第20話 交渉

 現実世界の首都病院の病室は、今日も静かだ。

 ダーカーと似たり寄ったりの同室の入院患者は、微動だにせず、停止した時間の中にいるように寝台に横になっている。

 僕はダーカーが横たわっている寝台の横で、椅子に座って彼女が目覚めるのを待っていた。

 手元の本をめくると、やけにその音が大きく聞こえる。

 きっと、僕が動きを止めてしまえば、しばしの間、この病室は全くの無音、静止、そういうものに支配される。

 それに抗うように、僕はゆっくりとページをめくった。

「おはよう」

 気づくと、ダーカーが目覚めていた。本に集中するというより、周囲の音、気配に注意を向けていたはずが、彼女の目覚めに気付かないとか、迂闊だな。

 僕は本にしおりを挟み、そっと閉じる。

「これは朝食かしら? それとも昼食?」

 言いながら、寝台の横の台をそっと引き寄せるダーカーの手には、力強さはほとんどない。

 あまりに長い時間の意識の喪失が、そのまま運動時間の減少につながり、彼女の体は最近、ますますやせ細っている。

 僕がそっと台を彼女に近づけて、やっと食器に手が届いた。まだ器を持ち上げる力があるのにホッとするけど、もちろん、このままではそれも難しくなるだろう。

「何を考えているの?」

 彼女がスープを丁寧に、しかし素早く匙で口へ運ぶ。

「難しそうな顔をしているけど?」

「そうだろうね。ちょっと重要な話がある」

 食べるのを中断せず、器用に顔をしかめてみせるダーカー。

「いきなり不穏な空気ね。良いわよ、聞きましょう」

 彼女が匙を動かし続けながらそう言って、こちらに視線を向ける。彼女と僕の間では、話を聞くといっても、食事をしながらになるのはもう当たり前だ。

 僕は少し黙って、考えを再確認する。

 でも答えは、変わらない。

「ダーカーに、オール・イン・ガンをやめてほしい」

 さっきの紙がめくられる音以上に、僕のその言葉は、大きく響いた気がした。

 残響の錯覚を感じながら、僕は彼女を観察した。その彼女は匙を口へ運び、器へ戻し、また口へ運ぶ。少しも動きを止めなかった。

「なるほど」

 やっと返ってきた言葉は、スープを飲み終えたところで、彼女は食パンを代わりに手に取り、ちぎって食べ始める。言葉はなかなか、続かなかった。

 でも、僕は待つのには慣れている。何せ、この病室では、何分、何十分ではなく、何時間も待ってきた。どうやら僕の忍耐力は相当、練り上げられているらしい。不動の忍耐力だ。

 じっと彼女を見据えて、僕は何も言わなかった。彼女を説得するつもりはなかった。

 もう決めてある。微動だにしない決意があった。

 視線で、態度で、僕の意志は十分に伝わるだろう。

 ダーカーが、パンを食べ終え、プリンの入った器を手に取る。小さな匙で、彼女はちょっとずつ、それを削るようにすくい上げ、食べる。

「やめてほしい、か」

 プリンを食べる手を止めて彼女がこちらを見返す。

 想像よりも、強い視線だ。そこには怒り、反発、敵意、そういうものと一緒に、殺意の片鱗さえ見えそうだ。

「やめるっていうのは、あの仮想遊戯に関する全てを失う、ってことでしょう?」

「そうだね。意識障害から回復するための唯一の手段。それを教えてくれたのは、ダーカーだったよね」

「そうよ。でも、そうね、今になってみれば、小娘の偽物の達観からくる、不用意な発言って感じ」

 彼女は心底から悔しそうに口元を歪める。プリンの器を持つ手が、かすかに震えている。

「やめられると思う? この私が。あなたは、そう思うの?」

「やめられる、やめられないじゃない。やめるべきだし、僕がやめさせる」

「残酷ね」

 冷笑を浮かべる表情のダーカーに対しても、僕は冷静だった。

「君を守るためだ。このままじゃ、君はオール・イン・ガンどころじゃない。人生が、命が、永遠に損なわれてしまう。そうじゃないかな」

「それは覚悟している」

 率直で、投げ捨てるような物言い。僕の忍耐力は、それに十分に耐えた。

「僕は、ダーカーというプレイヤーを尊敬しているし、無二の存在だと思っている。そんなプレイヤーが、僕と共有している記憶や経験、全てを忘れて、二度と、一緒に遊べないのは、はっきり言ってきついよ。物凄くきつい。でも、そのプレイヤーが、現実世界で、長い時間を眠りの中で過ごして、ただ寝台に横たわって生きているのでは、意味がない。その方が僕には、辛いんだよ。だから、君はあの仮想遊戯から足を洗うべきだと、僕は思う」

 正直、僕はいつの間にか説得している自分に呆れていた。

 ダーカーの頑なさは予想以上で、取りつく島もない。それが僕に心変わりをさせたようだ。

 でも、そんな説得も彼女を揺るがさなかった。

「私のことは、私が決める。あなたは現実世界では、私の友人でしかないわ。仮想遊戯の中では親しかったし、目をかけて、導いた。でもあれはあなたが現実より優先してはいけない仮想遊戯に過ぎないんでしょ? なら、現実の私という女は、あなたにはそれほど意味ある要素じゃないんじゃない?」

「屁理屈を言うね」

 心がぐらぐらと揺れて、いよいよ忍耐力が崩れ始めた。

 それが最後の一線で、どうにか持ちこたえる。

「僕は君のことを大切に思っている。仮想遊戯の中でも、現実でも、君のことを考えているんだ。君が今言ったように、僕と君は、現実では、それほど関係が深いわけじゃない。もしかしたら、オール・イン・ガンに関する全てを忘れた瞬間に、現実の君は、僕のことをちょっとした知り合い程度にしか認識しなくなって、それきり、僕たちの関係は希薄になって、そのうちに消え去るかもしれないね。僕がそれを悲しく思うのは間違いない。でも、僕はそれを受け入れる」

「強いのね」

「強くないさ。現実の君が、こんな寝台の上じゃなくて、どこかの通りを活発に歩き回って、友達と買い物をしたり、買い食いをしたり、笑って過ごしていると思えば、君が僕を忘れる程度の悲劇には耐えられる。それだけだよ」

 そっと、ダーカーが、プリンの容器を台に戻した。まだ三分の一ほどが器に残っている。

 彼女は自分の手をじっと見始めた。

 僕が伝えるべきことは、伝えられた。あとは彼女の決断だ。奥の手を出さなくて済めばいいのだけど……。

 彼女は、五分ほどは、黙っていた。今の彼女の覚醒時間からすれば、貴重すぎる五分だ。

 その五分の後に、やっとこちらを見た。

 表情から険は消えていた。代わりに、儚げな気配が覆っている。

「やめられないわ」

 仕方ない。

 これは、あまり言いたくなかった。

「じゃあ、僕が魔弾に勝ったら、やめて欲しい」

 彼女が笑みを見せる。諦めが形を変えただけの笑み。

「それに何の意味があるのかしら?」

「君が超えられなかった壁を、僕が超える。それが、君が僕を育てた総決算になる。僕が結果を出せば、君がやってきたことは、一つの結果を残す。それで、区切りにしてほしい」

「彼がいつの時間にいるか、知っているの?」

 予想できた質問だ。

「たぶん、未来だろうね」

「未来を変えられると思っている?」

「僕の観測では、未来を変えられるという確信はない。でも、未来が変えられないという確信もない。何もわからないんだよ。だから、やるだけやってみる」

 ダーカーが何か言おうとした。

 馬鹿げている、と言おうとしたようだったけど、その言葉は音にならなかった。

 彼女は口をわずかに開いた瞬間、ゆっくりと脱力を始め、くたりと不自然な姿勢で倒れこんだ。何度も遭遇しているので、意識障害の発作が起こった場面にはもう慣れていた。

 彼女の体を支え、そっと寝台に寝かせる。

 動かなくなった彼女に対して、僕は台の上にあったメモにペンを走らせた。

 そこには、

「約束を守ってくれると信じている」

 と、書いた。それから少し考えて、もう一文、付け加える。

「僕はきっと、ずっと忘れない」

 ペンを置いて、僕はそっと彼女の頬に触れてみた。全くの気まぐれ。あるいは感傷。

 僕は病室を出て、表通りに立つ。新年を迎えて、通りは賑わっているが、少しずつ華やかなムードは消えつつある。あと数日で、またいつもの日常が戻るのだ。

 自分の心が少しも浮足立たないのが、どこか忌々しいけど、仕方ない。

 今の僕は、複雑な事情に絡め取られている。それも終わりは全く見えない。

 正確には、何かの影は遠くに見える。でも、その影は、ひどく不吉だ。

 不安を振り払うように、僕は殊更、肩で風を切るような歩き方で、自分の部屋に向かった。

 明日、僕はオール・イン・ガンで、魔弾と再び戦うつもりだ。

 勝てるかは、ダーカーに言った通り、まだわからない。

 どれくらいの確率で勝てるかも、わからないほど、不透明な未来に少しだけ怯みそうになる。

 何が僕に味方すれば、僕は勝てるのか。意志力? 作戦? それとも幸運?

 魔弾の意志力、作戦、幸運、それらに僕の様々な要素が打ち勝てるのだろうか。

 確信は少しもない。

 でも、考えてみれば、最初はいつも不安だった。オール・イン・ガンを始めたばかりの時は、常に、いつ撃墜されるのか、怯えていたじゃないか。

 それを思えば、少しはマシだ。今の僕には戦う技術があり、経験もある。

 当たり前の不安が、ただ強調されて見えているだけだ。

 自分に言い聞かせつつ、通りを吹き抜ける寒風の中を、僕は進んでいった。


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