② 斉藤太は櫻井美月の何も知らない
放課後のカフェテリア。
目前には、はちきれんばかりの肢体にブラウスを張り付かせた妙齢の女性が座している。男子生徒の視線を釘付けにする身なりで水出しコーヒーをストローで吸い上げるその動作に、たまらないエロスを感じるのは俺だけではないだろう。
石橋先生である。
一年E組の担任であり、美月の担任でもある。
俺は名簿を確認して、すぐに彼女の下に向かった。明日の授業の準備をしていたところだったが、櫻井美月の名前を出した途端、指を立て、こう言ったのだ。
「その話はここではなんですから、放課後にカフェで」
―こうして今の構図ができ上がったというわけである。
「まず何からお話ししたらいいかしら……」
窓の向こうを眺めながら、ストローをぐるぐるとかき回している。氷の奏でる軽快な音がこの場に不釣り合いだ。
「うちの一年E組が、ある意味で特別なクラスだっていうことを、ご存じですか?」
ふいに、石橋先生がそんなことを言う。
「それは、クラス分けに関することですか」
俺が答えると、彼女は目で頷いた。どうやら、間違ってはいないらしい。
「ごめんなさい。どのような認識をされているのかわからなかったので、聞いてしまいました」
そう言って、申し訳なさそうに笑顔を作った。どこか憂いがあって、クラス担任の気苦労が伝わってくる。それはきっと俺の知らない経験が作らせるものなのだろう。
「お気になさらずに」
「そう言っていただけると。ですけれど、大切なことなので、順を追って確認していった方がいいと思うんです」
石橋先生の真剣な目が俺を射抜く。
―美月の症状に、クラス分けが関係している?
「……お願いします」
俺がそう言うと、石橋先生は語り始めた。
「クラス分けは通常、成績順になっています。クラスはAからE。学年トップがA組で、その逆がE組。一年生は入学試験の結果を元にしています。まぁそこまでは普通なんですけれど、その中で一年生のE組だけは、違う条件で振り分けられているんです」
「……それはつまり―」
「他校からの進学者」
なるほど。
ある意味で特別、とはそういうことか。
「ご存じのとおり、当校では中等部からの進学が八割を占めています」
石橋先生は何かを確認するように、説明し始める。
「五クラスのうち、四クラスがこれに当たります。そして他の中学校からの進学が一クラス分。高校進学時点でAからDの四クラスはほぼ人間関係ができ上がってしまっていますから……。他校からの進学者を一クラスにまとめて、生徒の孤立を防ぐ、という狙いがあるそうです」
これは教育現場で行われている、より良好な教育環境を築く上での配慮だ。
「当校は倍率が物凄く高いですから、E組の学力はA組に匹敵する、場合によってはそれ以上ということもある、そんなクラスなんです」
つまりE組とは、その難関をくぐり抜けてきた猛者の集団であり、櫻井美月は、そのうちの一人なのだ。
普段の行いや身なりはイマドキの女子高校生そのものだが、人は見かけによらないということだ。彼女はああ見えて、才女なのだ。
「そうですね。とても良い配慮のように思います。良好な人間関係は、健全な社会生活の基盤ですから」
しかし俺の言葉に反して、浮かない声が返ってくる。
「……それが、一概にそうとも言えないの」
「と、言いますと?」
石橋先生はため息をついた。それはコーヒーグラスに結露して、すぐに消えた。
「初日に休むと、人間関係が難しくなるんです」
そんな話は学園ドラマで聞いたことがある。高校デビューしようとした矢先に事故に遭い、数週間ぶりに当校したときには、既に周囲の人間関係はすっかりでき上がっていて、溶け込めず、孤立してしまうと。
「櫻井さんはね。入学式に来なかった。ううん、来られなかったんです」
それは初耳だった。健康そうに見える彼女だが、何か風邪でもこじらせたのだろうか。
「そうだったんですね。でも、初日だけなら、まだ何とでもなったのでは……」
彼女が胸の前で握りしめるコーヒーグラスから結露が滴り落ちて、そのブラウスの表面を濡らしていた。
「それからずっと、彼女は三限目以降にしか登校していないんです」
「なんですって!?」
なるほど、しかしこれで合点がいった。一、二限目を全て受講しなかった場合、そこに週二回以上含まれている科目の単位取得は絶望的になる。それが何科目も含まれている場合、進級のための単位不足が濃厚になる。
部の発足は五月だ。その時点で単位の取得が危ぶまれた教科があってもおかしくない。
石橋先生は「それからずっと」と言った。それが事実なら、七月に入った現在、単位不足は避けられない。
「なんでそんな……。何か体調が悪いんでしょうか。部活ではそういった素振りを見せませんし。家庭の事情ですか? まさか朝が弱いなんてそんな理由じゃありませんよね?」
俺がそう言うと、石橋先生はあたりを見回して、背筋を伸ばした。より存在感を増すその部分に押されるように、俺も姿勢がピンとする。
「これは非常に繊細な問題です。生徒のプライバシーに関わります。今日先生をここにお呼びしたのも、そういう事情なんです」
他の先生に内情を知らせるのは、個人情報保護の観点からいって好ましくない。
しかしそれが教育上必要なことならば、その周知が致し方ない場合もある。
「お伺いしても、よろしいですか?」
「その前に、理由を伺ってもいいですか? すみません斉藤先生」
「いえ。彼女は今、伸び悩んでいます。なかなか克服するのが難しいクセが原因です。このままでは、ゲーム甲子園出場は正直厳しい。それが叶わない場合、彼女の留年が確定してしまいます」
石橋先生は一点の曇りもない瞳で俺を見つめている。
「石橋先生、私は彼女がそんな登校形態であることすら知りませんでした。私は彼女のことをあまりにも知らないのです。知らなくては、向き合えない。私は彼女の力になりたいのです。そのヒントになるかもしれない情報はどうしても押さえておきたい」
今度は俺が見つめ返した。
「聞いたとして、何かができるとは限りませんよ」
「そこをなんとか」
しばしの沈黙が流れた。お互いの真意の探り合いが一段落した頃、ようやく石橋先生は口を開いた。
「……痴漢に遭ってしまったんです。入学式の、その日の朝に」
熾烈な受験戦争に勝利し、念願の高校への初登校。
誰しもが希望を胸にその道を歩むに違いない。
そんな日。櫻井美月は痴漢に遭った。
美月の中学校は地元にあり、徒歩で通学していたという。そこそこの良家に育った美月は外出といえば車という生活で、電車に乗ったことがあまりなく、白鷲高校への入学が決まり事前に電車通学の練習までしたそうだ。
しかしそんな彼女に悲劇が襲いかかる。
白鷲高校への最寄り駅は取り分け快速電車の乗り入れが多く、平日でもかなりごった返す。特にラッシュ時は凄まじく、どの電車もパンパンの状態だ。もみくちゃにされているので体のあちこちが誰かと接触しており、どこで誰がどこを触ったかなんて判断できない。かくいう俺も、尻の間に通勤鞄が押し込まれたときは戦慄が走ったものだ。
これだけ混雑していると狙った相手に痴漢を行うことは無理なのではないか、とも思う。しかし、それはこうも言える。
始めてしまえば、周囲がそれを阻止することはできないのだ。
かくして、彼女の心は深く傷ついた。
そして彼女は、電車に乗れなくなった。
「彼女も懸命に努力をしています。人が少ない時間帯なら乗れると言って……」
「……だから彼女は、三限以降にしか来ない。それより前は、電車が混んでいるから」
俺の言葉に、先生は頷いた。その目が潤んでいる。
「私も女性ですから、彼女の感じた恐怖はわかります。でも、こう言うと変ですけど、彼女は私よりずっと若い。その分純粋なはずなんです。笑って流すなんて、絶対できない」
初日から数日、彼女は欠席することとなった。その後、意を決してなんとか登校したが、既に人間関係が築かれているそこへ溶け込むことができなかったのだという。
こうして、櫻井美月は孤立してしまった。
「でもそれなら、特別対応などすれば良いのでは?」
この状況で登校を強いることはひどく酷のように思える。
「そのあたりは校長先生ともよく話したのですけれど……詳しくは先生に聞いてください」
石橋先生はそう言って、目元をハンカチで押さえて会釈し、足早に立ち去っていった。
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