③ 教育機関の都合
「来る頃だと思っていたよ」
校長室。出迎えた校長はいつになく重々しい雰囲気で、俺に着座を促した。何度かここを訪れているものの、こうしてソファで対面したことは一度もない。それほど、今から話す内容が簡単なことではないということだ。校長は加熱式タバコを深く吸い、それをゆっくり胸ポケットにしまうと、口を開いた。
「私には、君が何故ここに来たのかはわかる。君の言いたいこともね。だが、それに対する私の答えはノーだ。単位数の調整は行わない」
そのセリフに何かを言い返そうとするより早く、校長は手のひらを向けて制止した。
「これは、彼女が乗り越えるべき問題だ」
その瞬間、思わず俺は立ち上がっていた。
「校長、失礼ながらそれは我々男が言うべきものではないのではありませんか」
校長は俺の足元を見続け、目を合わせようとしない。再び着座を促され、渋々従う。
「君は良い教師だ。知っているか斉藤君。このような問題を抱えた生徒を前にして、勇敢にも共に立ち向かっていこうとする教師はとても少ない。中には、厄介事は御免と言わんばかりに、関わりを避ける者すらいるのだよ」
「私はそんな畜生ではありません」
「結構。君の激情は理解した。だがね、少し冷静に考えてみてほしい。我々第三者がどうこうしようにも、どうにもならないことというものもある」
校長は立ち上がり、窓に向かってゆっくりと歩いていく。
「仮に出席日数は考慮せず、テストの採点だけで単位を獲得できるようにしたとしよう。そうすれば彼女は留年せずに済むかもしれない。しかし、周囲の人間がそれをどう思うかな」
窓から外の景色を見下ろす校長に、真夏の太陽が影を落とす。
「熾烈な受験戦争を戦い抜き、日々勉学に励み、体調管理を怠らず、もろもろの事情を差し置いて登校している生徒もいる。彼らにしてみれば、なぜ彼女だけが優遇されるのだ、と。であれば、自分達もそうしてほしい。……とならないかね。それは彼女の交友関係において、良い方向に作用すると思うかね」
暗い室内を、メガネが反射させた太陽光が射抜く。
「現実的なところで言えば、大病を患い、長期の欠席が必要な生徒は今まで留年してきた。本校は高等学校であり、義務教育機関ではない。その授業を受けていない生徒に卒業に必要な単位は与えられない。それが欲しい者は必死に努力をし、仮に留年したとしても、卒業まで努力をやめなかった。ところが彼女はどうだ。心に深い傷を負ってはいる。が、体は健康そのものだ。こうして通学もできている。校内には痴漢被害にあった生徒が他にも大勢いる。そんな彼らの目に、彼女はどう映るだろうか。それとも君はこういうのかね。彼女は可哀想だと」
振り向いた校長は、言葉の重みもあってひどく冷酷な表情をしているように見えた。俺は何も言い返すことができない。
「それは同情だよ。可哀想なら何をしても許されるのか。残念ながら世の中はそうはできていない。成果と評価は努力をやめなかった者に等しく与えられるものだ。……彼女に起きたことは実に不運だったと私も思う。しかしそこから立ち上がれない者に、社会も、組織も、正当な評価は与えない。……彼女が自ら乗り越えなければ、ずっと孤独だということだ」
社会の目。
俺が最も嫌悪し、逃げ出してきたもの。
残念ながら、そのとおりだった。
ここで彼女が留年を免れても、彼女自身がそれを乗り越えない限り、この状態はずっと続く。周囲から理解が得られなければ彼女はずっと一人だ。卒業できたとしても、その道程は孤独。
これを打開するには、立ち直り、胸を張って学園生活に戻れるよう、自らが努力をしなければならないのだ。理解を得るには説明するしかない。彼女が自身に起こった悲劇を過去の出来事として整理できない限り、そんな日は来ない。
「とは言え、失った自信を取り戻すのは難しい。私も今回のことについて胸を痛めていないわけではない。彼女に限らずこうしたケースは今後も予想される。そこで私は、役員会でこのように提案したのだ」
その眼が光った、気がした。
『本校の生徒がその在学中に内外における活動に際し、社会的に一定の評価が得られる成果を示した場合、その活動に要した時間を補填する意味において、一部単位を取得可能とする』
そう言って、一枚のプリントを滑らせてきた。役員会の決議案だ。賛成多数で可決されている。
「本制度は本年度より適用される。ゲームの甲子園出場はこれに該当すると私は考えている。君はどう思うかね?」
緩んだ顔を見て納得したのか、校長はゆっくりと近づき、そして俺の肩に手を置いた。
相変わらず近い。
「私がやれることはやった。後は君次第だ、斉藤君。その憤りを忘れるな。それは君の原動力となる」
そう言って校長は部屋を出ていった。頑張りたまえと、小さく聞こえた。
周囲との摩擦によって心をすり減らし、ダメになっていった奴をたくさん見てきた。高校生だった頃、いつだって魅力的だったあいつらがそうして脱落していく様を見せつけられた。
あいつらと同じ想いをさせたくない。
「待ってろ美月。俺はお前を一人にしないぞ」
俺は教師人生で初めて感じたこの不思議な感情を胸に、校長室を後にした。
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