第8話父と子

親父殿おやじどの!」

荒々しい叫び声と共に、その足音が聞こえてくる。何とかそれを押しとめようと、何人かの声もそこに交じる。

だが、その声はどんどんとその場所に近づいていた。


親父殿おやじどの!」

「待たれよ、九郎様。太郎様は今おやすみですぞ。いかに九郎様といえども、守るべきものがございましょう」

声を落としているものの、きっぱりと告げる声がした。その声がもつ響きもそうだが、その者が放つ気配が九郎を止めていた。


「お前たち、ここはこのまだらが引き受ける。下がってよい」

部屋の外で九郎を押しとめようとしていた者たちが、まだらの指示に従う。一人残った九郎は、少し乱れた衣服をただしていた。


まだらか……。俺は親父殿おやじどのに話があって参ったのだ。いかなお主であろうとも、親と子の語らいに水を差すのは無粋であろう」


先ほど気圧けおされた事を微塵も感じさせぬように、九郎はまっすぐまだらを見つめる。

だが、九郎のその言葉がよほど面白かったのだろう、まだらは声をあげて笑いそうになるのを必死にこらえていた。


「何がおかしい!」

「いえ、これが可笑おかしいと言わずに、何を可笑おかしいといえましょう。九郎様。あなたはすでに勘当された身です。この宗家の敷居を勝手にまたぐ事すら、本来許されない行為ですぞ? そして、今まで太郎様のお話をさんざん聞かなかった方が、語らいと申されました。これを聞かされた私は今、笑い死にしそうな気がします」

「黙れ! そもそも、その勘当について聞きに参った。何故今更勘当した? そして、秋葉もみじをどこに連れ去った!」

鬼の形相というのはこの事を言うのだろう。九郎の顔はそれをまざまざと見せつけていた。


九郎の放つ殺気が風を切る。


「ほほう。このまだらを前にして、その殺気。ここは太郎様の御前ですぞ? それを承知でその態度――」

「よい、まだら。いい機会だ。それに、秋葉もみじの頼みでもある。九郎よ、話をしに来たのであれば、その殺気を抑えよ。それが出来ればここに来い。もし、まだらに気取られるものを残しておったら、その時はまだらよ、好きにせよ」

床に伏せている太郎が、目を閉じたままでそう告げる。


「はっ!」

その声を聞いた瞬間、礼をもって短く答えるまだら。だが、次の瞬間。その気配が大きく変わる。


まるでそこは大きく水をたたえた水面のよう。なぎの世界は、羽虫の羽ばたきさえもあらわにする。


「くっ!」

その外側で、九郎がまだらを睨んでいた。身動き一つしないまだらの姿は、それを涼やかに受け止めている。


なおも殺気を放ちながら、九郎はまだらを睨みつける。だが、その足は一向に踏み出そうとしなかった。

あと一歩踏み出せばそこはまだらの領域。その境で、九郎は動けずにいるようだった。


九郎の顔からこぼれた汗が、ポタリと音を立てて落ちている。


「わかった」

その音に決断した九郎は、腰の太刀に伸ばした手を戻し、大きく息を吐きだしていた。


親父殿おやじどの。騒がせてすまぬ。そして、非礼を先ず詫びよう」

小さく頭を下げる九郎。そして、静かにその部屋に足を踏み入れていた。


瞬間、まだらが動きを見せようとする。だが、九郎はそれを悠然と受け流していた。


澱みなく、静かに。それまでと別人の九郎が、太郎の枕元に座っていた。


「それでよい。まだらよ、少し手を貸してくれ」

まだらが静かにその背を支えて、太郎の体を起こしていた。


まだら親父殿おやじどのと二人で話がしたい。その方は下がっておれ」

「いえ、太郎様のお言葉以外、私が動く理由はありませぬな」

九郎の言葉をあっさり否定し、まだらはその背を支え続ける。そのやり取りを楽しく思ったのかもしれない。太郎の口もとが小さく広がる。


「九郎、まだらは俺の影だ、気にするな。それに、お前にとっても父親同然ではないか。何を今更そのように申すのだ? しかも、気が急いたからここに来たのであろう? だが、おおよそ用件は分かっておる。今更、勘当ごときを気にするお前でもあるまい。勘当されたことで、立ち入れなくなったから騒いでおるだけであろう?」

その姿からは想像もできない鋭い眼光が、九郎の体を貫く。


その思いがけない気迫を前に、思わず息をのむ九郎。

だが、それも一瞬。

九郎は再びその目をまっすぐに見つめていた。


親父殿おやじどのが、何やらしておるのは知っておる。だが、それは俺には関係のない事。俺はただ、秋葉もみじを守れれば良い。だが、此度の事は話が違う。何故、秋葉もみじを奥にやった。あそこは長老様じじいどもが住むところだ。しかも、その守り手である宗家の者しか入れぬ所。俺が勘当されれば、それすら叶わぬ。何故なにゆえだ! 返答しだい――」

「これは、短い間でも師弟関係にあった情ですぞ。次はないとお考えください」

先ほどまで太郎の背を支えていたまだらの手に、やいばがすでに握られていた。

片手で太郎を支え、片手はその刃を九郎の喉元に突き付けている。


まだら、話しの途中だ。好きにせよとは申したが、話を途中で遮るでない」

太郎の言葉に短く応え、その刃を腰にしまうまだら


その刃があったところから、一筋の血が流れ落ちる。


「九郎、すまぬな。話の腰が折れた。で、何だったか? 『何故、勘当したか?』だったな。それは、お前が一つの物事しか見ておらぬからだ。守るものは、より大きな眼を持つ必要がある。攻めてくるものにも事情があるのだ。守るものは、何を守るのかをはっきりさせておくことが肝要。たとえお前が鬼神の力を手にしたとしても、それ以上の力が働けば守れまい? 来るものをただ守るのではない。物事を大きく広く見るのだ。そして、守られるものの気持ちを考えるのだな」

うっすらと笑みを浮かべた太郎の顔を、九郎は真一文字に結んだ口で睨んでいた。


親父殿おやじどのの言っておる意味がさっぱり分からぬ。鬼神以上の力がくれば、それ以上の力を示すまで。守られる者の気持ち? この俺が、秋葉もみじの事を何も考えていないというのか? 何を馬鹿なこと……を……。言っておる」

その気配を感じたのだろう。九郎は荒げようとした語気を鎮めていた。


「今のお前では、まだまだらには勝てぬよ。世の中は広い。上には上がおるのだ。己が強くなったと過信するなよ、九郎。しかも、世は確実に変化しておる。大陸から持ちかえられた仏教には、その身に明王や菩薩といった人外の者を降臨する技もあると聞く。力で守るには、力がいる。だが、それも限界があるのだ。広く見ろ、九郎。己の力だけで何かを守れるのは、この世から己を切り離した時のみだ。それがわからぬうちは、秋葉もみじの事を完全には託せぬ。なによりも、秋葉もみじの命を守れたとしても、あの子の気持ちが守れぬのではな。それでは、心に守ったとは言えぬのだ」

諭すように、優しい瞳を向ける太郎。うつむく九郎の姿を、その目でしっかりと焼きつけるように見守り続ける。


「わからぬ。俺には、親父殿おやじどのが言う事がさっぱりわからぬ。俺の力が不足しておるから、今も秋葉もみじを奪われたままだ。俺の力が不足しているから、俺はまだらに抑えられている。この状況で、誰か助けてくれるのか? 守には力がいる。力なきものが守ることはできぬ。親父殿おやじどの、今がまさにそうであろう!」

九郎が飛び去るのと同時に、まだらの刃が空を切る。


立ち上がり、見下ろす九郎の瞳に映る太郎。その顔は、深い悲しみを帯びていた。


「くそ! 俺は認めぬ! 俺は認めぬぞ、親父殿おやじどの!」

そう叫びながら飛び出す九郎。それを太郎は静かに見守る。


再び訪れた静寂は、どこか悲しげな気配纏っていた。


「これでよろしかったのですか?」

「ああ、これでよい。だが、まだらよ。今の九郎をどう見る? 正直に申せ」


再び床につこうとする太郎を、まだらは甲斐甲斐しく支えていた。

そして、横になった太郎に対して一礼を持って答えていた。


「すでに鬼が表に出てきております。今は律しておりますが、いずれその身は鬼と化すでしょう。今となっては、時間の問題。長老どもも、あのようになっては見捨てるかと」

「そうか……」

「太郎様。ご無礼を承知でお尋ねします。なぜ、犬神の姫を助けるのですか? 九郎様はすでに猫目の秘法を会得しております。こうなる前に、九郎様に最後の秘法を授けていれば、猫神様の化身として、共に生きることはできたでしょう」


まだらの問い。その答えを言わぬまま、太郎はじっと目を閉じている。

だが、まだらはそこに居続ける。

太郎が何か話すことがわかっているかのように。


「心意気に惚れたというのが、最初なのだろうな。あの母娘に初めて会った時に、咲夜さくや殿は、母だからという事が全てであった。里でも、一族でもない。ただの母親だと言い張ったのだ。強いと思ったよ……」


静かに、何かを感じているかのように語る太郎。

それを聴き入るまだら


だが、まだらは、自らに芽生えた疑問の種に気づいていた。


「でしたら、なおの事――」

「九郎は俺に似ておるのだ。何をするにせよ、己に課した役割を演じるだけなのだ。何かを本気ですることはない。この俺が言うのだ、間違いない。もっとも、この俺もこの期に及んで気付いたのだがな……。だから、九郎には同じ道を歩まぬようにしてほしい。老いてからの子には甘いというのは、真実なのであろうな……」

「太郎様……」

まだ何か言おうとするまだらを手で制し、太郎は静かに呼吸をただす。

それをじっと見守るかと思いきや、まだらはただ平伏して黙っていた。


まだら。これまでご苦労だった。明日、俺は姿を変えるであろう。この体の処理は頼むぞ。そして、これが最後の頼みだ。九郎に立ちふさがる壁となってやってくれ。父親らしいことは何一つできなかったが、そなたがいてくれて助かった。此度の事で、九郎はますます己を鍛えてくるだろう。あれを授けるかどうかは、そなたに任せる。願わくは、自らの力のみを力とする者にならぬことを」


ただそれのみを言い残し、太郎は静かな眠りに入る。


「必ずや」

短くそう告げたまだらは、額を床に押し付けたあと、静かにその部屋を後にする。

その姿が消えたあと、その部屋のまわりから一斉に人の気配が遠のいていた。


誰もいない静かな部屋に、太郎の規則正しい寝息がかすかに響く。


だが、だんだんそれもゆっくりとなり、ついに聞こえなくなっていた。


――その終わりは突然だった。


いつしか静寂だけが居座り、その部屋の主となっていた。

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