第18話 仮想遊戯の秘密と、彼女の秘密
十五時になる前、十四時四十五分には、僕は公園にいた。
平日だから、公園には幼い子どもといる母親、あるいは父親か、のんびりと歩を進める老夫婦、犬を連れている年齢不詳の飼い主、そんな顔ぶれがほとんどだ。
仕事を休んだことには少しの呵責もなかったけど、入所してから今まで、流行していた病気にやられた一回を除けば、平日に無理して休みを取ったことはない。
すぐに噴水に向かうのも、どこかはばかられて僕はブラブラと歩き出した。
すでに木々の葉っぱは色づいていて、はらはらと弱い風に揺れ、落ちる。
どこか切ない気持ちになる一方、僕には、そんな植物たちが冬に向けて態勢を整えているようにも見えた。
やっぱり僕の空色のコートは派手らしい。すれ違う人は一人の例外もなく、こちらをちらりと見る。たまに凝視する人もいた。
確かに、赤や黄色、茶色の枯葉の中で、空色とは、目立ちすぎる。
でも、ダーカーが僕を見誤ることはない。
公園の中にある池をぐるりと回る。水鳥が優雅に泳いでいる。
時計を確認するとそろそろちょうどいい時間だ。五分前には噴水に行こう。
道を進むうちに、前方に噴水が見えてくる。ここでも就学前の子どもが二人、母親と一緒にいる。子どもの一人が噴水の水に手を伸ばし、もう一人が恐々とそれを見ていた。
その光景を見て、自分が緊張しているのがわかった。
冷静になろう。しかし鼓動はどうしても落ち着かない。
噴水の見えるベンチに腰を下ろして、改めて時計を確認した。十五時になろうとしている。
じっと、形を変え続ける噴水の水を見ているうちに、遠くで鐘が鳴った。
十五時だ。
周囲を見るけど、ダーカーらしい少女はいない。一人、普通学校の高等科の制服を着た女子生徒が通り過ぎていく。こちらに一瞥し、あとは見向きもしない。
それから五分が過ぎ、十分が過ぎた。
でも、それらしい人はやってこなかった。
認めたくないけど。
どうやら、約束は反故になったらしい。
仕方ないので、じっと噴水を見つめていた。そうしないと、落胆に支配されそうだった。こういうこともある。きっと、何か、理由があったんだろう。
仕方ないさ。もう一度、そう思った。機会はまたあるだろう。
「あなた……」
突然の声に、僕はそちらをを振り返った。
女性の声だ、と理解する前に、その女性を僕はまっすぐに見ていた。
僕の座るベンチのすぐ横に、車椅子に乗った女性がいる。年齢は二十歳か、それよりも下だ。鼻梁がすっと通っていて、涼やかな風貌。
しかし、髪の毛はショートカットだ。
「えっと?」
僕の混乱に彼女が笑う。控えめな、そよ風のような笑い声。
「髪の毛、知らない間に切られちゃって。昨日までは、長かったの。本当よ」
じわじわと僕の心にその言葉が沁み通り、事実も一緒に、意識の中に入ってきた。
「あなたが、ダーカー?」
「そうよ。あなたがリーンね? 初めまして」
少しだけ車椅子を前進させて、手を差し伸べてくる。真っ白い、少しも日焼けしていない手。ほっそりしていて、どこか弱々しいけど、意志は感じさせる。
僕は彼女の手をそっと取った。軽く、手に力が入る。
「思ったより、いい顔をしているのね」
しげしげと彼女はこちらの顔を覗き込む。もちろん、僕も彼女の顔を見返した。
僕たちはお互いに、仮面の下の顔を想像していたのだ。
「ダーカーは想像通りかな」
「意味深ね」ダーカーが微笑む。「私もそうしておいてあげる」
その一言が、また大きく、僕の中に感慨をもたらした。
彼女は、間違いなくダーカーだ。
現実で、目の前にいる。仮想体ではなく、本物の体で。
「私の名前は、レレイス・ライオン。あなたは?」
「レイル・ハクオウ。年齢は十八だよ」
「私より二歳下ね」
そう応じた彼女の表情が、少し曇る。
「僕の方が年上に見えると思うよ」
「お世辞が上手ね。この問題も、あなたの意見を尊重することにしておきましょう」
そんな具合で、僕たちは基礎的な情報を交換した。
「それで、魔弾には勝てたの? それを聞きたいわ」
う……。この話は、避けられないか。
「負けたよ。一方的に。あれは反則だ」
「幻にやられたのね?」
「よく知っているね」僕はじっと、記憶を辿った。「あの幻は、精巧だった。見抜けなかった」
少しの間、ダーカーは何かを考えていたようだった。
「今、あなたに大事なことを話すべきなんだけど」
いきなり、そう言われても、僕は戸惑うしかない。
大事なこと?
「魔弾の攻略法とか?」
「その前準備かな」
曖昧な表現だけど、でも、僕としては魔弾を撃破できる方策は、大歓迎だ。
「教えて欲しい。是非とも」
そう……、とダーカーが少し顔を伏せ、すぐにこちらに顔を向けた。
「オール・イン・ガンには、複雑な魔法が組み込まれている」
妙な切り出し方だ。まさか、仕様の隙をついた、裏技を教えてくれるのかな?
「その魔法は、現実の時間を、完全に無意味にする効果がある」
「えっと、それは一秒が果てしなく延長される、そういう魔法のこと?」
僕の問いかけに、彼女は首を振った。
「もっと重大な仕組み。あなたは、自分以外のプレイヤーが、いつ、仮想遊戯を起動していると思う?」
「それは……」
答えられなかった。
もう三年以上、あの仮想遊戯で遊んできたのに、疑問に思わなかった。
他のプレイヤーが全員、同時に、僕と同じ一秒で起動しているわけが、ない。
つまり、他のプレイヤーは……、どういうことだ……?
「自分以外は、人工知能、とか?」
「私や魔弾の存在が説明できない」
「その説明を聞かせて欲しい。僕は、その、今まで少しも疑わなかったよ。ただの遊びだと思っていたから。特殊な遊びだと……」
いつの間にか、ダーカーの表情は険しいものになっている。
声は重苦しい響きを伴う。
「オール・イン・ガンの仮想空間に集まるプレイヤーは、同じ時間の他人じゃないのよ。常に、様々な時間のプレイヤーが、集合している」
様々な時間。難解で、よく飲み込めない表現だ。
僕は、理解が及ばずに、彼女の言葉を持て余した。
「様々、というのが、わからないんだけど」
「過去、現在、未来、全ての時間、ということね」
やっぱり訳がわからなかった。過去? 未来?
「つまり」ダーカーが手ぶりを交え始めた。「三日前に起動したプレイヤーも、たった今起動したプレイヤーも、三日後に起動したプレイヤーも、全く同じ仮想空間に集まって、戦っているってこと」
じわっと理解がやってきた。もちろん完全な理解には程遠い。
しかし、何が異質で、特殊なのか、わかってきた。
「それじゃあ、全てがめちゃくちゃだ。とんでもない混乱が起こる」
話しながらの思考で、ある要素が頭に浮かんだ。
「未来のプレイヤーは、過去の様々な知識を持っていて、有利じゃないか」
いや、そうじゃない。本当に重要なのはそこじゃない!
「違う違う。それは遊びの中のことで、実際はもっと重大だ。時間の連続性が、破綻していることになる」
ダーカーがかすかに顎を引く。
「それを明かさないための、情報の規制なのね」
少しも動揺していないダーカーを見て、僕の方が動揺した。どうして彼女はそれを知っているんだ?
「ダーカーは、僕のことをどれくらい知っている?」
「それほどは知らないの。でも魔弾に負けることは知っていた。そして、これから、あなたがどうするのかも、知りつつある」
「未来の僕を知っている?」
そうよ、と彼女は頷いた。
衝撃だった。
彼女は、異質な存在なんだ。肉体は僕と同じ時間を生きているけど、彼女の精神は、僕の過去と未来を、知っている。
インチキだ。
でも、なら僕は? 僕も同じなのか?
「あなたの心配はわかるわ」
先取るように彼女が言ったので、ぎょっとした。そんな僕に、彼女は真剣な顔を向けた。
「あなたは、特別なの。というより、あなたこそが、オール・イン・ガンが最も求めている存在なのね」
少しも理解が及ばない。質問しようにも、何を訊くべきか、判断できず、それ以前に自分の思考が曖昧で、ぼんやりするしかなかった。
「あなたは過去にも未来にも、行かないの」
それは当たり前だ。
「当たり前だと思っているだろうけど、あなたや、一部のプレイヤーは、オール・イン・ガンに含まれている強力な魔法理論、時間を超越する魔法を受け付けていない」
彼女を見返すだけの僕に、ダーカーが続ける。
「オール・イン・ガンを作った誰かの本当の狙いはわからない。でも、ただの遊びじゃないわ。何らかの理由で、時間の連続性を無視しているし、そういう混乱を招いてでも実行している、何かの意図が存在する」
「ダーカーは……」
どうにか言葉を口にできた。
「それを、誰から聞いた?」
「あなたからよ」
もう心の動きが飽和していて、何も言い返せなかった。
僕が、彼女にそれを伝えた。未来の僕が、彼女に……。
彼女が本当に未来を知っているとすれば、わからなくはない。
「詳しいことは、言えないんだね?」
「察しがいいのは、あなたの持ち味ね。そういうこと。とにかく、私は、未来のあなたの味方なの」
「未来の僕は、何を望んでいる?」
「まずは魔弾に勝つこと。いいえ、その前に、彼とお互いを高め合うこと。あなたにはそうする理由がある」
どうやら、まだ僕は、今や不気味そのものと言える、あの仮想遊戯から足を洗えないらしい。
目の前の女性と会うまで、やめることなんて少しも考えていなかったのが、嘘のようだ。
正直、もう投げ出したかった。
自分の中にあった、自主的な欲求、願望は、もう鳴りを潜めている。
ただ、ダーカーのために、ダーカーの知っている未来へと伸びる線路を走るような錯覚。
「僕がこれっきり、オール・イン・ガンをやめる、という選択は、ありえないんだね?」
「そうなるわね。もちろん、今この瞬間に、私の知っている未来が変わるかもしれないけど」
試してみるべきか、と少し考えた。
「あの仮想遊戯をやめる方法があるのは、知っているよ。ダーカーが教えてくれた。意識障害を回復させるための処置。オール・イン・ガンに関する全ての記憶と引き換えに、魔法理論を消去できる。僕が今、それを選択すれば、未来は大きく変わるね」
挑戦的な僕の発言に、ダーカーはどこか寂しげな顔になったけど、反論しなかった。
やれるものならやってみろ、という攻撃性は少しも見えず、感じられるのは、諦念のようなものだ。
未来は、変わらないのか? 僕が何をしても?
「ダーカー、僕は本気で……」
言葉を途中で止めたのは、別に、気後れしたわけじゃない。
彼女の様子が、変わったのだ。
表情が空になり、かすかに顔を俯けた。そのまま、動かなくなる。
「どうしたの……?」
訊ねたけど、返事はない。
彼女は動かない。意識を、失っている。
気づいた瞬間、怖気が走った。今のダーカーの様子は、三年前に親しくした少年の、あの様子に似ていた。
オール・イン・ガンの乱用からくる、意識障害。
彼女の現状は、まさにその症状を示している。
会った時、彼女は髪の毛を知らないうちに切られた、と言った。それはもしかして、意識を失っている間に、切られたんじゃないのか。
どうすることもできず僕はベンチに座ったまま、車椅子の上の彼女を見ていた。
恐ろしい想像だけど、彼女が車椅子に乗っている理由は、意識を失っている時間が長いのが理由なのではないか。
どうにか悪い想像を振り払う僕の視線の先に、彼女が首から下げているネックレスがあった。兵士の認識タグのようだ。
そっと手を伸ばし、それを確認する。病院の名前、レレイス・ライオンという名前、短い数列は何を示すか不明で、最後の数列は通信番号。
本当に、認識タグだった。
僕はその数列の先に通信をつなぐ。
「首都病院、緊急係です。現在地点、患者の名前と、管理番号、状況や症状を教えていただけますか?」
人間の女性の声なのに、温もりがすっぽり抜け落ちたような、無機的な声に聞こえた。
僕はどうにか、つっかえつっかえで説明をして、相手は僕にその場に留まるように求めて、通信を切った。
ダーカーはまだ目覚めない。
十分ほどすると、救急車がやってきた。いや、救急車ではなく、病院の車両か。降りてきたのは、医者らしい男性と、看護師二人で、どちらも特別に急いでいるようでもない。落ち着いていて慣れている。
それに腹が立ったけど、無視する。
三人はその場でダーカーの状況を確かめると、僕に礼を言って、車椅子を押してダーカーを連れ去ってしまった。
彼女がいなくなってからも、僕はその場に残った。動けなかった。
彼女についていくこともできたはずだけど、医者たちの気配には、それを否定する色が窺えたのだ。ごり押しするほどの気力はなかった。
どうしても、ダーカーが意識障害を患うとは、考えられなかった。
でも彼女のあの症状は、オール・イン・ガンの副作用の意識障害以外の何物でもない。
回数の制限を、彼女は破ったんだ。
どんな理由があったんだろう?
まだ、彼女との話は終わっていない。
その日は日が暮れてから部屋に戻り、すぐに寝てしまった。翌朝には思考が少し明敏になり、考えが回り始める。仕事に行って、研究所のブースでいくつかの魔法理論の検査をしながらも、頭のほとんどはオール・イン・ガンと、ダーカーのことを考えていた。
週末になって僕は、首都病院を訪ねた。ダーカーの管理番号は暗記していて、わかっている。受付で尋ねると、少しして病室を教えてもらえた。
五階建ての建物の最上階、通路の両脇に病室が並ぶ。
一つの病室に入り、一歩で僕は足を止めた。
六台の寝台が並んでいるけど、それぞれの寝台の上に人が寝ている。
六人とも、目を見開いて横になり、少しも動かない。僕の存在に気づくことがない、無反応な彼ら。胸が呼吸していることを主張するように、微かに上下しているのが、嫌に印象的だった。
部屋に入り、寝台の一つの横に立った。
ダーカーが眠っている。彼女は薄く、目を開いている。
でも何も見てはいない。
彼女が目覚めるまで、僕はその寝台の横で椅子に腰掛けていた。日が暮れた頃、彼女が一度、瞬きする。そしてこちらに気づいた。
「みっともないわね、私」
それが彼女の本音なんだろう。
「そんなことないよ」
僕はそう言って、涙がこぼれる前に、袖で目元を擦った。
「話の続きをしよう」
仮想空間ほどの時間はないけれど、と冗談で言おうかと思ったけど、とても無理だった。
彼女の時間はもう、かなり限定されているのだ。
彼女が口を開こうとする気配に、僕は耳を傾ける準備をした。
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