せんせーのひも

あのきき

第1話


「──大丈夫だって、ご飯もちゃんと食べてるし、部屋も汚くない」


 高校に入学してから二か月が経とうとしていた。

 平穏な日々と自由な空間。それが与えられるにはある条件が必要だった。

 それは──両親が指定した進学校に入学すること。

 一年前、僕の成績は中の下程だった。

 しかし努力と根性でみるみるうちに成績が上がっていき、夏休みが明ける頃には成績上位になっていた。

 その後も場所や時間を問わず受験勉強を続け、その結果、見事受験戦争に勝利した。

 そして、このオンボロアパートの一室が自らでつかみ取った楽園エデンなのだ。


 母さんの無駄に長い世間話が始まり、母さん僕がいなくなって寂しいんだろうな、と思うものの、明日も学校なので電波不良のふりをして電話を切る。

 はあ、と息をついて、部屋を見渡した。

 1Kの狭い部屋。学生の一人暮らしには丁度良いサイズなのかもしれない。広くても掃除大変だし……。

 それでも、一人暮らしの高校生の部屋にしては片付いていると思う。

 家事は一通り出来るのだ……ただし、料理を除いて。

 アレはダメだ。食べられたもんじゃない。自分で作った料理にここまで言えるのは僕だけなんじゃなかろうか。でも、それほどにマズい。

 レシピ通りに作ったのにもかかわらず、食べられないのだ。

 ……そんなことある?

 分量一つ間違っていないはず。それなのに、クソマズい。

 一人暮らしを始めて、初めて味わった絶望だった。


 ……ええい。それはもうどうしようもないのだ。

 料理をするのは諦めないといけない。

 だってマズいんだもん。食べられないんだもん。仕方ないね。



「でもこれは……財布がマズいよな」


 僕はコンビニで買ったお弁当を見て呟いた。こんな生活、いつまでも続けられるはずがない。


「やっぱバイト、始めないとかなぁ……」


 結局は早いか遅いかの問題だったのだ。

 家賃諸々は両親が払ってくれている。しかし、食費やその他雑費に関しては僕の貯金から出ている。

 特にお金を使う機会もなく、今までコツコツ貯めてきていたから、そこそこの金額は貯まっていた。料理をする予定だったから最初の半年くらいは大丈夫かな……なんて思っていたけど、たった二か月で底を尽きるとは……。


「仕方ない。始めようバイト」


 というか、うちの学校バイトOKなんだっけ? ……いや、まあ。事情を説明すれば大丈夫だよね。

 今後の方針をハッキリと決めると、睡魔が襲ってきた。時計を見ると丁度零時が回ったところだった。


「もうこんな時間か……」


 一人暮らしをするようになってから、時間が進むスピードがやけに速い。洗濯をして掃除をして──そうしているうちに時間が経っている。

 バイトを始めたら、もっと早くなるのか……。


 覚悟を決めると、布団に転がり重い瞼を閉じた。

 ──すると、ゆっくりと意識が飲み込まれていくのを感じた。





「どーだったよ?」

「………………」


 翌日の昼休み。

 ふてくされて自教室に戻ると、僕の席には購買で買ったパン片手にもぐもぐと口を動かしながら喋る男子生徒がいた。


 ──赤羽宇宙。あかばねそら、じゃなくて、あかばねうちゅう。

 わざわざ職員室に行って、バイトの話をしたものの「ダメだ」とはっきり断られたのだ。

 事情を説明したところで、担任の後藤先生、通称ゴリは首を横に振った。


「旭、お前どーやって生きてくの?」

「飢え死ぬか、両親に頭下げるか……」

「……まあ、あれだな……元気出せよ、これやるから」


 赤羽は食べかけの焼きそばパンを差し出した。

 普段なら絶対にもらわない。けれど、今は普段じゃない。バイトができないとなった今、昼に購買でパンを買うお金も惜しい。


「……もらう」


 僕は赤羽の手から焼きそばパンを受け取ると、大きく口を開けて一口で飲み込んだ。

 返せ、と言われないためだ。そういうヤツなのだ、赤羽は。この前、財布を忘れてパンを買ってもらったときに、僕が一口食べた後、「人が食ってるものって美味しそうに見えるよな……返せ」と言ったのだ。

 だから僕はゴクリと焼きそばパンを飲み込んだ後、ふふん、と鼻で笑ってやった。


「もうないぞ、焼きそばパンは腹の中だ」

「…………」


 おかしい、赤羽の返事がない。

 いつもなら「このやろー」と絡んでくる場面なのだが、そんなにショックだったのだろうか。

 僕はちらりと赤羽の方を見た。


「…………ふはは、善を成せばなんとやら、かな……ふっ」


 黙りこくっていた赤羽が急に笑い始め、髪を靡かせた。なんか、すげーきもい。


「春が来た、若葉の春が! フハハハ!!」


 そんなことを言って、席を立った。そして、格好付けるような歩き方で教室の戸へと向かう。

 ……うっわ、きっも。


 そこで、ああ、と僕はやっと理解した。

 赤羽が向かった先には、一人の先生がいた。


 ──若葉小春。通称・若葉ちゃん。

 可愛い見た目と誰にでも優しい性格からか、男女ともに人気があって、特に男子からは女神のような扱いを受けている。


 ……まあ、確かに可愛いとは思うけど。


「料理、できなさそうだよなあ……」


 ああ、また悪い癖が出てしまった。自分の料理がマズいからか、女性を見るときに料理ができそうかできなさそうか、そんなことを考えてしまうのだ。

 僕は若葉ちゃんに話しかけに行った赤羽を眺める。存分に砕け散るがいい……フハハハハ!

 会話は聞こえないけど、赤羽の反応が大袈裟だから砕け散るタイミングがバッチリわかる。


 ……あっ、散った。

 抜け殻と化した赤羽がぽつりぽつりと戻ってきた。


「……まあ、あれだ。僕の胃の中の焼きそばパン、いるか?」

「いるかボケ!」

「何て言って何て返されたんだ?」

「『好きです』って言ったら『月じゃないよ~赤羽くんだよ~』って」

「さすがにわざとだろ、それ……」


 僕は呟いたと同時に、視線を若葉ちゃんに向けた。


「…………」


 ヤバい。目が合った。

 少し逸らしてから、もう一度視線を向けてみる。


「………………!?」


 手を振ってる!? ……これ、僕に振ってないか?

 ……まあ、勘違いかもしれないしな。……一応、予防線を張っておくか。


「おい赤羽、若葉ちゃんがお前に手を振ってるぞ」

「マジでっ!?」


 赤羽は若葉ちゃんの方を見ると「マジだ……」と小さく呟いて走っていった。


 若葉ちゃんは、首を振って口を「ち・が・う」と動かしていた。

 どうやら本当に僕に手を振っていたらしい。


 ……何か用があるのだろうか?

 バイトの許可が下りた、とか? ……いやいや、若葉ちゃんはまだ新人教師だ。もし本当にバイトの許可が下りたならゴリが来るはずだし。


 ……あ、また振られた。

 僕はその場に沈没した赤羽の回収と、若葉ちゃんの要件を訊きに席を立った。


「いつも赤羽のお遊びに付き合ってくださって、ありがとうございます」


 今回のは僕が赤羽を犠牲にしたので、少しだけ気を使ってやる。


「遊びじゃねえ! 俺は本当に──!?」


 そこまで言って、赤羽は僕の気遣いに気付いたようだった。

 ……もう遅えよ。


 若葉ちゃんは「あはは……」と苦笑していた。


「で、僕に用ですか?」


 若葉ちゃんは思い出したように手をぽん、と叩いてから、


「旭くん、バイトしたいんだよね?」

「はい、まあ……一応」


 ふむふむ。と若葉ちゃんは頷いてから、

「そんな旭くんに良い話があるんだけどっ! ……どうかな?」


 首を傾げる若葉ちゃん、可愛い。


「…………まあ、内容次第……ですかね」

「了解ですっ! 詳しくは放課後にっ!」


 若葉ちゃんはぴしっと敬礼をして、教室を後にした。

 そのあと赤羽に暫く無視されたのは言うまでもない。

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