■二〇一七年(平成二十九年) 八月二十二日

 夏服に身を包んだ長身の女性警官が大股で、京王井の頭線神泉駅に向かう坂道を下って行く。この辺りは渋谷円山町のラブホテル街の裏手に当たり、窪地になっている。坂にへばりつくように古いマンションが林立し、入り組んだ狭い道は夜が明けて大分経つと言うのにまだ薄暗い。

 狭い道にパトカーと救急車が停まっている。その先にあるのは、神泉駅の隣の踏切、神泉駅一号踏切である。踏切の中はブルーシートで覆われていた。

 シートを潜ると、糞尿と機械油の混じったような独特の臭気が鼻をついて、彼女は思わず顔をしかめた。

 彼女は中にいた渋谷署地域課の額の広い警部に敬礼をした。

「鉄道警察隊、渋谷分駐隊、巡査長、深川環! 神泉駅一号踏切内に於ける人身事故の応援に参りました」

 京王井の頭線、五時発の始発列車に中年男が轢かれたという入電内容だった。神泉駅のホームに二両分だけ突っ込んだ状態で止まった京王線1000系車両の下を見た環は思わず目を剥いた。

 五十代と思しき男の身体の上に車両が乗り上げ、胴体が引きちぎられている。内蔵があらわになっており、黒いレールに沿って赤黒い男の腸が引っ張り出されていた。車体にも線路にもブルーシートの青さで反転した黒々とした血が飛び散っている。

「お、タマ姉、来た来た」

 小柄な男性警官が声をかけた。先に来ていた同じ鉄道警察隊渋谷分駐所の後輩、赤城圭輔だった。環の方が三年ほど上だが、赤城は巡査部長であり、階級が逆転した時から、先輩と呼ぶのが気まずくなったのか、タマ姉と呼ぶようになった。

 なんでお前はこんな時でも笑顔でいられるんだよ。

 人身事故が起きると、鉄道会社から連絡を受けた警察と消防が駆けつける。まずは消防が救助という名目で動くが、この状況では救助も何もない。踏切事故は鉄道警察ではなく、地域署の管轄である。ましてや、ここは私鉄なので環たちはあくまでも応援である。

 恐らく現場検証もあらかた終わっているはずなのに、死体がこのまま、ということは……。

 環がそこまで思った時、ブルーシートの隙間からスマートフォンを掲げ持った野次馬の姿が見えた。

「ほらそこー! スマホ禁止ー! 撮影禁止ー!」

 環はそう叫びながら、弛んだブルーシートの方に向かったが、渋谷署の男性巡査が割って入り、野次馬に覗かれないようにシートの端を持った。

 そこへ救急隊員の男から、声をかけられる。

「あのう、すみません。左の足首から先が見つかってないんですよね。せっかく来てもらったので、一緒に探していただければ……」

 ち、この現場はブルーシート持つだけでやり過ごそうと思ったのに。

「タマ姉、逃げない」

 赤城に言われてしまう。

「逃げてない!」

「もしかしたら、トンネルの方に転がってしまっているかもしれないんで」

 救急隊員の男がそう言って指をさす。

 踏切の十メートルほど先にはトンネルが暗い口を開けている。井の頭線はここから円山町、道玄坂の丘の下を潜り、渋谷マークシティの中にある渋谷駅に繋がっている。

 ライトグリーンのラインが入ったステンレス製の車両の後ろ半分はまだトンネルの中にある。車両の窓の中は電気が消えている。人身事故が起きると全電源を落とすようになっている。

 窓の中に乗客の姿はない。恐らくホームにかかっている先頭車両から降ろされたのであろう。神泉から渋谷までは徒歩十五分程度である。運転再開を待つよりは渋谷へ歩いて戻って別路線に乗るか、都バスで代替ルートをとった方が早いだろう。ブルーシートの外側がどうなっているのか環には分からないが、ホームにはあまり人が残っていないと思われた。

 トンネルに近づくと八月の湿った風が吹き出してくる。風の先はただ漆黒の闇が開いていた。

 黒々とした湿った闇だけが。

 あの中年男は、生ぬるい何かの生き物の腸管のようなトンネルから生じた鉄の塊に轢かれてバラバラにされたのか。

 哀れみよりもおぞましさばかりを、環は感じた。

 「ありましたー!」

 車両の反対側から声がした。


 中年男の身体は上半身と右腕、右脚、そして左足首から先と四つのパーツにバラバラにされ、腰から左足にかけてはほぼ原形を留めていなかった。警察、救急隊、京王線の鉄道員が死体を布で覆いながらかき集め、担架に載せる。

 線路脇に落ちていた鞄に入っていた財布から、男の身元は巻紙亮二という、大学教授だと分かった。

 ……ああ、あいつか。

 環は被害者の名前に心当たりがあった。無論、被害者と直接面識があった訳ではない。著作も本人が書いたものは読んだことがないはずだ。テレビに出ている姿は何度か見たことがあったのと、又聞きと他の著者の引用で中で知っている限りだった。

 九分九厘自殺だろう。

 環は顔をしかめて、割り箸で線路や車体に残った肉片を拾う作業を手伝いながら、渋谷署の連中のやり取りを聴いていた。

「マルガイのものと思われるスマートフォンですが」

 若い巡査が差し出したのはiPhoneだったと思われる塊だった。画面が割れるどころか、中身の基盤が飛び出していた。全体の指揮をしているやや禿げ上がった、いや額の広い警部はそれをつまみながら、

「ひっでえな。情報吸えんのかな」

 と言った。警部の名前は渋谷署の山内邦夫と言う。

「タマ姉、サボらない!」

 背後から赤城の声がした。聞き耳を立てていて、手が止まっていたようだ。

「サボってない!」

 被害者の身体がかき集め終わると、環たちの仕事は終わった。この後、電車は車両基地に運ばれ、ようやく運転再開となる。

 ぐったりとしながら環は分駐所に戻る。

 渋谷は渋谷駅を一番深い谷にしながら、そこへ幾つもの坂がなだれ込んで行く。

 渋谷の周辺、代官山や青山は瀟洒で知られる街であるのと対称に、センター街の先から伸びる道玄坂には幾つもの風俗店が立ち並び、その先には円山町のラブホテル街がある。

 人々の欲望が坂道にへばりつき、胎動している。

 渋谷駅には京王線のホームが入るマークシティー、東急線のホームが入っている渋谷ヒカリエと、今世紀に入ってから次々と再開発が進む。だが、一方でストリートカルチャーの衰退と、東横線が副都心線と接続したことによって乗降人数では品川に抜かれている。それでもまだ、東口のヒカリエの隣に新しい高層ビルが二つ、建設中であった。

 渋谷という巨大な箱庭に、次々に細長い積み木が積み増されて行く。積み木は積み増される度に次はより大きなものを求める。

 それが、ゼネコン頼みの日本の経済構造に由来することを知りつつも、あたかも渋谷という街そのものが自己増殖を望んでいるように環は思う。


「夜勤明けに人身の応援とか最悪。ありえない。グロい。気持ち悪い」

 分駐所に戻ってきた環はそう言いながらデスクに突っ伏した。

 警視庁鉄道警察隊、渋谷分駐所。鉄道警察隊は、三十年前、一九八七年の鉄道公安の廃止に伴いその職を引き継ぐ形で組織された。警視庁には、東京、新宿、上野、立川、そして渋谷の五箇所に分駐所が置かれている。それぞれ、第一から第五中隊を名乗る。

 鉄道警察の主な任務は警らと警乗である。用は駅改札内とJR各線の警備であり、痴漢やスリの逮捕や、鉄道、改札内で起きる喧嘩や暴行などの取締を行う。要は電車の中と駅構内に関すること全般である。

 ただ私鉄構内は基本的にそれぞれに民間の警備会社と契約しているし、JR管内でも、先程の踏切事故などは、その地域の警察署の管轄となる。また、鉄道警察隊が逮捕した痴漢やスリの取調べも、分駐所や駅員室で簡易的に行った後、本格的なものは、警察署に送られて行われる。鉄警隊の捜査の範囲は存外に狭く、曖昧である。

 渋谷分駐所はJR渋谷駅中央改札を潜り、湘南新宿ラインのホーム方面に曲がったところにある。

「タマ姉、本当そういうところ意外と乙女ですよね」

 赤城が丸顔の口を尖らせて言う。太ってはいないが、一六四センチと小柄で丸顔なので、どこか猫だとか兎だとか、小動物っぽさが漂っている。三十になった年に順調に巡査部長に昇進して現在は三十四。既婚で二児の父である。

「だな」

 そう言って賛同したのは、第二小隊長の瀧山春彦であった。渋谷分駐所は一番小さく、第一小隊と第二小隊しかない。環たちは第二小隊である。瀧山の年齢は五十二歳。定年まで鉄道警察隊に骨を埋めると宣言している。階級は警部補。白髪頭に飄々とした雰囲気が漂う。どこか窓際前としているが、飄々とした雰囲気がそう見せているだけで、存外鋭い男である。

「乙女とかそういうの関係ないから。単に得手不得手があるだけだから」

「ていうか、そういうの普通は女子の方が得意なんじゃないですか」

 そう言ったのは、葉月紗也であった。隊で一番若い。警察学校を出てすぐに鉄道警察隊に配備になった。環とは違い、警察の受験資格ギリギリの一五五センチと小柄で童顔である。だが、大学生の時、レスリングの日本代表チームに選ばれたこともあり、体つきはがっしりとしている。何よりも肝が座っている。

「だから、男とか女とか関係ないから。個人の指向だから。ていうか、なんで赤城っちはしれっとしてんの?」

「いや、慣れですよ。慣れ。何年警察やってんだって話でしょう。って、タマ姉も同じか」

「慣れたくねえわ! んなもん。だいたい、私は……」

「私は、痴漢野郎を一人でも多く挙げるために警察に入った。それが私の使命だから、組織にも出世にも興味がない、ってな」

 瀧山が環の言葉を奪った。

 環の階級は巡査長。大卒者であれば四年以上勤務すれば得られる階級である。事実、環は一度も昇進試験を受けていない。「どうせ女が上に立ったって、警察組織では足を引っ張られるだけ」は環の口癖である。

 環は大柄で一七二センチある。スレンダーと表現するには、やや筋肉質過ぎる体つき。学生時代はずっと剣道をやっていた。髪型は肩まである髪をひっつめている。顎が細く、奥二重の目から放たれる眼光は鋭い。

 三十七歳の環が女子高生だった頃、世の中は女子高生ブームと呼ばれていた。

 その頃、環は京王線の中で痴漢にあったことがある。その時、始めは何があったのか分からず、次第に恐怖で身体が動かなくなった。駅に着くまで何もできなかった。

 当時、剣道部の主将だったにも関わらず、何もできなかったのだ。

 悔しかった。

 いつか仕返しをしてやろうと思った。そして、剣道部主将の自分でさえ何もできなかったのだから、他の女性は本当に何もできないに違いない。それが、環が就職先に警察を選んだ理由だった。

 環は痴漢逮捕においては実績を上げ、何度か表彰もされてる。

 痴漢は抵抗してこなさそうな、気弱そうで地味な女性を狙う。環が痴漢にあったことがあるのは女子高生の時だけだ。大柄な女性を狙う痴漢はあまりいない。

 剣道の面が蒸れるせいで、ニキビ面だった女子高生の頃より、化粧も覚えたそれ以降の方が綺麗なはずだ。

「女子高生」という記号に意味があったのだと思う。環個人の容姿ではなく「女子高生」という記号に。

「まあ、深川の人身事故応援におけるポンコツ具合は置いといてだ」

「小隊長、ポンコツて。別に渋谷署の連中に迷惑はかけてませんよ」

 そう言った環を無視して、瀧山は続けた。

「今回のは、自殺なんだろう?」

 その問いかけに、環を通り越して赤城が答える。

「はい。ほぼ百パーセントそう見て間違いないと思います。警報機が鳴る中、完全に下まで降り切っている遮断棒を潜って、線路の上にしゃがみ込む姿が、踏切に設置されたカメラに写っていたそうです。目撃者もいますが、カメラに写っている通りのことを証言しています。念のため、近隣のコンビニなどの防犯カメラや近くを通っていた車のドラレコを当たって見ると言っていましたが、得られる回答は同じでしょう」

「仏さんは大学教授だったよな」

「はい。巻紙亮二、五十七歳。S大学社会学部の教授です。コメンテーターとしてラジオなどにも出演したりしています」

「あー、聴いたことあるかも知れんな」

「二十年ほど前、女子高生のブルセラや援助交際の社会調査を行って世に出た人物らしいです。その評価を巡っては毀誉褒貶が激しいとか、まあそれはそこのポンコツ姉の受け売りですが」

「だから、ポンコツじゃないっての!」

 環を無視して、赤城が続ける。

「で、遺書の類は見つかっていません。ただ、踏切に飛び込む十分ほど前に、ツイッターに謎のツイートを残しています。

 ……『トパーズを拾え』と」

「ほう。何だろうな」

「確かに気になりますが、誰かに突き飛ばされたりする訳ではなく、自分から遮断棒を潜っていますからね。自殺で間違いないのは揺るがないと思います。そのことを判断するのは僕たちの仕事ではないですが、渋谷署の人たちもそう言ってました」

「深川、何か補足はあるか」

「私は赤城巡査部長より後から行ったので、事実関係について補足はありません。巻紙亮二については、二十年ほど前、女子高生の援助交際を肯定的ともとれるような発言をしており、論争を巻き起こした人物ではあります。そこにあった搾取構造については無自覚であったと、痴漢被害に関わる女性団体から勉強会で聴いたことがあります。そのことが自殺に繋がるのかどうかは分かりません。それと」

「それと?」

 赤城がオウム返す。

「私事ではありますが、今日の夕方、府中の実家に呼ばれております。ふるさと納税の返礼品で、佐賀牛が届いたから、季節外れのすき焼きだと」

「お、おう……それはご愁傷様」

 と瀧山が返すと

「ですね」

 と赤城が続けた。


 肉が煮えていた。グツグツと。

「何よ、環、食べないの? あんたの給料じゃ、そうそう買えるような肉じゃないでしょう?」

 肉を頬張りながら、環の母親が言う。六十七なのに、いい肉だと良く食うなと環は思った。横で環の父と兄も黙々とサシの脂と溶き卵の光る肉に食らいついている。

 環の家族は皆、長身である。府中の戸建ての狭いキッチンで、ニトリで買った身体の大きさに合わないテーブルセットについて、鉄鍋を囲んでいた。めったにない機会だから贅沢しちゃう、と母は言って、エアコンもガンガンに効かせてあった。

 キッチンのテレビではNHKのニュースが流れていた。

『さて、世紀の天体ショーを見ようと、全米中が熱気に包まれました。現地時間八月二十一の午前十時過ぎ、日本時間は本日二十二日未明、午前二時頃、まずはオレゴン州から皆既日蝕が始まりました。皆既帯と呼ばれる皆既日蝕が見られる部分は、オレゴン州からアイダホ、ミズーリなどアメリカの十三の州を通っておよそ一時間半に渡って観測されました』

 テレビには皆既日蝕の映像と、それを見上げる現地の人々の映像が交互に映っていた。

 寝ればリセットできるかもと期待したんだけどな。

 夜勤明けの環は、明大前の自分のマンションに戻り、十六時頃まで寝た後、府中の実家に来た。

 脳裏には、嫌な臭いと、凄惨な光景がまだ生々しく残っている。

 鉄道警察隊にいる以上、人身事故にも頻繁に遭遇する。凄惨な現場を見るという意味では捜査一課や交通捜査課の連中にも引けをとらないだろう。

 だが、環は慣れないし、しかも今日はタイミングが悪かった。

 昨日だったら、いくらでも食べられたんだけどな。

『日蝕はこの人たち、そう、トランプ大統領夫妻ですね。ワシントンでは部分日蝕だったのですが、ホワイトハウスのバルコニーから天体ショーを見ていました。トランプ大統領は日蝕用のメガネをつけずに直に太陽を見ようとして注意される場面もありました』

「なんだよ、兄貴! 食べたきゃ食べなよ」

 環の前にある肉を、黙って箸でつついていた兄にそう言った。

 兄は肉を箸で拾いながら、小声で「チッス」と言って、自分の取り皿の溶き卵の中に浸した。

 環の兄、深川卓也は四つ上である。一九〇センチを越す長身で猫背。あだ名は大体、巨神兵かエヴァ初号機だった。

 そんな作画、庵野秀明の兄は、大きな図体に関わらず、覇気というものが全くない。話し声は小さく、聞き取り難いことこの上ない。

 就職氷河期世代ど真ん中の兄にとって、姿勢が悪く覇気がない兄のキャラクターは全く以てって致命傷で、大学四年の秋を過ぎても就職が決まらずにいるうちに、引きこもりになってしまった。

 なんとか、当時一人暮らしをしていたアパートを引き払わせ、実家に戻ったものの、引きこもり続けること七年。三十を手前にして焦り始めたのか、近くのコンビニでバイトし始めたが、低賃金の仕事でありながら、レジ、品出し、宅配便の受け取り、公共料金の支払いと様々なことを手際よくこなすことを求められるコンビニの仕事は七年の引きこもりには辛く、妹に

「ダメだ、腐ってやがる。早すぎたんだ」

 と巨神兵らしいメールを送った後、さらに四年引きこもった。その後、なんとか倉庫作業のバイトを始め、黙々と作業をするのが合っていたのか、そこは六年続いている。

 家族にとって、家を出て毎日仕事に行ってくれるだけで既に幸いで、結婚だとか、安定した収入だとかは遠い話である。

 環は結局、食べる気が起きずに、自分の食器をまとめて、テーブルから立ち上がった。

「あら、体調でも悪いの?」

 母が聞く。

「タイミング。私、警察官なんだから察してよね」

『続いてのニュースです。今朝早く、京王井の頭線の神泉駅隣の踏切で人身事故が起こり、早朝から最大で約一時間半の遅れが生じました。死亡した男性はS大学社会学部教授、巻紙亮二さん五十七歳。死因は自殺と見られています。巻紙さんは九十年代半ばから数多くの著作で知られ、メディア出演なども多く行っていました』

 兄が僅かな声で、

「この、まぐろ?」

 と言ったが、

「守秘義務」

 と返して、流しに向かおうとした環に母が話しかけた。

「環、こんな時に悪いんだけどさ、こないだね、偶然、美頼ちゃんのお母さんにあったのよ。美頼ちゃん、もう長くないんだって。お見舞いに行ってあげて欲しいって」

「そう」

 それだけ言って、環はそのまま、流しのタライに食器を浸した。


 美頼が死のうとしている。

 重い空気がのしかかるようだが、衝撃はない。むしろ、これまでが長過ぎたような気がする。あれから二十年か。

 環はベッドに入って、実家の自室の天井を眺めながら思った。

 警察学校に入ってからは寮生活で、その後は明大前で一人暮らしを始めたので、この部屋は環が大学四年の状態で止まっている。本棚の漫画版『新世紀エヴァンゲリオン』は九巻までしかないし、その隣には興味本位で買ってみた『世界の中心で、愛をさけぶ』が並んでいた。

 美頼は中学三年と高校二年の時のクラスメイトだった。

 環は中高とも公立に通い、地元の府中の中学から、隣の調布の都立高校に進んだ。高校の偏差値は五十台後半。卒業後は四年制大学に進学する生徒が多かった。

 中学の頃の美頼は、環ともわりと仲が良かった。その頃の美頼はぽっちゃりしていて、自信なさげで大人しいキャラクターだった。

 だが、美頼は高校生になると急激に痩せた。高二で同じクラスになった時は、環とは殆ど口を利かなかった。

 美頼は同じクラスの立花加奈とだけ、仲良くしていた。剣道部で図書委員だった環はクラスの地味なグループと仲良くすることが多かったが、派手な方のグループとも仲が悪かった訳ではない。

 だが、地味な方のグループとも派手な方のグループとも独立して、加奈と美頼だけが浮いていた。

 加奈は美少女で、近寄り難い雰囲気をまとっていた。教室の隅で図書委員の環も知らない難しそうな本を読んでいる姿が印象に残っている。

 二人は部活をせず、放課後は渋谷辺りをうろついて援交をしているという噂があった。

 見た目はギャルっぽくない子の方が案外大胆なのだと囁かれたが、二人がクラスで浮いていた分、尾鰭がついていた可能性も考えられ、本当のところは環の知るところではない。

 その年の二学期に入る頃から二人は学校を休むようになり、殆ど姿を見ることがなくなった。

 そして、その年の暮れ、加奈が行方不明になった。

 二十年経った現在でも見つかっていない。

 なぜか一緒にいたと思われる美頼だけが、遠く千葉県内で警察に保護された。

 何が起きたのか美頼は決して語らなかった。ただ、美頼は激しく落ち込み、摂食障害の症状が酷くなった。

 高校に入ってから痩せたのも、無理なダイエットだったのだろうが、それが加速して、心身を蝕み、学校に戻ることはなかった。

 翌年の高校三年の夏頃だろうか、美頼は骨と皮だけの姿になってしまったと誰かの口に登ってきたのを環は聞いた。

 それから、風の便りをつなぎ合わせると、美頼は進学もせず、恐らく一度も就職していない。もちろん、結婚もしたことはないだろう。

 高校の時以来、美頼の姿を環は見ていない。だが、二十年に渡る低体重がその身体を蝕んだのは想像に難くない。

 いよいよ、なんだな。

 美頼の人生が終わってしまう。

 環は寝返りを打った。


 あの時、二十年前、何が起きたのだろう。

環が痴漢に遭っていたあの頃、女子高生ブームだとか言われていたあの頃。

 二年前に起きた阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件の衝撃をまだ引きずったままの世相。

 バブル崩壊後の不景気は明けることを知らず、山一証券が破綻したあの年。


 そして、今朝、巻紙が死んだ。

 環は仕事がら、痴漢被害の対策を考える民間の勉強会などに出席することがある。その中でしばしば、否定的に例に出されるのが巻紙だった。無論、当時から図書委員だった環はその存在を多少耳にしていた。

 巻紙は女子高生ブームの中、ブルセラショップに通う女子高生や、さらに売春の婉曲表現である援助交際の社会調査をして注目された。

 彼は当時、こう主張した。

 教祖に洗脳され、地下鉄にサリンを捲いた高学歴の若者たちと違い、彼女たちは意味を求めていないと。

 イデオロギーとも宗教とも無縁で、ストリートを中を断片化し、記号として漂う、援交少女たちのあり方こそが現代を生き抜く知恵だとさえ主張した。

 彼の主張は保守層を中心に大きな反発を招いたが、一方で混迷する世相の中で支持を集めた。

 だが、二十一世紀を目の前にして、彼はその主張を引っ込める。

 理由は、彼が新しい生き方だと誉めそやしていた、取材対象の女子高生たちが、精神を病むようになったからだ。

 結局、人は無意味の中を生きれるようにはできていなかったし、援助交際と名前を変えても未成年の売春は当事者の心を傷つけた。

 そもそも、未成年者を性の市場に引きずり出すこの国の構造についての問題意識が欠落していた。

 主張を引っ込めた後も、社会学者として活躍は続くが、その時ほどの勢いはなくなった。


 そして、今朝、京王線に轢かれて死んだ。


 ツイッターに『トパーズを拾え』という謎の言葉を残して。



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