幕間

第2話猫の目

満天の星々と月明かりの下、男が庭に面した廊下を静かに歩いていた。

夜の闇は音さえも飲み込む。

だが、その光が男の歩みを支えている。


やがて男は一つの扉の前で止まる。

ほんの一拍。小さく息を吐く男。

そして、何かを決意したのだろう。ゆっくりとその扉を開けていた。


闇の中で咲き誇る強さと、昼にはない優しさを兼ね備えた光が部屋の中に入り込む。


だが、その光でさえも、その部屋の全てには届かなかった。

男の開けたその扉の分だけ、入り込む光。そしてできる男の影。

まるで星と月の光が、男をそこに縫い付けているようだった。


だがそれもすぐ終わる。

部屋に入った男が扉を閉めた瞬間、全てが闇に飲み込まれる――。


――かに見えたその瞬間、淡い光が男を灯す。

男の腰にある太刀が、淡い光を放っていた。


闇の中、男の姿を映し出す青白い光。


だがこの暗闇の中では、せいぜい男の姿を淡く彩るだけ。

ただ、冷たく感じる闇の中で、そこだけが温かく感じられる場所だった。


「私に何かご用ですかな? 長老様方ちょうろうさまがた

部屋に入った男は、暗闇に臆することなく座り込み、頭を下げてそう告げた。

座るときに太刀を外して目の前に置く。その光を捉えたのだろう。

対を成した赤い光が、いくつも暗闇の中浮き上がる。


「おや、おや。太郎もいっぱしの口を聞くようになったものだね。『俺が、俺が!』と言っていた洟垂れはなたれが、自分のことを『私』と言うようになったとはね。ヒッヒッヒ」

暗闇の中、いかにも楽しそうに笑う老婆の声。それと共に揺れる赤い双眸。


「いつまでも子ども扱いですね。私もすでに孫を持つ身です。末の九郎もすでに九つ。すでに、しるしも施しました」

その光に向きなおりつつ、自らの頭をかきながら男は告げる。


「我らにとっては、うぬも九郎も同じよ。どれだけ孫をもとうとも、うぬは洟垂れはなたれ太郎のままよ。しかも後先の事も考えずに行動しよって……。うぬが田村将軍と蝦夷討伐えぞとうばつに向かわねば、我らの里にこの危機はなかったと思え。勝手に鬼神きしんの力を使いよって」

別の光が太郎と呼ばれた男を叱責する。

だが、それをあざ笑うかのように、太郎は鼻を鳴らしていた。


「いつまでも昔の事を。それは俺がまだ駆け出しの頃の話だろ。それに、将軍は知っておったよ。俺に鬼神化をするように指示したのは、ほかでもない征夷大将軍せいいたいしょうぐん坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ本人だ。それに、あの時はほぼ鬼と化した者どもだらけの敵だったのだ。普通の人間では手も足も出まい。今のように、空海が持ちかえった呪法もないのだ。乱戦いくさに向かない陰陽道が敵う敵ではない」


自らの拳を床にたたきつける太郎。

だが、それを楽しげに笑う声があった。


「ほれ、そのようになるから、そちは大婆様に洟垂れはなたれと呼ばれるのだ。だが、そこの洟垂れはなたれが申すことも一理ある。過去を振り返っても仕方あるまい。太郎の鬼神化により、我ら一族に活躍の場が増えたのも事実。だが、太郎よ。大きすぎる力を世に示せば、その分反発もあるじゃろう。それを忘れるなよ。人の中には、我ら古き一族を恐れる者どもも出てこよう。そして古き一族に中にも、我らの栄達をねたむ者どもが出てくる。それらが手を組むこともあろう。例えば狐狸こりの里の者どもは、陰陽寮おんみょうりょうに取りいっておるようじゃ。我らの後ろ盾であった坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ殿はすでに他界し、その田村一族は我らとは関わりないと告げ――」

「月の婆様、それは本当まことか?」

驚いた太郎は、その話を途中で遮り自らの疑問を口にする。


「ほれ、洟垂れはなたれが出ておる、ヒッヒッヒ。堪え性こらえしょうのないわらべよ。九郎と同じものいいじゃて。親であるお主がそれでどうする? お主の子らに示しがつかぬだろうよ」

「大婆様。私ももう、五十。そろそろ秘法も完了しましょう。いい加減、わらべはないかと……。それに、我が子の前ではしっかりと演じておりますとも」

自信に満ちあふれたその声を聴き、大婆様の楽しそうな笑い声が部屋に響く。


「演じよるか。なるほどのう。皆のもの、心せよ。我らの里の先は既に決まっておる。じゃが、それを憂いても仕方のない事。ならば、人として最後にどう演じるかじゃ。人として生まれ、人としての力しか持たぬ者には不憫じゃが、力なきものが滅びるのは自然の理。これより我らは最後の時を演じようぞ」

大婆様の赤い光が、怪しい光を帯びていく。


「お待ちください。大婆様。なれど、人として生きる者たちにも道を――」

「だまりゃ!」

身を乗り出し、食い下がるように詰め寄る太郎。だが、誰かの一言が太郎の口と動きを封じていた。


やがて、大婆様の冷たい声が響きだす。まるで、その願いをあざ笑うかのように。


「古き一族の我らの血を受け継いでおるにもかかわらず、人の力しか持たぬ者は出来そこないじゃ。これから人の世を離れる我ら一族と共に、生きる資格は最初もとよりない。人としてしか生きれぬ生まれなら、人の手により死しても我らには関係のない事。力なき生まれはその者のせき。我らは高貴なる猫神様の一族ぞ?」

だが、その声は一変し、柔らかな口調となっていく。


「じゃが、猫神様は慈悲深きお方。人として生きるならば、生まれ変わることもあろう。それが運命さだめじゃ。我らは長く生きる。その時にでも守ってやるがよい……。いや、その前にやることがあるな。お主も当代のおさじゃ。おさとしての最後の責務を果たせ。我らが意志を知らしめよ。他の古き一族も、やがて人の世から離れるであろう。だが、一足先に猫目一族は人の世を去る。猫目一族の決定を、他の一族はどう受け止めるか。それを見れば、お主も儂の言う事も理解できようて。お主に預けた秘法の数々。ゆめゆめ、力あるらへの伝承を忘れるなよ」


その言葉を残し、赤い目が一斉に闇に消えていく。


ただ一人闇の中に取り残される太郎。

うつむき、床に震える拳を押し付けていた。


だが次の瞬間、力を込めた雄叫びと共に、闇に光があふれだす。

淡い光を帯びる太刀から、青白い炎をまとう刀身があらわになる。


「力をもたぬ子らに! 生まれた意味すら無いと言うか!」

言葉と共に抜き放たれた青白い炎が、闇を真一文字に切り裂いていた。

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