺跡や桜木遺跡などがありますが発見された住まいの跡(住居址)、壺や鉢などの土器、鏃や斧などの石器といった生活道具(出土品)をみても隣接する地域と大きな違いはありません。
あえて世田谷の特殊性を挙げるならば縄文時代前期の貝塚があるという一点だけです。
「えっ、世田谷に貝塚?」と思われる方も多いことでしょう。貝塚からはハマグリ、シジミ、カキのほかに魚や動物の骨も見つかっているのです。
世田谷に貝塚があったと聴いただけで驚く方もいるでしょう。
さらにニシン🐡がそこから見つかっているといったらあなたは信じるでしょうか。
サバはともかく、ニシン🐡の骨には多少なりともどっきりしました。
ニシン🐡は冷水域を好み春に湾内を回遊して産卵することから春告魚といわれています。塩焼き、燻製にして食されますが、数の子はお正月の定番であり、京都のニシンソバは保存食の身欠きニシン🐡を甘く煮て利用した一品で庶民に親しまれたお魚ですね。とろみのある生に近い塩漬けは大好物です。現在では日本近海でほとんど獲れなくなりました。
今から五千年前の世田谷人がニシン🐡を食べていた。面白いですね。当時、東京湾をニシン🐡回遊していたのでしょうか。可能性はなくはないのですがノーです。あったとしてもごく稀と考えてよいでしょう。
貝塚からニシン🐡が発見される例は北海道、東北北部で散見できます。東北南部から関東では茨城県土浦市の上高津貝塚、福島県双葉郡双葉町の郡山貝塚などから発見例がありますが、神奈川、東京、千葉ではほぼ皆無ですが管見の限りでは、港区の西久保八幡貝塚とこれからお話する世田谷区の稲荷丸北貝塚の2例だけです。
となるとニシン🐡は泳いできたのではなく歩いてきたことになりますか。そうなりますね。他の地域から運ばれた可能性を考えなければなりません。しかもかなり遠くから、遠くから。
🎶ニシン🐡来たかとカモメに問えば♬、民謡ソーラン節のなかに歌いこまれたニシン🐡は古くから北海道の主たる漁猟の対象であり、日本人、アイヌ人とは切っても切れない魚です。今日の常識から考えれば北海道から東北地方北部を回遊する魚であり関東にいたとは思えないのです。
これから紹介する世田谷人たちは、春はニシン🐡、秋はサバ、時にシジミにカキ、イノシシやシカ肉を食すグルメ・ファミーユだったことが貝塚から明らかになっています。彼らはどんな生活を送っていたのでしょうか。
まずは縄文時代の貝塚について見ていきましょう。
貝塚といえば教科書に登場する大森貝塚や加曾利貝塚などが有名で、すぐに思い浮かべる方もいるでしょう。日本で確認されている貝塚は全国で四千ヵ所もあることから縄文時代を「貝塚の時代」ともいいます。そのうち関東では約三割強を占める千三百ヵ所、さらにその約半数の七七〇ヵ所が千葉県に集中しています。次いで神奈川県の三〇〇ヵ所、東京都は大森貝塚、西ヶ原貝塚、東山貝塚の東京三大貝塚を初めとして一〇〇ヵ所に上ります。海のない埼玉県でも一〇〇ヵ所、栃木県と群馬県からも数ヵ所で発見されていますが、一方、海に面していながら茨城県は五ヵ所と極めて少ない。いったいどういうことでしょうか。原因は地球温暖化にあったとされています。今から一万年前の縄文時代から北極海の永久凍土が融け出して海水が徐々に上昇し、おおよそ六千年前には陸地の奥深くまで侵入したといわれ、専門家はこれを「縄文海進」と呼んでいます。結果として、今、海のない地域まで海が入り込み埼玉県、群馬県にまで貝塚が造られたというわけです。
一方で、この時期には大地震が各地で発生しています。例えば福島県相馬市の段ノ原B遺跡からは東西長九二メートル、南北幅最大で六メートル、最大の深さ二・五メートルの巨大地震による生々しい地割れの跡が見つかっていますし、また長野県茅野市阿久尻遺跡でも地震の痕跡が発見されています。
茨城県の貝塚が少ないのは鹿島灘という非常に長い海岸線が外洋に面しており広範囲にわたる海進と大地震、そして大津波がたびたび押し寄せて来たためだったようです。千葉県も同様に外洋に接する九十九里浜の地域では発見例が極端に少なくなります。
貝塚が東京湾内に多く集中しているのは、大地震や海進が収まり、静かな波打ち際につくられた浜辺や入江、河口付近が貝にとって生息しやすく採取するにも容易だったからでしょう。ここに住んでいた人や被災者として移住してきた人たちが貝などを採って安心して生活できた場所だったのです。
さて、発見された世田谷の貝塚は、多摩川流域の国分寺崖線と呼ばれる標高三十五メートルの段丘上付近に、上流から瀬田遺跡、稲荷丸北遺跡、そして六所東遺跡と呼ばれる縄文時代前期後半の集落遺跡から見つかり多摩川では最奥に位置します。約五千年前のことになります。
まず多摩川流域の貝塚と海岸線について考えてみてみましょう。世田谷区の三つの貝塚から下流に当たる大田区側の沼部、ちょうど弧線を描くように東急池上線が東から入り込み多摩川の流れに沿うように走っていますが、その内側に貝塚が三ヵ所見つかっています。
また多摩川右岸の神奈川県側を見ると多くの貝塚が発見されています。主に現在の鶴見川流域左岸の段丘上に作られ、規模も大きいことから貝採取の本拠地であったと思われます。各貝塚を点として線で結んでみると、多摩川の海進は沼部と日吉を結ぶライン付近を下限とし、調布方面から流れ下った野川が多摩川へ注ぎ込む二子玉川付近と神奈川県側の溝の口を結ぶラインが上限となって、鶴見川流域の丘陵地に沿うように大きく開いた扇状地が海岸線となり、広い入江を形づくっていたのではないかと考えられます。
世田谷の三つの貝塚は、いずれも集落内にあり直径一メートル、厚さ五〇センチ程度の穴につくられたとても小規模な貝塚です。発見された主な貝殻はハマグリとヤマトシジミ、マガキですが、別表一に示しました通り構成比にそれぞれの遺跡で差があることがわかっています。瀬田ではハマグリが九割を占めヤマトシジミはなくマガキが一割。稲荷丸北ではハマグリが二割に対してヤマトシジミが八割。六所東ではハマグリとヤマトシジミは均等です。三ヵ所とも土器の様式から同時代の遺跡と思われますので海進の影響は考えづらく相違の原因はわかりません。
別表一
瀬 田 貝 塚 稲荷丸北貝塚 六所東貝塚
所 在 地 瀬田1-8付近 上野毛3-7 野毛2-18
貝 塚 数 2 6(住居内2) 2
ハマグリ 90% 20% 50%
ヤマトシジミ 0% 80% 50%
マ ガ キ 10% ○少量 不明
土 器 〈黒浜、諸磯ab〉
特 記 稲荷丸北遺跡 魚骨、カニ、イノシシ、シカの骨、土器完品、石皿多数。
稲荷丸北貝塚
さて、三つの遺跡のうち最も正確な調査が行われデータが豊富な稲荷丸北遺跡について見てみましょう。
稲荷丸北遺跡は、昭和五七年(一九八二)、五島美術館(世田谷区上野毛三丁目七番)の別館を建設する際に発見されました。標高三五メートルの崖線上の台地に位置し、発掘された面積は七百五〇平米(最長東西四一メートル南北二一メートル)ですが一〇〇メートル四方程度の範囲内に集落を形成していたようです。稲荷丸北遺跡の人々「稲荷丸さん家族」はいったいどういう暮らしぶりをしていたのかを探り貝塚の意義を考えてみたいと思います。
遺跡からは主に縄文時代前期後半の住居址や出土品が発見されています。
竪穴住居址九、貝塚六、住居址内貝層二、土壙三、一一二二九点に及ぶ縄文土器(黒浜式、諸磯式)、石鏃五三点、石斧九四点、石皿三四枚、磨石一〇九点、石製の軽石、耳飾りの装飾品など計九九六点に及ぶ石器が発見されています。
貝塚は六ヵ所の穴と二つの住居址から発見されています。いずれも土などの混入を差し引くと二〇リッターに満たない程度でバケツ二杯分(縄文土器の深鉢二個分)に相当します。貝の塊などの状況から多くても四、五回程度の煮炊きが行われた分にしかなりません。
稲荷丸さん家族が長い期間に貝を採取するテリトリーを持っていたのではなく、たまたまプレゼントを受けたか、物々交換で手に入れたのか、いずれにしても主食ではなく他の集落からいただいたものと考えてよいと思います。
まず貝塚から発見された貝殻や動物の骨について見てみましょう。
主体となるのはヤマトシジミとハマグリですが、このほかに二枚貝としてマガキ、アサリ、シオフキガイなどが、巻貝のイボキサゴ、ツメタガイ、アカニシなどの小さな貝殻までも含まれていることがわかっています。さらに稲荷丸さん家族の貝塚からはエイ、ニシン🐡、サバ、ガザミ(カニ)、そしてイノシシとシカの骨片も見つかっています。
ヤマトシジミとガザミは河口付近の海水と真水が混ざり合う汽水域の泥土中に生息しているのに対してハマグリは砂浜などの鹹水域に生息しています。五〇年も前になりますが千葉駅を出ると道の両側に屋台が立ち並んでいて焼きハマグリを売っていました。ハマグリを串刺しにして甘辛のたれで焼いたものでしたが、磯の香りがしてとても美味だったことを覚えています。
ニシン🐡は先ほど述べた通りですが、ごくわずかな骨の小片にすぎません。ニシン🐡はご存知の通りイワシなどと同じで骨ごと食べられますから、何かくしゃみでもしたはずみか、歯ぐきに挟まったのを取って捨てたのか、偶然に残ったものでしょう。
大事なのはなぜ北海道、東北北部にしか生息していないニシン🐡がこの貝塚ら出て来たのかということです。仮に近い東北北部から運ばれたとしても生ではなく干物でなければ運送は無理です。とすればすでに干物を作る技術があったということになります。一番近い福島県双葉郡双葉町あたりから交易品としてもたらされたのではないでしょうか。
サバは太平洋沿岸を回遊、九月から一〇月にかけて産卵のため南下することから秋魚の代表です。焼き魚、煮魚、サバ節などして食されます。いい加減に数を数えることを「サバを読む」というたとえになるほど多く獲れた魚です。これはどうも東京湾でも獲れそうです。
日本最大の縄文遺跡として知られる青森の三内丸山遺跡跡からブリやカレイなどとともにニシンとサバの魚骨が大量に発見されています。いずれも頭部を切断し保存処理が行われていたことがわかっています。また保存加工された魚が七〇キロも離れた内陸の秋田県大館市の池内貝塚から多量に発見されています。このことから陸奥湾で水揚げされたニシンやサバがいくつかの集落を経て稲荷丸さんたちにもたらされた可能性が考えられます。
多摩川の河口付近だったわけですがコイ、サケ、イワナなどの淡水魚の骨は見つかっていません。また動物ではニホンジカの骨と火であぶった焦げ跡が残るイノシシの骨が見つかっています。いずれもごくわずかであることから、稲荷丸さん家族が狩猟で捕獲したのではなく、ほかの集落から入手したと見るべきでしょう。おそらくは燻製した製品を手に入れたと見られます。
次に住居址内から見つかった品物を見てみましょう。
四号住居址と五号住居址からはそれぞれに特徴のある品物が大量に見つかっています。
まず、四号住居址からは神奈川県丹沢山系と山梨県の原産で石英閃緑岩と安山岩で作られた石皿一三枚(全体の三八%)、磨石三八個(全体の三五%)、また土器は終末期の黒浜式、完形品を含む諸磯a式(横須賀市諸磯が中心となって製作された標準土器で初期の物)縄文土器が二〇七点確認され、深鉢及び浅鉢の各二点はほぼ割れずに残っていました。四号住居址から出土した多数の石皿や磨石は木の実やイモなどを叩いたり擦ったりして加工する道具であり、大量の土器は食物や飲料水の貯蔵、煮炊き、発酵、運搬に使う道具です。
一方、五号住居址はというと伊豆神津島産と思われる黒曜石やチャートなどで作られた石鏃四一点(全体の七七%)、新潟県姫川産と思われるヒスイの原石、産地は不明ですが軽石でできた浮子。石製、土製の錘、さらに耳飾りの装飾品が見つかっています。少量の土器の破片は、諸磯a式の後を継ぐ諸磯b式と呼ばれるものでした。
四号住居址から発見された遺物群に対して、五号住居址の石鏃は狩猟または外敵と戦うための武器で、浮子と錘は漁猟に使用する道具、さらに装飾品は狩猟や戦闘の際に魔除けとされたものです。
このように二つの住居址にあった道具は性格がまるで異なるわけですが共通点があります。
いずれの道具も他所からもたらされたということです。黒曜石は神津島、石皿や磨石などの石器は甲州、相模からは深鉢や浅鉢などの土器が運ばれた。量の多さも共通しています。稲荷丸さん家族だけで使用したとは考えづらい量があります。二つの建物は住居址というよりも各地から運搬されてきた品物を一時的に保管する物置だったということが言えるかもしれません。貝塚から見つかった貝や動物の骨の量は逆に少なく、稲荷丸さん家族が直接狩猟や漁猟をしていたとも思えません。縄文時代の常識ともいえる「縄文人=狩猟者」という図式は少なくとも稲荷丸さん家族には当てはまりそうにはありません。
考えなくてはいけないのは、稲荷丸さん家族の生活をどう捉えたらよいのかということです。
この時代はモノをとる人、モノを育てる人、モノを加工する人、モノを運ぶ人など、すでに分業が進んでいたのです。そしてそれを繋ぐ人々「モノを交換する人」がいたことを忘れてはならないのです。お互いがウィンウインになるネゴシエーターが縄文社会にいてモノの交通整理を行っていたと思うのです。稲荷丸さん家族は物々交換を仲介する人だったのではないでしょうか。ニシン🐡は彼らによって運んでこられた。まさかカモメが、、はないでしょう。
(続く)
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