■二〇一七年(平成二十九年) 八月二十三日

  世良田美頼は国立との境にある総合病院に入院していた。

 翌日、環は休日だったので、言われた通りに見舞いに行ってみることにした。長くないということは、次を待っていると機会はないかもしれない、そう思った。

 病室に入ると、やつれた美頼の母が環を出迎えた。

「深川環です。母から聞いて」

「ああ、ありがとうございます」

 個室病棟の美頼はリクライニングベッドで四十五度ほど起こされた状態だった。

 痩せてはいるが、思ったほどガリガリではなかった。

「美頼、お友達が来てくれたよ」

 無機質な病室の窓際には、黄花コスモスが活けられていた。黄色い、トパーズ色の花がエアコンの風に僅かにそよいでいる。

「久しぶり。うちの母親がさ、美頼のお母さんに会ったらしくてね。それで、顔を見に来た。覚えてる? 私のこと?」

 そう言いながら、環は丸椅子に腰掛けた。こんな出だしでいいのだろうか。

「だ、れ?」

「やだなあ。深川環。中三の時と高二の時同じクラスだった」

「あ、ああ。そうだ、お母さんから聞いた。こないだ、深川さんのお母さんに会ったって」

 美頼はそっけなかった。苦しいのかもしれない。

 見た目は、環と同い年とは思えないほどに老けて見えた。病が重篤なせいだろうか。それとも、長年の摂食障害のせいだろうか。

 美頼は環から目を反らしながら口を開いた。

「思ったほど、痩せてないでしょ」

「うん。そうだね 思ったよりも元気そう、かな」

 もちろん、確かにガリガリではなかったが、元気そうには見えなかった。

「浮腫なの。腎臓がダメになって、もうずっと透析受けてるから。でももう、あちこちボロボロで移植はできないだって」

「そう、なんだ」

 二十年ぶりに会った同級生には、確実に死が押し寄せて来ている。

 分からない。どう受け止めていいのか。

「でも、もっと早く死ぬと思ってたでしょ?」

「いや、そんな。元気になってくれると思ってたよ」

 いや、まだ元気になれるよ。そう言おうとして環は言葉を飲み込んだ。前向きでも非現実的な言葉はプレッシャーになるだけかもしれない。

「アタシは早く死にたかった。もっと早く死んでしまいたかった。それなのに、二十年も生きながらえて。アタシは不完全だから、カナと違って不完全だから、こんなに長くかかってしまった」

 環には、何を言っているのか分からなかった。

 具体性に欠ける観念な言葉が、本人の中では確固たる意味を持って、心を支配している。家出少女を保護した時や、窃盗癖のある人物を逮捕した時に似ている、と警察官らしいことだけが浮かんだ。

「本当、久しぶりだよね。高校に入ってからはあんまり話さなかったけどさ。ほら、中学の時はさ、修学旅行なんかも同じグループだったじゃん」

 環は話題を変えた。そういう観念的な言葉に付き添うよりも、明るい話題を引き出す方がいい、それも警察官としての経験だった。

 美頼の表情は硬いままだったが、環は続けた。

「修学旅行、京都とそれから、奈良行ったじゃん。私さ、なんかめっちゃ鹿に襲われてさ。美頼もそれ見て、ケラケラ笑ってたよね。それで、私、修学旅行のしおり全部食べられてさ、その後の行動表、全部美頼とかに見せてもらってたよね」

 それでも美頼の表情は硬いままだった。

 しまった、今の話題の選択は滑ったかもしれない。

 美頼が弱々しいながらも、不機嫌さを滲ませた口調で言った。

「ねえ、深川さん、何をしに来たの」

「え? 何ってお見舞いだけれど」

「深川さんって、今、お巡りさんなんだって?」

「そう、鉄道警察隊。毎日戦ってる。鹿じゃなくて、痴漢とかスリとかとね」

 少し茶化してみたが、美頼の不機嫌な表情は変わらない。何が美頼の気に障ったのか。

「自慢? 不完全なままただ二十年も生きながらえた私と違って、元気に公務員やってますって」

「え? そんなつもり全然ないよ。だいたい、私、出世してないし、結婚もしてないし」

 そこまで被害妄想が強いとは。弱ったな。

「それに、中学の話なんてしないで。中学の頃のデブでダサい自分が嫌だったから、高校に入ってからは、それを知ってる深川さんと話をしなかったの、分かってたでしょ?」

「うん、それは高校の時はなんとなく。でもさ、もう、二十年も前の話でしょう」

 そこまで言って、環は気がついた。

 一九九七年の年末、千葉県内で保護されてから、進学も、就職も、結婚もしなかった美頼にとって、二十年前で時間が止まったままなのだ。

「ごめん、本当気に障ったんなら、謝るよ。色々……」

 環は、そう言って話題を変えようとした。思い出がダメなら、今そこにあるものの話をする。環はベッドサイドのボードの上に置かれた、指輪が気になった。

 プラスチックか陶器でできているのだろうか。大ぶりな白い花に金のリングがついている。

「可愛いね、これ」

 環がそう言いながら、手を伸ばそうとした時、

「触んないで!」

 美頼の声が飛んだ。

「ご、ごめん」

「それは、カナからもらったもの。アタシにとってカナと過ごした時間だけが全て。中学までの時間も、カナがいなくなってしまってからの時間も全部余計なもの。醜いもの」

「そう、なんだ。やっぱり美頼にとって立花さんって特別なんだね。今でも」

「他人になんか分かる訳ない。カナと私のことは。もう、深川さんとは話したくない、帰ってくれる? お願いだから」

「……分かった。色々気に障っちゃったみたいでごめん。じゃあ、これで失礼するよ」

 美頼はずっと心身を病んでいたんだ。こんな態度をとられても仕方ない。

「……でも最後にいっこだけ聞いていい? 立花さんはどこに行ったの? 美頼は知っているの?」

 環は少しだけやり返したくなって、付け加えた。

 美頼は黙ったままだった。

「言えないか、そりゃそうだよね」

 環は丸椅子から立ち上がって踵を返した。

 その環の背に向かって、美頼は言った。

「カナは生きている。あの頃の日記を持っている人が全てを知ってる」

「え?」

 環は振り返った。

 だが、美頼は首を横に振って、それ以上のことは言わなかった。


 病室の外で、美頼の母親に

「わざわざ来てもらったのに申し訳ありません」

 と謝られた。

「いえ、美頼ちゃんも、これまで色々大変だったんでしょうし、気にしてませんから」



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