第23話 自由

 首都病院のダーカーの病室へ行くと、彼女が過ごしていた寝台は、綺麗に片付けられていた。

 オール・イン・ガンでダーカーを撃墜してから、三日が過ぎていた。

 その間、僕は病院へ行けなかった。

 勇気が出なかった、怖気づいたのだ。

 彼女を失うのは怖い、しかしすでに失われているのではないか、と考えて、そこから離れられなかった。

 三日の間に、想像を巡らせ、諦めようとした。

 でも結局、ここに来ている。

 そして病室に、ダーカーがいない、つまり、それは……。

「あら」

 ちょうどやってきた顔見知りの看護師が、僕に気づいた。

「ライオンさんは、今、検査室ですよ」看護師が微笑む。「三日前の夕方、回復し始めたんです。今朝も検査したんですけど、もう退院できるということで、今は、最後の検査です」

「そうですか」

 どうしても、動き出せそうになかった。そんな看護師が不思議そうな顔になる。

「お会いにならないのですか? 検査室まで、ご案内しますが」

「ええ、そうですね……」

 どうにかこうにか、一歩、踏み出すことができた。靴底が床に張り付いているように、重い。

「すみませんが、案内してください」

 看護師に伴われて、僕は別の階にある検査室にたどり着いた。

 目の前で扉が開き、ギクリと僕は足を止めた。

 華奢な体の女性が出てくる。車椅子だ。服装は病院着ではなく、私服。足の上にコートを畳んで置いてある。

 動けなくなった僕の前に、車椅子が進んできて、看護師がその女性に声をかける。

「ライオンさん、ハクオウさんに何のお話もしていないのですか? 連絡もしなかったの?」

「ええ、びっくりさせようと思って」

 レレイス・ライオンは微笑み、僕を見上げた。

「私はこの通り、普通に戻ったわよ」

「うん、そうか……」

 そこにいるのは、ダーカーではなく、レレイス・ライオン、という一人の女性だった。

 どこにでもいそうな、普通の女性。

 何かが失われ、何かを取り戻せた。そんな気がする。

 言葉が続けられない僕の様子に、看護師は二人だけで話をしたいんだと勘違いしたようで、「お大事に」と言って、離れていった。

 廊下で、僕とレレイスは、向かい合ったまま、しばらく黙っていた。

 何を言えば良いんだろう?

 彼女が何を知っているのか、どう解釈しているのか。

 それを知るのは、どこか、怖い。

「あなたのことが大切なのは、わかっているの」

 先に口を開いたのは、レレイスだった。僕は彼女をまっすぐに見た。

「でも、曖昧な部分もあるわ。いえ、最初は曖昧と思ったけど、今はそんな感じも消えたわね。ねえ、レイル、あなたは私の何なの?」

 からかうような口調。それさえも、僕をよりひどく動揺させた。

 答えは、自然と言葉になった。

「君は、僕にとって、唯一無二な人だよ」

 今、僕の声は震えている。レレイスは、平然としているのに。

 こんな僕をダーカーが見たら、なんて言うだろう。

 レレイスが頷いて、こちらを見つめ返す。下からの視線を僕は受け止めた。

「唯一無二の人? そんなの、全員がそうじゃないの?」

「全員?」

「そうよ。この世界にいる人、全員が唯一無二で、尊いじゃないの」

 意外な言葉だった。冗談なんだろうと、口元の笑みで気付けた。

 それ以上に、彼女の雰囲気は、ダーカーが冗談を口にした時の雰囲気、そのままだ。

「言葉の綾だね」

 やっと僕は平静を取り戻しつつあった。

 改めて、僕は彼女に想いを伝えた。

「特別ってことだよ、誰よりも」

「あら、それって、愛の告白?」

 彼女はまだからかうつもりらしい。彼女の中で、僕はどう認識されているのか、想像もつかない。それでも、同じ言葉で話していて、ここは現実世界だ。

 戦いとは無縁の、絶対に揺るがないはずの世界。

「そうなるかもね。いつの間にか、そんな気持ちになったんだよ」

「もっとムードを大事にできないの?」

 やれやれ。

 僕の心に力が蘇った。表情を、改めることも可能になる。

 苦笑だけど、無表情よりはだいぶマシだろう。

「今まで、病院でばかり会っていたからね」

 そういえば、僕と彼女の出会いは、彼女の中ではどう解釈されているんだろう。

「出会った瞬間を、覚えている?」

 探るように言うと、彼女は少し怒ったようだった。苦笑いを見せて、誤魔化す僕に、レレイスがぷりぷりとした感じて、応じる。

「公園で、会ったんじゃないの。忘れたの?」

「僕から声をかけた?」

「忘れているなんて、信じられないわ」

 そう言ってから、彼女は頬を赤らめる。

「恥ずかしい話だけど、あなたの空色のコートが素敵で、私から声をかけたわね。もう、この話はあまりしたくないわ」

 そうだね、と小声で応じて、僕は気持ちを切り替えた。

 僕と彼女の記憶の齟齬は、時間をかけて埋めるしかない。それは僕の方から働きかけ、僕が負担するべきものだ。

 あるいは、その作業の中で彼女と離れ離れになることもあるんだろうか……。

「また会えるかな……」

 自信がないのに耐え切れず、尋ねていた。

 レレイスは目を丸くしている。

「え? さっきの告白は、なんだったの? バカにしている? それとも記憶障害か何か?」

 そうか。

 また会えるのだ。

 現実で、僕と彼女は、また会える。

 まだ繋がっていられる。

 でも僕が初めて知った彼女、僕が憧れた彼女は、いないらしい。

 この現実には。

「今週末にね、私の部屋で回復祝いの集まりをやるつもりなの。友達の一人が言い出して。ずっと部屋に帰っていないから、と答えたんだけど、掃除するって言ってきかなくってね、今頃、掃除の真っ最中よ」

 楽しそうな彼女を、僕は見つめた。

 僕が知らない彼女の顔。

「どうかした? ちょっとおかしいわよ」

 僕は微かに首を振った。

「気にしないで。大丈夫だよ」

「そう? それでね、あなたを集まりに招待したいんだけど、どうかな。無理?」

「週末は仕事がないから、自由だと思う。行けるさ」

「じゃあ、友達には黙ってて、サプライズにしましょうよ。今から、計画を立てるわよ」

 細い腕、細い手で車椅子の車輪を掴むとゆっくりと移動を始める。僕は素早く、彼女の車椅子の背後に回り、そっと車椅子を押した。

 話す様子からは、オール・イン・ガンの中のような殺伐とした気配はない。

 彼女はまるで別人みたいだ。でも時折、その仕草に、ダーカーの素振りが重なって見える。

 髪の毛をかきあげる仕草。少しだけ首を傾げる姿勢。意見を言う時、微かに顎を上げる癖。

 彼女はいくつかの手続きを済ませて、退院することになった。その手続きの間に、サプライズの計画が構築されていく。

 これもまた、良いじゃないか。平和な日常。

 何にも代えがたいものが、今、現れようとしているんだ。 

 僕の目の前に。仮想遊戯ではない、実際の世界で。

 病院まで、その驚かせる相手の友達が迎えに来るというので、僕は今はいない方がいい、そうレレイスが言って、僕たちは病院の建物の中で別れることにする。一階のフロアには、医者や看護師、事務員、患者や家族が行き来して、少し騒がしい。

「ねえ、レイル」

 彼女が手招きにするので、僕はしゃがんで視線の高さを合わせた。

「何?」

 訊ねようとした僕に、そっと彼女が顔を寄せ、頬に唇を触れさせた。

 見返すと、彼女は真っ赤な顔で、うつむいて、上目遣いにこちらを伺う。

「嫌だった?」

「嬉しいよ」

 満面の笑みを浮かべられただろうか。彼女は、笑っている。

 手を振るレレイスに見送られて、僕は一人で病院を出る。

 何度も何度も繰り返した、この見舞いもなくなるのか。

 一人で表通りをゆっくりと歩く。冬の街路には防寒具をまとった人ばかりだ。

 いつの間にか、季節は進んでいる。この冬も、いつか終わるはずだ。

 穏やかな日々が、満ち足りた日々が、戻ってくる。

 部屋に帰って、何をするべきだろう。読もうと思ってそのままになっている本も多い。ゆっくり休むことも、必要な気がした。

 少し休んだら、ドルーガやアンナ、シャーリー先輩と、食事の予定を立ててもいい。

 彼らに、無性に会いたかった。

 そんなことを考えても、どうしても抜けないことがある。

 オール・イン・ガン。

 無視したい。いや、無視するんだ。

 もうあの仮想遊戯を遊びたいとは思わなかった。いや、参加するのなら、徹底的に仕組みを破壊するために、参加する。でもそれは無理だろう。なら、やめる。忘れよう。

 まだ心の中にある負の感情は整理がつかない。時間があれば、消えるかもわからない。

 でも、当面の方針は決まった。

 無視だ。忘れる努力を続けるのみだ。

 部屋に戻って、時間をかけて料理をした。普段はあまりしないけど、気分転換にはなる。食材はあるものを使って、適当に作る。創作料理というよりは、おままごとのようだ。

 名前もない料理を食べて、読書をした。時間がゆっくりと過ぎていく。

 落ち着きが浸透してきた時だった。

 誰かが呼び鈴を鳴らす。本を置いて、椅子から立ち上がった。玄関のドアの覗き穴から外を見ると、立っているのは知り合いだった。

 アマギ・サラーイ。しかし、彼がなぜ?

 僕はドアの錠を外し、ドアを開けた。

「話がある」こちらが何かを言う前に、彼が素早く言った。「重要な話だ。入れてもらえる?」

 柔らかそうな言葉選びだが、有無を言わさぬ、強制的な響きだ。

 何の用だろう。時間は、すでに遅い時間、休んでいてもおかしくない時間帯だった。

「ええ、どうぞ」

 時間を理由に拒絶できたカモもしれないけど、しかし気迫に抗えず、僕は彼を招き入れた。

 彼は何かのケースを背負っている。長くて、四角いケースで、バイオリンでも入っていそうだけど、それにしては無骨に見えた。木箱で、鋲が打ってある。

 僕の部屋で、彼は堂々と椅子に腰を下ろす。

「何か飲みますか?」

 反射的に聞いていた。我ながら、人が良すぎる。

 そんな僕にアマギは少しも無駄口もきかず、首を横に振った。

「何も出さなくていい。話をしよう」

 まったく、訪ねてきて、どういう態度だろう。仕事の話だろうか。何か問題があって、いますぐ僕に確認する事案でもあったのか。

「急ぎですか? 明日は研究所に行きますけど」

「極めて重要でね。そして、仕事の話じゃない。君も座ってくれ。君の意見は聞くが、まずはこちらの事情を、知ってもらうことになる」

 どうやら、緊急らしい。

 こんなに図々しい人だとは知らなかったな。今日は前とどこか雰囲気が違うけど、どういう理由だろう。

 しかし座ってくれと言われたし、この部屋は僕の部屋だ。

 どうにもペースがつかめないが、仕方ない。

 僕は、彼の向かいの椅子に腰掛けた。

 こちらが何か言う前に、アマギが低い声で言った。

「オール・イン・ガンのことを、話しにきた」

 意外な、切り出しだった。

 驚き、困惑、不審、不快。

 そういうものの中で。

 僕の心が、ガチッと、切り替わる。



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